-
楽園はあなたにとって何を意味しますかものみの塔 1984 | 1月1日
-
-
に満ち,卑劣で意地が悪く,こちらの人格や資産に対して敬意を示さなかったら,本当に幸福だと言えるでしょうか。恐らく幸福とは言えないでしょう。周囲の環境がどれほどすばらしくても,そのような人々はあなたの生活をみじめなものにしかねません。
ですから,論理的に言って,「楽園」は単に物理的な環境だけでなく,人々にも依存しています。なぜなら,楽園のことを考える時,互いに愛し合い仲良く暮らす,温和な気質の幸福な人々のことも頭に浮かぶのではないでしょうか。ですから,地上の美しい土地が完全な意味で楽園と呼ばれるには,まず,そこに住もうとする人々が神に似た人格を培わなければなりません。
聖書は人々の気質上のそうした変化の徴候を示し,人々の霊的な状態,すなわち人々が人となりを作り変え,生活を改善する様を描写しています。しかし,『そうした象徴的な楽園<パラダイス>が今日実際に存在しているだろうか。存在しているとしたら,どこにあるのだろうか』と思う方もおられることでしょう。
-
-
今,楽園の状態を楽しめますかものみの塔 1984 | 1月1日
-
-
今,楽園の状態を楽しめますか
今日,地上に楽園<パラダイス>は存在します。その楽園は拡大の一途をたどり,幾百万人もの人々がそこで生活しています。あなたも,その一部になることができます。それは理想主義的な夢でしょうか。決してそうではありません。というのは,今話しているのは,自然界にある地上の楽園ではなく,霊的な楽園<パラダイス>のことだからです。a
「その霊的な楽園とはどういうことですか」とあなたはお尋ねになるでしょう。簡単に言えば,神のご要求に従うために人格を作り変え,神の真の崇拝において結ばれているクリスチャンの組織は,霊的な楽園<パラダイス>の中にあると言えるかもしれない,ということです。
そのようなすばらしい霊的な状態については聖書のどこに述べられているでしょうか。そうした状態が今日存在することを示すどんな証拠がありますか。
おおかみが子羊と共に
楽園を思い起こさせる状態を描写する聖書預言は少なくありません。そうした楽園の喜ばしい様子を描いた記述がイザヤ 11章6節から9節に見いだされます。そこには次のように記されています。
「おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである」。
ここに描かれているような,のどかな環境の中で生活することがどれほど楽しいか,想像してみてください。そこでは非常に驚くべき仕方で完全な平和が宿っているのです。それは,動物と人間が完全な調和を保っていた当時のエデンの園に存在した楽園の状態を復興するものとなります。(創世記 1:30; 2:8,9,19,20)真のクリスチャンは,将来,メシアなる王イエス・キリストの支配のもとに全地球的な規模でこうしたすばらしい祝福にあずかることを切に待ち望んでいます。メシアが支配する様子については,先に引用した聖句のすぐ前のイザヤ 11章1節から5節に描かれています。しかし,イザヤの言葉の成就が意味しているのは,王国の支配下で必ず実現するそれらの祝福だけでしょうか。
そうではありません。この預言は人間の人格上の変化を描いているとも言えるかもしれません。どのようにですか。18世紀の聖書学者,マシュー・ヘンリーは次のように答えています。「自分の周囲のすべてのものにかみつき,それらをむさぼり食っていた,非常に荒々しい狂暴な気質の人間が,実に不思議なことにその気性を変え……最も弱い人々,そしてかつては自分たちが難なくえじきにしていたような人々とさえ愛のうちに共に住むであろう」。
さらに別の聖書学者,ジョセフ・ベンソンは前世紀にこう書きました。「荒々しく残酷で乱暴な気質の人間が,福音の伝道とキリストの恩ちょうとによって大きく変化し,非常に謙遜で温和でおとなしくなり,4節で述べられている柔和で貧しい人々を,もはや悩ませたり迫害したりしない」。
想像してみてください。人間がかつての好戦的な性質を捨て,その代わりに,温和さと愛を特色とする人格を着けるのです。もっとも,それらの人は個性を失うわけではありません。イザヤは,おおかみが子羊になるとは述べていません。むしろ,その気質が変化し,おおかみは子羊と共に仲良く暮らすと述べています。
同様に,イザヤの言葉と調和して,獣のような性質を持ち,人間同胞を殺したり搾取したり,さもなければだましたりしたことも考えられる人が人格をすっかり変えて,子羊のように温和な気質を持つ他の人々と仲良くやってゆくのです。そうしたことが実際に人々の間に見られるようになったら,そのすばらしい結果は霊的な楽園<パラダイス>と言えるかもしれません。しかし,イザヤの言葉は今日本当に成就しているでしょうか。
霊的な楽園<パラダイス> ― いつ実現するのか
イザヤの書の対応する一つの預言は,このすばらしい霊的な状態が実現し始める時を知る手がかりを与えています。イザヤ 2章2節から4節には次のように書かれています。
「末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。……そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。
同様の変化,つまり人々の気質が温和になって,『剣をすきの刃に打ち変える』ことが述べられている点に注意してください。それはいつ起きるでしょうか。「末の日に」と聖書の預言は答えています。これまで「ものみの塔」誌上でたびたび示されてきた通り,現在の事物の体制は1914年以来終わりの日に入っています。ですから,わたしたちは現在,イザヤ 11章6節から9節が当てはまる時代に住んでいるのです。すばらしい霊的な状態が今存在しているに違いありません。『でも,どこに存在しているのですか』と,あなたはお尋ねになります。
人格を和らげる
イザヤの預言に示されている通り,誠実な人々の間で人格を和らげることが何度となく繰り返し行なわれています。それらの人は,聖書の真理を学ぶと,『思いを作り直し』,『新しい人格を着け』ました。(ローマ 12:2。エフェソス 4:23,24)次の例を考えてみましょう。
デイビッドは米国ミネソタ州の農場で育った,背が高くて筋骨たくましい青年です。「父は,口論はこぶしでけりをつけるようにと私にいつも話していました。『絶対にけんかを売るな。だが,必ずけりをつけろ』と言っていたことが絶えず思い出されます。その結果,問答無用とばかり,まず手を出すようになりました。私は他の人々に身体的な危害を加えることを実際に楽しんでいました」と,後にアマチュアのボクサーになったデイビッドは語っています。
一例を挙げると,ある晩のこと,ひとりの男性が駐車場から車を出してデイビッドの車を妨害しました。そして,がんとして動こうとしませんでした。「私はすっかり腹を立てて,その男を殺してやりたいと思いました」とデイビッドは語っています。それでデイビッドはその男性を車から引きずり出し,気を失うまで打ちのめしました。そのような乱暴な気質の人がその道を改めることは本当に可能でしょうか。
失業中のある日,デイビッドはエホバの証人に会いました。義の宿る来たるべき事物の新秩序に関するその音信にデイビッドは感銘を受けました。「エホバの証人が真理を持っていることは最初から確信できました」とデイビッドは語っています。学んでいる事柄を生活に当てはめるにつれ,デイビッドは変化し始めました。喫煙をやめ,麻薬もやめました。乱暴な気質を和らげる面でも進歩していました。
ところが,数か月後,失敗してがっかりすることがありました。建設の仕事に就いていた時のことです。ある朝同僚がデイビッドをうるさがらせるようなことをし始めました。やめるように言っても,それを聞きませんでした。その結果ですか。デイビッドはこう語っています。「殺してしまったかと思ったほどひどくその人を殴りました。その人は20分ほど意識を失っていました。自分が本当に恥ずかしくなりました」。
しかし,デイビッドは人格を作り変える面で少しずつ進歩しました。エホバの証人としてバプテスマを受けてから数年後に本当の試みに遭いました。戸別に宣べ伝えていた時のことです。1軒の家で男の人が出て来て,デイビッドを口ぎたなくののしり始めました。それからデイビッドのコートをつかみ,上り段から突き落としました。デイビッドは何も言わずに隣の家に向かって歩き始めました。その男の人はそれだけでは飽き足らず,追い掛けて来て,野球のバットを取ると,デイビッドの腰を打ちました。しかし,かつて乱暴だったその青年は仕返しをしなかったのです。ただ歩き去りました。実に見事に人格を変えていました。この「おおかみ」は今では「子羊」と仲良く暮らしており,会衆内で長老として,また全時間の奉仕者として仕えています。
人々が他の人のこうした変化を見て深い感銘を受け,自分の生活を改善するよう鼓舞されることは珍しくありません。やはりデイビッドという名前の別の青年の場合がそうでした。旧友としばらくぶりで会った時のことをデイビッドはこう語っています。「その友人は別人になっていました。以前のように髪を長く伸ばしていませんでしたし,ののしりの言葉を吐かず,麻薬とのかかわりを持とうとしませんでした。生活をすっかり清いものにしていたのです。私はそのことに大変衝撃を受けたので,ぜひとも変化した原因を突き止めたいと思いました」。デイビッドの友人はエホバの証人になっていたのです。そして,デイビッドも,まず自分の生活を清いものにしてから,エホバの証人になりました。
上に述べたような経験は,世界中に4万5,000あるエホバの証人の会衆で幾度も繰り返されているものと考えられます。恐らくあなたも,生活を著しく変化させた人をだれかご存じのことでしょう。
エホバの証人の大会に出席した観察者たちが,会場の和気あいあいとした雰囲気について述べることは少なくありません。「ジュルナール・ドゥ・モーンレイアル」の特別欄執筆者は次のように書きました。「私は[エホバの]証人ではありません。しかし,私は証人たちが有能さを証明し,ふさわしい振る舞いを示していることに関する証人になれます。……もし世界にエホバの証人しかいなかったとしたら,戸を差し金で締めたり,どろぼうよけの警報器を付けたりしなくてもよいでしょう」。
メキシコで,二つの村が争っていました。殺人がひんぱんに起きていました。警察はそれをやめさせる術を知りませんでした。そんな時に,一家族がエホバの証人と研究し始めました。ほかの数家族も武器を売り,そのお金で聖書を買いました。自分たちも聖書を研究するためです。間もなく,それらの村人たちの間に,真の平和と一致の見られる霊的な楽園<パラダイス>が確立されました。
しかし,エホバの証人は,イザヤ 11章6節から9節に示されている状態を実現することを自らの手柄にしているのではありません。人々に,気質をそれほど大きく変化させることのできる力は宇宙にただ一つしかありません。その力とは神の聖霊です。(ガラテア 5:22,23)そして,神は,それを心から探し求め,神のご要求に従う人々にその聖霊を喜んでお与えになります。―ルカ 11:9-13。使徒 5:32。
また,エホバの証人は,自分たちが完全であると唱えているわけでもありません。ほかのすべての人と同様,エホバの証人も問題を抱えています。しかし,彼らには,問題を解決するための健全な導き,すなわち聖書があります。(詩編 119:105)エホバの証人は,時に失敗することがありますが,聖書の原則を生活に当てはめるよう懸命に努めています。(ローマ 3:23)お分かりのように,深く染み込んだ人格上の性質は容易に抜き取れるものではありません。しかし,神の聖霊の助けを得るなら,ひどい性格の人でも,望ましくない性質を和らげる点で進歩することができます。
しかしながら,一つのことは確かです。すなわち,今日世界に見られる争いや不一致や不道徳の代わりに,世界中のエホバの証人の間で顕著な愛や思いの平安および一致が霊的な楽園<パラダイス>の中に見られるということです。このことから,キリスト・イエスの千年統治の期間に物理的な意味での楽園となるこの地上で人々がどれほど仲良く暮らせるかをあらかじめ知ることができます。―ルカ 23:43。
楽園についてさらに学んでみるのはいかがですか。あなたがきっと楽園からすぐ連想するもの,つまり平和,満足,幸福,一致を,エホバの証人がかなりの程度経験している理由を確かめてください。そして,あなたも,どうすれば今すぐそうした楽園の状態を経験できるか学んでください。
[脚注]
[5ページの囲み記事]
楽園に関する預言
ヘブライ語聖書中の,楽園に関する預言の多くは今の時代に既に成就しています。イザヤ 35章の,『砂漠平原はサフランのように花を咲かせる』という預言を例にとってみましょう。この預言は,流刑の身にあったユダヤ人が西暦前537年にバビロンから帰還した時,小規模に成就しました。神は,ユダヤ人がご自分の崇拝に戻ったことを喜ばれ,彼らの荒廃した故郷ユダに再び花を咲かせ,産物を豊かに実らせました。その結果,ユダの地は小規模な楽園になりました。
イザヤ 35章の預言には,明らかに,霊的な成就もあります。それはどうして分かりますか。一つとして,5節と6節では,目の見えない人,耳の聞こえない人,足の不自由な人,口のきけない人が皆いやされることが約束されていますが,西暦前537年に帰還したユダヤ人がそうした障害を文字通りいやされたことを示すものは何もありません。明らかに,これは霊的な意味に理解されるべきです。例えば,彼らは目が開かれたので,故郷における自由の光を見ることができました。同様に,現在エホバ神の崇拝者たちの間には霊的な楽園が繁栄しています。もっとも,この度は全地球的な規模に及んでいます。
近い将来,神が地上の悪をすべて滅ぼされた後に,生き残った「大群衆」と復活させられた死者は文字通り身体的ないやしを経験します。キリスト・イエスは,ご自分の贖いの犠牲に基づき,従順な人々を人間としての完全さに到達させ,復興した地上の楽園に永遠に住まわせます。こうして,イザヤ 35章に述べられている事柄はごく間近に,全地を包含するまでに広げられます。その時,地球は平和な公園のような庭園に変えられ,文字通りの楽園が現実のものとなります。―イザヤ 25:6-8。啓示 7:9; 21:3,4。
-