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真の神を探し求めるものみの塔 1976 | 6月15日
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は教会を一軒ずつ訪ねて,聖書の秘義を解き明かすのを助けてもらえると自分が思ったあらゆる人と話し合いました。
その後,ある夕方,その婦人は近所の人のところへ行きました。彼女がそこにいると,ひとりの若い婦人が戸口に来ました。近所の人は彼女がエホバの証人だと知ると,その人の話を聞く気持ちがないと言いました。ところが,真理を探し求めていた人は戸口に走り寄って,若い婦人に,「聖書を理解するのを助けていただけますか」と尋ねました。証人にそれができたのはいうまでもありません。聖書研究はその晩から始まりました。彼女は真理を学ぶことにひどく飢えていましたから,10日の間毎日研究する取決めが設けられました。婦人は,来る日も来る日も神のみことばの知識を吸収していきました。彼女の生活は変化しました。何年かぶりに眠るようになり,食欲も取り戻しました。ほどなくして別人のようになった彼女は,しばらく後にバプテスマを受けました。今やその婦人は生がいにわたって探し続けたものをついに見いだしたのです。―「エホバの証人の1976年の年鑑」より
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覚えていますかものみの塔 1976 | 6月15日
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覚えていますか
あなたは最近号の「ものみの塔」誌を注意深くお読みになりましたか。そうでしたら,次の点を覚えておられるでしょう。
● イザヤ 28章24節から29節で,農夫が耕し,土をならし,種をまき,脱穀することは,何の例えとなっていますか。
農夫のそのような活動は,神が目的をもって人々を扱われることの例えとなっている。耕したり,土をならしたりする作業は,種まきの準備ができる時まで行なわれるにすぎない。同様に,エホバもその不従順な民をいつまでも懲らしめたりはされなかった。懲らしめには,助言や導きをご自分の民にとってより受け入れやすいものにするという目的があった。また,脱穀するためにどの器具を用いるかは穀物の種類によって決まるように,神が人々を扱う仕方も,人々に清めをもたらすのにどんな方法が最も適しているかによって異なった。―709ページ。a
● ゼカリヤ 11章8節の成就において,イエス・キリストはどんな「三人の牧者」を絶ちましたか。
それら「三人の牧者」とは,イスラエルにおいて政治および宗教上の権力を行使していた三つの階級の人々,すなわち(1)パリサイ人,(2)サドカイ人および(3)ヘロデ党員つまりヘロデの党派的追随者のこと。マタイ 22章15-46節に示されているように,イエス・キリストは,彼らを無価値な牧者として公に暴露し,それら三つの階級を沈黙させた。―749,750ページ。
● なぜわたしたちは神の「安息日」の始まった時,およびそれが終わる時を知らないのですか。
アダムが創造された時を確定することはできても,神の「安息日」の始まりを定めることはできない。それは,アダムの創造とエバの創造との間に不定の長さの時間的な隔たりがあるからである。エバの創造が終わるまで,神の「安息日」は始まらなかった。その日の始まりが分かっていないので,その終わりも知ることはできない。―35ページ。b
● 聖書が神を「光」とか「天の光の父」と呼んでいるのはなぜですか。―ヨハネ第一 1:5。ヤコブ 1:17。
エホバ神は,清く,明るく,澄み切った,そして啓発を与えるもののすべてであられるという意味で光である。神は発光体,つまり,太陽,月,星を創造されたので「天の光の父」である。―81ページ。
● イエス・キリストを正しく「アーメン」なる者と呼べるのはなぜですか。―啓示 3:14。
犠牲の死を含めた地上でのイエスのその完全な生涯は,エホバ神の約束すべての成就を確かなものとし,可能にした。ゆえにイエス・キリストは,「アーメン」なる者という名前にふさわしく生きた。その言葉は,字義的には,「確かな」,「真実な」,「そうあるように」,「真実」という意味がある。―125ページ。
● クリスチャン会衆内で人がいわば叙任されたとも言えるのはいつですか。
その人が会衆内で長老や奉仕のしもべに任命された時。―158ページ。
● キリスト教世界の「聖なる所」とは何ですか。
その活動の分野,および同世界の主張する宗教上の諸権利。―189,190ページ。
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