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その2ものみの塔 1964 | 6月1日
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ことを心にとめよ,汝はわが僕なり我なんぢを造れり〔なんぢ我を造れりではない〕なんぢわが僕なり,イスラエルよ我はなんぢを忘れじ我なんぢのとがを雲のごとくに消し〔て天から見ず〕,なんぢの罪を霧の如くにちらせり,なんぢ我にかへれ我なんぢを贖ひたればなり」― イザヤ 44:21,22,文語。
30 あがなう神エホバは,バビロンを倒して神の民を解放し,故国に戻ってエルサレムと宮を再建させる者の名を次に預言されました。これはそのことの起きる190年以上前のことです。エホバはペルシャの征服者クロスの名を預言されました。歴史によればクロスは紀元前539年にバビロンをくだし,その後イスラエルの捕われ人を解放しました。エホバはその民をあがなわれました。(イザヤ 44:23-28)それはエホバが神であり,真実の預言の神であることを証明する多くの事実のひとつではありませんか。たしかにそうです。
31 (イ)イザヤ書 43章10節の正しい理解を述べなさい。(ロ)しかしご自身の独り子のために何をするとエホバは述べられていますか。
31 そこでイザヤ書 43章10節に話を戻すと,異邦人の国民はエホバより先に存在していませんでした。従って偶像崇拝の諸国民が造った神は,永遠から神であるエホバより先に存在していたのではありません。(詩 90:2)また4300年前のノア時代の洪水後に存在するようになった諸国民が,真実の預言をし得る実在の生ける神を造り出したこともありません。従ってエホバの後にも,エホバのような神はかつて存在したことがないのです。しかしキリスト前8世紀にしるされたイザヤ書 9章6節の預言によって,エホバはご自身のひとり子を「奇妙,また議士,また大能の神,とこしへのちち,平和の君」とするお目的を明らかにされました。(文語)エホバはイザヤの時代すなわちイザヤ書 43章10,11節のことばが述べられた時代に,この預言を成就させませんでした。ではイザヤ書 9章6,7節の預言はいつ成就しましたか。西暦1世紀にエホバはそのひとり子に対してこの事をされました。神のひとり子はイエス・キリストとなりました。
32 従ってエホバ神に関する私たちの結論は何ですか。
32 では主イエス・キリストの父であるエホバのような神がありますか。そのような神はひとつもないことを,私たちは証言できます。真実の預言をし得る全能の神としてエホバは始めであり終りであって,天にも地にもエホバのような神を造り得る被造物はありません。また自分を神にしてエホバにくらべることのできるものもいません。この事は今日に至るまで真実です。イザヤ書 44章6,7節は次のように述べています。「エホバ イスラエルの王イスラエルをあがなふもの万軍のエホバかくいひたまふ,われは始なりわれは終なり,われの外に神あることなし 我いにしへの民をまうけしより以来たれか我の如く後事を示し又つげ又わが前にいひつらねんや,試みに成らんとすること来らんとすることを告げよ」。
33 (イ)神であることについてのエホバの挑戦に答え得た神がありましたか。(ロ)従って私たち各人は何になることを決意すべきですか。
33 今にいたるまで世の諸国家の神々はこの挑戦に答えていません。神であることの証拠を与えて,証人を出すことのできた神はありません。しかしそれとは反対に,挑戦の主エホバは,その神なることを証明する証拠をご自身の代表者たちにお与えになりました。聖書によっても,歴史に記録された事実を見ても,エホバが神であることを証明する証拠は私たちの前にあります。あなたが無神論者でもなく不可知論者でもなくて,キリスト教国の内外を問わず,何かの宗教を実践しているならば,あなたにお尋ねすることがあります。あなたはいずれの神の証者ですか。世界中の他の人々が何と答えても,主イエス・キリストにならう追随者となった私たちは次のように答えます。私たちはエホバのクリスチャン証者です!
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毎週伝道する区域ものみの塔 1964 | 6月1日
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毎週伝道する区域
▼ 最近,ニューヨーク市ブルックリンにある,ものみの塔聖書冊子協会本部の受付係に,婦人の声で次のような電話がかかりました。「エホバの証者とその信条について少し知らせて頂けませんか。私はユダヤ教徒ですが,自分の信仰に弱さを感じます。みなさんの大きな大会について聞いたことがありますし,みなさんの組織に人がどんどん集っていることも知っています。あなたがたのなにが,人をひきつけるかを知りたいのです。私はこの土地(協会の本部から数区画はなれたところ)に22年住んでおり,あなたがたの組織がほんの小さな始まりから,驚くほど大きくなるのを見てきました。みなさんは,私の家に,ほとんど週に一度と言ってよいはど定期的にたずねて来ます。私の返事はいつも,『興味がありません』でした。でも,今ではエホバの証者についてもっと知りたいと思うようになりました」。
エホバの証者の教えを電話で説明することはむずかしかったので,電話を聞いた受付係は,次の日曜にその婦人をたずねる約束をしました。たずねた時の話によると,婦人は,いくつもの教会に行き,行くたびに初めより弱い気持でそれを離れました。新教の一牧師に力ぞえを求めたところ,その答はこうでした。「そうですね,Pさん,私がお宅へ行き,手をとるように助けるというわけにはゆきません。しかし,もしあなたが本当になにかしたいと思われるなら,週に2時間,教会で電話の応待をして頂いてもよろしいです」。これに落胆した彼女は,イエスを全能の神として受け入れることはできないし,キリスト教には異教的背景が強いから,教会にいて安らぎを感じた事はないと答えただけで分れました。その話ののち婦人は訪問した証者に言いました。「みなさんの仲間になるためにどうしたらよいのですか」。早速聖書研究が取りきめられました。彼女は「失楽園から復楽園まで」の本と新世界訳聖書を求め,その日の午後に御国会館で開かれた公開講演会に出席しました。今,彼女は毎週集会に出席し,また,家庭聖書研究を喜んでいます。婦人は一緒に勉強するエホバ証者について,「この人たちは,私にとって,本当に羊飼のようです」と言いました。この経験は,何年もくりかえし伝道し,しかも,毎週回るような区域においてさえ,勤勉に御国を宣べ伝え,「羊」を見いだすために証言するなら,豊かな報いがある事を示しています。―ヨハネ 21:7。
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