神の思いは何か
1 「神の思いを知る者があろうか」との問いに,権威をもって答えたのはだれですか。なんと答えていますか。
人類に対する神の目的を語ると,「それがだれにわかるだろうか」と答える人が少なからずいます。19世紀前のある有名な人も同じことを述べました。「だれが主〔エホバ〕の思いを知……ることができようか」。(コリント前 2:16〔新世〕)しかしこの人は確かな答えを知っていました。(1)彼がヘブル語聖書全巻に通じた学者で,イスラエルに与えられた神の律法の専問家であったこと(2)神のみ子,主イエス・キリストの12使徒の一人として,神に近づけるまれな地位を占めていたこと,この二つの大切な理由によって,彼にはこの問いに答える資格がありました。エホバの思いをすべて知る人はないことを示しながらも,彼は次のように答えています。「『目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた』のである。そして,それを神は,御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ,神の深みまでもきわめるものだからである」― コリント前 2:9,10。
2 (イ)エホバはご自身を人間に知らせることにどれほど関心をもたれていますか。(ロ)神の思いを理解することに関して,イエスはどんな助言を与えましたか。その助言にどのように従いますか。その結果はなんですか。
2 イスラエル民族の神,イエス・キリストと追随者の神である聖書の神エホバは啓示の神です。神はご自身を人類に知らせることを望まれているため,最も近しいみ子を天から地に遣わして神の目的を人類に啓示されました。前述の使徒が仲間のクリスチャンにむかって,「わたしたちはキリストの思いを持っている」と述べたのはそのためです。(コリント前 2:16)エホバのことばは,イスラエル民族に伝えられたことの記録およびそれ以後のイエス・キリストを通して伝えられた事柄の記録から成っています。このエホバのことばによって,私たちは神の思いを悟ることができるのです。「後きたらんとすることを我にとへ,またわが子らとわが手のわざとにつきて汝等われに言せよ」と,神は命ぜられています。(イザヤ 45:11,文語)「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。すべて求める者は得,捜す者は見いだし,門をたたく者はあけてもらえるからである」。(マタイ 7:7,8)すなわち神のことばをたずね,神の言われること,行なわれることのわけをたずね出さねばなりません。神は遠く離れておらず,不在でもありません。神は私たちが神のみ心を知って行動することを望まれます。エホバのことばを尋ねてみ心を知るとき,神が私たちに暖かい心を持ち,私たちの福祉に関心を持たれていることを知って力強く思うでしょう。
3 イザヤが神から与えられた預言は,神の思いを知るためにどのように助けとなりますか。
3 「神のお考えは何か」,この問いの答えを追求して行くのに良い筋道は,紀元前8世紀の預言者イザヤの語った神の言葉に示されています。この預言をしらべるとき,エホバの行なわれることの理由と目的を知り,み心を明確に知るので,とるべき道に迷いません。
神はなぜ前以て告げるか
4 (イ)イザヤが預言した時,イスラエルの状態はどんなでしたか。(ロ)イザヤ書 48章1節から13節において,エホバは彼らに何を告げていますか。
4 この預言を聞いたとき,イスラエルは約束の地にいました。バビロンはまだ第三世界強国となっておらず,強大なアッシリヤをおびやかすような存在ではありません。しかし神は,イスラエルがその罪のためバビロンにとらわれるのを許すと言われました。彼らがとらわれの身にならないうちに,神はイザヤ書 48章1節から13節においてご自分が天地の創造者であり,はじめから終わりまで神であってご自分の民を忘れないことを言明されています。神はご自身のため,バビロンに敵して神の民を救われます。神の約束が不履行に終わって神が汚されることはなく,神の栄光が偽りの神に与えられることもありません。神は次のように言われます。
5 イザヤ書 48章14,15節にあるエホバの言葉は何を意味しますか。
5 「なんぢら皆あつまりてきけエホバの愛する者エホバの好み給ふ所をバビロンに成し,そのかひなはカルデヤ人のうへにのぞまん,彼等のうち誰かこれらの事をのべつげしや ただ我のみ我かたれり我かれをめし我かれをきたらせたり,その道さかゆべし」。(イザヤ 48:14,15,文語)エホバのこの言葉は何を意味していますか。エホバは次のことを言われているのです。異教世界の偽りの神々の中には,バビロンが倒れ,ペルシャ人クロスが神の民を解放することを預言したものがあるだろうか。私のもくろんだ事をバビロンに敵して行なうゆえに,クロスは私の愛する者である。この悪しき都市に対してクロスは私の喜ぶ事柄を成し遂げるであろう。カルデヤ人はその上に置かれたクロスの強い腕にさからうことができない。
6 イザヤ書 48章16節にあるように,エホバはなぜ前以て語りますか。
6 バビロンを降してのちダニエルからイザヤの預言を示されるまで,クロスは,バビロンを降してカルデヤ人を征服するため自分がエホバに用いられたのを知らなかったことでしょう。神ご自身の予告は,次の言葉に述べられています。「あなたがたはわたしに近寄って,これに聞け。わたしは初めから,ひそかに語らなかった。それが成った時から,わたしはそこにいたのだ」。(イザヤ 48:16)エホバはずっと前から預言することをはばかりません。神はひそかに預言したのではありません。それで後日になって人は,神がたしかに預言したことを知ります。神はご自分の行なわれることを知り,それを預言されます。それによって当時の神の民また現代の私たちは神が真であることを知り,神の表明された目的が成し遂げられることを確信できます。神はついでイスラエルに次のことを言われました。
神の民に対する神の目的
7 イザヤ書 48章17節から19節において,エホバはどのようにイスラエルに訴えていますか。
7 「なんぢの贖主イスラエルの聖者エホバかく言ひ給はく,われはなんぢの神エホバなり我なんぢに益することを教へ,なんぢを導きてそのゆくべき道にゆかしむ願くはなんぢわが命令にききしたがはんことを,もし然らばなんぢの平安は河のごとく,なんぢの義は海の波のごとく。なんぢの裔はすなのごとく,なんぢの体よりいづる者はいさごのごとくになりて,その名はわがまへより絶るることなく亡さるることなからん」― イザヤ 48:17-19,文語。
8 神の民に対するエホバの真の目的とみ心は,イザヤ書 48章17節から19節にどのように述べられていますか。
8 イスラエル人は,神のみ手によるバビロンからの救いをこの言葉から読みとれます。神はご自身を指してあがない主と言われました。このことをあらかじめご存知の神は,イスラエル人が神の命令に聞き従い,故国からとらわれ移されることのないようにと願っておられます。バビロンから災いを受けるかわりに,彼らは河のように深く,豊かな平安と繁栄を得られるのです。その義の行いが海の波のように多くなることも可能です。エホバは彼らの先祖アブラハムに対し,そのすえが浜のいさごの如く多くなることを約束されました。彼らに対するエホバの愛は深く,彼らに対するエホバの目的は実に良いではありませんか。エホバは彼らに真の関心を払い,益することを教え,ゆくべき道にやさしく導いて,彼らの愛に訴えています。彼らは聞き従いさえすればよいのです。エホバは彼らが絶たれることを望まれません。しかしエホバは彼らが反逆の民であり,エホバの教えと導きに従わないこと,従ってこらしめの必要なことをご存知でした。それでもなおエホバの恵みは深く,彼らが全く捨てられることはありません。次の言葉は,とらわれの時期に希望の灯となります。
9 バビロンにとらわれているあいだ希望を失うことのないように,神の言葉はつづいて何を告げていますか。
9 「なんぢらバビロンより出でてカルデヤ人よりのがれよ,なんぢらよろこびの声をもてのべきかせ地のはてにいたるまで語りつたへ,エホバはその僕ヤコブをあがなひ給へりといへ,エホバ彼らをして沙漠をゆかしめ給へるとき彼らはかわきたることなかりき,エホバ彼等のために磐より水をながれしめ,また磐をさき給へば水ほとばしりいでたり」― イザヤ 48:20,21,文語。
10 希望を与えるエホバのこの預言は,バビロンにとらわれている間,反逆することをすすめるものですか。
10 ゆえに神から愛されたしもべヤコブの子孫は,絶望に追いやられないでしょう。バビロンが自らとびらを開いてイスラエル人を自由にするはずはありません。またバビロンの倒れる前にイスラエル人が束縛を破って自由になることは,エホバのみ心でもありません。エホバは後に預言者エレミヤによって,イスラエル人が70年間荒廃したのちの故国に帰ることを告げます。(25:11-14)それで彼らは解放者としてエホバに愛される者クロスの立てられることを,エホバにまち望まねばなりません。
11 (イ)エホバが前以て預言するという事実は,どのようにエホバのみ名を崇める結果となりますか。(ロ)エホバの大きな愛は,エホバの力あるわざを見,エホバから平安を得る人々に対して,どのように示されますか。(ハ)不従順な者とくにバビロンは神から何を示されますか。
11 エホバがこれを預言されたことは,エホバのみ名をあがめる結果となります。バビロンが実際に倒れたとき,そのニュースはメデヤ・ペルシャ帝国全土に伝わり,イスラエル人はそのことを人に語ってバビロンの倒れた理由を述べ,それが単に人の力によるのではないことを示したからです。こうして今日と同じく,神のことばのほかにも,神のみわざと目的を告げる証人がいました。この機に乗じて解放された人々は,神の保護の下に荒野を通り,神が岩から出した水を飲んで無事エルサレムに帰り着きました。それはこの人々に対する神の愛を示しています。ご自分の民に対するエホバの恵みは比類がありません。しかし悪しきバビロンは言うまでもなく,神の民であっても神の戒めを破る者は神からの平安を得ません。―イザヤ 48:22。
12 (イ)バビロンに留まった者すべてが悪をしたと言えますか。例をあげなさい。(ロ)エルサレムに帰れない人は,宮の再建のためなにをできましたか。
12 バビロンが遂に倒れたとき,エルサレムへの旅に加わらないイスラエル人もいました。これらの人々の行動を必ずしも悪とすることはできません。この人々の中には,たとえば年老いたダニエルもいました。バビロンを去ることを望まなかった人々は,クロスの勅令のすすめに従い,金,銀,物資,家畜を,エルサレムに帰る人々に与え,またエルサレムにある真の神の家のために寄付をことづけました。―エズラ 1:2-4。
神がその民に苦難を許した理由
13 紀元前607年バビロンによって滅ぼされるまでに,エルサレムの悪はどの程度まで増し加わっていましたか。
13 エルサレムは神のみ名を代表する町でしたが,イザヤの時代の人々は反逆の民でした。バビロンによるエルサレム滅亡の紀元前607年までに彼らの悪が増してエホバの忍耐はきれ,こらしめの時がきました。神はそれをあらかじめご存知であり,次のように警告されました。
14 イザヤ書 51章17節から20節にあるエホバの言葉は,エルサレムにこらしめが与えられることをどのように描いていますか。
14 「エルサレムよさめよ,さめよ起よなんじ前にエホバの手よりそのいきどほりのさかづきをうけて飲み,よろめかす大杯をのみ且すひほしたりなんぢの生るもろもろの子の中に汝をみちびく者なく,汝の育てたるもろもろの子の中にてなんぢの手をたづさふる者なし,この二つのこと汝にのぞめり,誰かなんぢのために歎かんや,荒廃のききんほろびの剣なんぢに及べり,我いかにして汝をなぐさめんやなんじの子らは息たえだえにして網にかかるかもしかのごとくしてちまたちまたの口にふす,エホバのいきどほりとなんぢの神のせめとはかれらに満たり」― イザヤ 51:17-20,文語。
15 (イ)エルサレムの子たちの中に,エルサレムを支える者がなかったのはなぜですか。(ロ)エルサレムが飲んだ「ふたつのこと」は何ですか。(ハ)エルサレムがだれに頼ったことが間違いでしたか。それはどんな結果になりましたか。
15 神はバビロンを用いてこらしめを与えました。エルサレムは神の怒りの杯を受けてよろめき,住民のなかにエルサレムを導く者はありません。エゼキエル,ダニエル,その仲間のヘブル人3人のような正しい者がわずかにそこにいても,エルサレムを助け起こすことはできません。エルサレムがエホバの怒りの杯から飲む二つのものは,(1)略奪と荒廃(2)ききんと剣から成っています。ネブカデネザルの包囲下にあった18ヵ月間,エルサレムは極度のききん,バビロニアの兵士の剣,支配者と防備の壊滅,異教の征服者の略奪に苦しみました。エルサレムが頼みとしたエジプトは助けとならず,町の中の人々は弱りはてました。しかしエホバはエルサレムの酔いがさめた時の事を預言し,力づける言葉を述べておられます。
16 イザヤ書 51章21節から23節のエホバの言葉は,怒りの杯を与えられる者が変ったことをどのように述べていますか。
16 「このゆえに苦しめるもの酒にあらで酔たる者よ之を聞けなんぢの主エホバおのが民の訟をあげつらひ給ふ,なんぢの神かくいひ給ふ,我よろめかす酒杯をなんぢの手より取除き,わがいきどほりの大杯をとりのぞきたり,汝ふたたびこれをのむことあらじ,我これを汝をなやます者の手にわたさん,かれらはさきになんぢの霊魂にむかひていへらく,なんぢ伏せよわれら越ゆかんと,而してなんぢその背を地のごとくしちまたのごとくし彼らのこえゆくに任せたり」― イザヤ 51:21-23,文語。
17 イザヤ書 51章21節から23節は,エホバがその民の苦難を許した理由をどのように述べていますか。(ロ)比喩的に言って,バビロンはどの程度までエルサレムをいやしめましたか。
17 これはエホバがエルサレムのとらわれを許した理由を述べています。それは神の民の首都エルサレムが愛と信頼の心で神に従い,また一致するかわりに神とすすんで争ったためです。しかしエホバのこらしめは終わり,その怒りはエルサレムから取り去られてバビロンとその同盟者に向けられる時がきます。バビロンはエルサレムをいやしめ,あたかも地面にうつ伏せに寝かせて,道を歩くように背中を踏みつけることをしました。紀元前607年に起きたこの出来事によって,エルサレムは異邦人に踏みにじられ始め,西暦1914年までつづく異邦人の七つの時が始まったのです。―ルカ 21:24。ダニエル 4:16,23,25,32。a
18 怒りの杯は何時エルサレムの手から取り去られましたか。どんな命令がエルサレムに適用され始めましたか。
18 エホバの怒りの杯はエルサレムの手から取り去られて,紀元前539年,バビロンの手に与えられました。2年後の紀元前537年にクロスはイスラエル人解放の詔を出しています。その時より200年前に書かれたエホバの霊感の預言が成就し始めたのです。「シオンよ,さめよ,さめよ,力を着よ。聖なる都エルサレムよ,美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は,もはやあなたのところに,はいることがないからだ。捕われたエルサレムよ,あなたの身からちりを振り落せ,起きよ。捕われたシオンの娘よ,あなたの首のなわを解きすてよ」― イザヤ 52:1,2。
19 (イ)神は復興後のシオンをどんな状態に保たれますか。(ロ)ダビデの王統はそのとき興されましたか。説明しなさい。(ハ)西暦70年エルサレムがローマに滅ぼされたにもかかわらず,イザヤの預言はどのように成就したと言えますか。
19 シオンはもはやバビロンの無力な奴隷ではなく,美しい都に再建され,エホバ崇拝のために強められ,飾られます。「大いなる王の都」またイエスの呼び方に従えば「大王の都」に再びなったシオンは,美しい衣を着けなければなりません。(詩 48:2。マタイ 5:35)聖都エルサレムにはいることは,無割礼の者,汚れた者に許されていません。エルサレムが神に忠実で,清さを保つ限り,無割礼の異邦人の征服者がエルサレムをふみにじることはありません。ダビデの家系の王がこのとき再興されず,世界強国が相ついでエルサレムを支配したにもかかわらず,エルサレムは西暦70年,その反逆のゆえにローマに滅ぼされるまで,エホバの選民にとって崇拝の中心地であり,聖都の体面を保ってきました。イザヤの預言は成就しました。イザヤ書 52章の完全な成就は神の天の組織,天のシオンに見られるからです。それは「上なるエルサレム」であり,地上のシオンつまりエルサレムによって表わされていました。西暦70年に起きたエルサレム滅亡の37年前にエホバは霊的な宮すなわちクリスチャン会衆を崇拝の中心とされました。―ガラテヤ 4:26。
20 シオンはかわってどんな地位を占めなければなりませんか。そしてエホバとどんな関係を享受しますか。
20 バビロンのどれいとなっていた間,エルサレムはたしかに「捕われのシオンの娘」でした。しかしもはや地に座して嘆くときではありません。高く座して,とらわれのなわとくさりを投げ捨てる時です。エホバの宮の立つ都エルサレムは自由を行使して,エホバに仕えなければなりません。ゼカリヤ書 2章7,10節の預言通りエホバがそこに住まれます。「来れバビロンの女子とともに居るシオンよ遁れ来れエホバ言たまふシオンの女子よ喜び楽しめ我きたりて汝の中に住めばなり」。(文語)
神の民はどのように売られ贖われたか
21 (イ)シオンはどのようにバビロンに売られましたか。(ロ)しかしどうして買い戻されたと言えますか。
21 シオンの反逆のゆえにエホバは価なくシオンを売り,バビロンの手に渡すことをされました。従ってシオンを永久に所有しようとしたバビロンの考えは,間違っていたのです。エホバは次のように説明されました,「あなたがはた,ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。(イザヤ 52:3)ゆえにシオンを自由にするのに,神があがないの価を払う必要はありません。エホバがシオンを解放することは,価を必要とせずに行なわれました。しかしシオンは買い戻されたのです。自発的にシオンを解放し,エホバを認めたペルシャ人クロス王に対し,エホバはクロスがバビロン征服途上に従えた国々を与え,またクロスの子カンビセスの時代にはエジプトをペルシャに与えられたからです。(イザヤ 43:3,4)そのすべては異教国です。エルサレムに戻って宮を再建することをイスラエル人に許したクロス王は,ネブカデネザル王がエホバの宮から盗んだ器を持ち帰ることをも許し,しかも無条件にそうしました。
22 バビロンは,エホバのどんな警告と歴史の警告を無視しましたか。
22 バビロンには神の民を支配する正当な権利がなかったのです。それで神の民を虐待したバビロンは滅ぼされました。イザヤ書 52章4節において神は以前の虐待の例を思いおこされています。「わが民はさきにエジプトへ下って行って,かしこに寄留した。またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた」。バビロンは,神がイスラエルをエジプトから解放した記録を見ても教訓を得ず,またエルサレムをおびやかしたアッスリヤの軍勢18万5000人を神が滅ぼし,また紀元前633年頃,メデア人とカルデヤ人にアッスリヤを渡した歴史の事実を無視しました。それはアッスリヤがイスラエル10支族の国をゆえなくして覆えし,人々を追放し,外国の異教徒をそのあとに定住させたのちの出来事です。
エホバはみ名の尊ばれることを望まれる
23 (イ)バビロンの悪は大きかったゆえに,エホバはバビロンにどんな関心を持たれましたか。またバビロンに何が見られることを見越されましたか。(ロ)バビロンはどんな恐れを抱くべきでしたか。しかしその反対にバビロンは何をしましたか。
23 これらの事に照らしてみるとき,エホバはバビロンに対して何をされますか。エホバは言われます,「エホバ宣はくわが民はゆえなくしてとらはれたり,されば我ここに何をなさん,エホバ宣はく彼等をつかさどる者さけびよばはり,わが名はつねに終日けがさるるなりこの故にわが民はわが名をしらん,このゆえにその日にはかれらこの言をかたる者の我なるをしらん,我ここに在り」。(イザヤ 52:5,6,文語)それでエホバは古代エジプトおよびアッスリヤに見られたと同様な事態がバビロンにも見られることをご承知でした。エルサレムに対するバビロンの誇り,とくにそれがエホバのみ名をけがしたことは見過ごされないでしょう。バビロニア人は,彼らの手に売り渡された神の民以上に真の神に罪を犯し,これまでの偶像崇拝の罪に更に罪を加えることをはばかりません。ゆえに神は必ずそれに報います。
24 (イ)イスラエル人の多くはバビロンにおいてどんな教訓を学びましたか。(ロ)彼らはそこで何を聞き,何を忍ぶことを余儀なくされましたか。しかしそれはなぜ何時までも続くことではありませんか。
24 イスラエル人はエホバのこらしめから教訓を学ぶのが当然でした。そして教訓を学んだ者は少なくありません。西暦56年頃,クリスチャン使徒パウロが生来のユダヤ人にむかって述べているように,彼らはエホバのみ名に大きなそしりをもたらしたのです。「聖書に書いてあるとおり,『神の御名は,あなたがたのゆえに,異邦人の間で汚されている』」。(ロマ 2:24)70年のあいだ彼らは神のみ名のそしられるのを忍ばねばなりません。また彼ら自身もそのことのゆえに,あざけりを受けるでしよう。彼らは神のみ名が汚され,冒瀆され,みだりにされるのを聞きました。しかしエホバはその事が何時までもつづくのを許しません。エホバはご自身のみ名と,宇宙主権者の地位を尊ばれるからです。「この言をかたる者の我なるをしらん,我ここに在り」とエホバは言われます。それでエホバはみ名を立証し,すべての国民の前にそれをきよめることを保証されました。
エホバの望まれる崇拝
25 (イ)エホバはその民に対して何を抱いておられますか。しかし神の民には何が求められていますか。(ロ)なぜ神のことばを学ぶべきですか。(ハ)エホバがみ名を心にかけられているのは,なぜ利己的なことではありませんか。
25 イスラエルのこの経験からわかるように,エホバはすべての被造物に大きな愛を持たれ,公正とあわれみを示されます。とくにみ名を負う神の民に対して,エホバの愛は絶えることがありません。しかし神はみ名の尊ばれることに細心の注意を払われています。口先だけの崇拝は神に喜ばれません。神が望まれるのは,子が親に対して示すのと同様な愛と従順です。ゆえに神のみ名を負う者にとって,宗教は生活から離れたものではなく,エホバの崇拝とエホバの戒めを守ることが生活のかなめとなっていなければなりません。真の崇拝者のあるべき姿を定めるのは,人間ではなくて神です。神の道を歩む者は神の善意を得,その前途には人間の夢想もできない祝福があります。使徒はこう書きました,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮びもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」。(コリント前 2:9)この理由で私たちは神のことばを学ばねばなりません。神がみ名をそのように心にかけていられるのも,利己的な理由からではありません。大いなるクロス,イエス・キリストの御国によってみ名がきよめられることは,全宇宙を益し,恒久の平和を地にもたらし,永遠の生命と共にみぞうの祝福を人に得させるからです。愛の創造主は従順な人間のためにそのことをされます。
[脚注]
a 1965年3月15日号「ものみの塔」およびニューヨーク,ブルツクリン,ものみの塔聖書冊子協会出版の本「大いなるバビロンは倒れた! 神の国は支配する!」の第10章をごらん下さい。