今日,神の音信に耳を傾けない者は,災いに陥る
1 (イ)真理を学ぶことに関して,今日の人々はなぜ恵まれていますか。(ロ)一般にはどんな風潮が見られますか。
神のみことば聖書は数多くの国語に翻訳され,全地に配布されているゆえに,今日の人類の世は何と恵まれているのでしょう! そのうえ,今日のエホバのクリスチャン証人は,すべての国で人々の家々を喜んで訪問し,人々が自分の聖書を研究し,理解するのを助けたいと心から願っています。しかし今日のキリト教国の大半の人々は,預言イザヤの時代の人々と同じで神の良い備えや御子イエス・キリストを通して人類に与えられた賜物について私たちが語れば語るほど,受け入れまいと努めます。エホバの証人が何度会って,話をしても,知識を取り入れようとしません。つまり知識を取り入れたくないのです! ゆえにイザヤの場合と同様,「天国は近づいた」という唯一の貴重な音信を真のクリスチャンが伝えるとき,「この民の心を鈍くし,その耳を聞えにくくし,その目を閉ざしなさい。これは彼らがその目で見,その耳で聞き,その心で悟り,悔い改めていやされることのないためである」ということばどおりのことが生じるのです。―イザヤ 6:10。
2 今日の事態はイエス当時と同様ですか。
2 地上で伝道していた時,イエスは当時の人々について同じ事を言われ,「この民の心は鈍くな(った)」と述べました。(マタイ 13:13-15)使徒たちのように少数の者が,イエスのことばを聞いて,答え応じ,「イエスに従った」のです。12使徒を初め,70人の福音宣明者,五旬節の日の120人,パウロおよび他の幾千人のユダヤ人は,キリスト教の初期の時代に,活動的なクリスチャンとなりエホバ神の御心を喜んで行ない,イエス・キリストの足跡に従いました。今日,クリスチャンと自称する幾千万の人々はいかがですか。彼らは目や耳を閉じているのですか。
3 (イ)今日のキリスト教国を見るとき,神のみことばに対してイエスと同様の信仰を見いだせますか。(ロ)多くの人々は聖書の道徳律をどう見ていますか。
3 20世紀のキリスト教国の人々は,イエス・キリストの追随者をもって自任していますが,あなたはそのことばを信じますか。イエス・キリストのいわゆる代表者に関して調べてください。確かに彼らは,神のみことばに対してイエスが示した信仰を表わしてはいません。キリスト教国の指導者の多くは,自分の考えから語ることを望み,真のキリスト教の信仰,エホバ神が生きていられる神であるという信仰および神の御子イエス・キリストに対する信仰から多くの人を引き離し,イエスが天国に関して教えた重大な音信を,無価値なものにしようと努め,道徳律に関する聖書の教えは,今日の人間の導きとしてはもはや役だたないと考えています。1965年12月3日付,ペンサコラ・ジャーナル紙はこう報じました。「カトリック教会内を吹いている改革の嵐は,新教主義の教会にも吹き寄せている。クリスチャンの信仰の根本的教義が,生粋の無神論者によってではなく,神学者によって疑問視されていることに,新教徒は驚いている。適当なことばがないために,この新しいクリスチャン・ヒューマニズムの動きは,『神は死んでいる』運動として知られてきた」。
4 ある神学者たちは神について何を考えているように見えますか。
4 これらの神学者はいったいどうしてクリスチャンを自称しあるいはキリスト教を奉ずると主張できるのだろうかと私たちは問わざるを得ません。神が存在せずあるいは死んだのであれば,どうしてその教えが宗教として成り立つのですか。ある神学者たちは,言葉のはしくれをもって神をないがしろにでき,神をおしのけ得ると考え,神のみことば,つまり人間が神に語り,神が人間に語られたことばを学ぶことのできる聖書を無視できると思っているのです。人間の創造者であられる神を信ずるクリスチャンは,アトランタ市にある,メソジスト教会所属エモリー大学,宗教学准教授トーマス・J・J・アルティザーのことばには同意できません。彼は,1965年12月3日付,ペンサコラ・ジャーナル紙上でこう述べました。「神の死は歴史的な事件であることを我々は認めねばならない」。
5,6 (イ)ウエブスター新国際辞典は,神をないがしろにしようとする人々が考えるべきどんな興味深い事柄を述べていますか。(ロ)この同じ辞典は,「神」を定義して何と述べていますか。
5 このような神学者は,かつて神と神の御子イエス・キリストを信じていた男女に,聖書を捨てさせ,自分の考えに基づく宗教を作らせ,神なしに自分勝手な信仰を築くよう強く勧めているのです。彼らはそれを宗教と呼ばず,別のことばで呼ぶべきでしょう。と言うのは,ウエブスター新国際辞典(1927年版)は宗教についてこう述べているからです。「人間の運命を支配する力を有し,服従,奉仕,栄光を受けるにふさわしい神あるいは神々の存在を認めていることを示す人間の外面的行為あるいは行為の形式。信仰告白,儀式および祝祭の遵守あるいは生活の仕方により,圧倒的力を有する超人間的存在に対する人間の感情,あるいは愛,恐れ,畏敬の念の表われ。信仰と崇拝の制度。信心の表現」。
6 神の項目のもとにこの辞典はこう述べています。「至高の存在。宇宙の永遠で無限な霊者,創造者そして主権者。エホバ。『神は霊であるから,礼拝をする者も霊とまこととをもって礼拝すべきである(ヨハネ 4:24)』」。また,「人間の属性および力以上のものを備えた存在。自然を支配していると考えられる超人間的存在者……当然に崇拝を受けるべき,また受けるにふさわしい者」。
7,8 (イ)「神は死んでいる」と主張する神学者は,何を認めざるを得ませんか。(ロ)そのような教えを信ずる者は,何を崇拝し,信ずるようになりますか。
7 自分たちの神学を教えて,神をないがしろにできたと考える神学者は,もはや宗教を奉ずる者ではなく,宇宙の真の神に対する人間の崇拝を打ち砕く者であることを認めなければなりません。彼らは,自分以外には何も崇拝していませんが,彼ら自身が神でないことは明らかです。ゆえに崇拝するものがない以上,そこにはもはや宗教は存在しません。
8 宗教を奉ずる人は,神を信じなければならず,さもなければそれは宗教ではありません。神が死んでいると信ずる牧師たちはみな教会のとびらを閉めるべきでしょう。確かに牧師たちは,教区内の信者が神を信ずるよう願ってはいません。その結果,信者は先祖崇拝や自己崇拝に転向し,涅槃つまり神と信じられている大いなる無に人間が終極的には到達できると説く仏教に心を寄せるでしょう。ウエブスター新大学辞典(1961年版)は「涅槃」をこう定義しています。「心の中の情欲,憎悪,迷いの消滅。この解放は霊的な至福の状態および将来にもはや転生を必要としない状態をもたらす。心配,苦痛あるいは外的実在の消滅」。では人間は,無から生じ,無に帰すると信じなければならないのですか。
9-11 (イ)ある神学者は聖書のある部分に関してどんな見方をしますか。(ロ)そのような理論を押し進めてゆけば,当然にどんな結論となりますか。(ハ)使徒パウロは,私たちが持つべきキリスト教の見方をどのように要約していますか。
9 キリスト教国の指導的な宗教家は,宇宙の偉大な神と聖書に対する信仰をくつがえそうと努めています。一例として1961年2月13日付のA・P通信の報道を取りあげましょう。その報道は,カリフォルニアの監督教会の主教ジェイムズ・A・パイクのことばとしてこう述べています。「彼は,『エデンの園の神話』について話し,彼の言うところの人間性の『複雑な真相』を説明するのにそれは価値があると述べ,こうつけ加えた。『しかし,英国教会の会員で,主教,司祭,執事,俗人のいずれを問わず,この話を文字どおりに信じている人はただの一人もいないと私は思う』。さらに,彼は自分の教区牧師およびその代理すべてにあてた教会書簡の中で,キリストの処女生誕説を神話と述べ,信じる信じないは信者の自由であると指摘した」。
10 もしエデンの園に人間の男女が創造されたのでなく,宇宙の大いなる神エホバが,そこに人間を置いたのでもなければ,第二のアダム,イエス・キリストによって取り除かれねばならない罪は存在せず,贖い主もイエス・キリストの処女生誕も不要です。しかし使徒パウロは現代の懐疑論に同意せず,教えたこともなく,彼は偉大なクリスチャン福音宣明者,信仰の人としてこう述べています。「わたしたちがまだ弱かったころ,キリストは,時いたって,不信心な者たちのために死んで下さったのである」。(ローマ 5:6)パウロは,人類が罪と死から救われるために贖い主を必要としていることを知っており,こう語りました。「ひとりの人によって,罪がこの世にはいり,また罪によって死がはいってきたように,こうして,すべての人が罪を犯したので,死が全人類にはいり込んだのである」。(ローマ 5:12)そして次のように伝道したのです。「正しい者も正しくない者も,やがてよみがえるとの希望を,神を仰いでいだいているものです」。(使行 24:15)あなたはこれらの事柄を信じますか。もし信じているなら,聖書のどの部分が神話で,どの部分がそうでないかを知っていると主張する牧師の考えに同意できないはずです。もしパウロが現在生きていたなら,こう語ったことでしょう。「あらゆる人を偽り者としても,神を真実なものとすべきである」― ローマ 3:4。
11 パウロは,アダムがエデンの園で神の律法を破ったことを信じており,世の罪を取り除くためには贖いの犠牲が必要なことも知っており,イエス・キリストは人間を贖われた方であると信じていました。1900年前のイエス・キリストの使徒および忠実な追随者のすべては同様に信じていました。問題は,あなたもそう信じていますかという事です。
12,13 カナダのオタワおよびニューヨークのバッファローの新聞によれば,二人の牧師は聖書をどのように見ていますか。
12 あなたの属している教会の牧師は何と言いますか。「去る木曜日,英国南部の聖公会の責任者に対して一教区牧師は,旧約聖書の中には人々にとって『霊的なくず』や『毒物』となるようなことばがあると語った。ロンドン近郊のウードフォードの牧師J・C・ウェンゼイは,教会で毎日あるいは毎日曜日に読む日課のある部分に大主教区会議の注意を促した」。(1963年5月10日付,オタワ・シチズン紙,ロンドン発ロイター通信)
13 1962年8月13日付,バッファロー・クーリエ・エクスプレス紙には,「牧師は,聖書が検閲されねばならぬことを指摘する」との見出しで一部次のように報道されました。「ロンドン発A・P。メソジスト教会連盟の前会長レスリー・ウェザーヘッド博士は,聖書を検閲しなければならぬと述べ,ロンドンの新聞社3社の記者と会見した際,聖書全体を詳細に調べて,『存分に訂正を加えたいものだと語った……彼はおもに旧約聖書を非難し,『完全に時代おくれの代物』だときめつけた」。
14 新教の多くの信徒が聖書に関していだいている懸念につき,ダラス・モーニング・ニュース紙の記事の要点を述べなさい。
14 キリスト教国の牧師が聖書に対する信仰を失っていることは明白です。1966年5月31日付,ダラス・モーニング・ニュース紙の社説で,同紙の論説主幹マイク・エングルマンはこう論じました。「合同長老教会内には長老教会信徒委員会と呼ばれる新しい組織がある。この組織がつくられたきっかけの一つは,アメリカ中の新教徒のいだいている根深い恐れである。聖書が十分に重んじられていないのではなかろうか,最近,説教壇からの話には社会問題や政治問題ばかり取り上げられており,神のみことばはあまり論じられていないのではなかろうかという恐れなのだ。ダラスの長老教会の著名な一信徒は最近こう言明した。『大多数の牧師は,あまりにも迷わされ,完全によりどころを失い,革進的で人間本意の考えに満たされているため,信者にとっては日毎に価値のない存在と化している』」。その筆者はさらに続けています。「現代の人間は,聖書の一部分だけを受け入れ,ヘブル語聖書とギリシャ語聖書の中で,自分が捨てたいと思う部分を無視しており,その結果,自分たちを喜ばすために,神の道徳律や律法に手心を加えるようになるであろう」。
15-17 (イ)牧師は道徳に関するどんな極端な見解をいだくようになりましたか。(ロ)これらの問題の導きとなるどんな原則を使徒パウロは与えていますか。
15 前述のことばは確かに真実です。キリスト教国の著名な牧師は,聖書に対する人々の信仰をくつがえしています。あなたにとって聖書は神話にすぎませんか。道徳上の行為に関する聖書の教えは時代おくれですか。合同キリストの教会の牧師ジョーン・W・ウッドのような人物の考えに同意するほどあなたの信仰は弱められていますか。同教会は,米国の組合教会,福音教会および改革派教会が合同した団体です。ウッド牧師はこう語りました。「同性愛は聖ざん式の程度まで神聖なものになり得るであろう。こうして異性間の性行為と同様に道徳的な行為となるのである。同性の二人が結婚関係にはいるのは正しいことかとの重要な問いに対して,『正しい』と答えざるを得ない」。(1963年6月15日付,トロント・スター紙)もちろんウッド牧師は同性愛の問題ではカンタベリー大主教と全く同じ意見です。ロンドン発のA・P通信は,「牧師は同性愛行為の合法化を要請する」との見出しでこう報じました。「去る水曜日,カンタベリー大主教は他の上院議員とともに,成人の同性愛行為を合法化するよう要請した」。
16 もちろんキリスト教国の牧師は,人間の不道徳な行為が,たとえ神の道徳律に反していても,律法措置によって合法化されれば,道徳的な正しい行為になると考えています。使徒パウロは同大主教の考えに決して同意しないでしょう。パウロはこう書きました。「正しくない者が神の国をつぐことはないのを,知らないのか。まちがってはいけない。不品行なもの,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者……は,いずれも神の国をつぐことはないのである」。(コリント第一 6:9-11。ローマ 1:24-32。レビ 18:22)あなたは神のみことばの助言に従うべきではありませんか。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし(なさい)」と聖書は述べています。―黙示 18:4。
17 昨年5月11日付,カナダ,バンクーバー発,A・P通信はこう報じました。「英国教会の一主教は,結婚関係外の性交が不道徳な行為とはならない事情もあり得ると語った。英国デボン州クレディトンの主教ウィルフレッド・A・ウェストールは記者会見で,真剣に結婚を望んでいる男女にそのような事情が起こり得ると述べ,乱婚は許されないが,『青年男女が婚前交渉をしただけで,ふさわしい結婚ができないという考えに,私は同意できない』と語った」。このような見解を持つキリスト教国の牧師は,「不品行の者……姦淫をする者は,いずれも神の国をつぐことはない」と述べた使徒パウロの考えには同意できないのです。しかしパウロはクリスチャンに対して「不品行を避けなさい」と絶えず勧めました。―コリント第一 6:18。
18 正しく生きるための導きをだれに求めるべきですか。
18 キリスト教国の牧師が,人々の心を神のみことば聖書から引き離そうとしている事を示す証拠はたくさんあります。しかし聖書の中にこそ,イエス・キリストが御父の御心を説明された教えのことばが書かれているのです。宇宙の最高の支配者エホバ神は,人間が歩むべき最善の道をご存じです。エホバは人間を創造され,生活のための正しい道徳律を人間に与えられました。人間が神のみことばに従わなかったために,今日,人間の社会はごらんのとおり堕落しているのです。
19,20 イザヤの時代は,イエス当時と現代とにどれほどよく似ていますか。
19 今日の事態は,預言者イザヤの日と全く同じです。イザヤは神の忠実なしもべとして活発に働いた人でした。「わたしはだれをつかわそうか」と問われた時,イザヤは神に対する忠節を表わしたいと願い,「われこゝにあり 我をつかはしたまへ」と語りました。「あなたは行って,この民にこう言いなさい,『あなたがたはくりかえし聞くがよい,しかし悟ってはならない。あなたがたはくりかえし見るがよい,しかしわかってはならない』」。(イザヤ 6:8,9)イザヤは,人々のところに引き続き行って伝道することにより,「この民」は悟りたいと欲してはいないことを証明しました。人々は,聞く耳を持とうとはせず,その心はあまりにも自己中心で,悟りを願うにはあまりにも利己的でした。彼らはしいて耳を閉ざし,自分たちの生活をそれによって変えねばならぬような音信を望みませんでした。そのため人々は目を閉じ,耳をふさいだのです。
20 イエスの時代も全く同様で,ユダヤ人は堕落して,自分たちの神を忘れていました。浸礼者ヨハネは悔い改めさせようと努め,ある人々は悔い改め,イエス・キリストによって心を開かれ,真理を受け入れたのです。しかし,イエスが真実の生き方について語れば語るほど,人々はなおいっそう目をかたく閉じ,耳を傾けまいとしました。自分たちのためにパンや魚などの食物が与えられていた時には,大勢の群衆がイエスに従いましたが,西暦33年の五旬節ののちにはついにわずか3000人ほどの人々がイエスに対する信仰を表わしたにすぎません。イエスは,人々に語る結果,何が生じるかを弟子たちに説明しました。
21 人々はどんな態度をとるであろうとイエスは語りましたか。
21 「だから,彼らには譬で語るのである。それは彼らが,見ても見ず,聞いても聞かず,また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が,彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが,決して悟らない。見るには見るが,決して認めない。この民の心は鈍くなり,その耳は聞えにくく,その目は閉じている。それは,彼らが目で見ず,耳で聞かず,心で悟らず,悔い改めていやされることがないためである』」― マタイ 13:13-15。
22 (イ)イザヤやイエスは伝道を中止しましたか。今日のエホバの証人は伝道を中止しますか。(ロ)大多数の人はエホバの証人の訪問をどう感じていますか。
22 これほどすぐれた教師を得たにもかかわらず,彼らは何と心のかたくなな人間だったのでしょう! しかしイザヤと同様,イエスは伝道を中止しませんでした。そしてこの預言は今日その成就を見ています。つまりエホバのクリスチャン証人は,当時と全く同様の事態に直面しているからです。彼らは今もなお,家から家に,町から町に,国から国に行って,神の国の良いたよりを宣明していますが,聞く耳を持つ人はあまり多くいません。しかし,エホバの証人は,イエスが言われたとおり,「すべての民に対してあかしをするために,全世界に」御国の良いたよりを伝道しており,「それから最後が来るので」す。(マタイ 24:14)世界の何億もの人々のうち少数の人が真理と正義とに飢えかわき,神のみことばに耳を傾け,信じています。大多数の人々は,自分たちの家の玄関に定期的に訪れるエホバの証人のことばは時間をかけて聞く価値がないと考え,「その耳は聞えにくく」なっています。エホバの証人が誠意をこめて神のみことばを語れば語るほど,ますます多くの人は耳を閉ざそうとします。
「いつまでですか」
23 エホバの証人の伝道に人々が応じようとしない状態はいつまで続きますか。
23 エホバの証人は祈りのうちに次のように神にたずねてきました。「人々は聞く耳を持たず,心を鈍くしていますが,神の国の音信に対する彼らのかたくなな心の状態はいつまで続くのでしょうか」。しかし神からの答えはいつも同じで,災いが襲うまで,「町々は荒れすたれて,住む者もなく,家には人かげもなく……なる時まで」,人々は聞くことをせず,心をやわらげないであろうと言うことです。ゆえにたとえ人々が聞く耳を持たなくても,エホバの証人は人々をたずね続けます。
24 キリスト教国の牧師はエホバの証人に対してどんな見方をとっていますか。
24 エホバの証人が神の国を人類の唯一の希望として熱心に伝道しているために,キリスト教国を構成する新教,ギリシャ正教,カトリックおよびクリスチャン団体と自称する他のすべての組織の牧師および司教の多くの者,実際にはその大多数が,エホバの証人のわざに公然と敵対し始めています。ギリシャ正教会のクリソストモス大司教がエホバの証人に対して語った次のことばに耳を傾けてください。「ギリシャ正教会はこれらの異端者を教会の敵の筆頭とみなしている……改宗をすすめる彼らの活動を阻止し,彼らを逮捕し,告発するよう,我々は再三政府に訴えてきた」。(1966年8月22日付,ニューヨーク・タイムズ紙)指導的宗教家のこれに類する話や神は死んでいるとか聖書は単なる神話にすぎないと語るキリスト教国内諸宗派の牧師のことばは,真のキリスト教の伝道を抹殺しようとする彼らの意図を示しています。
25,26 (イ)この雑誌の読者のために,今どんな質問が出されていますか。(ロ)パウロは,彼が神のみことばの真理を伝道した人々について,何と述べていますか。それで私たちは当然すべての人々に対して何と問えますか。
25 読者の皆さんはどんな立場にありますか。エホバのクリスチャン証人の語ることばに耳を傾けますか。それとも,耳をふさぎ,目を閉じて,見ることも,聖書を心で理解することもできませんか。あなたはどんなクリスチャン,あるいはどんな人ですか。あなた方の大多数は,世の現状に満足しきって,神が今日の状態と将来について語られる事柄を知るために神のみことばを学ぶなどという時間はないとお考えですか。パウロの時代の人々も今日と同様に無関心な態度をとっていました。彼は,良いたよりをあらゆる種類の人々に伝道しようと熱心に努めましたが,努めれば努めるほど,人々は聞くまいとしました。そのためにパウロはユダヤ人の不信者にこう語りました。「聖霊はよくも預言者イザヤによって,あなたがたの先祖に語ったものである。『この民に行って言え,あなたがたは聞くには聞くが,決して悟らない。見るには見るが,決して認めない。この民の心は鈍くなり,その耳は聞えにくく,その目は閉じている。それは,彼らが目で見ず,耳で聞かず,心で悟らず,悔い改めていやされることがないためである』」― 使行 28:25-27。
26 大多数の人はいやされないことを願っているのでしょうか。あなたは,神の御心を知り,いやされ,永遠の命を得たいと願いますか。もし命を得たいと願われるなら,エホバの証人と一緒に聖書を学んでください。
27 キリスト教国の現状に対して責任はだれにありますか。なぜそう言えますか。
27 今日,キリスト教国内に恐るべき状態が生じている原因は,牧師にあるのです。牧師は,教区内の信者の心を,人間の創造者エホバ神の真の教えから引き離したゆえに,その責任を負わねばなりません。多くの宗教家は,人間が贖い主イエス・キリストを必要とすることをもはや信ぜず,神が死んでいることを人々に信じさせ,聖書に定められている高い道徳律を捨て去り,聖書を無価値な本にしようと努めています。これでは,エホバの証人が家から家を訪れて,聖書に対する人々の信仰を再び確立しようとする際に困難を覚えるのは当然ではありませんか。今日の大多数の人々は神からの音信の光を認めようとせず,目を閉じ,耳をふさぎ,聞こうとしません。
28 エホバの証人が御国の良いたよりを伝道し続けることはなぜ大切ですか。
28 ではエホバの証人はどうしますか。伝道を中止しますか。手をゆるめますか。決してそうしません! 彼らの目は閉じられてはおらず,「わたしについてきなさい。あなたがたを,人間をとる漁師にしてあげよう」という召しを聞いているのです。西暦1919年以来今日まで,100万人以上のエホバの証人は答え応じ,「彼らは……従った」のです。現在の事物の制度の全き終わりが到来する時,今耳を傾けない「この民」が,「その目で見,その耳で聞き,その心で悟り,悔い改めていやされることのない」ほど徹底して神に敵対していることを彼ら自身に証明させるため,エホバの証人が御国のこの良いたよりを宣明し続けることはきわめて重要です。(イザヤ 6:10)金杯に薬を盛っても,彼らはいやしを受けず,キリスト教国は神に対して心をかたくなにしています。人々はこの世を好んでおり,国際連合という政治組織に愛情と好意を示し,この世を存続させ得ると考えています。
29 悪魔サタンは今どんな目的を持っていますか。サタンの仕事を助けているのはだれですか。
29 キリスト教国の牧師は,全世界の王たちを「全能の神の大なる日の戦闘」に集めるのに一役買っています。(黙示 16:14)「この世の神」である悪魔は悪鬼たちとともに,人類の大多数の者がこの世の多くの汚れた組織の側に整列するよう事態を動かし,「ヘブル語でハルマゲドンという所に」彼らを集めています。(黙示 16:16)神の国の音信を聞き,エホバ神と神のみことばに今信仰を働かそうとしない者は確かに,その心をかたくなにしており,ついにはもどることができず,「町々は荒れすたれて,住む者もなく」なる時,完全に滅ぼされてしまうでしょう。(イザヤ 6:11)それよりも,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから離れ去り,神のみことばを研究すべきではありませんか。
30,31 (イ)ある牧師は,英国で行なわれた,人々の感情に訴えるある種の福音伝道をどうみなしましたか。(ロ)今はすべての国の人が何をすべき時ですか。
30 キリスト教国の宗教指導者は,キリストの偉大な音信をキリスト教国の人々に伝道する方法についてさえめったに意見の一致を見ていません。教会の高位僧職者さえ,一部の宗教家の福音伝道は成功していないことを認めています。昨年の9月28日付,ニューヨーク・タイムズ紙はこう報じました。「9月27日,カナダ,バンクーバー発,A・P。『カンタベリー,ビリー・グラハムの福音伝道に遺憾の意を表わす』― カンタベリーの大主教ミカエル・ラムゼイは昨日,教会はビリー・グラハム流の方法ではなく,より斬新な方法を必要としていると語った。『ビリー・グラハムが最近,英国で伝道して,多少の帰依者を得たであろうが,英国独自の宗教事情に本質的な変革はもたらされなかった』と,カムループスからの帰途,空港で語った。さらに,『この苦難の時代に我々が必要としているのは,ビリー・グラハム流の感情を爆発させる福音伝道ではなく,知的で思慮深い方法である』と述べた。教会は時代遅れの存在かどうかとの問に,同大主教は次のように答えた。『全体としては時代遅れではない。我が国とカナダ両国の教会には,すたれている面もうかがえるが,盛んに成長している面も見いだしうる。多くの場合,いたずらに教会に通うということは少なくなっているが,教会に通う人々の間にはより強固な信念が見られる』」。
31 カンタベリーの大主教が,この時代は「苦難の時」であると認めたのはよいことですが,自分たちの同労者が「感情を爆発させるような方法」を用いても事態の改善には役だっていないことをも認めているのです。ビリー・グラハムは「多少の帰依者を得たであろうが,英国独自の宗教事情に本質的な変革をもたらさなかった」と同大主教が語ったのは興味深いことばです。英国とカナダに関して「教会にはすたれている面もうかがえる」との見解はまぎれもない事実です。彼らの教理と理論は,キリストの時代以前の異教の宗教から取られた教義に基づいています。ある牧師のように聖書中の多くの事柄を神話呼ばわりし,現代の世代と妥協するのがいわゆる近代的な宗教であるとすれは,聖書の原則はもはやそのような牧師を満足させません。そのような考え方がある以上,多くの人々が教会に出席しなくなったのも何ら不思議ではありません。すべての人間が出席したところで,聞かされることと言えば,神は死んでいる,イエスの贖いの犠牲は何の価値もない,聖書は神のことばではないなどの人間の理論であるなら,教会に通う理由はどこにありますか。今はすべての国の人々が目ざめ,偽りの教師から離れ,イエス・キリストの音信を聞き,そして,神のみことばを信じて他の人々に喜んで教えようとしているクリスチャンエホバの証人のことばに耳を傾けねばならない時です。
召しに答え応じなさい
32 神を愛し,神に仕えたいと願う人は,何を行なわねばなりませんか。エホバの証人はどんな援助をさしのべていますか。
32 もしあなたが今でも神を愛し,神が生きていられることを信じ,神のみことばの中にある真理を知りたいと願われるなら,聖書を研究してください。「彼ら(が)……イエスに従って行」く前のある期間,使徒たちはイエスに教えられたことを覚えていますか。しかしひとたび学んだのち,使徒たちは答え応じました。それでイエス・キリストは彼らを「人間をとる漁師」にしました。エホバの証人は,神のみことばの真理を求めたいと願う人にはだれに対しても喜んで家庭聖書研究を取りきめることができます。まだエホバの証人とともに研究したことも,御国会館の集会に出席したこともなければ,あなた自身の益のために,エホバの証人のだれかに連絡してください。もし連絡するような人をご存じなければ,東京都港区芝三田豊岡町1番地のものみの塔聖書冊子協会に問い合わせてください。こちらからだれかがお宅に伺って,ご一緒に聖書研究を行なえるよう,喜んでお取りはかりいたします。今は,神について,またあなたに関する神の御心について学ぶ時です。
33,34 エホバの証人は宣教をどのようにみなしていますか。また,神のみことばをいつまで伝道したいと願っていますか。
33 エホバの証人は,その召しに応じてイエスに従い宣教に携わるのは,ごくわずかの期間だけではないことを知っています。「われこゝにあり 我をつかはしたまへ」と言ったイザヤと同様に感じているのです。イザヤが遣わされたのはごく短い期間ではなく,たとえその民が答え応じなくても,彼は残された生涯中伝道し続けねばなりませんでした。
34 永遠の命を得るためには,どれほどの期間エホバ神に仕えねばならないとエホバの証人は考えていますか。生涯の中の2,3年間だけですか。そうではありません! イエス・キリストに従った使徒たちや初期クリスチャンと同様,死ぬまで忠実に仕えたいと願っています。ゆえに彼らは働き,「人間をとる」わざを続け,人々を神の会衆の中に集め,それからそれらの人々もまたイエス・キリストに従い,人間の創造者エホバ神に永遠の賛美と誉れをもたらすのです。神の奉仕者として働くほどまさった仕事は,かつて人間に与えられたことがありません。その仕事をとらえなさい! イエスが,「わたしに従ってきなさい」と言われた時,「父を葬りに行かせてください」と答えた人のようになってはなりません。イエスは彼にこう告げられました。「その死人を葬ることは,死人に任せておくがよい。あなたは,出て行って神の国を告げひろめなさい」。さらにほかの人は言いました。「主よ,従ってまいりますが,まず家の者に別れを言いに行かせてください」。イエスは彼に向かって,「手をすきにかけてから,うしろを見る者は,神の国にふさわしくないものである」と語りました。その後,「主は別に〔70人〕を選び,行こうとしておられたすべての町や村へ,ふたりずつ先におつかわしになった。そのとき,彼らに言われた,『収穫は多いが,働き人が少ない。だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。さあ,行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは,小羊をおおかみの中に送るようなものである』」。(ルカ 9:59-62; 10:1-3)イエスに従い,収穫の主によって遣わされたそれら70人の弟子たちのような人々に喜んでなりたいとあなたは思いませんか。イエスに従うための時間はまだ残されています。