内面の調和 ― 聖書が神の本である証拠
「あらゆる人を偽り者としても,神を真実なものとすべきである。それは,『あなたが言葉を述べるときは,義とせれられ,あなたがさばきを受けるとき,勝利を得るため』と書いてあるとおりである」。―ロマ 3:4,新口。
1 キリスト教と聖書に対する多くの人の価値評価が低いのは,なぜですか。
聖書のことをほとんど知らないか,あるいは全く知らない人に会うのはめずらしいことではありません。またこのような人は多くの場合,それは聖書を読んだことがないからであり,クリスチャンの信仰を教えられていないためです。人にはそれぞれの宗教があり,真実のものとして教えられている聖典があります。従ってキリスト教とその聖典すなわち聖書に関するこの人々の知識と判断は,いわゆるキリスト教を奉ずる国あるいは自国に存在するクリスチャンの社会など,とにかくクリスチャンと名乗る人々の行いを見聞して得たもの,またそれを基に下したものです。それでキリスト教国の根深い分裂,その好戦的なこと,商業における倫理と実際の行為,その道義を見るとき,キリスト教を低く評価し,聖書をたいした本とも思わないのは当然です。しかしそれが聖書に浴びせられる非難の限界あるいは最悪の非難ですか。
2 キリスト教国の多くの人は,どんな面で優越感を抱いていますか。それは正しいことですか。
2 キリスト教国の数多い教会には,いろいろな活動の分野でキリスト教国が悪い印象を与えたことを認めたがらない人が多いに違いありません。この人々は,クリスチャン社会の者であることに優越感を抱き,聖書を知らない人の無知をかこちます。そして「我々は神を信じ,聖書を神のことばとして受け入れ,尊重している」と言います。その言葉の誠実さをいささかも疑うものではありませんが,聖書に対するこの人々の真の評価については一考を要するのではないかと思われます。
3 (イ)大多数の人は聖書をどのように見ますか。その原因はどこにありますか。(ロ)この見方には明らかにどんな弱点がありますか。
3 これらの人々は,創世記から黙示録まで,聖書の正典をなす66冊の本全部が正真正銘の神のことばであることを,無条件に認めますか。実を言えば,そのようにはっきり言いきれる人あるいはそれほどの確信を持つ人は殆んどいません。一般の傾向に従う大多数の人は,いわゆる旧約聖書と新約聖書を区別し,信仰の基盤をほとんど新約聖書だけに限って,旧約聖書のほうはその歴史的また文学的な関心を別にしてはほとんど使わず,また旧約聖書にそれほどの信仰をおいていません。子供の頃,日曜学校に通った人々は,エデンの園とアダム,エバの物語,昔おきた奇跡や出来事の話を聞きました。大人になってからも,別に考えが変るわけではありません。このような事は子供のおとぎ話の部類にはいるもので,まじめに採りあげるのがばからしいと考えています。ではいわゆる新約聖書を信ずると言えるでしょうが。その中には疑問の余地のない,真実の権威としてヘブル語聖書の句が数多く引用されています。ヘブル語聖書(イエスの当時,存在した唯一の聖書)について,神の御子イエスは,「あなたの御言は真理であります」と,きっぱり言われました。―ヨハネ 17:17,新口。
4 多くの人は,聖書の霊感をどのように見ますか。
4 これは聖書の霊感という重要な問題と結びついています。キリスト教国のたいていの人は聖書をすぐれた宗教書と考え,最古の本としてその価値を認めています。また聖書は霊感による書物だと言います。しかしそれはどういう意味ですか。それは詩や音楽が霊感によって書かれたというのと同じ意味に過ぎません。詩想に没入した詩人が自己の創作力を駆使して,いわゆる自己を超越したインスピレーションのおもむくままに不朽の名作を書いたと同様に,イザヤあるいはダビデなどが聖書を書いたと考えられています。
5 霊感について聖書自体の述べていることは,聖書およびその筆者に対する一般の見方とどのように対照的ですか。
5 つまり聖書は,神の聖霊すなわち見えない活動力によって書かれ,たとえ多くの本から成り立ってはいてもひとつの本であるというより,敬虔な人々の書いたものの集大成と見るのが一般の考えとなっています。聖書そのものは前者の考えの正しいことを示しており,「聖書は,すべての神の霊感を受けて書かれたもの」,「預言は決して人間の意志から出たものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったもの……である」と述べています。(テモテ後 3:16。ペテロ後 1:21,新口)しかしこのように考える人は,キリスト教国にほとんどいません。旧約聖書を書いたのは神をいわば手探りで求めた人であり,それは昔のことであって,我々の時代はそれとは違うのだと人はすぐに言います。イエスや使徒時代のことになると,時代おくれといって片付けるようなことはしませんが,それでも聖書に対する態度や評価をみれば,その人々は内心そう考えているに違いありません。聖書は今日の問題解決に役立つものというよりは,道徳の教え,引用するのに便利な本というのが,人々の考えなのです。
6 多くの人はどのように真実でない立場をとっていますか。どんな例がありますか。
6 それでおそらくは聖書を持ち,聖書は神のことばであると,はばからずに言っても,自らを聖書の友とするその立場は真実のものではなく,実際にはみずから矛盾しています。次に引用するローマカトリック教会の一出版物aの言葉は,それを示す例です。「カトリック信徒は聖書をどうみるか」という見出しの次にこうあります,「カトリック信徒は,霊感による神のことばとして聖書を高く評価し,また深くうやまう。それは無比の価値を持つ宝である」。これは何と確信の響きのある言葉ではありませんか。しかし早まってはいけません。その後に次の言葉があります,「しかし聖書は信仰の規範として唯一のものではない。キリストの教えの全部が聖書に言いつくされているわけではないし,またその教えは必ずしも明確に説明されていないため,権威ある解釈が必要である」。それでは聖書が絶対のものではないという事になり,カトリック教会こそキリストの教えをあますところなく伝える権威を神から授けられたという事に話は落着します。つまり絶対の権威は神のことばではなく,カトリック教会のほうにあるのです。
7 キリスト教国において,悪い感化を及ぼすどんな力が働いていますか。どんな結果になりましたか。
7 以上の事からわかるように,聖書を神のことばと呼ぶ人の多くも,実際には聖書に信仰を持たず,クリスチャンでない人や無神論者よりも聖書に非難をもたらしています。今日の諸問題を解決できる,人類の唯一の希望として神の国の音信に興味をひこうとエホバの証者が語りかけても,無関心な人に出合うことが多いのは,明らかにこの悪影響に災されているのです。クリスチャンの信仰の基礎として,真実かつ義なる神のことば聖書に確固とした信頼をおいていないことが,この無関心の原因です。
8 聖書が神の本であることは,どのように実証されますか。これにはどんな面が関係してきますか。
8 そこで提議したいのは,聖書が神の霊感によって書かれた,つまり神のお考えをしるした本であることを間違いなく示す証拠を検討することです。その一面の証拠は,何百に上る聖書の預言がすでに成就したこと,またこの「苦難の時代」(テモテ後 3:1,新口)に成就しつつあることです。これを研究してみて驚くのは,神の民のみならず,神を顧みない諸国民に関連した多くの事柄さえも先見され,預言されたことです。その中には世界強国の行進すなわちその興亡を述べた預言もあります。b エホバがこれらの預言を成就させるにあたって,預言の成就となる行いをするように強制された者は一人もなく,神に敵対した者でさえも自由意志を妨げられなかったことを,つけ加えなければなりません。また預言は定められた時になって,間違いなく成就しました。
9 他の面のどんな証拠を考慮できますか。それによってどんな挑戦に答えられますか。
9 これは神のことばのいわば客観的な研究で,この雑誌にも今まで何度となく採り上げられてきました。エホバの御心ならば,この種の研究は今後も載せられるでしょう。しかしここで問題にしたいのは,主観的つまり聖書自体の中にある証拠です。聖書は人間のインスピレーションにより人間の考えを書いた本に過ぎないと言えますか。これが問題です。それは理にかなっていますか。あるいはこの論をつきつめてゆくと,その不合理なこと,穴だらけで論理にたえないことがわかりますか。言いかえれば,聖書全体には内面の調和,たとえどんなに敬虔な人が書いたとしても,単なる人間の頭から出たものではないと言いきれるだけの調和と思想がありますか。
10 (イ)聖書の書かれた背景について,どんな重要な事柄があげられますか。(ロ)聖書筆者がお互いに相談して書いたといえますか。
10 証拠の検討を始める前にまず,聖書について3つの重要な事柄を指摘しなければなりません。そのひとつは時間という要素です。霊感によって聖書を書いた最初の人モーセは紀元前1513年に書き始め,ヨハネは西暦98年頃に聖書の最後の本を書き終えました。それで聖書は完成までに1600年を要したことになります。これを心に留めておいて下さい。第2に聖書全巻66冊を書くのに用いられたのは35人に余る人々で,そのすべてはヘブル人でした。第3に聖書の多くの部分とくに預言は高度に象徴的な言葉でしるされ,書いた人自身が理解できなかった事もめずらしくありません。「わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった」と,ダニエルは述べ,「この言葉は終りの時まで秘し,かつ封じておかれます」と告げられました。では1600年を費やして35人以上の人が書きあげたということ,また多くの場合に象徴的な言葉で書かれているという事実から何と結論すべきですか。これらの人々が互いに相談して,つじつまを合わせようとしても,それは不可能ということです。互に語らったとは考えられません。むしろ矛盾を生ずる可能性が大きいのではないでしょうか。全部の人が同じ観点から書いているのではない事を考えれば,とくにそうです。―ダニエル 12:8-9,新口。(ペテロ前 1:10-12も参照)
最初の預言 ― その進展
11 (イ)どんな角度から聖書の預言をしらべることが提議されていますか。(ロ)最初の預言の与えられた事情とその言葉を述べなさい。
11 まず検討したいのは,預言とくに最初の預言が聖書全巻にわたってどのような進展を見せているかという事です。ここで問題にしているのは預言の成就よりもむしろ聖書のはじめから終りまで,神のお目的に関連した聖書の主題がどのように貫ぬかれているかです。最初の預言は短いものですが,その言葉から見ても,重要な地位を占めていることが明らかです。それは蛇にそそのかされたエデンの園のアダムとエバが自ら不従順になって後,エホバ神の裁きが下された時に与えられました。蛇は見えないあるものの代弁者として用いられたのです。蛇に対する裁きを宣告してのち,神は言われました,「わたしは恨みをおく,おまえと女とのあいだに,おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き,おまえは彼のかかとを砕くであろう」。―創世 3:15,新口。
12 この預言にはどんな人物が関係していますか。人間的に考えれば,これを進展させるにはどんな方法しかありませんか。
12 この預言には4人の人物すなわち(1)蛇,(2)その裔,(3)女,(4)女の裔が登場します。どのように,また何時これが成就されるか,またこれら4人の人物がだれであるかについては何も書かれていません。聖書が人間の頭から出たに過ぎないとすれば,当然つぎのように言えます。すなわちこの最初の預言の進展する糸をたどってゆくには,聖書の後につづく部分を書いた人々がそれを繰り返しまた敷衍して,事柄全体の結末を示すのでなければなりません。このように考えるのは全く論理にかなっています。
13 (イ)この考え方をおしすすめると,どんな結果になることがわかりますか。(ロ)黙示録 12章は創世記 3章15節の預言とどのように結びつきますか。
13 ではこの論理の通りになっているかどうかを見ましょう。モーセの書いた他の本,別の人の手になる次の本あるいはその次の本の中にこれら4人の人物の出てくる預言がありますか。ヘブル語聖書の終りまで捜しても,そのような預言はひとつもありません。クリスチャン・ギリシャ語聖書の中を捜しても同様です。しかしその最後の本,黙示録の12章に至ってようやく,1600年以前のこの預言と明らかに結びつく預言があります。いわば「大きな,赤い龍」に成長した蛇がそこに出て来ます。もっとも同じ章の後のところでは「悪魔とか,サタンとか呼ばれ(た)……年を経たへび」と,はっきり示されています。蛇の裔のことも出ており,エデンの預言の女は最も克明に描かれています。女が約束の裔を産み出そうとしているさまが描かれているではありませんか。蛇を砕くことも,「地に投げ落され」,その使たちも共に投げ落されたという言葉によって部分的に描かれています。最後に17節において,蛇(すなわち龍)が女の裔のかかとを砕こうと2度目の必死の努力を払っていることが示されています。―黙示 12:1-3,5,9,17。
14 ヨハネ自身がこの最初の預言の神秘を解きあかそうとしたのだと,言えますか。
14 さてここでもうひとつの顕著な事実が注目されます。すなわちこの幻はエデンにおいて与えられた預言とは符合しますが,この幻を記録したヨハネが預言の成就のさまをわざわざ示し,その理解を与ようとしたとは考えられないことです。この幻は黙示録の他の部分と同じく高度に象徴的な言葉で書かれているのに,どうしてそのような事があるでしょうか。冒頭の言葉に示されている通り,これはイエスが神から与えられた黙示であって,イエスはこれを「僕ヨハネに伝え」ました。(黙示 1:1,新口)聖書が人間の頭から出たとする説を論理的につきつめると,ヨハネは次のように考えたことになります,「最初のこの預言はまだ解明されていない。ひとつ私がこれについての幻を見なければならぬ」。しかしそうではありません。そのように考えるのは,最も不合理なことです。
15 聖書はどの点において推理小説に似ていますか。
15 聖書はある面で推理小説に似ているというのが,真実なのです。この種の文学においてよく使われる手法をたぶんご存じと思いますが,まず大きな事件,たいていは犯人不明の犯罪が最初に描かれ,読者は読み進むにつれて真偽両様のあらゆる手がかりに神経を緊張させます。そして最後には事件が解決され,読者は登場する探偵の目を通して,著者の考案した事件のさまざまな伏線を見せられます。小説全体の筋を組み立て,しかも最後まで事件の解決をかくしておく著者の才に,読者は感嘆することでしょう。
16 聖書に関して,この例をどのように使えますか。どんな結果に導かれますか。
16 今まで述べてきた聖書の主題についても同じことが言えます。聖書全体にある,いわば手がかりを幾つかつかむことができ,聖書の背後には唯一の神から出た考えの一貫した流れのあることが,疑問の余地なく証明されるのです。今ここに述べるのはその二,三に過ぎませんが,証拠を詳細にしらべればしらべるほど,この最初の預言が,たとえ表面からは見えなくても,次第に展開していること,聖書の著者が如何にたくみにそれを発展させているかに驚嘆します。それだけにとどまらず,この最初の預言の成りゆき,栄光に輝くその結末の確約されている事も,驚嘆に値することであり,それを知るとき感謝の念の湧き起こるのを禁じ得ません。
登場人物を知る
17 (イ)女の裔はだれですか。(ロ)この者がだれであるかは,更にどのように明らかになりますか。どんな結果になりますか。
17 はじめの預言にあらわれた4人の人物のうち,最も大きな関心を集めたのは女の裔でした。聖書の中で女の裔が大きな地位を占めていることや,また約束されたこの裔がだれであるかを知るならば,それも当然と言えるでしょう。それはほかならぬ約束のメシヤ,イエス・キリストご自身です。イエス・キリストはエデンの預言に約束された裔であるにとどまらず,「地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」とアブラハムに約束された,その子孫でもあります。またダビデから出てその位,天にあるいっそう高い位を継ぐと預言されていた者でした。福音書を書いたルカは,イエスの家系をたどってアダムにまで及んでいます。その途中に出てくるユダは,「つえ[御国の支配]はユダを離れず……シロの来る時までに及ぶ」との約束を与えられた人でした。この家系を下にたどってイエスの現われた時にまで至り,更に黙示録 12章に示されている如く,イエスが再臨してエデンの預言の大きな成就を図る時にまで及ぶのは,きわめて興味深い,神のことばの研究となり,この預言の成就した暁の,栄光ある結末と御国の支配に確信を抱かせます。そのとき天と地の悪がことごとく打ち砕かれるだけでなく,「新しい天と新しい地」において従順なすべての人が祝福され,「死もなく」なります。―創世 22:18; 49:10。ルカ 3:23-38。使行 2:34-36。ガラテヤ 3:16。黙示 21:1-4。
18 (イ)蛇とその裔の正体をはじめて明らかにしたのはだれですか。何時?(ロ)大切などんな原則が明らかにされ,そのとき適用されましたか。
18 次の2人の人物すなわち蛇とその裔の正体は,エデンにおける神の裁きの宣告から4千年以上を経てのちにはじめて明らかにされました。このように長いあいだ,秘密は解かれなかったのです。それを明らかにしたのは,イエスご自身でした。蛇を代弁者に使った者がだれであったかを推測するのは,それほど難しくないと言う人があるかも知れません。しかし蛇の裔の正体を的確に言いあてることのできる人がいますか。イエスは推測したのではなく,神の重要な原則を明らかにしつつ,この疑問に答えました。人は自分の属する家,民族が誕生の時から定まっていることを知っています。それ以外にこれを定める方法はありません。ユダヤ人の場合にも同様です。指導者であるパリサイ人はイエスの言葉に言いさからって次のように主張しました,「わたしたちはアブラハムの子孫であって,人の奴隷になったことなどは,一度もない」。イエスは答えました,「わたしは,あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに,あなたがたはわたしを殺そうとしている」。この論議を結論にまで進めたイエスは,大切なのは心の持ち方であることを示し,遂に言われました,「あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であって,その父の欲望どおり行おうと思っている。彼は[エデンの]初めから,人殺しであっ(た)」。―ヨハネ 8:33-44,新口。
19 この原則に従い,聖書は蛇の裔を更につきとめるのにどう役立ちますか。
19 この知識すなわち手がかりを得て,こんどヘブル語聖書をさかのぼって調べるならば,悪魔が如何にして初めからその裔を生み出してきたかが明瞭になります。それは人殺しの精神を持つ者であって,悪魔の手先に使われた者です。その最初の人間は,「悪しき者から出て,その兄弟を殺した」カインでした。この流れはイエス時代の宗教家の時にまで及び,なお今日においても同類の人々が存在しています。その人々は,「御国の良いたより」を忠実に伝道するイエスの追随者に対して,人殺しもしかねない敵意を燃やしています。またサタン悪魔はその組織を作りあげ,不従順の例にならった天使の中からも裔を生み出したことを,見のがしてはなりません。「神は,罪を犯した御使たちを許しておかな」かったと,ペテロは述べています。天の戦争のあと,そのかしらと共に地に落とされたと,黙示録 12章9節に述べられているのは,これらの御使です。―ヨハネ第一 3:12。マタイ 24:9,14。ヨハネ 16:2。ペテロ後 2:4,新口。
20 この原則に照らして,どんな大切な教訓が教えられていますか。
20 神の恵みを得ることは,人の生れとは関係なく,キリスト教と唱える団体に加入することに依存しているのでもありません。この教訓を心に留めておきましょう。イエスは簡単なルールを述べました,「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は,わたしを愛する者である。わたしを愛する者は,わたしの父に愛されるであろう」。ヨハネもこれと同様なことを述べています。「神の子と悪魔の子との区別は,これによって明らかである。すなわち,すべて義を行わない者は,神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も,同様である」。―ヨハネ 14:21。ヨハネ第一 3:10,新口。
エデンの預言の女
21 創世記 3章15節の「女」は,普通に考えるとだれですか。この事はどのように示されていますか。
21 このはじめの預言中に,論じなければならないもう1人の人物すなわち約束の裔の母となる女がいます。これはだれですか。未知の人物にかかわる問題がある時にフランス人の言うシェルシェ・ラ・ファム(女を捜せ)です。人間の考えからすれば,最も興味をそそるのはこの人物を知ることです。一見して明らかな手がかりは何もありません。裁きが下されたとき,地上にいた唯ひとりの女はエバでした。それできわめてふさわしくないとはいえ,ここに言われている女は自分であるとエバが考えたとしても,不思議ではありません。エバがそう考えたことは,長子カインを生んだ時の言葉からも分かります。「我エホバによりてひとりの人を得たり」。しかしこのように聖なる目的のためにエホバに用いられるにふさわしい清い女を,別のところに捜し求めなければなりません。―創世 4:1。
22 この女を知るため,(イ)黙示録 12章1節,(ロ)黙示録 12章5節および(ハ)黙示録 12章17節には,どんな手がかりが与えられていますか。
22 黙示録 12章にもどると,名前こそあげられていませんが,この女が描かれており,これがエバでないことはすぐに注目されます。この章の第1節を見てさえ,女は「太陽を着て,足の下に月を踏み,その頭に12の星の冠をかぶって」いますから,イエスの母マリヤをも含めて人間の女を連想させるものは何もありません。そのうえ5節によれば,女が子を産むのは,約束の裔の即位と時を同じくしています。約束の裔による支配が始まったのは,この雑誌の中ですでに何回も指摘された如く,西暦1914年でした。同じ章の17節は,この女が「女の残りの子ら」すなわち悪魔とその使たちが天から落されて後,なお地上にいる真の教会の残れる者の母であることをつけ加えています。この残れる者の説明については,真の教会の成員がアブラハムの裔であることを述べたパウロの言葉もこれを確証しています。「もしキリストのものであるなら,あなたがたはアブラハムの子孫であり……」。―ガラテヤ 3:29,新口。
23 ガラテヤ書 4章21-31節にあるパウロのたとえと類推は,どのように役立ちますか。どんな結論になりますか。
23 これら真のクリスチャンには母があることになるのですか。そうです,そしてここに大切な手がかりがあります。パウロはその手紙の中で右のことを述べてのち,2人の女,2つの契約,2つの都市にかかわる「比喩」を説明しています。いよいよ佳境に入ると言うべきでしょう! しかしパウロの類比を理解すれば,問題解決のメドはおゝかたついたことになります。パウロはまずアブラハムに息子イシマエルを生んだ奴隷の女ハガルのことを述べていますが,ハガルはシナイ山で肉のイスラエルと結ばれた律法契約を指し,さまざまの規定を持つその契約は「奴隷となる者を産」み出しました。シナイ山は,「子たち[ユダヤ人]と共に,奴隷となっている」当時のエルサレムに当ると,パウロは述べています。これと対照的な一方の女,「自由の女」は,イサクの母サラです。サラは,主イエス・キリストをかしらとする霊的イスラエルの,真の教会を生み出すアブラハムの契約にあたります。「キリストのからだ」をなす教会は,五旬節の日に産み出され始めました。これらの人々は,汝の裔によって天下のすべての民が祝福されると言われた「アブラハムの裔」の一部です。そこでアブラハムの裔の1人であるパウロは,仲間の成員にこう語っています,「上なるエルサレムは,[サラのように]自由の女であって,わたしたちの母をさす」。―ガラテヤ 3:16-18,26-29; 4:21-31,新口。創世 22:18。
24 預言の中で女と都市が結びつけられているとき,何を意味しますか。
24 パウロがここで2人の女と2つの都市とを結びつけていることに,お気づきですか。これは大切な点です。預言の中における女と都市との結びつきは,それらによって象徴されているものが,地上のものであれ天のものであれ単なる被造物よりも遙かに偉大であることを示しています。それは組織をあらわします。都市は,組織された人々の共同生活体を的確に表わすからです。とくに首都の場合に,これが言えます。たとえばエルサレムすなわちシオンは王の座と宮のおかれた場所で,国家政治と真の崇拝の中心地でした。そこで「上なるエルサレム」また「シオンの山,生ける神の都,天にあるエルサレム」は,実際には,エホバの宇宙神権制度です。これはエデンの預言の中で「女」によって象徴されています。―ヘブル 12:12,新口。
25 同じことはサタンの組織について,どのように見られますか。
25 前節に述べた事柄を裏づけるものとして,聖書の中ではサタンの組織を表わすのにも女と都市が同時に使われています。「大いなるバビロン」と呼ばれた「大淫婦」がそれで,ヨハネは幻の中で次のように告げられました,「あなたの見たかの女は……大いなる都[バビロン]のことである」。(黙示 17:1,18,新口)しかし創世紀 3章15節は,サタンの女のことを述べているのではありません。
26,27 (イ)更に有力などんな手がかりが,イザヤの預言にありますか。(ロ)そこにはどんな重要な事柄がしるされていますか。どんな絵が完成しますか。
26 クリスチャン・ギリシャ語聖書中に多くの手がかりがあるにしても,そのすべてはヘブル語聖書に根ざしています。たとえばパウロは前述の「比喩」を説明してのち,それを裏づけるためにイザヤの預言を引用しています。この預言はパウロの時代よりも約800年前に書かれました。ガラテヤ書 4章27節に「すなわち,こう書いてある,『喜べ,不妊の女よ。……ひとり者となっている女は多くの子を産み,その数は,夫ある女の子らよりも多い』」と,パウロは述べています。これはイザヤ書 54章1節の引用であって,文脈を見るとイザヤは,シオンが自由となってエホバの恵みを再び得ることを語ってのち,この都を女にたとえ,多くの子を約束された不妊のこの女に喜び呼ばわれと,語りかけています。この女の夫そして多くの子たちの父はだれですか。これは肝心な点です。イザヤは霊感によって次のことを書きました,「なんぢを造り給へる者はなんぢの夫なり,その名は万軍のエホバ……エホバ汝をまねき給ふ……妻をまねくが如し」。それからイザヤは先に述べた関連の環をとりあげて,この「なぐさめを得ざるもの」を「青き玉をもて……基をお」いた都にたとえ,次の約束の言葉で結んでいます,「なんぢの子らは皆エホバに教をうけ,なんぢの子らのやすきは大ならん」― イザヤ 52:1,2; 54:1-6,11-13。
27 このようにしてエデンの預言の意味した事柄が一幅の絵となって眼前に浮かびます。そこには4人の登場人物のほかに,女すなわち約束の裔の母にとって夫となる聖者エホバが加えられています。
28 聖書は人間の考えを書いた本に過ぎないという論について,いま何が言えますか。キリスト教国の批評家にどう答えることができますか。
28 これらの事を書いたイザヤが,女あるいは都の「夫」の名をあげたとき,エデンの預言に登場する重要な一人物を知るために肝心な手がかりとなることを承知の上で書いたのでしょうか。聖書を人間のインスピレーションによるものと考える人々は,今まで述べたことの意義を悟っていますか。キリスト教国の学者,解説者の中で,この問題を解き得た人,約束の裔を生み出す女がだれであるかを知り得た人がありましたか。もしないとすれば,聖書が神から出たことに関して批判や反対論を唱えるキリスト教国の代弁者の言葉を聞いて心を騒がせる必要はありません。「神が言葉を述べるときは,義とせられ……さばきを受けるとき,勝利を得る」ことを確信する私たちは,恐れずに「神を真実なもの」とできます。―ロマ 3:4,新口。
29 (イ)聖書の理解はだれによるものですか。(ロ)霊的な真理を与えるため,エホバに用いられているのは,だれですか。これはどのように行なわれていますか。
29 これらの事の理解は,私たち自身によるのではありません。そのすべてはキリスト・イエスを通してエホバから与えられました。クリスチャンの兄弟に告げられた使徒の言葉は,そのことを強調しています,「召された時のことを考えてみるがよい。人間的には,知恵のある者が多くはなく……神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び……あなたがたがキリスト・イエスにあるのは,神によるのである。キリストは神に立てられて,わたしたちの知恵となり……」。「終りの時」になって「悪い者は……ひとりも悟ることはないが,賢い者は悟るでしょう」と,エホバの御使はダニエルに約束しました。御父を代表するイエスはこれと一致して「終りの時」には「忠実な思慮深い僕」を立て,「全財産を管理させる」と預言しました。「忠実な思慮深い僕」とは,天に召されたイエスの忠実な追随者の残れる者を集合的に指しています。この忠実な僕を成す人々は聖書全体を霊感による神のことばと認め,また神の霊にみちると共にそれを導びかれています。そして神はキリスト・イエスを通してこの人々を用い,霊的な真理すなわち「時に応じ(た)食物」をそなえさせます。―コリント前 1:26-31。ダニエル 12:9,10。マタイ 24:45-47,新口。
[脚注]
a What the Catholic Church Is and What She Teaches,by E. R. Hull,S. J.
b 1958年,ものみの塔協会の出版した「御心が地に成るように」(英文)をごらん下さい。59年1月1日号から60年8月15日号まで「ものみの塔」に連載。