生命に通ずる愛
「御霊の実は,愛」である。―ガラテヤ 5:22。
1 ギリシャ人は愛を表現するのに四つの言葉を使いましたが,どんな質問をするとき,それはうなずける事ですか。私たちはなぜその答えに関心を持つべきですか。
ことわざにも「ギリシャ人は適切な言葉を知る」とありますが,愛という問題を考えても,それは真実のようです。ギリシャ人は愛を語るのに一つの言葉ではなく,愛をいろいろな角度から見て四つの言葉すなわちエロース,ストルゲー,フィリア,アガペーを用いました。これは理にかなった事です。愛はきわめて複雑な資質であり,読者の皆さんはここで愛を定義しようと試みるだけで,その事を納得されるに違いありません。実際に愛とは何ですか。それは単なる感情であり,衝動的なものですか。それは愛情を伴うもので,ある人の特性にひかれたり,感心したり,あるいは少なくともその人が好きになった場合にのみ,示すことのできるものですか。たとえ自分のきらいな人でも愛することができますか。愛の湧き出る源は何ですか。それは心,あたま,あるいはその両方ですか。また愛の純粋さと価値をはかる方法があるとすれば,それは何ですか。「光るものすべてが金でない」のと同様,愛に見えるものすべてが愛ではないからです。それはユダの最後のせっぷんのように,やさしくても裏切りのもの,偽りのものであり得ます。―マルコ 14:44,45。
2 何から見て愛は教えられ得るものですか。
2 「キリスト教の中で愛ほど学ぶのが難しいものはない。しかしそれゆえにこそ,我々は愛を学ぶことに努めるべきだ」。ペンシルバニア州の創設者ウイリアム・ペンはこのように書きました。愛を教えられるというと奇妙に聞こえるかも知れませんが,聖書はその事を明白に述べています。(テサロニケ前 4:9,10)「弟子」という言葉の文字通りの意味は学ぶ者,生徒です。神のみ子は死に渡された夜,ご自分が教え,訓練した人々にむかって,「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」と言われました。―ヨハネ 13:35。
3 (イ)真実の愛は,なぜ真のクリスチャンを見分けるしるしですか。(ロ)クリスチャン会衆にとって,今日どんな危険が存在していますか。
3 このような愛はまれなものであるため,それによってイエスの真の弟子は地に住むすべての人々の中で目立つ存在となり,愛は彼らを見分けるしるしとなります。その事はイエスの時代に見られました。今日でも見られますか。新聞を読み,ラジオのニュースを聞き,あるいはどこにいるにしても,周囲を見まわしてごらんなさい。使徒パウロの予告した通りの有様が見られるではありませんか。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの日には,苦難の時代がくる。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者…親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者……善を好まない者……高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい」。(テモテ後 3:1-5)真実の愛が甚しく欠けるため,クリスチャン会衆でさえも大きな影響を受けることを,イエスは預言しています。イエスは世の中一般についてではなく,終わりの時にイエスの追随者を名乗る人々について次の事を言われたのです。「また不法がはびこるので,多くの人の愛が冷えるであろう」。これは危険を伴ないます。―マタイ 24:12。
4 感傷とは何ですか。それが真実の愛と異なることは,だれの経験からわかりますか。
4 あなたが持っているのはどんな愛ですか。一般の人と異なってあなたがキリスト・イエスの追随者すなわち弟子であることを証明する愛ですか。それともあなたの愛は,おもに感傷ですか。辞書の定義によれば,感傷とは「感情に動かされた,あるいは支配された態度,考え,判断」です。多くの人は衝動的な感情あるいは情緒に動かされて行動し,自分では愛の表現と思う事柄を言ったり,行なったりします。弟子となって間もない頃の使徒ペテロはこの傾向があり,そのため一再ならず問題を起こしました。イエスがご自分の受けようとする苦しみと死のことを弟子たちに語った時,感情的なペテロはイエスをわきにひき寄せ,強く反対して「主よ,とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言いました。イエスは,この感情に走った訴えを真実の愛の表現として受け入れましたか。聖書には次の記録が残されています。「イエスは振り向いて,ペテロに言われた,『サタン〔反対する者〕よ,引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで,人のことを思っている』」― マタイ 16:21-23。
5 感傷的な人は何に支配されていますか。真の愛はどのようにまさっていますか。
5 感傷的になると,心は真実よりも感情に支配されます。感情のおもむくままに行動する感傷の人はめくらも同然です。感傷的な人は,論理的な思考の必要を悟らず,他の人に最善の益となること,関係者に最善の結果をもたらすものを求めて事態をはかる必要に目を閉じてしまいます。それとは対照的に,真実の愛は長い目で物を見ます。そして感情に動かされて,不確かな道に進むことをしません。そしてどんな感情が起きても,それを正しい方向つまり心がすでに選んだ方向に事を運ぶための推進力とします。―ロマ 8:5-8。
6 愛について健全な考えを持つとき,何を悟りますか。(ロ)愛を表わすのに神の導きが必要なことを,なぜ率直に認めなければなりませんか。
6 しかし何にもまして愛は「神のことを思」います。そして「天が地よりも高いように,わが道は,あなたがたの道よりも高く,わが思いは,あなたがたの思いよりも高い」と述べた言葉の真実を認めます。(イザヤ 55:9)考えればおのずとわかる通り,人間家族は依存し合うように造られています。私たちはからだと心と霊の必要とするものを満たさねばなりません。そのあるものは自分でも満たせますが,他のものは私たちを愛する人々の手によって満たしてもらうことが必要です。そしてこのような必要が満たされるとき,幸福を感ずるのです。そこで当然に,愛のある人はこのような必要を認め,それを満たすことに最善をつくすでしょう。しかし自分の力には限りがあるため,愛は最も重要なものを見きわめて,それを満たすことに人の努力を集中させます。また考えればわかるように,多くの要素と事情を考慮に入れなければなりません。また人にしてあげたいと自分が思うこと,あるいは他の人々の考えを行なうのではなく,更には当人がそのとき求めているものを与えるのでもなく,事実に即して見るとき,当人の将来のためになると思われることをするのが,本当の愛です。また分別を働かせれば,この事をあの人にしてあげたいと願う欲求を心に持つのが愛であることもわかります。そのうえ他の人々の必要をみたす最善の方法,人々が真に必要としている最大のもの,現在のみならず将来,最善の益になることを知り,またそれを行なおうとする意欲を抱くには,「神の思い」を必要とすることも正直に認めなければなりません。神のみ心を求めるならば,間違うことはありません。「あらゆる良い贈り物,あらゆる完全な賜物は,上から,光の父から下って来る。父には,変化とか回転の影とかいうものはない」からです。―ヤコブ 1:17。
ギリシャ語の愛
7 「愛」を意味するギリシャ語の四つの言葉は,それぞれどんな基本的な意味を持っていますか。
7 愛を意味する四つのギリシャ語がここで問題になります。聖書時代のギリシャ人は,今日私たちの言うロマンチックな愛つまり両性間の愛を表現するのにエロースを用いました。子に対する親の愛のような,家族の愛は,ストルゲーという言葉で表現されました。フィリアは友人に対する愛,互いの人柄にひかれて好感を持つことから生ずる愛を表現した言葉です。最後にアガペーは,判断力と意志を十分に働かせたうえでの,そして原則をわきまえた愛を表現するのに用いられました。それは自己の利害を超越した愛です。
8 (イ)私たちはだれのおかげで,これらの言葉を明確に理解できますか。(ロ)彼らの書いたものを読むと,アガペーという言葉の使い方は,それが生命に導く愛であることをどのように示していますか。
8 これらの言葉はギリシャ人のものですが,奇妙とも言えることにその最も明確な意味を明らかにしているのは,ギリシャ語を書いたヘブル人です。それはクリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた人々です。これらの筆者が,この問題に関する私たちの理解を深めることに貢献しているのは,(からだの美しさ,家族関係あるいは性格の一致などよりも)原則に立却した愛を意味するアガペーを独自な用語で使っているからです。ダグラス聖書事典によれば,アガペーはギリシャの古典にきわめてまれにしか使われていません。プラトン,ソクラテス,アリストテレスなどがこの言葉をほとんど使っていないのにひきかえ,ペテロ,パウロ,ヨハネその他,マタイ伝から黙示録までの本を書いた人々は,それを多く用いており,それが聖書に特有の語であるかの感を呈しています。彼らの書いたものの中にエロースの語はなく,ストルゲーはわずか3回,動詞フィレオは100回近く使われています。しかしアガペーは,クリスチャン・ギリシャ語聖書中におよそ250回も出てきます。使徒ヨハネは,「神は愛〔アガペー〕である」と書いた時,それを使いました。(ヨハネ第一 4:8)また互いの愛〔アガペー〕によってイエスの弟子は知られると述べたイエスの言葉を引用した時にも,この言葉を使っています。(ヨハネ 13:35)パウロは「御霊の実は,愛〔アガペー〕」であると述べた時にそれを使いました。(ガラテヤ 5:22)「霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取る」ゆえに,神のみ霊の生み出すこの種の愛すなわち原則をわきまえた愛を学ぶことは生死の問題です。(ガラテヤ 6:8)使徒ヨハネの言葉はその事を次のように表現しています。「わたしたちは,兄弟を愛しているので〔アガペーの動詞アガパオー〕,死からいのちへ移ってきたことを,知っている。愛さない者は,死のうちにとどまっている」― ヨハネ第一 3:14。
9 (イ)人類歴史の初めにおいて,愛の欠如のためにどんな問題が起きましたか。(ロ)エホバ神は,このような利己心の表われにどう応じられましたか。
9 この無私の愛はどんな原則に従って働くのですか。文字に書かれた神のことばは,宇宙至上権の大論争を明らかにしています。それは神の霊者の子の一人が創造主に反逆し,更にエデンにいた最初の二人の人間を自分の側につけるため,創造主をそしった時に起きました。反逆の霊者は最初の人間を反逆に加わらせ,そのために人間が生命を失うことになっても頓着しませんでした。最初の人アダムは妻エバに対して肉欲すなわちエロチックな愛だけを示し,天の父に背いてエバの不従順な行いに加わりました。エホバ神のみ前における正しい立場を捨て,人間の完全さを失ったアダムは,妻に対して真実の愛を示す能力を著しく減じました。アダムの子たちは罪をもって不完全に生まれ,アダムと同じく死ぬことを免れません。しかしこの利己主義と忘恩の行いにもかかわらず,エホバの愛は変わらないのです。3人の反逆者に正当な宣告を下した時にも,エホバは敵対者の始めた悪をすべて終わらせる裔がやがて生み出されることを約束されました。これは聖書全巻を一貫して流れる主題です。聖書は,神が事態を発展させた経緯と,遂に四千年たって最愛のみ子を地に遣わされたことを述べています。御子が遣わされた目的はまず論争においてみ父の側に立ち,正しい主権者であるみ父に対して破れることのない忠実を表わし,第二に人類の最も必要とする贖いになることでした。贖いによって人間は罪と死から救われ,天の父と和解できます。―創世 3:14-24。ヨハネ 3:16,36。
10 (イ)今日,真実の愛を示す人々に対して,聖書の預言はどんな希望をさしのべていますか。(ロ)彼らは愛に動かされてどんな活動に携わっていますか。
10 愛の心を持つ,従順な男女がこのような益を受けることは,キリスト・イエスの治める御国の政治にまたねばなりません。そのとき地には全く新しい秩序が建てられます。利己主義,暴力,神に対する不従順の上に建てられた古い秩序は,ハルマゲドンの宇宙的戦争のとき,神によって滅ぼされます。聖書はこのすべての事を述べている本です。現在起きている事,世界の状態を聖書の預言に照らして見るならば,私たちは1914年以来,古い秩序の「終りの時」に住んでいることがわかります。従ってこの時代のうちに,憎しみ,貪欲,争い,殺人,盗み,圧政,姦淫,中傷その他,神のみ霊を持たない,愛のない世の生み出したあらゆる実が地から一掃されるでしょう。(マタイ 24:7-14,33-35。ガラテヤ 5:21)聖書はまた次のことを示しています。イエスの弟子ととなえる者の中で多くの人の愛が「冷え」ても,そうでない人々は忍耐して最も愛のあるわざをします。イエスの言葉はそのわざが何であるかを示しています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」― マタイ 24:14。
11 私たちは愛の真実の意味をどなたから教えられていますか。
11 「わたしたちが愛し合うのは,神がまずわたしたちを愛して下さったからである」と述べたヨハネの第一の手紙 4章19節の言葉の意味が,いま理解できます。神の行なわれたことと,そのお目的に表われた神の愛を知るならば,愛というものを本当に理解でき,神にならう者となる強い願いがわき起こります。神にならって愛を示すのは,もともと神のかたちに造られた人間の務めです。―創世 1:26,27。
ロマンチックな愛
12,13 (イ)両性間の愛は,聖書の中で無視あるいは拒否されていますか。どうしてわかりますか。(ロ)ロマンチックな愛に何が加えられるとき,それは幸福を増し加えるものとなりますか。古代ギリシャ人とローマ人は,このことについて何を示していますか。
12 ギリシャ人がエロースと呼んだ両性間の愛について,まず考えてみましょう。このような愛は,今まで論じてきた,原則をわきまえた愛(アガペー)とどんな関係がありますか。聖書を書いたクリスチャンはエロースという言葉を使いませんでしたが,それでも聖書はこのような愛にふれています。創世記にあるアダムとエバ,イサクとリベカ,ヤコブとラケルの話あるいはソロモンの雅歌,箴言 5章15節から19節などを読むとわかるように,聖書は率直にこの事柄を論じています。しかし聖書はこのような愛を崇めてはいません。リベカは「非常に美しく」,ラケルは「美しくて愛らしかった」と聖書に書かれています。しかし聖書は,その本当の美しさが真の神エホバへの献身と,夫につくす妻としての献身にあったことを示しています。(創世 24:16; 29:17)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で使徒パウロは,コリント人に宛てた第一の手紙の7章に婚姻と愛についてきわめて率直な助言を与えています。そしてパウロの問題のとりあげ方に「しかつめらしい」ところはありません。
13 しかし聖書が述べているすべてにおいて,次の事は明白です。すなわちロマンチックな愛は,それを崇拝するのではなく,制御してのみ,幸福に資するものとなります。そしてこれを制御するには,原則をわきまえた愛が必要です。今日の世界は昔のギリシャ人の間違いを犯しているように見えます。昔のギリシャ人はエロースを神として崇拝し,その祭壇にぬかずき,またそれに犠牲をささげました。ローマ人もギリシャ人のエロースに相当するキューピッドに対して同じことをしました。しかし歴史の示すように,性愛の崇拝は堕落,放とう,無気力を生むに過ぎません。おそらくそのために,聖書の筆者はこの言葉を使わなかったのでしょう。
14 原則をわきまえた愛は,結婚生活の大きな問題また内輪の問題をどのように解決しますか。
14 性格が合わないという理由で離婚する人々は,多くの国で非常に増加しています。アメリカのある州では二組の結婚のうち一組が離婚に終わる有様です。原則をわきまえた愛の必要が明白ではありませんか。「愛〔アガペー〕は……不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない」ことを忘れないでいれば,結婚生活を不和にする問題の一部はたしかに解決されます。(コリント前 13:5)パウロの与えた分別あるさとしに従うならば,夫婦の不和や争いの根本原因は除かれます。「いずれにしても,あなたがたは,それぞれ,自分の妻を自分自身のように愛し〔アガパオー〕なさい。妻もまた夫を敬いなさい」。(エペソ 5:33)このような愛を持つ夫と妻は,所有することよりも,わかち合うことを最先に考えるでしょう。そして「わたし」「わたしに」「わたしのもの」といった意識よりも,「わたしたち」「わたしたちに」「わたしたちのもの」といった考えを持ちます。二人は互いに相手の必要とするもの,願うことを知ろうと努め,愛の心からその知識を用いて相手を幸福にしようと努めます。
家庭における愛
15 ストルゲーの語で表わされる愛は,今日どのように危機に見舞われていますか。それを守るために必要なものは何ですか。
15 愛し合い,一致している家族は,本当にうるわしいものです。それは美しく,また人をひきつけます。そのような家族の中で時を過ごすのは何と楽しい事でしょう。家族が互いに抱くこの自然の愛情(ギリシャ語でストルゲー)を表現する言葉を用いて,パウロはクリスチャンが,互いに親しむ家族の関係を保つべきことを強調しました。(ロマ 12:10)しかしパウロは,この時代に一般の人がこの情愛を欠き,「無情な者」になることをも預言しています。(テモテ後 3:3)現代生活の圧力にあって,昔風の家庭は崩壊しつつあります。食事を共にしたり,居間にくつろいで団らんすることは,次第にすたれています。大人の怠慢と子供の非行のために分裂する家庭が絶えません。自然の愛情だけでは,現代の緊張に耐えられないからです。原則の上に立った愛は,家族を一つにできます。「愛〔アガペー〕は,すべてを完全に結ぶ帯」だからです。―コロサイ 3:14。
16 子供の生命のことを真に心にかけている両親に対して,聖書は何を教えていますか。
16 両親の皆さんは,お子さんが親を愛し,聖書の次の言葉にあるような子供になることを望まれますか。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって,次の約束がそれについている。『そうすれば,あなたは幸福になり,地上でながく生きながらえるであろう』」。神の国の治める楽園の地に永遠の生命を得させたいと願っていますか。では次の言葉に述べられている親の務めをどのように果たしていますか。「またあなたがた父たちよ,あなたがたの子供をいらだたせてはいけない。常にエホバのこらしめと権威ある教えとに従って育てなさい」。いまの時代にこの事をするには,単なる愛情以上のものが必要です。それには原則をわきまえた愛が必要です。―エペソ 6:1-4。
17 (イ)子供を甘やかすのは,なぜ本当の愛を示すことではありませんか。(ロ)こらしめを差しひかえるのは,親と子供の両方にとってどんな悪い結果になることがありますか。
17 適切なこらしめをさしひかえて子供のいうなりになる親は,自分を愛しているに過ぎません。このような親はこんな風に言います,「本当はそれが子供によくない事はわかっていても,あまりせがむので許さないわけに行きません」。それで子供の将来のためを考えるよりも,こらしめを与えた結果,子供の愛情を親が一時的に失うことを恐れているのです。時限爆弾を子供に与える親はありません。しかし責任を十分にわきまえていない少年に自動車を買い与えたり,年齢不相応な行動の自由を少女に許すならば,偽装した爆弾を与えるのと同じ結果になるかも知れません。原則を愛情の祭壇に犠牲にしてしまうのは偽りの崇拝にほかなりません。そして子供を盲目的に愛した親は,往々にして晩年もはや自分の思う通りにならない子の愛にうえかわきます。「むちを加えない者はその子を憎むのである,子を愛する者は,つとめてこれを懲らしめる」。(箴言 13:24)たしかにこの箴言の通りです。こらしめるとは教えを授け,訓練することです。愛が真実のものであるためには,私たちが天の父からこらしめられ,教えられている通りのことを子に対して行なわねばなりません。―ヘブル 12:5-11。
友人同志の愛
18,19 (イ)フィリアという言葉の表わす愛は何に基づいていますか。それが悪いものでないことは,どうしてわかりますか。(ロ)このような友愛が永続する益となるには,何が必要ですか。なぜですか。
18 ギリシャ人がフィリアと呼んだ友愛も,人生を豊かにします。友人のない生活は寒々としたものです。友情は他の人の中に好ましい性質,良さを認め,自分を楽しい気持ちにさせるものを見出すとき,あるいは長いあいだ経験を共にしたことから好感,愛情,忠誠心を互いに抱くとき,生ずるものです。友人の間には相互に信頼感が通います。キリスト・イエスご自身も,ペテロ,ヤコブ,ヨハネの3人の弟子に特別な友情を示し,中でもヨハネは特に愛された弟子であった事が記録されています。―ヨハネ 19:26; 20:2。
19 しかし友情が永続する価値のあるものとなるには,原則をわきまえた愛と結びついていなければなりません。そこで使徒ペテロは兄弟愛(フィラデルフィア)に愛(アガペー)を加えることをさとしています。(ペテロ後 1:7)そうでなければ,友情はへつらいと腐敗に堕し,正しくない事,その人にも自分にも益とならない事,神を汚し,隣人を害する事を行なう仲間になる結果を生むかも知れません。しかし「愛〔アガペー〕は隣り人に害を加えることはない」のです。―ロマ 13:10。
20 神の示される友愛は,私たちがそれを表わす際のどんな導きとなりますか。
20 原則に立脚した愛を導きとすれば,はじめから良い友だちを選び,正しい友情を培うことができます。イエスは弟子たちにむかって「父ご自身があなたがたを愛〔フィレオ〕しておいでになるからである」と言われました。それを聞いた弟子たちは心をおどらせたことでしょう。しかしイエスの弟子たちが神からそのようなほまれを受けたのはなぜですか。つづいてイエスが言われた言葉はそれに答えています。「それは,あなたがたがわたしを愛したため,また,わたしが神のみもとからきたことを信じたためである」。(ヨハネ 16:27)神の愛を受け,神の友とされるのは,それにふさわしい者だけです。(ヤコブ 2:23)「世を友〔フィロス〕とするのは,神への敵対であることを,知らないか」という警告が与えられているのも当然です。(ヤコブ 2:23)神の友であり,神から愛されている人を,自分の友にしなければなりません。―ヤコブ 4:4。
21 このような理解を持つからといって,少数の人々だけに愛を示すのではありません。それはなぜですか。
21 それでは私たちは愛を示すことに差別を設け,自分のまわりに垣を作りますか。そうではありません。原則をわきまえた愛〔アガペー〕は,愛情〔フィレオ〕の届かないところ,また愛情を示す意欲を起こさせないところにも働かねばならず,また働くからです。永遠の生命の報いは,結婚配偶者,家族あるいは親しい友だちだけに献身的な愛を示す人々がかち得るのではありません。イエスは次のように言われました,「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」。(マタイ 5:46-48)それできわめて明らかなように,私たちはたとえ好きでなくても,その人を愛することができます。私たちの生命はそうすることにかかっているのです。
22 各人は何を真剣に自問しなければなりませんか。
22 ここで次のように自問してごらんなさい。私の愛はどんな愛だろうか。それは原則に基づいているか,それとも感傷に過ぎないか,自然の情として愛することのできるもの,すなわち結婚配偶者,両親,子供あるいは気の合う友人だけを愛しているだろうか。このような者たちに対する愛も,彼らの永遠の福祉を求める愛か,それともこのような関係から生まれる満足のためにする愛情の表現だろうか。私の愛はどれほど純粋なものか。その答えによって,その人の価値が決まります。―コリント前 13:1-3。