第5章
聖霊と力をもって油そそがれた最初の者
1,2 (イ)約束のメシアはだれにより,また何をもって油そそぎを受けますか。(ロ)その者はイザヤのどんな預言を引いて自分に当てはめますか。
古代イスラエルの王や祭司たちは公式の油をその頭に注がれてその職に任ぜられました。約束のメシアもまたそのようにして油そそぎを受けるのですか。そうではありません。真のメシア,それは,神が「聖霊と力をもって」油をそそぐ者です。(使徒 10:38)それは,イザヤ 61章1-3節の預言的な言葉を引いて自分に当てはめることのできる人であるはずです。
2 『主エホバの霊われに臨めり こはエホバわれにあぶらをそそぎて貧しきものに福音をのべ伝ふることをゆだね 我をつかはして心の傷める者をいやし とらはれびとにゆるしをつげいましめられたるものに解き放ちをつげ エホバのめぐみの年とわれらの神の刑罰の日とを告げしめ またすべてかなしむものをなぐさめ 灰にかへ冠をたまひてシオンの中のかなしむ者にあたへ 悲しみにかへて歓喜のあぶらを与へ うれひの心にかへて賛美の衣をあたへしめたまふなり かれらは義の樹エホバの植えたまふ者 その栄光をあらはす者ととなへられん』。(文語)
3 神の霊が働いた古代の人々が約束のメシアでなかったのはなぜですか。
3 これ以前の人々も,神の霊に包まれ,その働きを受け,あるいはそれに満たされたことがありました。しかし,聖霊によって油そそぎを受けたことはありません。したがって,それらの人のいずれかが待望のメシアとなったことはありません。バプテスマを施す人ヨハネについて,み使いガブリエルはその父である祭司ゼカリヤに,「彼は,まさにその母の胎にいる時から聖霊に満たされます」と言っていましたが,このヨハネについてさえ上記のことが言えました。―ルカ 1:15。
4 バプテスマを施す人ヨハネは,その母の胎にいる時から聖霊に満たされていたにもかかわらず,キリストに関してどんなことを告白しましたか。
4 祭司やレビ人たちがエルサレムからヨハネのもとに遣わされてきました。その行なっている業から見て,ヨハネが公式にどのような者であるかを,ヨハネ自身に言わせるためでした。ヨハネはどのように応じましたか。「彼は告白して拒まず,『わたしはキリストではありません』と告白した。そこで彼らはこう尋ねた。『ではなんですか。あなたはエリヤですか』。すると彼は言った,『そうではありません』。『あなたはかの預言者ですか』。すると彼は,『いいえ!』と答えた。それで彼らはこう言った。『あなたはだれですか。わたしたちを遣わした者たちに答えのできるようにしてください。あなたは自分についてなんと言いますか』。彼は言った,『わたしは,預言者イザヤが言ったとおり,「エホバの道をまっすぐにせよ」と荒野で叫ぶ者の声です』」― ヨハネ 1:19-23。イザヤ 40:3。マラキ 4:5,6。申命 18:15-19。
5,6 (イ)キリストに関して何を行なわせるために神はヨハネを遣わしましたか。(ロ)ヨハネは真のメシアすなわちキリストと自分とをどのように対比しましたか。
5 こうしてヨハネは,自らは聖霊で満たされた人でしたが,神の霊で油そそぎを受ける約束の者であることは否定しました。彼は偽キリストになろうとはしませんでした。真のキリストすなわちメシアの前駆者にすぎないことをはっきり言い表わしたのです。事実,真のキリストすなわち真のメシアに水のバプテスマを施させるため,神はこの人を遣わしたのです。―ヨハネ 1:29-34。
6 この点に関するヨハネの正直さをさらに証しするものとしてルカ 3章15-17節の記録があります。「さて,民は待ち設けており,またすべての者がヨハネに関し,『あるいは彼がキリストではなかろうか』と心の中で考えをめぐらしていたので,ヨハネはすべての者にこう言って,その答えを与えた。『わたしは,あなたがたに水でバプテスマを施します。しかし,わたしより強いかたが来られます。わたしはそのかたのサンダルの締めひもをほどくにも価しません。そのかたはあなたがたに聖霊と火でバプテスマを施すでしょう。穀物を簸るシャベルがその手にあり,それは自分の脱穀場をすっかりきれいにし,小麦を自分の倉の中に集めるためです。しかし,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うでしょう』」。
7 火でバプテスマを施されるより霊でバプテスマを施されるほうが願わしいのはなぜですか。
7 メシアはバプテスマを受けまた神の霊で油そそぎを受けるだけではありません。自らも他の人々に聖霊でバプテスマを施すのです。ヨハネの言葉はこの点をも明らかにしています。火でバプテスマを施されるよりは,聖霊でバプテスマを施されるほうがずっとよいでしょう。火でバプテスマを施されるとすれば,燃え尽きるまでは消されることのない火で燃やされる無価値なもみがらのごとくに滅ぼし絶やされることになるからです。―マタイ 3:7-12。
8 そのころ人々がメシアの出現を待ち設けていたのはなぜですか。なぜその事は切迫した問題でしたか。
8 『民が待ち設けて』いたのは意外なことではありません。メシアの出現する時が来ているということを,人々は聖書から算出していたのでしょう。そのゆえに,バプテスマを施すヨハネがあるいは約束のメシアではなかろうかと考えたのです。(ダニエル 9:24-27)メシアすなわちキリストに関する事は時間的に切迫した問題でした。メシアを派遣する神はその時を定めなく引き延ばすのではありません。メシアを遣わすことを思い定め,その決定を実施するための時をあらかじめ指定しておられました。神はぐずぐずといたずらに事を延ばしたりはされません。み言葉の中に示した時の定めを守られるのです。
9 ガラテア 4章4,5節は,神がいたずらに事を引き延ばす方でないことをどのように示していますか。
9 ガラテア 4章4,5節はこう述べます。「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法のもとに置かれ,こうして彼が律法のもとにある者たちを買い取って釈放し,わたしたちが養子とされることになったのです」。
10 神は定めの時にみ子をどこから遣わしましたか。どんな国籍の女から生まれさせましたか。
10 上記の言葉の筆者である使徒パウロには,神の物事の取決めにおける時と時節について論ずべき多くの事がありました。彼は,神のみ子がユダヤ人を買い取って釈放する者であることを述べています。このゆえにみ子は彼らのメシア,キリストとなるのです。神はこの者をどこから遣わしましたか。ほかならぬ天から,この「独り子」が遠い昔に神に創造されて以来いたその所からです。彼は「律法のもとに」生まれました。それは,ユダヤ人,イスラエル人,モーセが仲介者となったエホバとの律法契約を結んだ国民の一員として生まれるという意味でした。したがって,神の子を産み出すその女もまたユダヤ人,モーセの律法の下にある者でなければなりませんでした。―ガラテア 3:19-25。
11 神のみ子とその女の居所の違いから,み子がメシアとなるためにはどんな事が必要でしたか。
11 奇跡が起こらねばなりませんでした。それはただ全能の神のみが行ない得る事柄です。神の「初子」なるみ子,「ことば」もしくはロゴスは強大な霊者として天にいました。一方,その女,メシアとなる者を産み出す者はこの地上にいました。み子がそのままの者としてこのユダヤ婦人の胎内に入ることはできません。では,どうするのでしょうか。み子は「神の形」でいた自分が備えていた一切のものを無にしなければなりませんでした。自分の命を見えない天からその女の胎内に移し入れてもらうことが必要でした。こうして彼は「人のようなさま」の者として生まれるのです。これは,この神のみ子にとって大いに謙遜になることを意味しました。(フィリピ 2:5-8)しかし,み子はみ父に対する愛,また天の父の目的に仕えることのために,それを喜んで行なおうとしていました。
12 神が選び取られたのはどんな「女」でしたか。メシアがその女の「初子」であるべきだったのはなぜですか。
12 天の父はこの奇跡をどのようにして行なわれましたか。どんな手段で? それには一人の「女」が関係していました。多くのイスラエル婦人,特にユダ族の婦人たちは,約束のメシアの母となることを望み見ていたことでしょう。しかし,メシアの母となるかどうかは自ら選択できる事柄ではありません。メシアの天の父こそ,この点で選択力を行使し得る唯一の方でした。そしてそれを行なわれました。神が選び取られたのは未婚の「おとめ」でした。(イザヤ 7:14)もしそれが既に結婚して子供を持ったことのある女であれば,その父や種々の相続権などに関して疑問も起きたことでしょう。ゆえに,神の選び取られた「おとめ」は,もとより「処女」でした。(マタイ 1:22,23)神の「初子」が血肉の完全な人間として生まれてくるわけですが,この点でもその女の「初子」であることが必要でした。―コロサイ 1:15。ヨハネ 3:16,17。
13 神は二度目の使いとしてガブリエルをだれのもとに遣わしましたか。ガブリエルはどのようにして彼女に見える姿で現われましたか。
13 選ばれる女はエッサイの子なるダビデ王の子孫であることも必要でした。ダビデ王に対してそのような関係の者であれば,その女は自分の初子に,「ヤコブ(イスラエル)の家」の十二部族を治めるダビデの王国に対する生得的な権利を得させることができます。適切にも,その選ばれた女は,「ダビデの都市」,すなわちユダ州のベツレヘムの生まれでした。(ルカ 2:11)しかし,神の大いなる恵みを受けることが知らされた時,その女はガリラヤのナザレの町に住んでいました。その六か月ほど前,神はみ使いガブリエルを遣わして,祭司ゼカリヤに,一人の息子,ヨハネと名付けるべき者の誕生を告げておられました。そして適切にも,神は今,同じガブリエルを,メシア,すなわちヨハネが世に紹介するはずの者の母となる女のもとに遣わされたのです。それはユダヤ人の処女で,マリアという者でした。ダビデの王統を引くヘリという人の娘でした。ガブリエルは化肉し,人間の形を取ってマリアに現われました。そのあいさつの言葉はマリアにとって驚きとなりました。どうしてこの突然の訪問者は,エホバが自分と共にいる,と述べるのでしょうか。どうしてこの自分と?
14 神がなぜ彼女と共におられるのだろうかとの疑問の説明にあたってガブリエルはマリアに何と語りましたか。
14 それは,エホバが彼女を選んで,栄光ある王としてのメシアの母とならせることにされたからです。ゆえにガブリエルは言いました,「マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:26-33。
15 み使いは,マリアの上に何が働くと述べましたか。それはどんな結果をもたらしますか。
15 未婚の「おとめ」,「処女」である者にどうしてそのような事が起きるのでしょうか。それがマリアの問いでした。わたしたちの問いでもあったことでしょう。ゆえに今,マリアに対して何が働くのかに注目しましょう。「み使いは答えて言った,『聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます』」― ルカ 1:34,35。
16 (イ)マリアから生まれる者はなぜ「聖なる」者となりますか。(ロ)マリアはガブリエルにどのように答えることもできましたか。しかし,実際にはどうしましたか。
16 「聖霊」が働くのです。それによって「聖なる」者が誕生します。それは処女による誕生です。神にとってこれはなし難い奇跡ではありません。み使いガブリエルは次のように述べてマリアへの言葉を結びます。「神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」。(ルカ 1:37)このすべてに対してマリアはどのように応じましたか。彼女は次のように言うこともできました。『でも,ご覧ください。わたくしはすでに,ダビデ王家に属する,ヤコブの子の大工ヨセフと婚約しております。わたくしは彼の子供たちの母となる務めを負っております。ヨセフとの約束を破ることはできません。どうかわたくしをご容赦ください』。こうして確かに複雑な事情もあるように思われました。しかし神もそのすべてを知っておられました。ゆえにマリアは信仰のうちにガブリエルにこう答えました。「ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの布告どおりのことがわたしの身になりますように」― ルカ 1:38。
17 天にいた神の「初子」に今どんな事が起きましたか。マリアの婚約者ヨセフは何をするように告げられましたか。
17 全能の神の奇跡によるマリアの妊娠が今や起きることになりました。突然,地上のマリアには全く知られない形で,神の「初子」が天から姿を消しました。その生命力は処女マリアの体内に移し入れられたのです。ゆえにこう記されています。「その母マリアがヨセフと婚約中であった時,ふたりが結ばれる前に,彼女が聖霊によって妊娠していることがわかった。しかし,その夫ヨセフは義にかなった人であり,また彼女をさらし者にすることを望まなかったので,ひそかに離婚しようとした。しかし,彼がこれらのことをよく考えたのち,見よ,エホバの使いが夢の中で彼に現われて,こう言った。『ダビデの子ヨセフよ,あなたの妻マリアを家に迎えることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその名をイエスとしなければならない。彼は自分の民をその罪から救うからである』」― マタイ 1:18-21。
18 実際のところイエスはだれの子でしたか。その名に預言的な意味のあったことを述べなさい。
18 イエスという名には預言的な意味がありました。それはエホシュアの短縮形で,エホシュアとは「エホバは救い」という意味です。適切にも,この名を持つその者は「自分の民をその罪から救う」ことになっていました。ガブリエルの述べたとおり,その者はヨセフの子となるのではなく,「神の子」となるのです。
19 マリアの子イエスが神の新しい子でなかったのはなぜですか。彼が「神の化身」でも「神なる人」でもなかったのはなぜですか。
19 奇跡によるマリアの初子は神の新しい子となるのではありません。実際のところ,すでに永年存在していた神の子であり,その生命が,マリアを人間としての母とする形で天から地に移されたのです。ゆえに当然の事として,キリスト教世界の多くの宗教家のように彼を「神の化身」と呼ぶことはできません。これは霊感の聖書の中に見いだされない表現です。天において神の「初子」は「ことば」(もしくはロゴス)という称号を有していました。ゆえに,ヨハネ 1章14節はこう記しています。「こうして,ことばは肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,父の独り子が持つような栄光を目にしたのである」。また,キリスト教世界の牧師が彼を「神なる人」と呼ぶのは誤りです。テモテ第一 2章5,6節の中で彼は「人間キリスト・イエス」と呼ばれています。彼は,至高の神であると唱えたことはなく,またそう唱えることはできませんでした。―ヨハネ 20:31。ルカ 1:32。
だれにより,何をもって油そそがれたか
20 マリアの初子はどこで生まれましたか。なぜそこで?
20 異教ローマ帝国の皇帝カエサル・アウグスツスの治世に,イエスはユダのベツレヘムで生まれ,ミカ 5章2節の預言を成就しました。それは西暦紀元前2年の初秋でした。ヨセフとマリアが登録のためベツレヘムにいた時のことです。「彼女は自分の子,初子を産み,これを布の帯でくるんで,飼い葉おけの中に横たえた。泊まり部屋に彼らの場所はなかったからである」― ルカ 2:7。
21 イエスの誕生の夜,地上においてその目撃証人とされたのはだれですか。どのように?
21 メシアとなるべき者がついに到来しました! 胸の躍るような知らせです。栄光ある神の使いがそれを羊飼いたちに知らせました。その羊飼いたちは自分の羊の群れの番をして夜にベツレヘム近くの野にいたのです。「み使いは彼らに言った,『恐れてはなりません。見よ,わたしはあなたがたに,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを伝えているのです。きょう,ダビデの都市で,あなたがたに救い主,主なるキリストが生まれたからです』」。生まれたばかりでベツレヘムのある飼い葉おけの中にいたイエスは気付いていませんでしたが,その時の事についてこう記されています。「突然,大ぜいの天軍がそのみ使いとともになり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように』」。次いでその知らせを受けた羊飼いたちは飼い葉おけの中の赤子を探しに行ってそれを見つけ,こうしてその重大な夜にイエス誕生の目撃証人になるという報いを得ました。―ルカ 2:8-20。
22 イエスが,み使いの述べた「主なるキリスト」になったのはいつでしたか。どのように?
22 イエスが実際に「主なるキリスト」となったのはいつでしたか。生まれて八日目,割礼を受けた時ではありません。その日には油をそそがれませんでした。それがなされたのは30歳の時です。イエスはバプテスマを施すヨハネのところに行きました。その時ヨハネはヨルダン川でバプテスマを施していました。イエスは,自分に公式の油をそそいでイスラエル全十二部族のメシアなる王とすることをヨハネに求めたのではありません。ヨハネの公の活動の間多くのユダヤ人がしていたと同じように水のバプテスマを求めたのです。「さて,民がみなバプテスマを受けていた時,イエスもまたバプテスマをお受けになった。そして,祈っておられると,天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」― ルカ 3:21-23。
23 バプテスマを施す人ヨハネはイエスがキリストとなった時の事についてどのように証ししましたか。
23 後に,預言者ヨハネはこの出来事について自分の弟子たちに証しをし,こう語りました。「わたしも彼を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すべくわたしを遣わしたそのかたが,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました。そしてわたしはそれを見たので,このかたこそ神の子であると証ししたのです」― ヨハネ 1:33,34。
24 アンデレは自分の兄弟にだれを見つけたと言いましたか。ナタナエルはイエスについてどんなことを認めましたか。
24 イエスがヨルダン川でバプテスマを受けておよそ40日後,ヨハネは自分の弟子二人を呼んでイエスに注意を向けさせました。その二人はイエスの後に着いて行き,イエスによる聖書の教えを受け入れました。自分たちの見いだした驚嘆すべきもののため喜びに圧倒されたその一人,アンデレは,自分の兄弟ペテロを見つけてこう言いました。『「わたしたちはメシアを見つけた」(メシアとは,訳せば,キリストという意味である)』。そのしばらく後,ナタナエルという人がイエスのもとに連れて来られました。イエスの話すことを聴いた後,ナタナエルはイエスに言いました,「ラビ,あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。これは事実上,油をそそがれたイエスがメシア,キリストであるということの,ナタナエルによる確証です。―ヨハネ 1:35-49。
霊的なメシアまたキリスト
25 ヨハネのバプテスマは罪人を対象とするものであったのにイエスがヨハネからバプテスマを受けたのはなぜですか。
25 地上のイエスは純然たる人間なる神の子で,悔い改めるべき罪は何一つありませんでした。ではどうして,罪のゆるしのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた人の手で浸礼を受けたのですか。それは詩篇 40篇6-8節の預言を成就するためでした。イエスが受けた水のバプテスマは,「神よ,あなたのご意志を行なうために」と述べて自らを捧げることの象徴でした。そのご意志は以後イエスに示されてゆくのです。(ヘブライ 10:5-10)その神のご意志は,メシアすなわちキリストとしてどのように行動すべきかを彼に示すものとなります。
26 天から聞こえた神の言葉が述べたことはイエスの生涯においてどんな変化となりましたか。それはイエスにとってもなぜ必要なことでしたか。
26 イエスがバプテスマの水から上がった時,神の声が天から聞こえました。「これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:17)これはイエスの生涯における変化となりました。どのように? 神は今,この30歳のイエスをご自身の霊的な子という関係に入れたのです。神の宣言はそのことを意味していました。こうして,神のこの子が天に戻る道が開かれました。これはイエスにとっても必要なことでした。イエス自ら後にユダヤ人の支配者ニコデモに説明したとおりです。「再び生まれなければ,だれも神の王国を見ることはできません。……水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできないのです。肉から生まれたものは肉であり,霊から生まれたものは霊です。わたしがあなたに,あなたがたは再び生まれなければならないと言ったからといって,驚いてはなりません」― ヨハネ 3:3-7。
27 み子に関する神の天からの発表はイエスに関してどんなことを示しましたか。マリアに対するイエスの関係は今やどのように変わりましたか。
27 天からの宣言によって,エホバ神は,天の神の王国に入る見込みを持つ霊的な子を生み出したことを発表されました。肉なるものの母であったマリアは,この霊的な神の子の母ではありません。以後イエスが彼女を自分の「母」と呼んだ記録はありません。これに応じて,イエスは「神から生まれたかた」で,自分の弟子,追随者たちを見守ると語られています。その例として,ヨハネ第一 5章18節はこう述べています。「神から生まれた子がこれを守る。悪しき者がこれに触れることはない」。(エルサレム聖書)「これを安全に守るのは神の子であり,悪しき者がこれに触れることはない」。(新英語聖書)ゆえに,その地上の母マリアに対するイエスの関係は変わりました。以来イエスは霊的な物事に一身を捧げ,マリアの町ナザレで大工の職に戻ることはありませんでした。
28 こうして油をそそがれたイエスはどのようなメシアとなりましたか。どこから治めますか。
28 神の霊的な子,そのような子として生み出された者の上に神の聖霊が下り,その者をメシアすなわちキリストとして油そそぎを得させました。この者はただの血肉の人間のメシアより強大な者となります。霊的なメシアとなり,やがて天の神の王国にあって治めるのです。このメシアが天に上る時,「その父ダビデの座」も天まで高められることになります。そして,彼が「王としてヤコブの家を永久に支配する」のは天の王座からです。―ルカ 1:32,33。
29 油そそがれた者としてイエスはどんな称号を自分の名に付されることができましたか。彼は何をもって油そそぎを受けましたか。
29 ヨルダン川で神の聖霊をもって油そそぎを受けた後,イエスは自分の名にメシアもしくはキリストという称号を付して呼ばれることができるようになりました。正式な意味でイエス・メシアもしくはイエス・キリストとなったのです。その数か月後,イエスがガリラヤへ戻る途中のこと,一人のサマリア人の女がイエスに言いました,「わたしは,メシアが,キリストと呼ばれるかたがおいでになることを知っています。そのかたが到来されるときには,すべてのことをはっきりと告げ知らせてくださるのです」。これに対しイエスは静かに答えました,「あなたに話しているこのわたしがそれです」。(ヨハネ 4:25,26)メシアすなわちキリストとしてイエスは油をそそがれた者となりました。公式の油をその頭に注がれることによってではありません。ただ神だけが霊的な子としてのイエスの上に注ぐことのできたものをもってです。それは何でしたか。使徒ペテロがこう答えます。『神は聖霊と力をもって彼に油をそそがれました。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました』― 使徒 10:38。
30 ダビデの場合と同じように,油そそぎを受けたすぐ後イエスはどのようにその影響を受けましたか。イエスが聖霊を失わなかったのはなぜですか。
30 ここでわたしたちはダビデの場合を思い出します。この羊飼いの少年が預言者サムエルの手で実際の油をそそがれた後,神の活動力がその上に働くようになり,彼は数々の際立った事柄を行ないました。イエスが天から神によって油そそがれた後もこれと似ています。ルカ 4章1,2節はこう証言しています。「さて,イエスは聖霊に満ちて,ヨルダンから去って行かれた。そして,霊によって荒野をあちらこちらと導かれて四十日におよび,その間悪魔の誘惑を受けた」。マルコ 1章12節はこう述べます。「すぐ,霊が彼をかり立てて荒野に行かせた」。幸いにも,荒野における悪魔からの試みの下でも忠実を保ったため,イエスは聖霊を失いませんでした。メシアすなわちキリストとしての地位を離れることはありませんでした。イエスは自分の水のバプテスマが象徴したものに忠実であったのです。
31 ヨハネの投獄の後,イエスはどんな力の下にガリラヤに戻りましたか。そこで何をしましたか。
31 西暦30年,イエスの前駆者であったバプテスマを施す人ヨハネが,ガリラヤ四分領の太守ヘロデ・アンテパスによって投獄されました。それでイエスはユダヤを離れ,サマリアを通ってガリラヤに帰りました。ここでイエスは,人々がメシアすなわちキリストを見分けるための聖句を自分に当てはめました。(マタイ 4:12-17)「それからイエスは霊の力に動かされてガリラヤに帰られた。すると,彼の評判は周囲の全地方にあまねく広まった。また,彼は人びとの会堂で教えはじめ,すべての人から敬われた」。(ルカ 4:14,15)神からの油そそぎが民に聖書を教えるイエスを助けるものとなりました。
32 ナザレの会堂でイエスはイザヤのどんな預言を朗読しましたか。それについてどのように注解しましたか。
32 郷土の町ナザレの会堂でイエスは,自分が神によって油をそそがれたことが,メシアに関するイザヤ 61章1-3節の預言の成就であることを指摘しました。この事についてはルカ 4章16-21節にこう記されています。
「そしてイエスはナザレに来られた。そこは彼の育てられた所である。そして,安息日ごとの自分の習慣どおり会堂に入り,ついで,朗読のために立ち上がられた。そこで預言者イザヤの巻き物が彼に手渡された。彼は巻き物を開き,こう書いてある所を見いだされた。『エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,捕われ人に釈放を,盲人に視力の回復を宣べ伝え,打ちひしがれた者を解き放して去らせ,エホバの受け入れられる年を宣べ伝えさせるために,わたしを遣わしてくださったからである』。そうして彼は巻き物を巻き,それを付き添いの者に返して,腰を下ろされた。すると,会堂にいたすべての人の目がじっと彼に注がれた。その時,彼はこう言い始められた。『あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています』」。
33 イエスが宣明すべく使命を受けた「良いたより」とは何に関するものでしたか。それを宣明するため彼はどこにまで遣わされましたか。
33 イザヤの預言はエホバの油そそがれた者の歩みをいかにも美しく予告していました。エホバの活動力,彼がそれをもって油そそぎを受けたものが大いなる恵みのもとに彼を通して働くのです。地上でメシアとして奉仕した残りの三年の間,彼は終始愛をもって神からのこの預言的な使命を遂行しました。貧しい人々に彼の宣明した「良いたより」とは,神のメシア王国に関する音信でした。霊的に飢えた群衆,彼を引き留めようとした人々に対して,彼はこう言いました。「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」― ルカ 4:43。
34 イエスが町から村へと宣べ伝えて行った時だれがそれに伴いましたか。
34 後の記録はさらにこう述べています。「その後まもなく,イエスは,都市から都市,村から村へと旅をされ,神の王国の良いたよりを宣べ伝えまた宣明された。そして十二人[の使徒]は彼といっしょにおり,邪悪な霊たちや病気を除いてもらった女たち,七つの悪霊が出て来た,マグダレネと呼ばれるマリア,ヘロデ家の管理人クーザの妻ヨハンナ,そしてスザンナおよびほかの多くの女たち,これらの者が自分の持ち物の中から彼らに奉仕をしていた」― ルカ 8:1-3。
35 イエスは福音宣明の活動をどのように拡大しましたか。
35 イエス自身が神の王国の良いたよりをふれ告げただけではありません。同様の伝道の業のために自分の弟子たちをも派遣したのです。イエスの下で一年以上訓練を受けた後,十二人の弟子は王国をふれ告げるため自分たちだけで遣わされました。ルカ 9章1,2節はこう記しています。「それから,イエスは十二人を呼び集め,すべての悪霊を制し,さまざまな病気を治す力と権威をお与えになった。そして,神の王国を宣べ伝え,かつ病気をいやさせるために彼らを遣わし(た)」。その次の年,イエスは福音宣明の隊伍にさらに70人を加えました。「こののち,主はほかの七十人を指名し,行こうとしておられるすべての都市と場所へ,自分に先だってふたりずつお遣わしになった。そのさい,彼らにこう言いはじめられた。『……また,どこであれ,あなたがたが都市に入り,人びとがあなたがたを迎えてくれるところでは,あなたがたの前に出される物を食べ,そこにいる病気の者たちを治し,「神の王国はあなたがたの近くに来ました」と告げてゆきなさい』」― ルカ 10:1-9。
36 それら福音宣明者たちが支配権力者たちの前で証言する時その背後には何がありますか。この時代においても王国伝道の業が何者も抗し難い力を帯びているのはなぜですか。
36 油そそがれたイエスが伝道の業を行なった時,その背後には神の活動力がありました。その力はまた,イエスが遣わしたこれら福音宣明者たちの背後にもありました。彼らが支配権力者たちの前に呼ばれる時にも,その力が彼らを見捨てることはありません。イエスは言いました,「どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなたがたに与えられるからです。話すのはただあなたがたではなく,あなたがたの父の霊が,あなたがたによって話すのです」。(マタイ 10:18-20。ルカ 12:11,12)このことは,現在の「事物の体制の終結」の時に神の王国の良いたよりを宣べ伝える人々にも当てはまります。(マタイ 24:3,9-14)今やメシア・イエスの手中にあって天に確立されたメシア王国の伝道の業の背後にはこの霊の働きがあります。そのゆえにこそ,その業は人間の力では抗し難い勢いをもって進んできたのです。―マルコ 13:10-13。
37 宗教上の反対に面してもイエスのいやしの力が弱まったりしないことを,ルカ 5章17-26節に記される例がどのように示していますか。
37 イエスが油をそそがれたのは,人間によったのではなく,その天の父によりました。ゆえに,「(彼は)善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです」と記されています。(使徒 10:38)宗教指導者たちからの悪意の反対も,彼に働いて奇跡を行なわせていた力を弱めることはありませんでした。その良い例についてこう記されています。「そうしたある日のことであったが,イエスは教えておられ,ガリラヤとユダヤのすべての村およびエルサレムから出て来たパリサイ人や律法の教師たちもそこに座っていた。そして,彼がいやしを行なうようにエホバの力がそこにあった」。それら宗教家たちの敵対的な態度にもかかわらず,イエスは体の麻ひした無力な人をいやしました。深い感銘を受けた人々は,「きょうは不思議な事を見たものだ」と言いました。―ルカ 5:17-26。
38 イエスは自分の行なう奇跡の誉れをだれに帰しましたか。偽りをもって自分をとがめる者たちに対しイエスはどんな罪の警告をしましたか。
38 こうしたいやしの奇跡について,イエスはその誉れをその当然帰せられるべき方に帰しました。それゆえ,悪魔サタンを「悪霊どもの支配者ベエルゼブブ」と呼び,イエスはこの悪魔と手を結んでいるのだととがめ立てした人々に対し,イエスは,『わたしが悪霊たちを追い出すのは神の霊による』とはっきり答えました。さらにイエスはそれら反対する人々にこう警告しました。「霊に対する冒とくはゆるされません。……聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者はゆるされないのです。この事物の体制においても,また来たるべき体制においてもです」。それら反対者たちは,明らかに神の聖霊の働きによる奇跡であった事柄を悪意を抱いて悪魔の働きに帰したことによって,そのゆるされざる罪を犯していました。―マタイ 12:24-32。
『霊によって神の子』と呼ばれる
39 ユダヤ人一般の考えとは異なり,彼らの持っていたヘブライ語聖書はメシアの経験する事柄に関してあらかじめどんなことを告げていましたか。
39 イエスの時代,メシアがどのような人物として現われるか,またそのためにどのような歩みが定められているかに関して誤った見解が広がっていました。イエスに敵対した人々は,自分たちの持つヘブライ語聖書の中に,メシアが神の意志のもとにまず死に至るまでの苦しみを忍ばねばならないと書かれていることに気付きませんでした。神の「女」の「胤」の主要な者としてメシアの「かかと」は『砕かれ』ることになっていたのです。(創世 3:15)この点でヘブライ語聖書中の預言が成就した後,使徒ペテロは,エルサレムの神殿に集まったユダヤ人の群衆にその事実を指摘してこう語りました。「こうして神は,すべての預言者の口を通してあらかじめ発表された事がら,すなわち,ご自分のキリストが苦しみを受けるということを成就されたのです」― 使徒 3:18。
40 イエスはメシアが苦しみを受けて死なねばならないことを知っていましたが,使徒たちに対するどんな言葉によってそれを示しましたか。
40 イエスはヘブライ語聖書に基づいて,メシアが苦しみを受けて死なねばならないことを知っていました。使徒たちはイエスがメシアであることは知っていましたが,イエスが辱めの死を忍ばねばならないことについて告げられた時,それは彼らにとって意外な驚きとなりました。使徒ペテロがそのような考えに異議を唱えた時,イエスはペテロにこう言いました。「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えをいだいているからです」。イエスの前駆を勤めたバプテストのヨハネはその敵対者たちの手にかかってほしいままの苦しみを浴びせられましたが,その時イエスは,「このように,人の子も彼らの手で苦しみを受けるように定められている」と語りました。―マタイ 16:21-23; 17:12,13。
41 西暦第一世紀,キリストの弟子たちの会衆はキリストの死に方のゆえにどのようにみなされていましたか。
41 最後にイエスは,神に対する冒とく者,またローマ帝国に対する騒乱扇動者のごとくに扱われて死に処せられました。この事は,イエスを約束のメシアとして受け入れるという点では,ユダヤ人にも異邦人にも大きなつまずきとなりました。25年以上も後,ローマに在住していたユダヤ人は,イエスの弟子たちに対する自分たちの態度を表明して,投獄されていた使徒パウロにこう言いました。『実際この派について,いたるところで反対が唱えられていることは,わたしたちの知るところです』― 使徒 28:22。
42 使徒パウロがしたように,クリスチャンはメシアについて聖書からどんな点を論証することが必要でしたか。
42 イエスがエルサレムの外で苦しみの杭に掛けられて死んだこと,これはイエスが聖書の約束したメシアであることを疑わせるものではありません。その事実こそイエスが真のメシア,神のキリストであることを裏書きするものなのです。クリスチャンはその点を論証することが必要でした。マケドニアのテサロニケで会堂に入った使徒パウロの例を見ることにしましょう。「パウロは自分の習慣どおり彼らのところにはいり,三つの安息日にわたって彼らと聖書から論じ,キリストが苦しみを受け,そして死人の中からよみがえることが必要であったことを説明したり,関連した事がらを挙げて証明したりして,『わたしがあなたがたに広めているこのイエス,これがキリストです』と言った」。(使徒 17:1-3)幾年も後,使徒パウロは囚人としてローマ知事フェストおよびそれを訪ねていたアグリッパ王の前に立ちました。自分の主張を述べるためです。自分の弁明の最高潮としてパウロはこう語りました。
「わたしは神からの助けを得てきましたので,この日に至るまで,小なる者にも大なる者にも証しを続けています。しかし,預言者たちそしてまたモーセが起こるであろうと述べた事がら以外には,何も語っておりません。すなわち,キリストが苦しみを受け,また死人の中から復活させられる最初の者として,この民にも諸国民にも光を広めるであろうということです」― 使徒 26:22,23。
43 パウロは神のどんな奇跡の証人となりましたか。これがなぜ神の最大の奇跡であるかをペテロはどのように示していますか。
43 フェストとアグリッパの前で大胆に言明したとおり,パウロはイエスの復活の証人でした。(使徒 26:12-18)また,コリント第一 15章3-8節で,パウロは,自分の転向以前に「五百人以上の兄弟」がイエスの死からの復活の目撃証人となったことを証言しています。イエス・キリストが死んで三日目に復活したこと,これは神の最大の奇跡でした。神にはそれを成し遂げる動的エネルギーがありました。なぜこれは大切な点でしたか。使徒ペテロはその理由を説明してこう記しています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです。この状態でまた,彼は獄にある霊たちのもとに行って宣べ伝えました」― ペテロ第一 3:18,19。
44 ペテロによると,イエスはどのようなものとして生かされましたか。
44 ペテロの言葉はどういう意味ですか。次の点です。すなわち,全能の神は,イエスを人間として復活させたのではなく,霊者として,朽ちることなく,死に冒されることのない不滅の霊者としてよみがえらせたのです。
45,46 (イ)ヨルダン川で神の霊が下った後,イエスはどのような者と宣言されましたか。(ロ)死からの復活により,イエスは何によって神の子と宣言されましたか。
45 イエスの肉体は神が処理する犠牲として死のうちにまかれました。そのゆえにイエスは,「霊の体」を持つ栄光ある者として天の命へのよみがえりを与えられ,不滅性を付与されて二度と死ぬことのない者とされました。(コリント第一 15:42-54)それ以前,イエスの水のバプテスマの日に,エホバ神はご自分の聖霊によって彼を子として生み出し,以後天の相続物への見込みを持つ霊的な神の子としました。イエスを子としたことの証しとして,神は天から言葉を出され,油そそぎを受けたイエスが神の愛する者,是認された霊的な子であることを発表されました。(マタイ 3:13-17)しかし,イエスが死から復活した日,神は,イエスが神の霊の子として完全に生まれたことを宣言されました。そのゆえにパウロはこう書いています。
46 『その良いたよりは,神がご自分の預言者たちを通じて聖なる書の中にあらかじめ約束されたもので,神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。(そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストです)』― ローマ 1:1-4。
47 エフェソス 1章19-21節でパウロはイエスを復活させた神の奇跡の壮大さについてどのように述べていますか。
47 エホバがイエス・キリストを復活させて不滅の霊としたこと,これはまさしく驚くべき奇跡であり,使徒パウロはその点をさらに証ししてこう書いています。「それは神の強大な力の働きにしたがってであり,神はキリストの場合,その働きをもって彼を死人の中からよみがえらせ,天の場所においてご自分の右に座らせたのです。すなわち,あらゆる政府と権威と力と主権,また称えられるあらゆる名のはるか上にであり,単にこの事物の体制においてだけでなく,きたるべき体制においてもです」― エフェソス 1:19-21。フィリピ 2:5-11。ペテロ第一 3:21,22。
48 創世記 3章15節が言う「女」とはだれのことでしたか。イエスを復活させることにより,神はどんな傷をいやしましたか。
48 イエス・キリストのこのすばらしい復活を成し遂げることによって,天の医師なるエホバは,大いなる蛇悪魔サタンが自分の邪悪な地上の組織を用いて「女」の「胤」の「かかと」に加えた傷をいやしました。(創世 3:15)神のこの秘義における「女」とは,罪人となったエバでも,ユダヤ人の処女マリアでもありません。それは,聖なる霊の被造物から成る,神の妻のような天の組織です。その組織が,この地上における約束のメシアとしての奉仕のために神の独り子を備えたのです。―ガラテア 4:25,26と比較。
49,50 神の「女」の「胤」の主要な者は今やどんな事を行なう立場にありますか。その者を通して来るどんなものにわたしたちは歓呼しますか。
49 神の「女」の「胤」の主要な者たるイエスは,今や大いなる蛇悪魔サタンの頭を砕き,彼とその「胤」なるすべての者を打ち砕く立場にいます。もはやわたしたちは,ユダヤ人であれ異邦人であれ,真のメシアが肉体でこの地上に来るのを待つ必要はありません。彼は確かに来て,西暦第一世紀にその地上での役割を全うしました。(ヨハネ第一 4:2。ヨハネ第二 7)今彼は天での栄光をもってその報いを受けています。彼は今,霊的なメシアまたキリストとなっています。地上の人間のメシアまたキリストであった時よりはるかに多くの事をなし得る立場にあります。
50 すべての栄光はエホバ神,そのみ子イエスに「聖霊と力をもって」油をそそぎ,貴いメシアとならせた方に帰せられます。一切の歓呼は,栄光を受けた霊的メシア,神のキリストを通して全人類に及ぶことが約束された壮大なる永遠の祝福に向けられますように。―使徒 10:38。創世 22:18。