第4章
古代の人々に働いた聖霊
1 聖霊などは存在しないと論ずる人々に対して聖書そのものがその反証となることを述べなさい。
今日の唯物論的な人々は,聖霊などというものは存在しないと論ずるかもしれませんが,そのような論議は無益です。それが古代の人々に働いた結果としてできた物が,今日でも全世界にわたりわたしたちの手もとに存在するからです。その聖霊の働きの結果は,それを破壊しようとする人間や諸国家の度重なる努力にもかかわらず生き延びてきました。それは何ですか。不滅の書である聖書です。人間と悪霊たちからの激しい妨害にもかかわらず,この聖なる書は,あらゆる書物の中で最も広く頒布されてきました。この書を擁護するためには自分の命をも賭する人々がいるのです。
2 聖書は,それを書くためにだれが用いられたかという点では他の本と異なりません。どうしてそう言えますか。
2 聖書は他のすべての本と明確に異なっています。なぜ? それがわたしたち人類家族に属するただの人間によって書かれたという点ではありません。聖書がただの人間の手以外のものによって書かれたとはだれも唱えていません。しかし,それを書いたのはどのような人々でしたか。そこに書き記した事柄はその人自身から出ていましたか。この点が問題です。
3-5 (イ)それがどのように書かれたかについて聖書そのものが何と述べていますか。(ロ)ペテロはペテロ第二 1章15-21節でこの点をどのように確証していますか。
3 聖書を構成する66冊の小さな本が人の手によって書き記されたものであるということは,聖書そのものが述べています。それを書いたのがどのような人々であったかも聖書が示しています。聖書はまた,それらの人々を動かして書き記させた見えない力が何であったかも示しています。それらの人々が書き記した時,その背後には霊がありました。それは悪魔サタンに帰せられる霊ではありません。彼は終始,人の住む全地を惑わすことに躍起となってきたのです。聖書を書き記すことの背後にあった霊は,現在の古い事物秩序の背後にあるのと同じ霊ではありません。どのような人がそれを書き記したか,またその人々を動かして書かせたのがどんな霊かについては,真のキリスト教のための殉教者となった使徒ペテロの簡潔な言葉にまず注目しましょう。
4 「それで,わたしは,[殉教のために]自分の去ったのち,あなたがた自身でこれらのことを話し合えるよう,時あるごとに力をつくして励むつもりでもいます。そうです,わたしたちが,わたしたちの主イエス・キリストの力と臨在についてあなたがたに知らせたのは,巧みに考え出された作り話によったのではなく,彼の荘厳さの目撃者となったことによるのです。というのは,『これはわたしの子,わたしの愛する者,わたし自らこの者を是認した』ということばが荘厳な栄光によって彼にもたらされた時,彼は父なる神から誉れと栄光をお受けになったからです。そうです,わたしたちは彼とともに聖なる山にいた時,このことばが天からもたらされるのを聞きました。
5 「したがって,わたしたちにとって預言のことばはいっそう確かなものになりました。そしてあなたがたが,夜があけて明けの明星が上るまで,暗い所に輝くともしびのように,心の中でそれに注意を向けているのはよいことです。なぜなら,あなたがたはまずこのことを知っているからです。つまり,聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」― ペテロ第二 1:15-21。
6 キリストの変ぼうについて述べるペテロの言葉にはどんな裏付けがありますか。彼の二通の手紙はなぜ霊感の書となりましたか。
6 ペテロ自身,「聖霊に導かれつつ」神によって書きかつ語った人の一人となりました。そのゆえにペテロは,自分および使徒のヤコブとヨハネが目撃者として見聞きした事柄について忠実に証ししました。それはイエス・キリストがパレスチナのある高大な山で彼らの前で変ぼうした時の事です。エルサレム城外で暴虐の死に処せられる数か月前に起きたイエス・キリストのこの変ぼうについては,キリストの他の三人の弟子が記録を残しています。(マタイ 17:1-9。マルコ 9:2-9。ルカ 9:28-36)こうしてペテロの証言は信頼できる人々からの裏付けを得ています。聖書の中では,ペテロの名を付された二つの手紙が彼によって,つまりただの人間によって書かれています。しかし,そのゆえに彼の手紙はただの人間的な作品であるという意味ではありません。ペテロの手紙はその背後に聖霊がありました。つまりそれは,聖霊の源であるエホバ神の霊感を受けたものでした。
7 ペテロ第二 3章15,16節で,ペテロはパウロの書き記したものを霊感の聖書の中に位置づけていることをどのように示していますか。
7 ペテロはその第二の手紙の中で使徒パウロの書いたものに触れ,それを霊感による聖書の一部として位置づけています。ペテロはこう述べました。「わたしたちの主のしんぼうを救いと考えなさい。それはわたしたちの愛する兄弟パウロも,自分に与えられた知恵にしたがってあなたがたに書いたとおりであり,彼はそのすべての手紙の中でしているように,これらのことについて述べているのです。しかし,彼の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています」。(ペテロ第二 3:15,16)今日,ただの人間(パウロ)がそれらの手紙を書いたのであり,それらは人間の考えから出たものにすぎない,と論ずる批判者たちがいます。そのような批判者たちは聖書を曲解しており,『自らの滅びを招く』ことになります。
8 神によって語りかつ書き記した人々の書いた聖書についてパウロはテモテ第二 3章16,17節で何と述べていますか。
8 神によって書きかつ語った人々の記した聖書について,使徒パウロは次のことを述べました。「聖書全体は神の霊感を受けた[字義,神が息を吹き込んだ(セオプネウストス)]ものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」― テモテ第二 3:16,17,王国行間逐語訳。
9 それらの聖書を引くことによりパウロはキリスト教の基について何を論証することができましたか。
9 パウロ自身そのように十分に能力をそなえた「神の人」の一人でした。彼は昔に書かれたヘブライ語聖典に十分に通じていました。それら以前に記された霊感の聖書を引くことにより,パウロは真のキリスト教の基が神によって備えられたものであることを論証することができました。―使徒 17:3。
10 それがどのようになされるかを人は知らないのに,聖書の預言が今日まで成就を続けてきたのはなぜですか。
10 聖書に含まれる預言がこの20世紀に至るまで成就を続けていることには理由があります。それらの預言は,世界情勢がどのように進展するかについて私的な解釈を試みた人々のただの予想ではないのです。聖書の預言は神から出ているのであり,それが神に献身した人々を通して与えられたのです。人間はそれがどのようになされるかを必ずしも知りませんが,神がその預言を実現させます。ペテロはその点を指摘しました。エルサレムの神殿にいた一群のユダヤ人にこう語りました。「こうして神は,すべての預言者の口を通してあらかじめ発表された事がら,すなわち,ご自分のキリストが苦しみを受けるということを成就されたのです。……実に,天はこのかたを,神が昔のご自分の聖なる預言者たちの口を通して語られたすべての事がらの回復の時まで,そのうちにとどめておかなければなりません」。(使徒 3:18-21)預言者を通して語っても,神は偽ることのない方であり,その神の預言を聖書は記録しているのです。
11 ペテロはエルサレムにいた弟子120人の会衆に話した際,神の預言が必ず成就することをどのように強調しましたか。
11 聖書の預言は神から,その聖霊によって来ています。そのゆえに,それは必ず実現します。ペテロはその事についても述べました。エルサレムにいたキリストの弟子120人ほどの会衆に対し,彼はこう語りました。「皆さん,兄弟たち,聖句の成就することが必要でした。それは,聖霊がダビデの口によりユダについてあらかじめ語ったものですが,この者はイエスを捕縛した者たちの手引きとなりました」― 使徒 1:15,16。
12 ペテロおよび他の弟子たちは共に祈りをした際,ダビデの記した詩篇 2篇1節が必ず成就することをどのように示しましたか。
12 後にペテロは仲間の弟子たちの捧げた祈りに共に加わりましたが,その祈りはダビデによる別の預言がいかに実現したかに注目していました。使徒 4章24,25節は次のように記しています。「彼らは思いを一つにし,神に向かい声を上げてこう言った。『主権者なる主よ,あなたは,天と地と海とその中のすべてのものを作られたかたであり,また,聖霊を通じ,あなたのしもべ,わたしたちの父祖ダビデの口によって言われました,「なぜ諸国民は騒ぎ立ち,もろもろの民はむなしい事がらを思いめぐらしたのか」』」。(詩 2:1)こうして,第一世紀のクリスチャンたちは,ヘブライ語聖書が,古代の人々に働いた神の聖霊の所産であることを悟っていました。
13 (イ)サムエル後書 23章1-3節によると,ヘブライ語聖書のうち油をそそがれたダビデが書き記した部分の功はだれに帰せられますか。(ロ)ダビデによる預言を成就させたものは何でしたか。
13 ここで詩篇作者ダビデの名がはっきり挙げられていますから,わたしたちは次の点を問いましょう。ダビデは神聖なヘブライ語聖書の一部となった事柄を語ったり書いたりする事についてどのように感じていたでしょうか。ダビデの書き記したものは特別の価値と意義のあるものとして今日まで保たれてきましたが,ダビデ自身はその書に対する功を自分のものとはしていません。その証拠として,この全イスラエルの油そそがれた王に関する記録が,サムエル後書 23章1-3節の中に次のとおり残されています。「そして,これらはダビデの最後の言葉である。『エッサイの子ダビデの述べた言葉,高く上げられた強健な者の述べた言葉,ヤコブの神の油そそがれた者,イスラエルの調べの快いもの。わたしによって語ったのはエホバの霊であり,その言葉はわたしの舌にあった。イスラエルの神は言われた,わたしにイスラエルの岩なる方は語られた』」。したがって,ダビデによる預言を真実に至らせたものは,彼の長期的先見や物事に対する解釈の能力ではありませんでした。ダビデに働いた神の霊,また神が事態を動かされたことが,事の展開にあずかっていたのです。
14 ダビデだけでなく,イザヤやエレミヤも,聖書のうち自分の記録した部分が自分の考えによるものではないことをどのように示していますか。
14 聖書のうち自分がその記録にあずかった部分がもともと自分の創意によるものではないことを言い表わしているのは独りダビデだけではありません。その霊感の書が聖書中に保存されている他の預言者たちも,自分に臨んだものがエホバ神の言葉であることを正直に認めています。例えば,イザヤはその大きな預言書を次の言葉で始めています。「アモツの子イザヤがユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズそしてヒゼキヤの日にユダおよびエルサレムに関して見た幻。聞け,天よ,耳を向けよ。ああ地よ。エホバ自らこう語られたからである」。(イザヤ 1:1,2)エレミヤはその大預言書を次のように始めています。「ベニヤミンの地のアナトトにおける祭司の一人であったヒルキアの子なるエレミヤの言葉。その者に,ユダの王なる,アモンの子ヨシアの日,その治世の十三年目に,エホバの言葉が臨んだ」― エレミヤ 1:1,2。
聖霊の働きによる昔の勇敢な行為
15 聖書の記述の背後にあった聖霊は強力な軍事指導者の剣より強力なことをどのように示してきましたか。
15 聖なる書という形で聖霊が生み出したものを何びとも鼻であしらうようなことをすべきではありません。聖書筆記者たちの手中にあって神の聖霊によって動かされたペンは,シーザー,ナポレオン,ヒトラーなどの剣よりはるかに強力であることを実証しています。事実,聖霊は,ペンとインクで書き記すよりはるかに壮観な事柄を成し遂げてきました。古代の人々が,見えない全能の神からのこの強大な力によって数々の勇敢な行為を成し遂げたことが記録に残されています。
16,17 (イ)モーセが杖を紅海の上に差し伸べた時,躍動するエネルギーがどこから出て海の水を二つに分けましたか。(ロ)イザヤ 63章11-14節はその正しい答えをさらにどのように示していますか。
16 一例として,聖書の初めの五つの本を記したモーセの場合を取り上げましょう。西暦前1513年,彼は紅海の西岸に立ちました。そして,その右手にあった杖を海上に向けて差し伸べました。ご覧なさい,海の水は二つに分かれ,イスラエル人は追撃して来るエジプト人が追い付く前にそこを渡りおおせたのです。モーセから出た何らかの強大な力がそのような奇跡を生じさせたのですか。そのようなことはあり得ません。預言者のモーセからではなく,あらゆる動的エネルギーの天の源なる方から,その何ものも抗し難い力,イスラエル人の大きな危険からの脱出を阻んでいた水の障壁をも真っ二つに裂く力が出たのです。(出エジプト 14:21から15:21)ゆえに今日,エホバの民が鍛練を受けて何かの難儀を迎える場合,エホバの古代の事跡を思い返して次のように問うのがよいでしょう。
17 『かれらとその群の牧者[モーセとアロン]とを海より携へあげし者はいづこにありや 彼らのなかに聖霊をおきしものはいづこにありや 栄光のかひなをモーセの右にゆかしめ 彼らのまへに[海の]水をさきて自らとこしへの名をつくり 彼らをみちびきて馬の野をはしるがごとくつまづかで淵をすぎしめたりし者はいづこにありや 谷にくだる家畜のごとくにエホバの霊かれらをいこはせたまへり 主よなんぢはかくおのれの民をみちびきて栄光の名をつくりたまへり』― イザヤ 63:11-14,文語。
18 同じ神はこの20世紀においてもご自身のためどのように『美しい名』を立てられますか。
18 イザヤの預言書から引用した上記の言葉は,モーセの民が古代エジプトにおける奴隷状態から救い出された時のことを述べています。その時,すなわち西暦前1513年の春,神は自ら不朽の名,たぐいなく美しい名を立てられました。しかし今,この20世紀において,この同じ神が再び『ご自身のために美しい名を』立てる時が到来しています。紅海で行なわれたような,しかしそれよりはるかに壮大な救いを施されるのです。その時神の名エホバを「美しい」ものと見るすべての人はまことに幸福です。
19 ヘブライ 11章29節に示される点ですが,モーセのどんな資質のとおりに物事は起きましたか。
19 ゆえに,わたしたちは,エホバの聖なる活動力に伴う強大なエネルギーを決して軽く見ることのないように致しましょう。今日それは3,500年前のその時と全く同じほどに強力なのです。預言者モーセはそれの持つ力を見くびることはありませんでした。彼は,奇跡をなすその霊の源としての神に信仰を抱いていました。モーセの抱いたその信仰のとおりに物事は起きたのです。「信仰によって,彼らは乾いた陸地を行くかのようにして紅海を通りました。しかし,あえてそこに乗り出したエジプト人たちはのみ込まれました」。(ヘブライ 11:29)こうして,神は信仰を働かせる者に必ず報いられる,ということが実証されました。(ヘブライ 11:6)民数記 11章16,17,24-29節の記録もご覧ください。忠実なモーセと霊に関する事が述べられています。
20,21 (イ)古代に神への信仰を示した人々は皆ある程度の聖霊を持っていたといえるのはなぜですか。(ロ)ヘブライ 11章4-7節には信仰の人としてどの三人が挙げられていますか。その人たちについてどのように述べられていますか。
20 信仰は「霊の実」の一つです。ガラテア 5章22,23節はその点を示しています。神への信仰を示している人は多少なりとも神の霊を受けていることになります。古代の信仰の男女の名が,その一部ながら,ヘブライ 11章に挙げられています。それらの人々は『わたしたちを囲む,大ぜいの,雲のような証人たち』の一部をなしています。(ヘブライ 12:1)そこに名を挙げられている証人たちとして,最も古くは,エホバ神の最初の証人とされる人,つまり,アダムとエバの息子でカインの弟にあたるアベルがいます。そして,西暦前2370年から2369年にわたった全地球的な大洪水よりも前のその時代には,ほかにもエホバの証し人となった人々がいました。ヘブライ 11章4-7節の中には,大洪水以前に至高の神の証し人となった人たちのうち三人の名が挙げられています。こう記されています。
21 「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささげ,その信仰によって義なる者と証しされました。神が彼の供え物について証しされたのです。またそれによって,彼は死んだとはいえなお語っているのです。信仰によって,エノクは死を見ないように移され,神が彼を移されたので,彼はどこにも見いだされなくなりました。彼は,移される前に,神をじゅうぶんに喜ばせたと証しされたのです。そして,信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです。信仰によって,ノアは,まだ見ていない事がらについて神の警告を与えられたのち,敬神の恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を造りました。そして,この信仰によって,彼は世を罪に定め,信仰による義の相続人となりました」。
22 それら三人のそれぞれがある程度の聖霊を受けていたことはどんな事実から明らかですか。
22 アベル,エノク,ノアの三人が特に名を挙げられています。信仰を働かす面で際立っていたからです。しかし,ほかにも,ノアの妻,三人の息子,三人の嫁たちがいました。それらもノアと共に箱船に入って全地球的な大洪水を生き延びました。(ペテロ第一 3:19,20)アベルはある程度の聖霊を受けていたに違いありません。彼はその実の一つである信仰を有していました。ヤレドの子のエノクもある程度の聖霊を受けていたはずです。ユダ書 14,15節に照らしてみると,神は,人の口から発せられた記録に残る最初の預言を,エノクを用いて語られたからです。(創世 5:18-24)ノアもまたエホバの預言者として用いられました。彼は「義の宣明者」でした。(ペテロ第二 2:5。創世 9:24-29)不敬虔な人々の世にあってノアは注目すべき勇敢な行ないをしました。だれがこの点を否定できるでしょうか。しかし,彼はその勇気ある行為を自らの力によって行なったのではありません。彼の背後には神の聖なる活動力がありました。
23,24 (イ)ノアの箱船が建造されていた間神のどんな資質が示されていましたか。(ロ)創世記 6章1-3節によると,神はどんな決意をされましたか。なぜ?
23 ノアの時代,神の霊は人類全般に対しても活動していました。箱船が建造されたその時代は,『神のしんぼう』の時代でもありました。(ペテロ第一 3:20)神は大いなる自制と堪忍を働かせておられました。それは,道ならぬ人々が,箱船の建造の進むのを見,ノアが『義を宣明する』のを聞いて,その歩みを悔い改めるための時となりました。しかし,神の霊の活動にだれが応じたでしょうか。ただノアとその妻,その息子たちセム,ハム,ヤペテとその三人の妻たちだけでした。神は,人類のために定めなく特別の努力を続けて,言わば彼らとの奮闘を限りなく続けるということは意図されませんでした。創世記 6章1-3節は,神が何を決意されたか,また神がその決意をされた時の地上の状態について明らかにしています。
24 「さて,人が地の表に殖え始めて,彼らに娘たちが生まれると,その時,真の神の子たちが,人の娘たちに,それらが器量の良いのに目を留めるようになった。そして彼らは,自分たちのために妻を,すなわち,すべて自分の選ぶ者をめとるようになった。その後エホバはこう言われた。『わたしの霊が人に対して定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるから。したがってその日数は百二十年となる』」。
25 定めの時が尽きると,神は人類に新たな出発を与えるため何を行なうことを定めましたか。
25 化肉した「真の神の子たち」と「人の娘たち」との間の異種交婚,それはいかにも非道なことでした。そのような事態が定めなく続くことは許されません。それが神の決定でした。それで,あと120年の間だけ,神はそれまでと同じように,しんぼうしてご自分の霊を人類に対して働かせられます。その時が尽きると,大々的変化がもたらされます。長く働かせてこられたその自己抑制は終わります。化肉した霊の使いたちと肉の女たちとの交婚は,山々の頂をも埋める全地球的大洪水によって終わります。耐水の巨大な箱船によって水の上に浮いたノアとその家族は,清く,汚されていない人間の一族としてその大変動を無事に通過し,人類に再出発を与えることになります。その不敬虔な人々の世界が神の霊を悩ませ,憂えさせることはもはや許されません。神は当然の処罰を免れさせないのです。―エフェソス 4:30; イザヤ 63:10; ヘブライ 10:29参照。
26,27 (イ)ノアが箱船を建造して八世紀以上後神はどんな建造の計画を支援されましたか。(ロ)ノアの箱船は神聖な幕屋およびその中庭とどのように比較できますか。
26 こうして,交雑種の人間ではなく,神を恐れて洪水を生き残った人々によって,神は人間家族に,義にかなった新たな出発を与えました。この目的のために神はノアの行なった建造の仕事に後ろだてを与えたのです。それより八世紀以上後,神は重要な意味を持つ別の建造の計画を支援されました。シナイ山で預言者モーセに与えた法典の中で,神は神聖な幕屋の造営を求めたのです。
27 この聖なる会見の天幕において,モーセの民の十二部族,イスラエル国民は定期的に神と会見し,その祭司たちは国民全体のために罪を贖う犠牲を捧げる奉仕に携わることになりました。この幕屋とその囲い込まれた中庭の造営は,ノアの箱船ほどに大規模な作業ではありませんでした。ノアの箱船は巨大なものであり幕屋の中庭であればそれを九つも容することができたでしょう。箱船の三つの階のそれぞれに中庭三つずつです。ノアの箱船の建造にはかなりの工学的技術が求められました。神はそれをノアとその三人の息子たちに授けることができました。イスラエルの幕屋の場合には美術的な技巧が求められました。
28 神が幕屋の造営をご自身の霊で支援されたことは出エジプト記 31章1-6節からどのように明らかですか。
28 イスラエルの崇拝のための幕屋の造営を命じた神は,その造営の作業に後ろだてをお与えになりました。どのように? その答えとして出エジプト記 31章1-6節を開き,その部分が神の活動力についてどのように述べているかに注目しましょう。
「エホバは引き続きモーセに語ってこう言われた。『見なさい,わたしはここに,ユダ族のフルの子であるウリの子ベツァルエルを名を挙げて呼ぶ。そして,知恵と悟りと知識とあらゆる技芸において神の霊を彼に満たす。これは,仕組みを考案するため,金・銀・銅の細工をなすため,また石の業においてそれをはめ込むため,木の業においてあらゆる製品を作るためである。そしてわたしは,見よ,彼のもとに,ダン族のアヒサマクの子であるオホリアブを置く。また,心の賢いすべての者の心に知恵を置き,わたしがあなたに命じたすべてのものをその者たちがまさしく作るようにする」。
ここに示されるとおり,職工の長ベツァルエルは神の霊に満たされていました。
29,30 (イ)神からのどんなものの働きによって幕屋の工事は良い時期に完成しましたか。(ロ)ベツァルエルとオホリアブは自分たちの業に神の是認が表明されるのをいつ,どのようにして見ましたか。
29 あらゆる動的エネルギーの源からのこうした強力な力が働き人たちの背後にありましたから,神聖な幕屋およびそのすべての備品類の造作はまさしく完遂されました。陰暦のその年の終わりまでに,すべての物は組み立ての用意が整い,幕屋は設立の用意ができました。出エジプト記 38章22,23節は胸の躍るようなその完成の模様を記してこう述べています。「そして,ユダ族のフルの子であるウリの子ベツァルエルが,エホバがモーセに命じられたすべての事を行なった。また,彼と共にいたのは,ダン族のアヒサマクの子オホリアブで,青糸・赤紫に染めた羊毛・えんじむし緋色の素材・上等の亜麻を扱う職人,刺しゅう師,また織物師であった」。ベツァルエルとオホリアブにとって,新しい陰暦年の初日(西暦前1512年ニサン1日)は,まことに満ち足りた日であったでしょう。その日,「会見の天幕なる幕屋」がエホバの命令どおりに立てられ,ベツァルエルとオホリアブは奇跡的な光景を目にしたのです。
30 「雲が会見の天幕を覆うようになり,エホバの栄光が幕屋を満たした」。ベツァルエルとオホリアブの二人にとって,これは,彼らが立派に業を果たし,エホバがそれを是認しておられるという証拠でした。エホバの霊が彼らを通して働いたのです。―出エジプト 40:1-34。
31,32 (イ)その幕屋はどれだけの期間神の目的のために用いられましたか。(ロ)ソロモンの神殿の工事およびその完成を聖霊が支援したことはどのような事から明らかですか。
31 会見の天幕としてのこの幕屋は485年のあいだ持続してその目的を果たしました。その後,西暦前1027年にソロモン王がエルサレムに神殿を完成し,それを神の崇拝のために献納しました。
32 ダビデの子ソロモンによるこの神殿の造営も神の聖霊による後ろだてを受けました。ダビデはこの新しい建造物の設計図とも言うべきものを霊感によって与えられたのです。歴代志略上 28章11-19節が述べるとおりです。『ダビデ言ひけらく この工事の式様は皆ことごとくエホバのその手を我が上にくだして我を教へて書かせたまひしものなりと』。(文語)この壮麗な神殿がエルサレムのモリア山上に落成した時,エホバはご自分に対する崇拝のためのその新しい建物に対する是認を表明されました。『雲そのいへすなはちエホバのいへにみてり 祭司は雲のゆえをもて立ちてつとめをなすことを得ざりき エホバの栄光神のいへにみちたればなり』― 歴代下 5:13,14,文語。
33 ゆえに,神への清い崇拝の背後には何がありますか。
33 ゆえに,わたしたちは一つの肝要な点を確信していましょう。すなわち,エホバへの純粋な崇拝の背後には聖霊があるのです。それは,唯一のまことの神への清い崇拝を実践し,それを擁護する人々を支えて強力に活動します。その事の例は,特別に選ばれた裁き人たちが,約束の地に入ったイスラエルを治めた時代にも示されました。
裁き人が治めた時代におけるその目ざましい活動
34 聖霊は裁き人オテニエルを通してどのように働きましたか。
34 清い崇拝から離れたイスラエル人は,そのために圧制的なシリアの王の勢力下に置かれるようになりました。『ここにイスラエルのひとびとエホバによばはりしかば エホバはイスラエルのひとびとのためにひとりの救者を起こしてこれを救はしめたまふ すなはちカレブのをとうとケナズの子オテニエルこれなり』。どのような事が起きましたか。『エホバの霊オテニエルにのぞみたれば彼イスラエルを治め戦ひに出づ エホバ メソポタミヤの王クシャンリシャタイムをその手にわたしたまひたればオテニエルの手クシャンリシャタイムに勝つことを得たり かくて国は四十年のあひだ太平なりき』― 士師 3:9-11,文語。
35 裁き人ギデオンの場合,聖霊はどのように働きましたか。
35 やがて事態は再び厳しくなり,イスラエルの人々はエホバに呼ばわって,別の裁き人を起こし,ご自分の民イスラエルを救出してくださるようにと求めました。『ここにミデアン人アマレク人および東方の民相集まりて河をわたりエズレルの谷に陣を取りしが エホバの霊ギデオンに臨みてギデオンらっぱを吹きたればアビエゼル人集まりてこれに従う』。(士師 6:33,34,文語)この信仰の人を用いてエホバはご自分の民に目ざましい勝利をお与えになりました。それは後に聖書の歴史の中でも言及されるほどの勝利でした。―イザヤ 9:4-6; 10:26。詩 83:9-12。ヘブライ 11:32,33。
36 裁き人エフタを通して聖霊は何を成し遂げましたか。
36 エホバからの聖なる活動力が信仰の人々のために幾度も働きました。エホバはその人々を用いて後代に伝わるようなみ業をなされたのです。抑圧されたイスラエル人が侵略的なアンモン人と相会して戦わねばならなかった時のことです。『ここにエホバの霊エフタに臨みしかば エフタすなはちギレアデおよびマナセをとほり……アンモンの人々に向かふ』。(文語)エホバの賛美となるような勝利を切に請い求めた裁き人エフタは,自分にとっては大きな犠牲となった誓約をしました。こうしてエホバはアンモン人を打ち懲らすためにエフタを用いました。―士師 11:29から12:7まで。
37 イスラエル人をペリシテ人の手から救うためにエホバはだれを起こしましたか。その救いは何によりましたか。
37 幾年も後,ペリシテ人がイスラエル人に対して特に抑圧的な態度を取るようになりました。そのため神は,サムソンという並外れの人物の誕生を図られました。それは,『ペリシテ人の手よりイスラエルをすく(ふ)』べき人です。その目的のために神の活動力が彼を支えました。『エホバの霊ゾラとエシタオルのあひだなるマハネダンにて始めて感動す』。(文語)ゆえに,かつて地上に存在したいかなる人間にも勝る強大な力を発揮したサムソンも,自らの肉体的な力でそれをなしたのではありません。―士師 13:5,25。
38 ほえたける獅子と出会った時サムソンは何をしましたか。なぞ解きに関してペリシテ人が不公正な振舞いをした時,彼はその事態にどのように処しましたか。
38 ある時サムソンは独りで歩いていました。突如『わかき獅子』が彼の前に飛び出し,『ほえたけりて彼に向かひ』ました。素手のサムソンはどのように行動したでしょうか。『エホバの霊彼にのぞみたれば こ山羊を裂くがごとくにこれを裂きたりしが手には何の武器も持たざりき』。そのしばらく後,ペリシテ人はあるなぞの件で彼をだまし,彼に大きな出費を負わせようとしました。これは逆にペリシテ人が災いを被る結果になりました。再度,『ここにエホバの霊サムソンに臨みしかばサムソン,[ペリシテの]アシケロンに下りてかしこの者三十人を殺し その物を奪ひかのなぞを解きし者どもにその衣服を与へ(たり)』。―士師 14:5-19,文語。
39 イスラエル人がサムソンを新しいロープで縛ってペリシテ人に引き渡した時どんな事がありましたか。
39 新しいロープさえサムソンにとっては強じんなものではありませんでした。悪意を抱くペリシテ人の手に渡されて縛られた時のことです。『エホバの霊彼にのぞみたればその腕にかかれるなは火にやけたる麻のごとくになりて手のいましめ解けはなれたり サムソンすなはちろ馬のあたらしきあぎと骨ひとつを見出し手をのべてこれを取り そをもて一千人を殺(せり)』― 士師 15:11-15,文語。
40,41 サムソンがイスラエルの裁き人として仕えた期間より死の際に殺したペリシテ人のほうが多いのはどんな出来事によりますか。
40 偽りの神ダゴンの崇拝者であったペリシテ人に対して神がサムソンを通して行なった最大の事跡は,その最後のものでした。それは神の霊が弱り衰えたりはしないことを示すものです。
41 デリラという女によって売り渡され,復しゅうに燃えるペリシテ人の手でめくらにされたサムソンは,ペリシテのガザにあったダゴンの神殿の二本の柱の間に立ちました。その中心的な場所で『サムソンすなはちその家のよりてたつところのふたつの中柱のひとつを右の手ひとつを左の手にかゝへて身をこれによせたりしが サムソン我はペリシテ人とともに死なんといひて力をきはめて身をかがめたれば 家はそのなかに居る群伯とすべての民のうへに倒れたり かくサムソンが死ぬるときに殺せしものは生けるときに殺せし者よりもおほかりき』― 士師 16:23-30,文語。
42 ヘブライ 11章32-34節の中でサムソンの名はどんな人々と共に挙げられていますか。
42 サムソンは,神からの霊の実である神への信仰を抱いた古代の人々の中に数えられています。「このうえ何を言いましょうか」。ヘブライ書の筆者はその第11章でこう問い掛け,自らこう答えます。「さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」― ヘブライ 11:32-34。
エホバの油そそがれた者
43 サムエルがベツレヘムでダビデに油をそそいだすぐ後ダビデにはどんな変化が起きましたか。
43 ヘブライ書の筆者が挙げる顕著な名は,ベツレヘムのエッサイの子ダビデです。まだ十代の羊飼いの少年であった時,ダビデは預言者サムエルによって油をそそがれました。やがてイスラエル全十二部族の王となるためです。こうして油をそそがれた直後にどのような事がありましたか。「エホバの霊がその日以降ダビデの上に働き始めた。後にサムエルは立ってラマへ去って行った。そして,エホバの霊が[その時治めていた王]サウルから離れ(た)」。(サムエル前 16:13,14)やがて,不忠実な王サウルは絶望のあまり霊媒に頼りました。死者との交信ができるようにと望んだのです。そのしばらく後,彼はペリシテ人との戦いで死にました。
44 サウル王の討死の後,神はダビデをどのように扱われましたか。
44 ダビデのほうは,サムエルによりそのためにあらかじめ油をそそがれていた王の地位に就きました。彼が揺らぐことなく崇拝した神は彼に力を与えて,数々の功業を立てさせました。約束の地全体を従えるまでになったのです。それだけではありません。神は彼に霊感を与えて預言を語りかつ書き記させました。彼は真の預言者の一人となったのです。ゆえにこそ,「聖句の成就することが必要でした。それは,聖霊がダビデの口により……あらかじめ語ったものです」と述べられています。―使徒 1:16; 4:24,25。
45 信仰によるそうしたすべての功業に関し,その賛美はだれに帰せられますか。ゼカリヤ 4章6節にある神の言葉のしるしとしてゼルバベルと大祭司ヨシュアはどんな祝いにあずかりましたか。
45 それら古代の人々のなした数々の並外れた功業について,そのすべての賛美は,尽きざる動的エネルギーの源なる神に帰せられねばなりません。そうした功業の中には,霊感によるヘブライ語聖書39冊,創世記からマラキ書までを記録することも含まれています。ゼカリヤの預言書の中では,総督ゼルバベルに対して激励の言葉が与えられています。ゼルバベルはエルサレムに神殿を再建する任務を与えられていました。それは西暦前607年,バビロニア人の手で破壊されたままになっていたのです。その神殿再建者に与えられたのは次の言葉です。『万軍のエホバのたまふ これは権勢によらず能力によらず 我が霊によるなり』。(ゼカリヤ 4:6,文語)軍事力その他の物理的な力より強力なものによって支えられた総督ゼルバベル,およびその同労者であった大祭司ヨシュアは,敵の反対を物ともせずに作業を進め,こうして西暦前515年,エルサレムにおけるエホバの神殿再建の完成を祝う特権にあずかりました。
この時代における功業の曙光
46 どのような点でそれら聖霊による人間の功業には単なる忠実以上の意味がありますか。
46 ゼルバベルに対する激励の言葉は,西暦紀元の500年以上も前に霊感によって与えられたものです。それでもそれは,預言者ゼカリヤの時代と同じく今日のわたしたちにとっても極めて意味のある言葉です。なぜ? なぜなら,わたしたちは,エホバ神が超人間的な動的エネルギーの源であることを信じているからです。全能の神が古代の人々に聖霊を働かせて行なわせた数々の勇気ある信仰の業には,単なる史実以上の意味があります。それは,メシアすなわち神の油そそがれた者の到来からわたしたちの世代にまでわたって神が行なわれる数々の功業の曙光でもありました。
47,48 (イ)到来を予告されたメシアはその誕生においてどのような特別のいきさつをを持つ人によって紹介されましたか。(ロ)メシアの前駆者はその母の胎以来どんなものによって満たされますか。その人は何を行ないますか。
47 到来を予告されたメシアは,1,900年前,ある意味で同じく異例な誕生のいきさつを持つ別の人によって紹介されました。その人の誕生はその父と母の普通の生殖力によるものではありませんでした。その時,その二人は子供を生む年齢をずっと過ぎていたのです。二人の生殖力をよみがえらせることが必要でした。彼らの独り子を生むためです。その父である祭司ゼカリヤはその息子をヨハネと名付けることになります。
48 その大いに待望された息子の誕生を告げるにあたり,み使いガブリエルは神殿でゼカリヤにこう述べました。「彼は,まさにその母の胎にいる時から聖霊に満たされます。そして,イスラエルの子らの多くの者をその神エホバに立ち返らせるでしょう。また,彼はエリヤの霊と力をもってそのみまえを行きます。それは,父の心を子どもに,また不従順な者を義人の実際的な知恵に立ち返らせるため,準備のできた民をエホバのみまえにととのえるためです」― ルカ 1:5-17。マラキ 4:5,6と比較。
49 それで,真のメシアは自らを紹介するのですか。それともだれか他の者によって紹介を受けるのですか。どのように?
49 真のメシアはこのような前駆者によって紹介されます。それは,自らメシアと称し,イスラエル国民に自分を宣伝し,自らについてふれ回って大勢の追随者を寄せ集めようとするような野心的人物ではありません。(イザヤ 42:2-4)むしろ,その者は,神によって遣わされ,神からの後ろだてを持つ人により,メシアを待ち望む人々の前に正式に紹介されるのです。―イザヤ 40:3-5。ヨハネ 1:6,7。
50 ヨエル 2章28-32節はメシアの到来後に何が起きると述べていましたか。
50 メシアの到来後には,ヨエル 2章28-32節にある目ざましい預言が成就することになっていました。『その後われわが霊をすべての人に注がん 汝らのむすこむすめは預言せん 汝らの老いたる人は夢を見 汝らのわかき人はまぼろしを見ん その日我またわが霊を僕しもめに注がん また天と地にしるしをあらはさん すなはち血あり火あり煙の柱あるべし エホバの畏るべき大いなる日の来たらんさきに日は暗く月は血に変はらん すべてエホバの名をよぶ者は救はるべし そはエホバののたまひしごとくシオンの山とエルサレムとに救はれし者あるべければなり そののこれる者[生き残った者,新]のうちにエホバの召したまへるものあらん』。(文語)
51 (イ)ヨエルの預言から見て今どんな点を尋ねるのがよいですか。(ロ)なぜ人は今エホバの名を呼び求めるべきですか。
51 さて,わたしたちはここで尋ねます。エホバがあらゆるたぐいの肉なる者の上に注ぐと約束したもの,それを受けるのはだれでしょうか。その注ぎ出されるものによって動かされてそれらの人々は預言をするのです。その人々の預言の業は時宜を得たものとなります。『エホバの畏るべき大いなる日』の到来に先立ち,それを予告するからです。そうした預言の業に注意を払う人々は救われた者たちの中に入ることでしょう。その人々は「生き残った者」たちの中に入るでしょう。この時代西暦1914年以来のあらゆる状況から判断するなら,わたしたちの前途にある『エホバの日』は,まさに『畏るべき大いなる日』となります。『救はれる』者となることを願いますか。それを願うなら,わたしたちは『エホバの名をよぶ』ことが求められます。ご自分の霊をもって新秩序を来たらせる方の名を呼び求めることが必要です。