聖書理解の助け ― 捕囚(その一)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
捕囚(その一)。聖書の歴史には幾つかの捕囚のことが述べられています。(民数 21:29。歴代下 29:9。イザヤ 46:2。エゼキエル 30:17,18。ダニエル 11:33。ナホム 3:10。啓示 13:10)しかし,普通,捕囚といえば,西暦前8世紀と7世紀にアッシリアおよびバビロニア世界強国がユダヤ人を約束の地から大々的に追放したことを指しており,このことはまた,「追放」および「流刑」とも呼ばれています。―エズラ 6:21,新。マタイ 1:17。
エレミヤやエゼキエルその他の預言者は次のように述べて,この重大な災厄を警告しました。「だれでも捕囚のための者は捕囚に!」『パシュフルよ,あなたと,あなたの家に住む者は皆,捕囚の身となって行く。あなたは,バビロンに行く』。「エルサレムと……イスラエルの全家に対してこの宣言がある。……彼らは,追放の身,捕囚の身となる」。(エレミヤ 15:2; 20:6; エゼキエル 12:10,11,新)後に,バビロン捕囚からの帰還に関し,ネヘミヤ(7:6,新)はこう述べました。「これらは,バビロンの王ネブカデネザルが捕らえて追放した。その追放された人々で捕囚の身から解かれて上り,後にエルサレムとユダに……帰って来た,この管轄地域の子らである」。―エズラ 2:1; 3:8; 8:35。ネヘミヤ 1:2,3; 8:17も見なさい。
攻略した町の全住民を追い立てて,その故国から立ち退かせ,帝国の他の場所からの捕虜を再びその地域に住まわせる政策を初めて導入したのはアッシリアであると思われます。アッシリアのこの強制移住政策は単にユダヤ人に対してのみ実施されたのではありません。というのは,シリアの首都,ダマスカスがこの第二世界強国の決定的な猛攻撃の前に陥落したとき,預言者アモスによって予告された通り,その民はキルに流刑にされました。(列王下 16:8,9。アモス 1:5)この慣行には二重の効果がありました。すなわち,残された少数の者たちに破壊活動を思いとどまらせる効果がありましたし,捕虜として連れ去られた者たちと親しかった周りの国々の民も,遠い所から連れて来られた新しい異国の分子に対しては余り援助を差し伸べたいなどとは考えませんでした。
北の10部族のイスラエル王国と南の2部族のユダ王国の場合は両方とも,捕囚を招くに至った原因は同じで,それは偽りの神々を支持してエホバの真の崇拝を捨てたことにありました。(申命 28:15,62-68。列王下 17:7-18; 21:10-15)しかしエホバはこれら二王国に預言者を遣わして警告させ続けましたが,効きめはありませんでした。(列王下 17:13)10部族のイスラエル王国の王たちはだれ一人として,同王国の初代の王,ヤラベアムの始めた偽りの崇拝を完全に清めたことがありませんでした。その南の姉妹王国,ユダは,エホバからの直接の警告にも,イスラエルが捕囚に陥った前例にも留意しませんでした。(エレミヤ 3:6-10)この両王国は各々一度ならず重大な強制移住を経験し,その住民は結局,追放の身となって連れ去られました。
追放の始まり
サマリアにおけるイスラエル人の王ペカの治世(西暦前778年-758年ごろ)中,アッシリアの王プル(その正式の称号はティグラト・ピレセル三世と思われる)は,イスラエルを攻め,北部の相当広い地方を攻略し,その住民を同帝国東部に強制移住させました。(列王下 15:29)この同じ君主はまた,ヨルダン東部の領地をも攻略し,「彼はルベン人とガド人とマナセの半部族の者たちを捕らえて追放し,彼らをハウラとハボルとハラとゴザン川に連れて行って,今日に至っている」と記されています。―歴代上 5:26,新。
こうして,西暦前740年,サマリアがアッシリア人の手に落ちたとき,その10部族の王国は終わり,住民は捕らえられて,「ハウラと,ゴザン川のほとりのハボルと,メディア人の諸都市に」追放されました。これは,聖書が述べる通り,「彼らが自分たちの神エホバの声に聴き従わず,その契約を,すべてエホバのしもべモーセが命じたことをさえ踏み越えていた……彼らは聴き従うこともせず,実行もしなかった」ためでした。(列王下 18:11,12; 17:6,新)ところが,その都市を陥落させたことをアッシリアの王サルゴン二世は自分の功績であると唱えました。サルゴンの年代記にはこう記されています。「わたしはサマリア(サメリナ)を攻め囲んで征服し,その住民2万7,290人を戦利品として連れさった。わたしは彼らの中から戦車50台で成る分遣隊を組織し,残った(住民)にその(社会的)地位を得させた。わたしは彼らの上にわたしの役人を立て,以前の王の貢ぎ物を彼らに課した」― プリチャード著,「古代近東本文」1955年版,284,285ページ。
それから,広く散在する他の都市からの捕虜が連れて来られ,サマリアの諸都市に定住させられました。「次いで,アッシリアの王はバビロン,クタ,アワ,ハマトおよびセファルワイムから人々を連れて来て,彼らをイスラエルの子らの代わりにサマリアの諸都市に住ませた。それで彼らはサマリアを手に入れ,その諸都市に住むことになった」のです。(列王下 17:24,新)このような異国の分子はその異教の宗教を移し入れ,『それぞれの国民は,銘々自分たちの神を作る者となり』ました。そして,彼らはエホバを重んずることも,敬うこともしなかったので,エホバは「彼らのうちにライオンを送り,それは彼らのうちで人を殺すものとなった」のです。そこでアッシリアの王はイスラエル人の祭司の一人を帰らせ,その祭司は,「どのようにしてエホバを恐れるべきかについて彼らを教える者」となりました。それで,記録がさらに述べる通り,「彼らはエホバを恐れる者となったが,人々が彼らを引っ立てて追放した諸国民の宗教に従って,自分たちの神々を崇拝する者となっていた」のです。―列王下 17:25-33,新。
この北の王国の倒壊後の1世紀余の間に,別の有名な追放が始まりました。セナケリブは西暦前732年に神のみ手により屈辱的な敗北を被る前に,ユダの他の多くの場所を攻撃しました。その年代記によれば,セナケリブはユダの領地の各地の町や要さいから20万150人の人々を捕らえたと主張していますが,その年代記の語調から見て,この数字は多分に誇張されたものと思われます。(列王下 18:13)その後継者エサルハドンと,彼の跡を継いだアッシリアの君主オスナパル(アッシュール・バニパル)も,捕虜を異国の領地に移送しました。―エズラ 4:2,10。
西暦前628年,エジプトのパロ・ネコは南王国のヨシアの子エホアハズを捕らえてかせに付け,捕虜としてエジプトに連行しました。(歴代下 36:1-5)しかし,最初にエルサレムから捕虜が捕らえられてバビロンに追放されたのは,さらに10年余の後の西暦前617年のことでした。ネブカデネザルがその反抗的な都市に攻めて来て,王エコニアとその母,それにエゼキエル,ダニエル,ハナニヤ,ミシヤエルおよびアザリヤのような人々を含め,住民のうちの上層階級の人々を連れ去りました。それと共に,「すべての君たち,およびすべての勇敢な,力のある人々 ― 一万人を捕らえて追放していたのである ― また,職人やほう塁の建設者をも皆[連れさり]……この地の民の身分の低い階級の者の外はだれも残さなかった。……廷臣たち,この国の主立った人々を追放された者としてエルサレムからバビロンに連れ去った。すべての勇敢な者,七千人,職人やほう塁の建設者,一千人,戦いを行なうすべての力のある者たちについては,バビロンの王はこれを追放された者としてバビロンに連れていった」と記されています。また,神殿からは多量の財宝を奪いました。(列王下 24:12-16,新。エステル 2:6。エゼキエル 1:1-3。ダニエル 1:2,6)エコニアのおじゼデキヤは封臣の王として残されました。預言者エレミヤを含め,他の少数の重要な人々もエルサレムにとどまりました。列王下 24章14節に記されている相当数の捕虜から見て,エレミヤ記 52章28節にある3,023人という人数は特定の階級の人々,つまり氏族の頭の人々を指しているものと思われます。―幾千人にも達するその妻子はこの人数には含まれていないようです。
18か月の攻囲の後,西暦前607年,ネブカデネザルによる二度目の,そして最後の攻略が完了しました。(列王下 25:1-4)この度は,その都は住民の大半を失いました。その地の身分の低い者が少数,ミズパにいる知事ゲダリヤの下で「ぶどう栽培者と強制労働者として」とどまるのを許されました。(エレミヤ 52:16; 40:7-10,新。列王下 25:22)捕虜としてバビロンに連れて行かれた者の中には,「民の中の身分の低い者の少数の者と,都に残された民の残りと……脱走者たちと,職長の残りの者」が含まれていました。「都に残された」という表現は,相当数の者が飢きんか病気か火のいずれかで死んだり,戦いで打ち殺されたりしたことを示しているようです。(エレミヤ 52:15,新。列王下 25:11)ゼデキヤの子らや,ユダの君たち,廷臣たち,ある祭司たち,その他多数の著名な市民はバビロンの王の命令で殺されました。(列王下 25:7,18-21。エレミヤ 52:10,24-27)このすべてからすれば,連れ去られた追放者として実際に挙げられている人数がどちらかといえば少ないことも説明できるでしょう。記されている,わずか832人という人数は家の者の頭であって,妻や子供は数えられていないように思われます。―エレミヤ 52:29。
2か月程の後,ゲダリヤの暗殺後,ユダヤに残された残りの者たちは,エレミヤとバルクを連れてエジプトに逃げました。(列王下 25:8-12,25,26。エレミヤ 43:5-7)ユダヤ人の一部の者はまた,周りの他の国にも逃げたことでしょう。それから5年後,エホバの象徴的なこん棒であるネブカデネザルがユダの周辺の諸国を打ち砕いたとき,恐らくそれらの国々やエジプトから,家の頭である745人の捕虜が追放されたものと思われます。(エレミヤ 51:20; 52:30)ヨセフスによれば,エルサレムが陥落してから5年後,ネブカデネザルはアンモンやモアブを侵略し,さらに下って行ってエジプトに復しゅうをしたと言われています。―「ユダヤ古代誌」第10巻9章7節。
エルサレムの事情は征服された他の諸都市とは異なっていました。アッシリア帝国の他の場所から移されて来た捕虜によって再び人が住むようになったサマリアとは異なり,またバビロニア人が征服した都市に対して普通行なっていたこととは異なって,この特定の場合にはエルサレムとその付近は,エホバが前もって定めておられた通り,人の住まない所となり,荒廃するままにされました。聖書批評家は,かつて繁栄したユダの地が突然「住民のいない,荒廃した所」と化したことを疑問視するかもしれませんが,そうではないことを証明する歴史的証拠や,その時期の記録は一つもないことが認められています。(エレミヤ 9:11,新; 32:43)考古学者G・E・ライトは,「この時代に都市が次々に人の住まない所となり,多くの都市には二度と人が住まなかったことを示す考古学的調査から見て……ユダが暴虐を被ったことは明らかである」と言明しています。(「聖書考古学」1957年版,179ページ)W・F・オールブライトも,「ユダ本土の町で,追放時代中,引き続き人々が居住した例はただの一つも知られていない」と語って,それを認めています。―「パレスチナの考古学」1949年版,142ページ。