聖書理解の助け ― バビロン
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
バビロン [混乱の意]。バベルの後代の名称。この有名な都市は,後にバビロニアと呼ばれたシナルの平野のユーフラテス河畔に位置しており,エルサレムの東約870キロ,現代のバグダードの南約80キロの地点にあります。
西暦前三千年期の末ごろに生きていたニムロデが,人間の最初の政治的な帝国の首都としてバビロンを建設しました。この都市の建設は,意志伝達の点で混乱が生じたため,突然中止されました。(創世 11:9)その後,別の世代のその再建者が登場しては去ってゆきました。ハンムラビはこの都市を拡張・強化し,セム人の支配下のバビロニア帝国の首都にしました。
アッシリア世界強国の支配下で,バビロンは様々の闘争と反逆を繰り返した点で異彩を放っています。次いで,その第二世界帝国が衰退すると,カルデア人ナボポラッサルが西暦前645年ごろ,バビロンで新王朝を創設しました。復興を成し遂げ,その全盛時代をもたらした,その子ネブカデネザル二世は,「この大バビロンは……わたしが建てたものではないか」と豪語しました。(ダニエル 4:30,新)こうして全盛期を迎えたこの都は,その後王座についた,ネブカデネザルの子エビル・メロダク(アメル・マルドゥク),その婿ネリグリッサル,ネリグリッサルの子ラバシ・マルドゥク,そして最後にネブカデネザルの婿ナボニドスなどの歴代の王の統治下で,第三世界強国の首都として存続しました。このナボニドスの子ベルシャザルは,クロス大王指揮下のメディア人,ペルシャ人およびエラム人の侵入軍の前にバビロンが倒れた,西暦前539年10月5/6日の夜まで,共同統治者としてその父と共に支配していました。
運命を決するその夜のこと,バビロンの都でベルシャザルは一千人の高官と共に宴を開いていました。ナボニドスはそこに居合わせなかったので,しっくいの壁に現われた,「メネ,メネ,テケル ウ パルシン」という不吉な文字を見ませんでした。(ダニエル 5:5-28,新)昔の歴史的な記録は,その後どうなったかを示しています。ペルシャ人の手で敗北を被った後,ナボニドスは南西のボルシッパの都市に避難しました。10月5/6日のその夜,クロスの軍隊はバビロンの難攻不落の城壁の周囲の陣営で眠っていたわけではありません。彼らにとって,その夜は盛んな活動を伴う夜でした。実に巧妙な戦略がめぐらされ,クロスの軍隊の土木技師たちは,大河ユーフラテスの水流をバビロンの都を貫通する水路から別の水路に移したのです。それから,ペルシャ人は川床を下り,堤防を越え,さん橋沿いの門を通って,その都に不意打ちを食わせました。彼らは素早く街路を通り抜け,抵抗する者をみな殺して,王宮を攻め取り,ベルシャザルを殺しました。それは徹底したものでした。一夜にしてバビロンは倒れ,セム人が支配権を振るった世紀は終わりを告げ,アーリア人がバビロンを支配することになり,エホバの預言の言葉が成就しました。―イザヤ 44:27; 45:1,2。エレミヤ 50:38; 51:30-32。
この記念すべき年,西暦前539年以後,その都が衰退するにつれ,バビロンの栄華は薄れはじめました。この国は二度,ペルシャ皇帝ダリヨス一世(ヒュスタペス)に反逆し,二度目のときに解体させられました。後に,その都は部分的に復興したものの,クセルクセス一世に反抗し(西暦前482年ごろ),略奪されました。アレクサンドロス大王はバビロンをその首都にするつもりでしたが,彼は突然,西暦前323年に死にました。セレウコスは西暦前312年にその都を征服して,その資材の多くをチグリス河畔に輸送し,彼の新しい首都セレウキアの建設に用いました。それにしても,バビロンの都とユダヤ人の居留地は,キリスト教時代の初期のころでも残っており,そのため使徒ペテロはその手紙にも指摘されているように,バビロンを訪れました。(ペテロ第一 5:13)その地で見つけられた碑文によれば,バビロンのベルの神殿は西暦75年の後代まで存続していたことが分かります。この都は西暦四世紀ごろ,消滅したようです。それはほかならぬ「石の山」と化しました。(エレミヤ 51:37,新)今日では,それらの石さえ崩壊してしまい,塚や廃きょ,何も生えない全くの荒れ地以外何も残っていません。フランス国立博物館の館長で,1930年から1950年にかけて数回その遺跡を訪れたアンドレ・パロは,「そこで私がいつも受けた印象は,完全な荒廃の一語につきる」と述べています。(B・E・フック英訳,「旧約聖書のバビロン」の序言)確かに,その荒廃した状態は,イザヤ書 13章19-22節; 21章9節; 47章1-3節; 48章14節や,エレミヤ記 50章13,23節; 51章41-44,64節などの預言の紛れもない成就を示すものです。
歴史家や考古学者の証言によれば,ネブカデネザルの時代のバビロンにかなり近いと思われるものを復原することは可能です。この都市は二重の城壁で囲まれており,外側の城壁は塔で支えられ,街路はどっしりした城壁の門から市内を貫通していました。大通りである行列道路は舗装され,その両側の城壁は,尊ばれた神々の象徴であるライオン,竜それに雄牛で飾られていました。ヘロドトスによれば,大河ユーフラテスの両側には切れ目のないさん橋が取り付けられており,そのさん橋は二十五の出入口のある城壁によって市そのものからは隔てられていました。この都の偉大な建設者であるネブカデネザル二世は,古い王宮を修理,拡張し,さらに都の北2.4キロのところに夏の王宮を建てました。彼はまた,「世界七不思議」の一つとして有名な,幾段も重なった,丸天井のあるアーチ道の大建造物,つまりバビロンのつり庭も造りました。
エクハルト・ウンゲルの説明に基づいて描かれたこの都の図表(1931年版,「バビロニア人の説明による聖なる都バビロン」の,発掘調査および古代バビロニア語本文に基づく図版2)は,ヘロドトスの説明とは幾つかの点で著しく異なっています。ウンゲルの説明では,バビロンはかなり小さくて,川の西側の堤防にはさん橋のある城壁が取り付けられてはいません。
ユーフラテス川の水路の両側に広がっているこの大都市は,当時の世界交易上の商工業の中心地でした。それは重要な工業中心地だっただけでなく,東方と西方の諸民族の間の陸路および海路による交易のための商業上の物資集積場でした。バビロンには,その市内の運河だけでなく,大河チグリスとユーフラテスを往復する三千そうのガレー船団があったと言われています。これは,バビロンの船団がペルシャ湾およびそれよりもはるか遠くの海にまで往き来していたことを示しています。
バビロンの宗教
バビロンは極めて宗教的な場所で,少なくとも五十三の神殿の遺跡が発見されています。この壮大な都の神はマルドゥクでした。その神殿は,「高大な家」という意のエ・サギで,「天地の基の家」という意味のエ・テメ・ナンキと呼ばれる塔がありました。マルドゥクは聖書ではメロダクと呼ばれており,幾人かの権威者はマルドゥク神とはニムロデのことだと見ています。住民がその都市の建設者を神格化するのは古来の習慣でした。バビロンの宗教ではまた,三つ組の神も目立っています。その一つとして,二人の男神と一人の女神で成る三つ組は,シン(月の神),シャマシュ(太陽神)およびイシュタルです。これらの神々は十二宮の支配者とされていました。さらに,別の三つ組は小悪魔ラバルトゥ,ラバスおよびアククアズで成っていました。また,どこでも偶像崇拝が行なわれていました。バビロンは確かに,けがらわしい「汚らしい偶像」や「彫像の地」でした。(エレミヤ 5:1,2,38,新)バビロニア人は人間の魂の不滅説を信じていました。彼らの神ネルガルはよみの国,つまり「帰ることのできない地」の神で,その妻エレシュ・キガルはその地の女王でした。
バビロニア人は星の中に人間の将来を読み取ろうとして,占星術という見せかけの科学を発達させました。魔術・魔法・占星術は彼らの宗教の中で顕著な役割を演じました。(イザヤ 47:12,13。ダニエル 2:27; 4:7)例えば,多くの天体,つまり惑星はバビロニアの神々の名にちなんで呼ばれました。西暦4世紀,エビファニウスは,『魔術や占星術という科学を確立したのはニムロデ』であるという意見を述べました。占いはネブカデネザルの時代のバビロンの宗教の基本的な構成要素で,ネブカデネザルも占いに頼って決定を下していました。―エゼキエル 21:20-22。
イスラエルの昔からの敵
聖書は最初のバベルの都市に関する創世記の記述を始めとして,幾度もバビロンに言及しています。(創世 10:10; 11:1-9)アカンがエリコから取って来た分捕り物の中にも,「シヌアルからの公式の服」がありました。(ヨシュア 7:21,新)西暦前740年にイスラエルの北王国が倒れた後,バビロンからの人々が連れて来られ,捕らわれたイスラエル人の代わりにとどまりました。(列王下 17:24,30)ヒゼキヤはバビロンからの使者にその家の財宝を見せるという間違いを犯しました。その同じ財宝はヒゼキヤの「子ら」の幾人かと共にバビロンに運ばれました。(列王下 20:12-18; 24:12; 25:6,7,新)マナセ王(西暦前716-661年)もまた,バビロンに捕虜として連れて行かれましたが,身を低くしたので,エホバは彼を王位に復帰させられました。(歴代下 33:11)ネブカデネザルのもとで,バビロンは不忠実なユダとエルサレムに向かって憤りを注ぐ,エホバのみ手にある「黄金の杯」となりました。ネブカデネザル王はエホバの家の貴重な器具と共に,幾千人もの捕囚をバビロンに携えて行きました。―列王下 24:1-25:30。歴代下 36:6-20。エレミヤ 25:17; 51:7,新。
ダニエル書には,バビロンに捕らえられていたダニエルとその三人の友の経験と,王の夢を説き明かしたり,幻を与えられたりしたことが記されています。エズラ書とネヘミヤ記は,およそ5万人の人々が西暦前537年に捕らわれの身から解放されてゼルバベルとヨシュアと共に,さらに,前468年にはほかに1,800人がエズラと共に上って来たことを述べています。神殿の器具類もエルサレムに戻されました。(エズラ 2:64-67; 8:1-36。ネヘミヤ 7:6,66,67)前455年には,「バビロンの王」とも呼ばれた,ペルシャの王アルタクセルクセス一世は,ネヘミヤを総督として任命してエルサレムに赴かせ,その城壁を再建させました。(ネヘミヤ 2:7,8)モルデカイは捕らわれ人としてバビロンに連れ去られたあるベニヤミン人の子孫でした。―エステル 2:5,6。
クリスチャン・ギリシャ語聖書は,バビロンに囚人として連れて行かれたエコニヤ(エホヤキン)がイエスまでの血筋をつなぐ一人物となっていることを述べています。(マタイ 1:11,12,17)聖書正典に含まれている使徒ペテロの最初の手紙はバビロンから書き送られました。(ペテロ第一 5:13)その「バビロン」はユーフラテス河畔の都市であって,ある人々の主張するようにローマではありません。
「大いなるバビロン」という言葉は,ヨハネへの啓示の書の象徴的な表現の中に含まれています。そこでは,それは「娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」として(17:5),また『あらゆる国民にその淫行の怒りのぶどう酒を飲ませる』者として描かれています。(14:8)このバビロンには神の憤りの「怒りのぶどう酒の杯」が与えられ(16:19),「一時のうちに」その裁きが到来し(18:10),緋色の野獣の十本の角がその背に乗っているその女を振り落とし,裸にし,その肉を食べ,この女を完全に火で焼きつくしてしまいます。(17:16)この女は大きな臼石のように速い勢いで投げ落とされます。(18:21)こうして,「大いなるバビロン」は,ユーフラテス河畔の不法な都市同様,完全に荒れ果ててしまいます。