第18章
「もはや猶予はない」
1 第二の災いが続いている間,ヨハネへの幻の中で何が起こりましたか。
第六のラッパが吹かれることによって告げ知らされた第二の災いは,啓示 11章14節に至るまで,過ぎたとは宣言されませんでした。「第二の災いが過ぎた。見よ,第三の災いが速やかに来る」。パトモス島で流刑囚となっていた使徒ヨハネは,その間に一連の新しい幻を見ます。それは出来事の順序から外れるかに見えますが,第七のラッパが吹かれる前に啓示の中で示されねばならないものです。(啓示 10:1から11:14)彼はこの新しい一連の幻に自ら関与することになり,行動の場に入ります。幻の中でヨハネは,依然『天にある開かれた戸』の内側におり,そこに立って見ていたのです。
2,3 この直前にヨハネが幻の中で見た事柄を要約しなさい。次に場景はどう変わりましたか。
2 ヨハネは,子羊が巻き物の封印を開いた後に続いて生じた事柄を見ています。その子羊は「ユダ族の者であるしし,ダビデの根」すなわち,栄光を受けたイエス・キリストです。(啓示 4:1,2; 5:1-10)ヨハネは,大川ユーフラテスにつながれていた「四人の使い」が解かれるところ,そしてそれに続いて,騎士を乗せた恐ろしいかっこうの,強力な2億の馬が登場し,地上の「人びとの三分の一」を殺すために突進しているところを見たばかりでした。(啓示 9:13-20)今度は場景が変わり,ヨハネは神の「強い使い」が天から下って来るのを見ます。それは非常に大きい,特別の使者で,海と陸地をまたいで立つことができます。ヨハネは彼を次のように描写します。(啓示 10:1-3)
3 「それから,わたしは別の強い使いが天から下って来るのを見た。雲で身を装い,頭の上には虹があり,顔は太陽のごとく,足は火の柱のようであり,手には開かれた小さな巻き物を持っていた。そして,右足を海の上に据え,左足は地の上に据えて,ししがほえるときのような大声で叫んだ。そして,彼が叫んだ時,七つの雷がその声を発した」。
4 この「強い使い」について認められる特徴は,彼が栄光を受けたイエス・キリストを表わしていることをどのように示していますか。
4 この「強い使い」についての注目すべき特徴を総合してみると,彼は栄光を受けた主イエス・キリストを表わし,かつ象徴していることが分かります。それは,人間として誕生する以前には,み使いの頭ミカエルであったかたです。(ダニエル 10:21; 12:1。ユダ 9。啓示 12:7)ここで彼は,「雲で身を装」い,雲で身を包んでいると描かれています。雲は,啓示 1章7節にあるように,栄光を受けたイエス・キリストに関連ある特徴をなすもので,ヨハネはそこで彼についてこう記しています。「見よ,彼は雲とともに来る。そして,すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちもである。また,地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり,アーメン」。(ダニエル 7:13; マタイ 24:30,31; テサロニケ第一 4:17と比較してください。)「強い使い」が身を装っている雲は,腕と足の下の部分の外は,彼の体を隠すか,見えないようにします。これは,イエス・キリストの再来あるいは再臨が,地上の人間の目には見えないものであることを思い起こさせます。なぜなら,今や彼は栄光の天の霊者であり,地上の人間はその力の顕現から,彼が見えない様で臨在しており,ご自分の権限を天と地で行使しておられることを識別し,それにより彼を「見る」からです。―マタイ 25:31-46; 28:18。
5 彼の「頭の上」にある虹は何を表わしていますか。
5 その「頭の上」にある虹は,彼が,「平和の神」であるエホバの特別な代表者であることを示唆しています。使徒ヨハネはそれ以前の幻つまり,み座についておられるエホバ神の幻の中で,『み座の回りに,見たところエメラルドのような虹がある』のを見ました。(啓示 4:3。エゼキエル 1:28と比較してください。)ノアの時代,地球を覆った洪水後に神が出現させた虹は,あらしの後の平和,また,人類に対する神の契約が,再度の全地球の浸水を禁ずる平和的なものであることの表示でした。(創世記 9:8-17。イザヤ 54:9)ですから,イエス・キリストを表わす「強い使い」の頭上に虹があるのは,いかにも適切なことといえます。彼は「平和の君」になると予告されていたからです。―イザヤ 9:6,7。
6 この「強い使い」は『太陽のごとき』顔を持っていますが,それは彼がイエス・キリストであることをさらに明白にします。どのようにですか。
6 「強い使い」に関し,その『顔が太陽のごとし』ということは,使徒ヨハネが,それ以前に見た神の神殿におけるイエス・キリストの幻に関して述べた事柄と一致しています。「その容ぼうは力いっぱいに輝くときの太陽のようであった」。(啓示 1:16)これはヨハネに,中東のある「高大な山」でイエスが変ぼうされた時に自分の見たことを思い出させたかもしれません。その時イエスの『顔は太陽のように輝き,その外衣は光のようにまばゆくなりました』。(マタイ 17:1,2)そのような太陽は,神の恵みの側に復帰させられた者たちのために,「その翼」つまり光線に『医す能をそなえて』照り輝くことができます。(マラキ 4:2)「強い使い」のこの幻の中で,わたしたちは雲と太陽と虹の適切な組み合わせを見ます。雲は,み使いの足の下方は隠しておりません。
7 (イ)使いの足が「火の柱のよう」であるということは何を保証するものですか。(ロ)その使いの右足が海の上に,左足が地の上に据えられていることは,彼の権威について何を示していますか。
7 それでヨハネは,「強い使い」について,『足は火の柱のようであった』と言うことができたのです。啓示 1章14,15節の幻におけるごとく,み使いの足は,頭と同様,栄光に輝いていました。彼の力,支配また権威の下に来るものは何であろうと,いわば栄光に輝く足の下に来ます。その足は柱のように屈強で,火と同様損なわれることがありません。彼が右足を据えた「海」が,パトモス島の浮かぶエーゲ海で,左足を据えた「地」が近くの小アジアであったなら,「強い使い」は南を向いていたことになります。また,その海と地が,いわば,地中海と古代パレスチナであったとしても,やはり南を向いていることになります。これは,今や全地が,つまりその海と陸が,栄光を受けたイエス・キリストの足下に置かれたこと,すなわち,全能の神エホバによって彼に服する立場に置かれたことを表わしています。海の魚および地にねぐらを設ける鳥をも含めて,陸地の生物は今やすべて,復活させられ,栄光を受けた天のイエス・キリストに服するのです。(ヘブライ 2:5-9。詩篇 8:4-8)西暦1914年以降,特にそう言えます。
8 「強い使い」は全世界の権威を受けているところを示されています。したがって幻はどの時に適用されますか。
8 したがって,使徒ヨハネが「強い使い」についてここで見ている幻は,西暦1914年以後に適用されます。しかし,なぜ特にその時からなのですか。なぜなら,異邦諸国民の定められた時の終わりに当たるその年に,主イエス・キリストは敵のただ中にあって統治し,支配を行なうべく,天の父により天で即位させられたからです。(ルカ 21:24。詩篇 110:1-6。使徒 2:34-36)それは,神のメシアによる王国に全く反対の立場を取っていた地的事物の体制にとり,すでに「終わりの時」が始まったことを意味しました。啓示の書にしるしによって,預言的に述べられている事柄を成就するための道が整えられ,すべての時間的条件が満たされたのです。―ダニエル 11:35,40。
9 強い使いの手中にあった巻き物は,その大きさから明らかなように,だれが使うものでしたか。
9 「強い使い」の手,明らかにそれは左手ですが,そこには「開かれた小さな巻き物」がありました。この「小さな巻き物」(ギリシャ語でビブラリディオン)は,海と地をまたいで立つことができる程大きい使いの手の中にあって,さぞかし小さく見えたことでしょう。しかし,それは多くの情報を収めることができるのです。その内容は秘密にされるべきものではありません。それは開かれた巻き物であり,使徒ヨハネはそれを読むことができました。事実,その巻き物はヨハネの使用に供されるものだったのです。
10 (イ)使いがししのようにほえたということにはどんな意義がありますか。(ロ)ヨハネが聞いた七つの雷は明らかに何でしたか。
10 この使いが,「ししがほえるときのような大声で叫んだ」ことは,彼の果たす役割と調和しています。彼は,「ユダ族の者であるしし」つまり,今や天において王権を与えられた,栄光のイエス・キリストを表わしています。(箴言 19:12; 20:2)使いの発するししのような叫び声は,一連の雷を引き起こします。「彼が叫んだ時,七つの雷がその声を発した」。(啓示 10:1-3)それは完全な数(7)の雷であり,エホバ神からの表現,明らかに,あらしの警告のような表現を象徴していました。詩篇 29篇3節にはこう記されています。「エホバのみこえは水のうへにあり えいくわうの神は雷をとゞろかせたまふ」。この詩篇の中には,雷のようなものとしての,「エホバのみこえ」という表現が七回出てきます。(詩篇 29:3,4,4,5,7,8,9)「七つの雷」は単に雷鳴をとどろかせるだけでなく,ヨハネに理解できる音信を伝えたのです。重要なことを一つも逃すまいと,ヨハネは雷のような音信を今にも書き留めようとしました。
11,12 (イ)この時に書いてはならないとヨハネが命令されたのはなぜですか。(ロ)それと同じく現代,啓示の書全体に関する正しい理解を出版しようとする試みは不満足な結果に終わりました。それはどんな試みでしたか。
11 しかし,「強い使い」ではなく天からの声がそれをとどめました。ヨハネはこう述べます。「さて,七つの雷がものを言った時,わたしはいまにも書き記すところであった。しかし,天から出る声が,『七つの雷が言ったことをかたく封じ,それを書き留めてはならない』と言うのが聞こえた」。使徒ヨハネにとり,それは書く時ではなく,むしろ,「開かれた小さな巻き物」の内容を吸収する時だったのです。よく知られていることですが,啓示の書に度々注釈を施した,ものみの塔聖書冊子協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルは,啓示の書全体に関する説明を書くものと多くの人から期待されていました。しかし,彼はそうし得る前に,つまり異邦人の時の終わった二年後の1916年10月31日に亡くなりました。翌年7月,協会は二代目会長ジョセフ・F・ラザフォードの下に,「終了した秘義」(英文)と題する本を出版しました。それは啓示全体に注釈を施したもので,主にC・T・ラッセルの以前の著作に基づいていました。
12 時たつうちに,「終了した秘義」は十分に満足し得るものでないことが判明しました。その本は,啓示の書の多くの重要部分が成就する前に書かれたので,正しい理解を得ることは不可能だったのです。ですから,聞いた事柄を書き留める試みはなされたものの,「終了した秘義」によっては,「声を発した」「七つの雷」のいずれの奥義も解かれませんでした。(啓示 10:3)したがって,その時は,正確な理解が可能になるのを待ち,そうする一方,栄光を受けたみ子イエス・キリストを通してエホバ神のみ手から与えられる霊的な知識を吸収する時だったのです。それはなされました。
創造者の名において誓う
13 幻の中で,使徒ヨハネは「強い使い」がどんな誓いをするのを聞きましたか。
13 「七つの雷」の音信を書くことをとどめられた使徒ヨハネは,栄光を受けた「強い使い」に再び注意を集中し,大いに励みとなる言葉を聞きました。彼はこう述べます。「そして,海と地の上に立っているのをわたしが見た使いは,右手を天に上げ,かぎりなく永久に生きておられ,天とその中にあるもの,地とその中にあるもの,また海とその中にあるものを創造したかたを指してこう誓った。『もはや猶予はない。第七の使いが吹き鳴らす日,彼がラッパを吹こうとするその時に,神が預言者なるご自分の奴隷たちに宣明された良いたよりに基づく神の神聖な奥義は,たしかに終わりに至る』」― 啓示 10:5-7。
14 使いがこの誓いをするのを聞いたヨハネは,他のどんな幻を思い起こしたに違いありませんか。
14 使徒ヨハネは,この幻と西暦前6世紀の預言者ダニエルの幻との間に,ある類似点を認めたに違いありません。ダニエルはこう記しました。「我聞にかの布の衣を衣て河の水の上に立る人天にむかひてその右の手と左の手を挙げ永久に生る者を指て誓ひて言りその間は一時と二時と半時なり聖民の手の砕くること終らん時に是等の事みな終るべしと」― ダニエル 12:7。a
15 誓いの中で,「強い使い」はそれ以上猶予のないことを示す,最も強力と思われる保証を与えました。どのようにですか。
15 ヨハネの幻の「強い使い」は,自分によって,あるいは,自分の名において誓ったのではなく,自分より高位のかた,すなわち,天と地と海およびそれらの中にあるすべてのものを創造された,不滅の創造者によって誓ったのです。同様に,栄光を受けたイエス・キリストつまりみ使いの頭ミカエルも,エホバ神をすべてのものの創造者,また,独り子より高く,偉大なかたとして認めました。(ヨハネ 14:28。コリント第一 11:3。啓示 3:14)この当然の認識に基づき,主イエス・キリストは,すべての創造者なる至高の神エホバによって誓いました。こうして彼は,ヨハネと今日に至るまでの仲間のクリスチャンすべてに対し,神がそれ以上猶予されることはない,という保証を与えたのです。―ヘブライ 6:16,17。
16 ここで使われている「時」に相当するギリシャ語の意味は何ですか。
16 ここで「猶予」と訳されている聖句の原語は,ギリシャ語のクロノスで,それは単にばく然とした意味での「時」を意味します。そのため,欽定訳つまりジェームズ王聖書(1611年)はこの句を,「もはや時はない」と訳しています。もちろんこれは,アインシュタイン博士の相対性理論の中で「四次元」として表わされる時間がもはや無くなる,という意味ではありません。b むしろ,それ以上許される時間はない,言い換えると,その件に関する限り,もう「猶予」はないという意味です。
17 「猶予」という点が触れられているのは,祭壇の下の魂が提出した質問に対する答えですか。それとも何ですか。
17 「強い使い」はなぜこの「猶予」という点に触れたのでしょうか。それは,子羊が神の巻き物の第五の封印を開いた後に,殉教したクリスチャンの魂が提出した次の質問に対する答えだったのでしょうか。「聖にして真実である,主権者なる主よ,あなたはいつまで裁きを控え,地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておられるのでしょうか」。(啓示 6:9,10)そうとは言い切れませんが,「いつまで」というこの質問に対する答えは,「神の神聖な奥義」あるいは「神の秘義」の終了に関係していると考えられます。(啓示 10:7,新,欄外,1950年版)太陽,月そして星の創造者は,ご自分の不変の目的が達成される各部面に関し時間を定めておられ,ある面が成就される定めの時が到来すると,それ以上の時間の延期を許されません。この時間の厳守という点は,「神の神聖な奥義」に関しても真実です。
18 (イ)その「神の神聖な奥義」とは何ですか。(ロ)この「神の秘義」に関する秘密また秘義となる点をいくつか挙げなさい。
18 その「神の神聖な奥義」とは何ですか。c 第七の使いのラッパが鳴らされる後に使徒ヨハネが引き続き見る事柄が,その秘義を解く情報を提供します。1901年に出版されたアメリカ標準訳聖書によると,啓示 10章7節は次のとおりです。「第七のみ使いの声の日に,彼がラッパを吹き鳴らそうとすると,その時,神がご自分の預言者なるしもべたちに宣明された良きおとずれによる神の秘義は終了する」。「神の秘義」は,創世記 3章15節(新)に預言的に語られている,「女」の秘義の「胤」が統治しなければならない,神のメシアによる王国であることが判明しています。エホバ神はこの女の「胤」によって,象徴的なへびである悪魔サタンの頭を最後に『砕か』ねばなりません。(ローマ 16:20,25,26)地上における人間としてのイエス・キリストは,弟子たちにこう言われました。「あなたがたに神の王国の秘義は与えられる」。(マルコ 4:11,ア標,欽定)この「神の秘義」に関しては,だれが神の「女」のこの「胤」を構成するか,また,メシアつまりキリストを頭とする会衆をだれが作り上げるか,などの秘義となる点が当然存在しています。―マタイ 13:11。ルカ 8:10。エフェソス 3:3-9。コロサイ 1:26,27; 2:2; 4:3。テモテ第一 3:16,欽定,ア標。
19 (イ)神の秘義の宣明はいつ始まりましたか。(ロ)神聖な奥義に関する情報はなぜ「良いたより」ですか。にもかかわらず,それが,三つの災いの最後の災いを紹介する第七のラッパの吹奏と結び付けられているのはなぜですか。
19 この秘義つまり「神の神聖な奥義」は,「神が預言者なるご自分の奴隷たちに宣明された良いたよりに基づく」ものです。この神の秘義の宣明は,ご自分の預言者なる奴隷モーセが創世記 3章15節に記録した,エデンの園における神ご自身の預言とともに始まりました。人類に宣明させるため,神が預言者なる奴隷たちに告げ知らせ続けてくださった情報は,真に「良いたより」です。神の最大の人間預言者であったイエス・キリストは,「王国のこの良いたより」が,事物の体制の「終わり」の来る前に全地のあらゆる国民に宣べ伝えられ,またふれ告げられるであろうと予告されました。(マタイ 24:14)にもかかわらず,神のメシアによる王国の布告は,「終わりの時」に住む人類の大多数にとって悪いたより,災いのたよりです。それゆえに,この「神の秘義」は,第七のラッパつまり,三つの災いの最後の災いを紹介するラッパの吹奏と,適切にも関連づけられているのです。(啓示 8:13)それが彼らに災いとなるのは,神の秘義の終了が,地上における悪魔サタンの,見える組織全体の崩壊をもたらすからです。
「小さな巻き物」を食べる
20 幻を見つめていた時のヨハネはどんな状態にありましたか。それは,「忠実で思慮深い奴隷」級の状態とどのように似ていましたか。
20 使徒ヨハネは,第七の使いが「第三の災い」(啓示 11:14)を紹介するラッパを吹くのを待っている間に,「アジア地区にある七つの会衆」の「使い」つまり監督たちに特別の手紙を書くことに加え,別の割り当てを与えられたか,または,別の奉仕の割り当てを思い起こさせられました。(啓示 1:4,20; 2:1から3:22)ヨハネはすでに相当の老齢に達しており,囚人を幽閉する島パトモスで流刑また拘禁に処されている問,広範な証言活動はできませんでした。(ヨハネ 21:20-23。啓示 1:9)彼はこの点,1914-1918年における第一次世界大戦中の,自分の仲間のクリスチャンから成る「忠実で思慮深い奴隷」級に似ていました。しかし,イエス・キリストの使徒としての彼の地上における奉仕は,まだ終わってはいなかったのです。彼はそのことを次に生じた事柄により確信させられました。そしてこう記しています。
21 ヨハネは使徒としての自分の地上の奉仕がまだ終わっていないことをどのように確信させられましたか。
21 「また,天から出るのをわたしが聞いた声が,再びわたしと話をしてこう言う。『行って,海と地の上に立っている使いの手にある開かれた巻き物を受け取りなさい』。それでわたしはその使いのところに行き,その小さな巻き物をわたしにくれるようにと言った。すると彼はわたしにこう言った。『これを取って全部食べなさい。それはあなたの腹を苦くしても,あなたの口には蜜のように甘いであろう』。それでわたしは使いの手からその小さな巻き物を受け取って,それを全部食べた。すると,それはわたしの口には蜜のように甘かった。しかし,それを食べ終えた時,わたしの腹は苦くなった。そして彼らはわたしに言う,『あなたは,もろもろの民・国民・国語,また多くの王たちについて再び預言しなければならない』」― 啓示 10:8-11。
22 エゼキエルはヨハネの経験に似た経験をしましたが,それについて説明しなさい。
22 使徒ヨハネのこの経験は,バビロンの地で流刑囚となっていた預言者エゼキエルが,西暦前613年に経験したことと幾分似ています。エホバ神は幻の中でエゼキエルに,口を開けて,ご自分が預言者の当人に与えようとしている事柄を食べるよう命じました。一つの手が彼に差し出され,それは巻き物の書を彼の前で開いてみせたのです。エゼキエルは,その表と裏に書き入れがあるのを見ることができました。彼がその解かれた書を食べた時,それは彼の口の中で「甘さは蜜のよう」でした。それを食べた彼は,『イスラエルの家に話しなさい』という命令の下に置かれました。彼は霊によって運ばれ,携えられたので,「わたしの霊の激怒のうちに苦々しく行った。そして,わたしの上にあるエホバのみ手は強かった」と述べています。(エゼキエル 2:8から3:14,新)神のみことばを食べることは,預言者エゼキエルにとって甘く感じられましたが,彼はそれにより,反抗的なイスラエルの家に対し,苦い事柄を予告する音信を述べる資格と責任を与えられたのです。
23 その開かれた書はヨハネの味覚には甘く,彼の胃には苦く感じられました。どのようにですか。
23 栄光を受けたイエス・キリストが使徒ヨハネに与えたその開かれた小さな書は,明らかに彼によって公にされることになっていました。書き記された神からのその言葉は,反抗的な人類に対しては苦い事柄を表現していますが,それを食べることはヨハネの霊的味覚に甘く感じられました。それを食べることによりヨハネの胃は苦くされましたが,彼自身の霊は苦くされませんでした。消化するさいヨハネが苦く感じたその記された言葉は,反抗的な人類を待ち受けている苦い事柄を予告していたのです。ヨハネは,それにより自分の胃が苦くされるから,また,彼らに対する苦い音信を提供する義務を負わされるからという理由で,書かれた言葉を食べることを拒んだりはしませんでした。
24 再び預言しなければならない,とヨハネに告げたかたはだれですか。その命令は何を意味していますか。
24 再び預言しなければならないとヨハネに告げたかたは,疑いなく,エホバ神と,ヨハネにその書を与えた「強い使い」によって表わされている,主イエス・キリストです。おふたりは,ヨハネが,もろもろの民・国民・国語また王たちの前でではなく,ご自分たちに「ついて」再び預言しなければならないと言われました。ヨハネは啓示の最初の九章にすでに記録した事柄により,もろもろの民・国民・国語また王に関して預言をしていました。ですから,「再び」という言葉は,彼が預言的な啓示のその後の部分を書き,それを公にしなければならないという意味だったのです。これは必ずしも,ヨハネがパトモス島の流刑から釈放されるという意味ではありませんでした。というのは,彼はそこで啓示の全部を書き終えたに違いないからです。言い伝えによると,彼は釈放され,その後に,イエス・キリストの生涯に関する福音書の記述および三通の手紙を書いたということであり,それらはすべて聖書に収められています。しかし,ヨハネのこれら最後の著述は,特に,もろもろの民・国民・国語また王についての預言というわけではありませんでした。わたしたちは,ヨハネが命令に従い,それを実行したことを喜んでいます。その結果として今日,啓示の全部(二十二)の章がそろっているからです。
25 (イ)同様に,年を経たクリスチャン会衆の有用性は1918年に終わりを告げたわけではありません。どうしてそう言えますか。(ロ)残りの者に言及せずに啓示の完全な成就を記録することはできません。なぜですか。(ハ)油そそがれた残りの者はどのように巻き物を食べた時のヨハネに似ていましたか。
25 使徒ヨハネの経験と調和し,年を経たクリスチャン会衆の有用性は,1914-1918年の期間,つまり,油そそがれた残りの者の活動が,パトモス島のヨハネの場合のように,犯罪者を収容する島にいるかのごとくに制限を課せられた期間に終わったのではありません。エホバ神は,第一次世界大戦後に残りの者が行なうべき業を持っておられました。啓示の預言はまだ十分に成就しておらず,その十分の成就には油そそがれた残りの者が関係することになっていたのです。神は,啓示の現代の成就に関連して歴史を作るため彼らを用いました。したがって,そうした成就の記録が完全かつ真実であるためには,油そそがれたクリスチャンの残りの者たちのことを含んでいなければなりません。預言的な啓示の書を食べることは,残りの者の霊的味覚に甘く感じられました。第一次世界大戦中,彼らは「終了した秘義」の本により,それがある国々の政府によって禁書にされたにもかかわらず,啓示の書全体に関する注釈で自分を養いました。記録の示すところによると,彼らは反抗的な人類に対するあらゆる苦い預言を含む,啓示のその注釈書を配布するよう勇敢に努力しました。ひるむことなく,そうした苦い預言を告げ知らせたのです。
[脚注]
a ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会が1958年(英文)に出版した,「御心が地に成るように」と題する本の329-333ページ(日本語版,325-329ページ)をごらんください。
b 欽定(ジェームズ王)訳による啓示 10章6節の興味深い注釈として,1925年8月15日号の「ものみの塔」誌(英文),247ページ,33節をごらんください。また,1930年に出版された「光」(英文)と題する本,第一巻,「もう時はない」の副見出し,178-180ページもごらんください。
c この点に関し興味深い示唆を与えているものとして,1919年4月15日号の「ものみの塔」誌(英文),120,121ページ,「終了した秘義」の個所,特に最後の二節を見てください。1882年7月号の再版。