忠実を守つた者たちの例
1 獣の第三の頭の世界支配のあいだ,獣の崇拝を拒絶したどんな顕著な例がありますか。
ローマ・カトリックや他の聖書註解に説明されているごとく,黙示録 13章1-8節の『獣』の中には,第3番目の世界勢力である古代バビロン,すなわちカルデヤが含まれています。しかし,象徴的な獣である第3番目の頭バビロンについての聖書の歴史の中には,2500年むかしの獣の崇拝を拒絶した人々に関する顕著な例が記されています。ダニエル書 3章1-30節の告げるところによると,忠実を守つた3人の名前はシヤデラク,メシヤク,アベデネゴ(ドーエイ訳では,シドラク,ミサク,そしてアグデナゴ)でした。敵共は,バビロンの皇帝ネブカデネザルの前で彼らを告訴したときに,それらの者共を『ユダヤ人』と語つていました。ネブカデネザル王は,予言者ダニエルの要請に従つてこの3人をバビロン州の事務を掌らす高職に即けました,一方ダニエル自身は王宮にいて,バビロン全州の支配者となり,バビロンのすべての知者たちを統轄する者の長になりました。―ダニエル 2:48,49。
2,3 それらのユダヤ人たちは,異教の政治政府の高職について奉仕していても,なぜヱホバとの契約を破つていたことになりませんか。
2 しかし,仲保者モーセを通してヱホバ神と結んだ国家的な契約下にいたこれらのユダヤ人が,異教の政治政府の高職に即いていたとは,どういうわけでしたか。モーセを通して十のいましめを与えた神との契約を破つていたことになりませんか。そうではありません。なぜ? なぜなら,彼ら自身のユダヤ人の政府,すなわちエルサレムの王国は,その時には存在していなかつたからです。ネブカデネザルの軍隊は,クリスチャン時代よりも607年前に,ユダヤ人の政府を亡ぼしました。その滅亡よりも11年前に,ダニエルとその3人のユダヤ人の友たちはエルサレムから連れ去られ,バビロンに流刑されていたのです。それで,エルサレム滅亡前でも,滅亡後でも,こられ4人のユダヤ人たちはバビロンの捕虜であり,奴隷でした。
3 ヱホバ神は,ネブカデネザルを御自分の僕として用い,不従順な民たちの上に特定な裁きを執行しました,そしてエルサレムの祭司たちや人々に『バビロンの王に事えよ,さらば生べし』と告げたのです。しかし,彼らはその言葉を拒絶して,刑執行者により殺されてしまいました。偽りの予言者であるゼデキヤとアハブは,ネブカデネザルに帰順することに反対の謀事を立てました。この故に,バビロンの王はそれらの反対の王たちを火焙りにしたのです。(エレミヤ 27:16,17; 29:21-23)しかし,ダニエル,シヤデラク,メシヤク,そしてアベデネゴは,ネブカデネザルの捕虜および奴隷となり,ネブカデネザルに従順に仕えていました。ところが,ネブカデネザルが彼らの神の最高至上の律法と違反するようなものを要求して,そのものをネブカデネザルに払わねばならないとき,彼らは当時の地上にいたこの最高支配者に従うことを拒絶しました。彼らはペテロや他の使徒たちのように行いました,人間に従わず,むしろ支配者なる神に従つたのです。―使行 5:29。
4 なぜネブカデネザルは,ドラの平地に金の像を立てましたか。ダニエルの3人の友は,何をしていないと敵どもは非難しましたか。
4 バビロン州のドラの平地に,ネブカデネザルは高さ90フイート,巾9フイートの金の像を立てました。それがネブカデネザルの気に入りの神マードックの偶像か,どうかは述べられていません。すくなくとも一つの事はたしかです,それは帝国の全国民を一つの共通の崇拝に結合させ,彼らをみな皇帝の臣下とならせて『獣』を崇拝させるという皇帝の目的を表わしていました。偶像の落成式の時にはネブカデネザルは,帝国全州のすべての官吏を召集しました。多数の楽器の奏せられるとき,すべての者は俯伏し,一致してこの金の像を拝めと伝令者は呼ばわりました。もし,そうしないなら彼らは火の燃える炉の中に入れられてしまうでしよう。国歌かどうかは分りませんが,楽隊が楽器を奏すると,『諸民,諸族,諸音みな俯伏し,ネブカデネザル王の立たる金像を拝したり。』ところが,その場に居たダニエルの3人の友たちは,そうしなかつたのです。カルデヤ人は,このことについてネブカデネザルにこう訴え出ました,『この人々は……汝の神々にも事えず,汝の立てたまえる金像をも拝せざるなり』
5 おどすことによつて,ネブカデネザルは3人のユダヤ人官吏に何を破るよう命じましたか。
5 ネブカデネザルは,3人のユダヤ人の官史を召し寄せました。彼は3人を脅かして,十のいましめの最初の二つを破るように命じました。それはこうです,『我はなんじの神ヱホバ,汝をエジプトの地その奴隷たる家よりみちびき出せし者なり。なんじ我が面の前に我のほか何物をも神とすべからず,なんじ己のために何の偶像をも彫むべからず,また上は天にあるもの,下は地にある者,ならびに地の下の水の中にあるものの何の形状をもつくるべからず,これを拝むべからず,これに事うべからず,我ヱホバ汝の神は嫉む神なれば』(出エジプト 20:2-5)それら3人の奴隷たちは,このことから判断して国家の支配者なる奴隷所有者にどう答えましたか。
6 この3人は,国家の元首に,どのように答えましたか。
6 彼らはいましめの中に述べられている原則にかたくつき従い,ヱホバ神への忠実を保つたのです。彼らは,このように言いました,『ネブカデネザルよ,このことにおいては我ら汝に答うるに及ばず。もし善らんには,王よ,我らの事うる我らの神,我らを救うの力あり。彼その火の燃ゆる炉の中と汝の手の中より我らを救い出さん。たとえしからざるも王よ知り給え,我らは汝の神々に事えずまた汝の立たる金像を拝せじ。』
7 その3人は,火の燃えた炉に関してどんな経験をいたしましたか。そのとき,ネブカデネザルは彼らの神について何を認めましたか。
7 ネブカデネザルは,偽りの神マードックの崇拝者で,その信心は極めて深いものでした。そして,この3人のユダヤ人の大胆不敵さに激怒いたしました。烈火のごとく怒つた彼は,特に7倍も熱くした炉の中に,彼らを縛つたまま投げ入れました。それは,彼らに対して,ネブカデネザルがどのくらい熱く怒つているかを示すためです。3人を投げ入れた者たちは,過度に熱せられた炉の火焔で焼けてしまいました。それであるなら,ヱホバの3人の崇拝者も焼けてしまつたにちがいありません! ところが,そうではなかつたのです! かなり離れたところから見ていたネブカデネザルは,こう言いました,『今われ見るに四人の者繩目解けて火の中に歩みおり,すべて何の害をも受けず,又その第四の者の容は神の子のごとし。』驚きあわてた彼は,神の子のような第四番目の者に声をかけず,ヱホバの3人の崇拝者に声をかけました,『至高神の僕……よ,なんじら出できたれ』と言つたのです。3人が出て来たとき,まわりにいた人はみな『これらの人々の身は火もこれを害する力なりき。またその頭の髪は燥ず,その衣裳は傷ねず,火の臭気もこれにつかざりき』という状態を見ました。すると,当時の地上で最高の力を持つ支配者は,彼らの神を讃めました,『彼その使者を送りて己を頼む僕を救えり。また彼らは己の神の外には何の神にも事えず,また拝せざらんとて王の命をも用いず己の身をも捨てんとせり。……是のごとく救を施す神他にあらざればなり。』この言葉を述べたネブカデネザルは,十のいましめを与えたヱホバ神を意味したのです。
8 それら3人のユダヤ人たちは,皇帝や国家崇拝に反対の立場を採つたために,誰の福祉を危険にするように見えましたか。しかし,彼らの忠実な立場は,今日にいたるまで神の民にどう影響しましたか。
8 彼らはヱホバに忠実を保つた故に,ヱホバは彼らを救いました。この世の皇帝と国家崇拝に対して,妥協をきつぱり断る勇敢な立場を採つたために,彼らはバビロンに捕われていた他のユダヤ人全部の福祉を危険にするように見えました。奴隷となつていたそれら3人の官吏は,そのことを知つていました。しかし,ユダヤ人の隣人に外面的な恩恵が施されるからという理由でもつて,彼らは神よりも低い支配者と妥協しませんでした。彼らは自分自身や隣人よりも神を愛しました。その忠実な立場は,ユダヤ人の隣人を真実に励まし,他のあらゆるものにもまして神を愛させるようになりました。他のユダヤ人の奴隷や隣人,および今日に至るまでの真のクリスチャンはみな,それから励ましを受けて神なるヱホバに忠実を保ち,政治支配者が設立して崇拝を命ずる偶像に対して崇拝を捧げません。この中にはまた象徴的な獣とその偶像の崇拝も含まれています。
9 ダニエルやその3人の友が誰の証者であつたと,私たちは聖書的にどう知りますか。
9 ダニエルやネブカデネザルの奴隷であつた他の3人のユダヤ人の官吏は,おそらくヘブル書 11章33,34節の中で信仰の人として特に意味されている人々です。彼らは,『ししの口をふさぎ,火の勢を消し』た人々でした。ヘブル書 11章1,2節(新世)は,こう述べています,『信仰……昔の人々はこれによつて自分自身に証を立てた。』ヘブル書 11章が,『自分自身に証を立てた』むかしの数多くの信仰の人々の名前を記して述べて後に,ヘブル書 12章1節は,『私たちはこのような多くの証人に雲のように囲まれているのである。』とクリスチャンに告げています。ダニエル,シヤデラク,メシヤクおよびアベデネゴは誰の証人でしたか。イザヤ書 43章10-12節のいましめに従うヱホバの証者でした,『ヱホバ宣給わく,なんじらはわが証人……われは神なり。』
10 それでは,私たちは今日,誰の例に従わねばなりませんか。特に,例として誰を見つめるべきですか。
10 献身したクリスチャンである私たちは,みな使徒と同じく,雲のように多い証人で取り囲まれています。私たちは,これらの者の例に従わねばなりません,特にヱホバの証者の中でも最大の証者であるイエス・キリスト『信仰の導き手であり,またその完成者』を見つめねばなりません。(ヘブル 12:1,2,新口)イエス・キリストは,『獣』を崇拝しなかつたのです。
11 誘惑の下にあつても,イエスはどのように『獣』のごとき行をしませんでしたか。私たちを統御するために彼は,そのときどんな原則を述べましたか。
11 イエスが水による洗礼を受けて直ぐ後に,彼は神の御霊の働きで荒野に導かれました。神の御霊は,イエスのところに下つて彼に油注いだのです。イエスは,荒野でサタン悪魔の試練を受けました。サタンは,象徴的な龍で,獣をして海から上らせ,獣に『自分の力と位と大いなる権威とを』与えたのです。(黙示 13:1,2)この龍からの誘惑を受けたイエスは,その獣のような行をせず,神の御国,天の御国についての神の目的に一致する行をいたしました。悪魔は,イエスを誘惑するために,『またたくまに世界のすべての国々を見せて,言つた「これらの国々の権威と栄華とをみんな,あなたにあげましよう。それらは私に任せられていて,だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで,もしあなたが私の前にひざまずくなら,これを全部あなたのものにしてあげましよう。』『獣』は,すこしの理解もなしに,この古い世の国々を求めましたが,イエスは獣とはちがいヱホバの崇拝の原則をかたく守り,神の天の御国につき従つたのです。キリスト教の指導者なるイエスは,『この組織制度の神』にきつぱり答え,そして彼の行動およびクリスチャンである私たちの行動を制御する特別な原則を述べました,『あなたは,あなたの神ヱホバを崇拝し,彼のみに聖なる奉仕を捧げねばならない。』― ルカ 4:5-8,新世。申命 6:13。
12 イエスの求めた御国は何でしたか。
12 そのわけでイエスは政治に介入せず,またこの世的な野心や,政治的な野心を持たなかつたのです。彼の御国は,カイザルのもとから出たのでもなければ,象徴的な獣のもとから出たものでもありません。(ヨハネ 18:36)カイザルの課税や支配から昔のイスラエルを自由にするためとか,地上に政治的な国家を設立するため,イエスが軍隊を集めるようなことはなかつたのです。彼は生来のイスラエルの滅亡を予めに語り,そして西暦70年のエルサレムとその宮の滅亡の際に,ローマ・カイザルの軍隊がイスラエルを滅ぼすことを許しました。なぜ? なぜなら,イエスは霊的なイスラエルを支持されたからです。彼の求めた御国は,霊的な天の御国でした。彼はその御国を伝道し,そして古い世の終りの時にその御国を伝道せよと真の追随者たちに命じました。―マタイ 24:14。
13 イエスが坐ろうと欲した『ヱホバの座位』とは何でしたか。
13 油注がれた支配者としてイエスが坐ろうと欲した『ヱホバの座位』は,ダビデ王がかつて座り,そしてネブカデネザル王がキリスト前607年に覆した座位ではありません。それは,最高の天にあるヱホバの真の座位であり,その場所はヱホバの右にあつてイエスのために保たれました。―詩 110:1,2。ヘブル 10:12,13。
14 私たちのすべてをもつてヱホバを愛するなら,私たちはまた誰を愛して倣わねばなりませんか。そして,なぜ?
14 私たちのすべての心,魂および思でもつてヱホバを愛せよと命ぜられています。故に,ヱホバの生ける像,イエス・キリストをも愛さねばなりません。(ヘブル 1:2,3。コロサイ 1:15。ヨハネ 14:9)それですから,クリスチャンはその指導者なるイエス・キリストに倣わねばなりません。彼に倣うことは,献身した追随者の生活の中で指導的な原則でなければなりません。私たちは正しい崇拝の民でなければならないのです。私たちが,そのような者であつてこそ救われるでしよう。
新しい世の交わり
15 (イ)詩篇 26篇の中で,ダビデは,ヱホバ崇拝の原則の中に歩んだことを証明するため何と言いましたか。(ロ)それで,彼に対しては何をしないようにと,ダビデはヱホバに祈ることができましたか。
15 ダビデは,ヱホバの御国代表者として,ヱホバを崇拝する原則の中に歩きました。ダビデはそのことを証明する次の言葉を述べています,『私はあなたの真理の中に歩きました。私は偽りを語る人々と共に坐らず,自分の実体をかくす人々と交わりません。私は悪を行う者の会衆を憎み,悪しき者と共に坐りません。ヱホバよ,私は手を洗つて罪のないことを示し,あなたの祭壇のまわりを廻つて感謝の言葉を声を高くあげ,あなたのすばらしい業をことごとく宣べ伝えます。罪人とともに私の魂を取らないで下さい。それらの人々の手にはふしだらな行があり,その右の手は賄賂で充ちています。』(詩 26:3-7,9,10,新世。)ダビデ王は,その生存中,そのような人々と交わることを欲しなかつたのです。彼らが支配者であろうと,政治の役人であろうと,または普通の市民であろうと,それらの者と共に死ぬことさえも欲しなかつたのです。この欲求を心に有した彼は,その生涯中彼らを避けました,そして偽りや偽善,流血やふしだらな行,そして賄賂を受けたり要求したりすることから遠ざかりました。このわけで,彼は罪深い人や流血の罪を持つ人と共に,彼の魂と生命を取らないようにと,神に願うことができたのです。そのような罪人や流血の罪を持つ人々には,神の御手から亡びが来ます。彼はそのような亡びから救われることを欲しました。彼の支配したイスラエルの神権的な王国は中東にあつて,この世の中にありました,しかしダビデ王は彼の国がこの世の一部になることを欲しなかつたのです。
16 したがつて,大いなるダビデに従つている私たちは,誰との交わりを避けるべきですか。このことは,イエスの述べたどんな原則によるのですか。
16 このことは,大いなるダビデ,すなわちイエス・キリストに従う私たちを導く原則を指し示しています。彼は,肉によつてはダビデの子でしたが,天で楽しむ霊の生命によつて今はダビデの主であります。彼の追随者になろうと主張するならば,私たちはこの古い世との交わりを避けねばなりません。この古い世は,いまはダビデの避けたような人々で一杯なのです。私たちは,他の人間のように血肉の者ですから,この『終りの時』のあいだこの世に生活しなければなりません。しかし,この古い世のものであると同時に,私たちの伝道する神の新しい世のものであることはできせん。イエス自身も,この原則を次のように述べました,『もしあなたがこの世から出たものであつたなら,この世は,あなた方を自分のものとして愛したであろう。しかし,あなた方はこの世のものではない。かえつて,私があなた方をこの世から選び出したのである。だから,この世はあなた方を憎むのである。』この同じ原則に従つてイエスは神に次のように祈り,こう言いました,『私は彼らに御言葉を与えましたが,世は彼らを憎みました。私が世のものでないように,彼らも世のものではないからです。私がお願いするのは,彼らを世から取り去ることではなく,彼らを悪しき者から守つて下さることであります。』― ヨハネ 15:19; 17:14,15,新口。
17 もし私たちがこの世から取られるのであるなら,私たちは神の支配の下に何をすることができませんか。
17 私たちがこの世から取られるのであるなら,神であるヱホバの証者になることもできず,1914年以来統治している神の油注がれた王イエスの証者になることもできません。それで,私たちはこの世から取られていず,神の御国に証を立てるためにこの世に止まることが許されているのです。しかし,天の御父が,悪しき者,サタン悪魔から私たちを救われるようにと,イエスは私たちの為に祈りました。彼はいま天からこの地上に追い落されてしまつたのです。
18 どんな宇宙的な争いにおいて,私たちは中立でいることができませんか。そして,ロマ書 10章9,10節の原則に従い,私たちが中立でないことをどのように示しますか。
18 叡智を持つ全創造物の前で立証せられる主要な事柄は,ヱホバ神の宇宙的至上権です。それですから,神の御国,すなわち天の御国は神の書かれた御言葉,聖書の中で一番大切な教えとなつています。献身したクリスチャンはみな,最善のたよりとして,その御国を伝道するよう命ぜられています。西暦1914年に天で設立された神の御国と,この古い世の国のあいだには,大きな争いがいま白熱化しているのです。この宇宙的な争いの中にあつて,私たちは中立でいることはできません。たしかにカイザルの終りの時であつても,私たちはカイザルに税を払つてカイザルに属するものを彼に帰さねばなりません。しかし,何時いかなる時であつても,私たちは常にキリストによる神の御国を支持しなければならないのです。私たちは,カイザルや他のすべてのものに神の御国を伝道することにより,御国を支持していることを公けに知らせねばなりません。亡びに面しているこの世の政治政府の中で,御国証言の伝道が閉されている国はひとつもないのです。(マタイ 24:14)復活されたキリストはいま王であることを私たちは心から信じています,同時に救われることを欲するなら,救い出されることを欲するなら,私たちはその信仰を公けに知らせねばなりません。それは,ロマ書 10章9,10節に書き記されている不変の原則です。
19 ペテロと,更に以前のヨエルは,それと同じ原則をどのように述べましたか。
19 19世紀前の五旬節の日に,使徒ペテロは同じ原則を次のように述べました,『ヱホバの大いにして輝かしい日の来る前に……誰でもヱホバの御名を呼ぶ者は救われる。』(使行 2:20,21,新世)ペテロが言葉を引用した予言者ヨエルは,ヨエル書 2章31,32節でペテロの時よりも幾百年もむかしに同じ原則を語つていたのです。今日,私たちはこの原則に従つて行うとき,またはヱホバの御名を呼んで公けに宣べ伝えることによつてのみ忠実を保つことができます。
20 それと同じ原則に一致して行うため,ダビデはどんな家を好みましたか。それで,彼の詩篇はどんな益をもたらしますか。
20 ずつと以前のダビデ王は,その原則に従つて行いました,そして同時に悪しき者と共に処刑されないように,そしてヱホバ神にあがなわれて恵みを示されるようにと祈つたのです。このわけで彼は悪しき者との交わりや交際よりもヱホバの崇拝の家を好んだのです。彼は次のように言いました,『ヱホバよ,我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ。』神の家で崇拝することによつて,彼は神の犠牲の祭壇をめぐり,感謝の言葉を声高く上げ,ヱホバのすばらしい業をことごとく宣べ伝えることができたのです。このことを自分の目的としたダビデは,詩篇 26篇を結ぶにあたつて次のように言いました,『われもろもろの会のなかにてヱホバを讃めまつらん。』(詩 26:8,12)ダビデは公けに宣べ伝えて,それから詩篇の中に書き記しました。それにより,ダビデは救を得て神の新しい世に入ることができます。またダビデの詩篇を読むクリスチャンも救を得ることができます。
21 良いたよりを伝道する私たちの義務と権利に落度を生ぜしめるため,何が為されますか。なぜパウロは,自分の裁判を上訴する際に賄賂しませんでしたか。
21 献身したクリスチャンである私たちは,キリストの命じたごとく御国の良いたよりを伝道する責務と権利に落度があつてはなりません。キリストと彼の弟子たちは,私たちにこう警めました,すなわちこの世の政治的な権力や宗教的な権力は,伝道せよとの神から与えられた権利を私たちから取り去るように努めるであろう,そして音信を中止させるようにつとめるだろう,そしてもしそれが駄目なら私たちを殺して私たちの声を沈黙させるように努めるだろう,ということです。この権利に関しては,使徒パウロは妥協しませんでした。主なる神を崇拝すると主張した人々をも含めて,宗教的な人々はピリピや,テサロニケや,ベロアや,そして遂にはエルサレムでパウロに反対を惹き起しました。パウロはついにカイザルに訴え出て宗教家によるこの干渉を中止するよう願い,神の御国を伝道する合法の権利を確立しようとしました。それは妥協という意味ではけつしてありません。それでは,なぜパウロは訴えましたか。一番最終にいたるまで,ローマ帝国の最高法廷にいたるまで戦をなすためであり,敵に命乞いをするとか,また敵に助命を与えることではありません。カイザルの律法でさえも,その時の宗教家が神の御国の伝道に干渉することを認可しなかつたのです。さらに,神の律法はことごとくこの伝道を支持しました。それで,パウロは使用し得る権利のあつたすべての武器を用いて戦いました。自分自身の便宜を図るために,彼は不正な手段を用いませんでした。不正な手段は,論争を未決定にして合法的に確立されない状態のままにするでしよう。それで彼はフェリックス総督に賄賂して,牢から出してもらうことを拒絶しました。―使行 24:26,27。
22 このことに関して,パウロはどんな目的に専念しましたか。
22 ローマ市民であつたパウロは,当時の地上における最高法廷権威,カイザルに訴え出ることにより,御国の音信を威厳あるものにいたしました。パウロはクリスチャンとしてそのカイザルに税を払つたのです。(使行 25:10-12)パウロは全く『良いたよりを(伝道する権利を)弁明し,合法的に確立する』ことに専念いたしました。(ピリピ 1:7,新世)この行は,マタイ伝 10章18節に述べられているイエスの予言の成就を果すものです。
23 それで,パウロのごとく,禁止のされていないところ及び禁止のされているところでは,ヱホバの証者はどのようにいたしますか,そして誰からの救を待ち望みますか。
23 今日でも私たちは,クリスチャン使徒パウロの従つた正しい原則に則ります。ヱホバの証者に対して禁止がなされていないところでは,税金を払う市民としての私たちは現代のカイザルに訴え出て,カイザル自身の律法により御国伝道の敵を中止させます。禁止のなされている所では,禁令下にいるヱホバの証者は自分の国のカイザルに訴え出ることはでさません。しかし,御国を伝道せよ証と者に告げたヱホバのいましめに関するかぎり,彼らは人間の課した禁止よりも支配者なる神に従います。それらの人間は,神に敵対する者たちであり,現在に朽ち果ててしまうか,又は遅くともハルマゲドンの宇宙的な戦争のときに亡びてしまいます。(イザヤ 51:12)神の新しい世での永遠の生命に達する救は,間もない中に必らず亡びるカイザルを通しては来ません。それは,神ヱホバと統治している王イエス・キリストを通して来るのです。
24 それでは,詩篇 26篇でダビデの述べるごとく,私たちはどのように行うべきですか。その故に,私たちの祈はどのように答えられますか。
24 神の御国相続者の残れる者および,神の御国に善意を持つ大いなる群衆の伴で成り立つ私たちは,ヱホバの家の住居と彼の栄光の止まる場所を愛します。ヱホバは私たちのクリスチャン行為をみちびき,支配するため御言葉の中に原則を書かれました。私たちは愛の気持からその原則につき従いつつ,そのところでヱホバを崇拝しつづけます。ヱホバを崇拝する者の集まりの中で,私たちは現在および永遠にわたつてヱホバを讃えます。この古い世の終りにいたるまで,私たちは聖書的に定義された神への忠実を保ちつつ良心的に歩きます。私たちはそうする故に,私たちの祈は彼に受け入れられるものであり,彼はキリストを通して私たちを救われるでしよう。神が,この世の罪人や,また流血の罪を持つ人の魂や生命を取るとき,神は悲惨な終りの中にあつても私たちを生き残らせるでしよう。彼を熱心に求める者を報い給うヱホバは,私たちを救つて約束されたその新しい世に入れられます。それは敬虔な原則と忠実の世です。