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内面の調和 ― 聖書が神の本である証拠ものみの塔 1963 | 7月1日
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ではありません。そのすべてはキリスト・イエスを通してエホバから与えられました。クリスチャンの兄弟に告げられた使徒の言葉は,そのことを強調しています,「召された時のことを考えてみるがよい。人間的には,知恵のある者が多くはなく……神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び……あなたがたがキリスト・イエスにあるのは,神によるのである。キリストは神に立てられて,わたしたちの知恵となり……」。「終りの時」になって「悪い者は……ひとりも悟ることはないが,賢い者は悟るでしょう」と,エホバの御使はダニエルに約束しました。御父を代表するイエスはこれと一致して「終りの時」には「忠実な思慮深い僕」を立て,「全財産を管理させる」と預言しました。「忠実な思慮深い僕」とは,天に召されたイエスの忠実な追随者の残れる者を集合的に指しています。この忠実な僕を成す人々は聖書全体を霊感による神のことばと認め,また神の霊にみちると共にそれを導びかれています。そして神はキリスト・イエスを通してこの人々を用い,霊的な真理すなわち「時に応じ(た)食物」をそなえさせます。―コリント前 1:26-31。ダニエル 12:9,10。マタイ 24:45-47,新口。
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エホバの用いる器の変化ものみの塔 1963 | 7月1日
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エホバの用いる器の変化
1 (イ)エホバのお目的が必ず成し遂げられることは,どうしてわかりますか。(ロ)これはエホバの用いる器が変わらないという意味ですか。
「わたしは神である,わたしのほかに神はない……わたしは終りの事を初めから告げ,まだなされない事を昔から告げて言う,『わたしの計りごとは必ず成り。わが目的をことごとくなし遂げる』。(イザヤ 46:9,10,新口)完全な知恵と先見,限りのない力と手だてを持たれるエホバにとって,ひとたび定めた目的を変える必要はありません。不測の事態が起きたり,巧かつな敵の奇襲攻撃を受けて,エホバがその目的の変更を迫られることはあり得ません。しかし目的を成し遂げるために選ばれる手だてに変更がないという意味ではありません。聖書が神から出たことを証明する別の面の証拠として,このような変化を検討することにします。
2 ヘブル語聖書を書いた人々は,エホバの器についてどんな考えを持っていましたか。
2 前と同じく,まず人間の考え方に従ってこの問題をみることにします。ヘブル語聖書が敬虔なヘブル人の手に成った人間の作品に過ぎないと仮定しましょう。それらの人々はエホバの用いられる器について,どんな考えを持っていましたか。答えは明らかです。この人々の書いたものは,彼ら自身の民族すなわち神の選民イスラエルがその器であったことを一致して宣言しています。預言者アモスによれば,エホバはイスラエル民族に関して「地のもろもろのやからのうちで,わたしはただ,あなたがたを知った」と,言われました。―アモス 3:2,新口。
3,4 (イ)ヘブル語聖書は,イスラエルが神に選ばれた器として十分にその資格をそなえていたことを,どのように示していますか。(ロ)ヘブル語聖書の霊感について,ある人はどのように論じますか。
3 このような選ばれた器であるイスラエルの資格について,ヘブル語聖書を綜合的にしらべると,その資格となっている事柄がひとつの型を成しています。彼らの間から約束の裔メシヤが出ることを定めたアブラハムの契約とのかかわりを別にしても,イスラエルには独自の律法契約がありました。それは国民的指導者モーセを通してシナイ山で成立したものです。この契約によってイスラエル民族は他のすべての民族と区別されてエホバの「宝」となりました。また代々の大祭司と祭司職,エホバの臨在を表わす契約の箱を安置した幕屋,律法の定めに従って犠牲のささげられた祭壇がありました。やがて代々の王が立てられました。そして紀元前607年,バビロンに捕われてよりのち,イスラエルを治める王はなくなりましたが,聖書には究極の王政復古が約束されています。たとえば預言者エゼキエルはイスラエルの王権と支配についてエホバの次の言葉を記録しました,「わたしが与える権威をもつ者が来る時まで,その跡形さえも残らない」。―出エジプト 19:5。エゼキエル 21:27,新口。
4 ヘブル語聖書の主題の発展という点から,前述の事柄のどれをとっても,それは神の霊感を確証するものではないとの論が出るかも知れません。これらのヘブル人は単なる人間のインスピレーションにより,自国民についてこのような事柄をしるしたのではあるまいか,それは愛国心の自然の発露と言えないであろうか,といった論です。
5 クリスチャン・ギリシャ語聖書の筆者については,何が言えますか。パウロはどのようにその事を示していますか。
5 ではこの論を聖書から検討してみましょう。聖書を書くことを別にしても,イスラエル民族の歴史の発展において神の力が働いたことを示す証拠を再びここにあげる代りに,今度は,クリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた小人数の人々に目を向けることにします。これらクリスチャンの筆者はすべてヘブル人すなわちユダヤ人であることに,まず注目して下さい。従ってヘブル語聖書と同様,愛国主義的な精神と物の見方を持っていたに違いありません。その著しい例は使徒パウロです。パウロは自分のもとの立場を次のように述べました,「ヘブル人の中のヘブル人,律法の上ではパリサイ人,熱心の点では[クリスチャン]教会の迫害者,律法の義については落ち度のない者である」。―ピリピ 3:5,6,新口。
6 (イ)これらクリスチャンの筆者は,器の変化をどのように示していますか。(ロ)イエスと共にいた間,弟子たちが変化を予想していなかったことは,どのように証明されますか。
6 さてエホバの用いる器に関して,これらクリスチャンの筆者はどんな考えを持っていましたか。人間的に言えば,彼らは神の目的を成就させる器として全く新しいものを考え出したと言わなければなりません。その器は変りました。それはモーセを仲保者とした肉のイスラエルではなく,キリスト・イエスを仲保者,かしらとするクリスチャン教会すなわち会衆です。この事をどのように説明しますか。イエスご自身が,この新しい考えを弟子たちに植えつけたという説明が出るかも知れません。しかしそれは正しい説明ではありません。記録の示すところによれば,最も親しくイエスに接した弟子でさえも,神がその器を変えようとしていることについては,露ほどの期待も抱いていませんでした。これを証明する二つの出来事があります。復活後,エマオに向かう二人の弟子にイエスが現われたとき,(それがイエスであることを知らずに)二人の弟子はこう語りました,「わたしたちは,イスラエルを救うのはこの人[イエス]であろうと,望みをかけていました」。この事を更にはっきり示しているのは,復活したイエスが最後に弟子たちに現われた時の弟子たちの言葉です。「主よ,イスラエルのために国を復興なさるのは,この時なのですか」。この時でさえ,イエスはエホバの用いる器の変化について,また考え方を変える必要について何も言いませんでした。「時期や場合は,父がご自分の権威によって定めておられるのであって,あなたがたの知る限りではない」。どちらかと言えば,これは神が今までと同じ器を用いつづけると思った弟子たちの考えを裏づけ,ただその
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