-
「エホバにふさわしいしかたで歩む」ものみの塔 1978 | 11月15日
-
-
さ,良識そして知識をわたしに教えてください。あなたの戒めにわたしは信仰を働かせたからです」。(詩 119:66,新)また,善良さはエホバの命令に従うことによって養われます。仲間の信者や他のすべての人に対して善良であることによってエホバに倣っているということを自覚することには満足があります。そのような善良さは,人々を真のキリスト教に引き寄せるでしょう。―ガラテア 6:10。
16 (イ)信仰はどのように定義されていますか。(ロ)霊のこの実を示すなら,他の人々にどんな影響がありますか。
16 七番目に挙げられている霊の実である信仰は,「エホバにふさわしいしかたで歩む」ことを願う人々にとって,非常に重要なものです。この特質なくしては,エホバとの友情を維持し,神を喜ばせることは不可能です。(ヘブライ 11:6)「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」。(ヘブライ 11:1)信仰は根拠のない希望などではなく,確かな基礎のある期待です。さらに信仰は,見えない実体を確信するのに必要な証拠です。例えば,太陽,月,星などの創造物は,考え深い人にとっては創造者なる神の存在を証明するものとなります。(ローマ 1:20-23。ヘブライ 11:3)エホバに対する信仰を示す人は,仲間のクリスチャンたちに優れた手本を示しています。エホバに対するその不動の信仰を見て,仲間のクリスチャンは信仰を強められるかもしれません。またそういう活動的な信仰は,信者でない人々をも,エホバ神を信頼する方向に動かすようになるかもしれません。
17 柔和とは何ですか。エホバに見倣う者がそれを示すとき,どんな結果が生じますか。
17 霊の別の実である柔和は,背後に強さを持つやさしさ,情け深さ,と定義できるでしょう。「わたしは柔和で,心のへりくだった者だ」とイエスは言われました。(マタイ 11:29)イエスを通してご自分に近づく道を備えられたエホバは柔和な方で,厳しい残虐な方ではありません。ですから,神の名によってそれにふさわしく歩もうとする人々は,祈りによってエホバに近づくことを恐れる理由はありません。(ヘブライ 4:16。ヨハネ第一 4:17,18)エホバとそのみ子に倣う者として,クリスチャンはすべての人に柔和な態度で接します。そうすることには確かに大きな益があります。中でも,クリスチャンの妻の「もの静かで柔和な霊」は,信者でない配偶者に真の信仰を持たせる要因となる可能性があります。(ペテロ第一 3:1-4)それからまた柔和は,問題が起きる場合でさえ,人々の間に気持ちの良い関係を作り出します。「柔らかい答は憤りをとどめ」るからです。―箴 15:1,口。
18 自制には何が含まれますか。そしてそれにはどんな効果がありますか。
18 最後に挙げられている霊の実である自制には,自分の体,言葉,行動を抑制することが含まれます。エホバは,エルサレムを荒廃させたバビロニア人を罰する適当な時期が来るまで,「自制心を働かせ続け」られました。(イザヤ 42:14,15,新)クリスチャンは「神を見倣う者」ですから,すべてのことにおいて自制心を働かせるよう努めます。そしてこの特質を培うための助けを,確信を抱いてエホバに祈り求めることができます。(コリント第一 9:25)自制心は,それを働かせる人にとって,またその人と交わる人々すべてにとって,ありがたいものです。霊の他の実と同様にこの特質も,これに目をとめる人々をキリスト教に引き付けるでしょう。
神が求めるもの
19 エホバはわたしたちにどの程度お求めになりますか。
19 エホバの名を負う人々は,霊の実を培うにあたって神の助けを求めるなら,神を喜ばせることができます。もしわたしたちが本当にエホバに導きをあおぎ,エホバのみ前における自分の責任を深く感じているなら,エホバは,エホバの道を歩むべくわたしたちを強めてくださるでしょう。パウロは言いました。「自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」。(フィリピ 4:13)愛ある親切から,エホバはわたしたちを大いに援助してくださり,お求めになることは比較的にわずかです。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」と,ミカは書いています。―ミカ 6:8,新。
20 なぜわたしたちはエホバの保護と助けを確信できますか。
20 公正を行ない,愛ある親切を示し,慎み深くエホバと共に歩むとき,敵意を持つこの事物の体制の中に保護のないまま放置されるようなことはありません。わたしたちがエホバにふさわしいしかたで歩みつづけるなら,エホバ神はわたしたちをご自分の民として保護し助けて,約束の新秩序に救い出してくださる,という確信を抱くことができます。預言者サムエルがかつて断言したとおりです。「エホバはその偉大なみ名のためにご自分の民を捨て去られはしないのです。エホバはあえてあなたがたをご自分の民とされたからです」― サムエル前 12:22,新。
21 今エホバの名によってそれにふさわしく歩んでいる人の前には,どんな見込みがありますか。
21 もしわたしたちが神のみ前における責任を真剣に考え,エホバの名によってそれにふさわしく歩むなら,エホバはわたしたちの友としてわたしたちと共にいてくださいます。もしわたしたちがエホバの霊感による言葉の知識を取り入れそれを自分に適用することをつづけていくなら,エホバがわたしたちをお捨てになることはありません。わたしたちはエホバの証人として,「わたしたちの神エホバの名によって歩む」ことを宣言しました。(ミカ 4:5,新)その決意に従って生きたいものです。そうするときにわたしたちは,永遠にわたってエホバにふさわしいしかたで歩むというすばらしい見込みを得るのです。
-
-
南アフリカにおいて実を結ぶ王国の「種」ものみの塔 1978 | 11月15日
-
-
南アフリカにおいて実を結ぶ王国の「種」
1978年2月26日の日曜日に,黒人,白人,有色人種,インド人など1,867名の入り混じった人々の群れが,ヨハネスバーグの東方約16㌔の所にある大きな美しい建物に集いました。ボツワナ,レソト,スワジランド,南西アフリカおよび南アフリカのあらゆる場所から,クリスチャン会衆の代表者たちがやって来ました。それは,南アフリカのものみの塔聖書冊子協会の本部である,拡張されたベテルの献堂の集いでした。
最初の二人の講演者は,この新しく拡張された建物を献堂するに至るまでの歴史的な背景を幾つか語りました。今世紀初頭,アフリカ大陸全体は王国の音信という点ではまだ「暗黒」状態で,開墾を待つ広大な処女地でした。王国の「種」は,1902年に幾つかの場所で根を下ろし始めていましたが,1910年になってはじめて一つの小さな事務所
-