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国民は支配者とともに責任をもつかものみの塔 1972 | 1月1日
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「終結」することを示されました。
ある人々は,この事物の体制およびその不正直な物事のやり方に同調するのが生き残る唯一の道と考えています。しかし正しい原則を捨てれば,その悪に対する責めをともに負うことになり,前途には滅亡あるのみです。しかしながら,この体制と歩みをともにすることは強制されていて避けることができない,と考える必要はありません。神は個人個人にその行動の責任を問われます。したがって神は,まっすぐな清い道をみずから進んで歩む者たちにのがれ道を備えておられます。(ゼパニヤ 2:3。コリント前 10:13)神は卓越した愛の神です。次に取りあげる主題は神の愛ある親切です。
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神はさばきにおいても愛ある親切を示されるものみの塔 1972 | 1月1日
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神はさばきにおいても愛ある親切を示される
神の預言者のひとりは,腐敗した悪意のある圧制者や偶像崇拝者たちに対する神のさばきを幻で見たとき,「怒る時にもあはれみを忘れたまはざれ」と神に嘆願しました。(ハバクク 3:2)もうひとりの預言者も,神の民と自称するイスラエル民族の中の悪を神が滅ぼす預言的な幻を見て,「ああ主エホバよ汝怒をエルサレムにもたらしてイスラエルの残余者をことごとくほろぼし給ふや」と叫びました。―エゼキエル 9:8。
この二人の預言者はどちらも,エホバが愛とあわれみの神であることを知っていたので,そのようなことを言いました。それは,神の友アブラハムが昔,ソドムに臨もうとしていたさばきについて神に語りかけたのに似ていました。「なんぢかくのごとくなして義者を悪者とともに殺すが如きはこれあるまじき事なり また義者と悪者を均等するが如きもあるまじきことなり」。アブラハムは,義人を滅ぼすことが,エホバの原則に完全に反することを知っていました。―創世 18:25。
アブラハムは,エゼキエルの場合と同じく,神のさばきは選択的であって,滅びに価しない者は救われる,という答えを得ました。結果もそのようになりました。
これらのできごとからわたしたちは神の性質を伺い知ることができます。神はモーセに宣言されました。「エホバ エホバあはれみあり恩恵あり怒ることの遅く恩恵と真実の大なる神 恩恵を千代までも施し悪と過と罪とを赦す者 また罰すべき者をば必ず赦すことをせ(ざる)者」。(出エジプト 34:6,7)エホバは,最高主権者としての威光と威厳とをもって,宇宙の法と秩序を維持されねばならないのです。エホバは違法を大目に見ることはできません。にもかかわらずエホバは,正しいことをしたいと思う者に,あはれみと救いを施されます。
イエス・キリストは,「汝らの仇を愛し,汝らを責むる者のために祈れ。これ天にいます汝らの父の子とならんためなり。天の父はその日を悪しき者のうへにも,善き者のうへにも昇らせ,雨を正しき者にも,正しからぬ者にも降らせ給ふなり」と助言されました。
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