読者よりの質問
● パウロが自分をコリント人の霊的な父と呼んでいるのは何故ですか。マタイ伝 23:9のイエスの誡しめに鑑みて。コリント前 4:15を見よ。
パウロはコリント人に次のように書き送つています。『実に,あなた方が,キリストにあつて,一万人の守役を持つていたとしても,あなた方の父は多くない。何故ならば,私はよい音信によつて,キリスト・イエスにあつて,あなた方の父となつたのであるから。』(コリント前 4:15,新世)コリントの会衆に生命を与える真理を初めて伝えたのはパウロでした。それでパウロは恰も父の如くであり,つまり天の父の代表者としての役を勤めたのです。後に現れた教育者達は,パウロが据えた,生命を与える基礎の上に築いたに過ぎません。この故にパウロは,彼に助けられて生命の道を歩み始めた人々には格別の関係,関心,責任又愛情を示して,時々息子として呼び掛けています。―コリント前 4:17。ガラテヤ 4:19。テモテ前 1:2。テモテ後 1:2。テトス 1:4。ピレモン 10。ヨハネ第三ノ書 4。
それでもヱホバは偉大にして父なる神であり,ヱホバを生命の与え主,備え主として認める凡ての人から公に父と呼ばれ得る方です。「他の羊」にとつて,キリストは彼等の永遠の父となるでしよう。(マタイ 6:9。イザヤ 9:6)他の誰も斯かる名称を与えられるべきではありません。パウロは「父」という言葉を名称としてではなく,たとえとして使つています。彼のコリントのクリスチャンに対する関係を真に述べるのに,パウロは家族内のこの世の関係を利用しています。彼は何処にも父パウロとは呼ばれていません。ペテロはパウロを「我々の愛する兄弟パウロ」と呼んでいます。(ペテロ後 3:15)使徒のうちでも一人として父の名称を以て呼ばれた者はありませんでした。彼等が他から,そう呼ばれることはイエスの「地上の者をあなた方の父と呼んではならない。あなた方には一人の父がある,その方は天に居られる。」との御命令に叛くことになつたでしよう。文脈から見てパウロが名称にへつろうことに反対していたのは明らかです。(ヨブ 32:21,22。マタイ 23:6-12)従つて彼のクリスチャン会衆や個々の人との関係を的確に述べる為に,パウロが人を崇める為の名称としてではなくして,「父」のたとえを用いたことはマタイ伝 23:9に叛くものではありません。
● マタイ伝 5章43節に言われている「あなたの敵を憎め」という誡律は聖書の何処にありますか。
イエスは山上の垂訓の中で言われた。『「あなたの隣人を愛し,あなたの敵を憎め」と云われていることをあなた方は聞いている。しかし私はあなた方に言う,あなた方の敵を愛し,あなた方を責める者のために祈りなさい。これはあなた方が天にいますあなた方の父の子となるためである。天の父はその太陽を悪い者の上にも善い者の上にも昇らせ,雨を正しい者の上にも正しくない者の上にも降らして下さる。』― マタイ 5:43-45,口語。
「あなたの隣人を愛し,あなたの敵を憎め」とユダヤ人は聞いていると,イエスは言われたが,彼等がそれを凡てモーセの律法から聞いているとは言われなかつた。隣人を愛せよという,その最初の部分は律法の一部である。(レビ記 19:18)然し敵を憎めという第二の部分は律法にはない。これは律法とは全く相容れない。律法には『汝もし汝の敵の牛あるひは驢馬の迷ひ去に遭ばかならずこれを牽てその人に帰すべし汝もし汝を悪む者の驢馬のその負の下に仆れ臥すを見ば慎みてこれを遺さるべからずこれを助けてその負を釈べし」(出エジプト 23:4,5)ヘブル語聖書は敵が災難に遭つている時悪意のある喜びの感情を抱くことを許さず,更に敵が困つている時には助けよと命じていた。「なんじの仇もし飢えなば之に糧を食わせ,もし渇かば之に水を飲ませよ。」― ヨブ 31:29。箴言 24:17; 25:21。
汝の敵を憎めという部分は言い伝えの教義を教える者達が附け加えたのである。神の言葉を空しいものとし,イエスが悪しとされたのはこの増し加えられた教えであつた。隣人を愛せよと命ぜられていたユダヤの教師達はこの誡律に対照させて敵は憎むべきであると推断した。彼等にとつて「友達」或は「隣人」とはユダヤ民族の一人のことであつて,他の凡ての者を彼等は生まれ乍らの敵と見做していた。イエス時代の法律家であつた学者の一人からこの誤まつた考えを根こそぎにする為にイエスは譬えを用いられた。強盗に遭つて奪われ,打たれて半死状態に置き去られた男のことをイエスは話された。ユダヤ人の祭司もレビ族の者もこの苦しんでいる者を見て道の反対側を通り過ぎた。然るにユダヤ人からは軽蔑されていたサマリヤ人が其処を通りかかつた。彼は気の毒に思い,その男の傷の手当をして宿屋に連れて行き,更に彼が介抱されるようにと費用を支払つた。このユダヤ人ではないサマリヤ人が,その時,傷ついた男の本当の隣人であることが見極められた。ユダヤ人の祭司やレビ族の者ではなかつたのである。(ルカ 10:25-37,口語)仲間のユダヤ人だけが隣人であるとする伝統的な考えと,又良く知られている,彼等が異邦人に対して抱いている憎しみと敵意とから考えて,彼等が何故「あなたの隣人を愛しなさい」という神の律法に更に「あなたの敵を憎め」を附け加えるようになつたかを理解することは困難ではない。
そこでイエスは彼等を懲らされたそして隣人だけではなく敵をも亦愛さなければならないことを教えられたのである。ここに用いられている「愛」という言葉(ギリシャ語,アガペ)は道徳的或は社会的愛を意味している。夫は斯くあるべし,こうすべきだ,或はそうすることが正しい,といつた意志の有意的な働きに基づく愛である。夫は正しい事を行うという問題であつて,普通心から起ると考えられている感情的又個人的な愛着,愛情を意味する愛(ギリシャ語フィレオ)よりは,むしろ頭から理性的に考えられるものである。正しい原則に従うという問題として,我々はこの道徳的な愛を凡ての人,たとえ我々を個人的に迫害するような人にも示す。我々に愛或は正義の原則に基づいた行いを棄てさせるような個人的な憎しみを我々は許さず,凡ての人に対して正義の原則に基づく行いを為し,又愛を示す。更に我々は無智の故に我々を迫害する人々がヱホバの新しい世界に就いての真理を見るように,彼等の眼が開かれることを祈るのである。
然し我々はヱホバが罪に定められ,悪しと宣告された者達の為に祈らない。そうすることはヱホバの誡律を破ることである。(エレミヤ 7:16; 11:14)明らかにヱホバの敵である者を愛することは神を怒らせることになるであろう。「汝悪しき者を助けヱホバを憎む者を愛して可らんや之がためにヱホバの前より震怒なんぢの上に臨む」(歴代下 19:2)個人的な理由から我々の敵となつているかも知れない人達ではなく,神への意図的な憎しみを示した人々を我々は憎み,我々の敵と考える。何故ならその人達は神の敵だからである。「ヱホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんぢに逆ひておこりたつものを厭うにあらずやわれ甚くかれらを憎みてわが仇とす」(詩 15:4; 139:21,22)然し凡ての場合に我々は「悪をもて悪に報いず」凡ての復讐をヱホバに任せる。―申命 32:35。ロマ 12:17,19。