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山上の垂訓 ―「宝を天に蓄えなさい」ものみの塔 1978 | 12月15日
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暗いでしょう」。(マタイ 6:23前半)『よこしまな目』は,貪欲な欲望を抱いて悪いものに焦点を合わせます。(マタイ 5:28。ペテロ第二 2:14に注目してください。)専らこの世の富を追い求める人にとって,「体全体は暗いでしょう」。そうした物質主義的な目標は,生活のあらゆる面で霊的な暗さを表わす誤った行動に導くものとなるのです。使徒パウロは次のように書いています。「富もうと思い定めている人たちは,誘惑とわな,また多くの無分別で害になる欲望に陥り,それは人を滅びと破滅に投げ込みます。金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根であるからです。ある人たちはこの愛を追い求めて信仰から迷い出,多くの苦痛で自分の全身を刺したのです」― テモテ第一 6:9,10。
イエスはこのことの重大性を示して次いでこう言われました。「実際のところ,あなたにある光がやみであれば,そのやみはいかに深いことでしょう」。(マタイ 6:23後半)人間であるわたしたちは生まれながらにして自らの中に不完全さを持っています。(ローマ 5:12)しかし,啓発(ひゆ的な目)を受けるための能力を間違った方向に向けるなら,人の状態は一層悪化します。富に対する貪欲な欲望は人の生活のあらゆる面を汚します。(箴 28:20)イエスは,それらの人々の「やみはいかに深いことでしょう」と叫ばれました。そうした人々の,物質の宝に対する愛は,彼らをして霊的な事柄を押しのけさせてしまうからです。―マタイ 13:22。
それからイエスは二番目の例えをさらに述べられました。「だれもふたりの主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛し,あるいは一方に堅くついて他方を見下げるようになるからです」― マタイ 6:24前半。
山上の垂訓を聞いていた人々は,モーセの律法により定められていた奴隷制についてよく知っていました。(出エジプト 21:2。レビ 25:39-46)奴隷の所有者は,自分の奴隷が自らを完全にささげるよう要求することができました。(ルカ 17:7-10と比較してください。)興味深いことに,ミシュナは,「共同所有者に属する奴隷」の権利について述べ,奴隷が二人の主人に従わねばならない場合があったことを示しています。この点についてのイエスの言葉に関して,新約聖書神学辞典には次のように書かれています。
「マタイ 6章24節とルカ 16章13節は,同等の所有権を有し,それゆえに同等の奉仕を要求した二人の所有者に仕える奴隷がいた可能性のあることを示唆している。それは,あり得た,また実際に存在した状況である。実際に,一人の主人からは自由になっても,もう一人の主人からは自由になっていないため,半分自由で半分奴隷となっていた奴隷がいた。そうした[二重の奴隷状態という]関係においては,もちろん,奴隷にとって,両方の主人に同じ献身を表わすことは,とりわけ二人の望みや関心が大幅に異なる場合には,不可能に近かった。イエスは,奴隷が一方の主人を[愛し],他方を[憎む],つまりあまり強く結び付かないようにするよう述べられて,このことを同時代の人々の,またご自分の民の言葉で言い表わされた」。
イエスは,次のように述べてこの例えの要点を強調されました。「あなたがたは神と富とに奴隷として仕えることはできません」。(マタイ 6:24後半)ここに述べられていることは,富を所有することを非としているわけではなく,むしろ,人が富に「奴隷として仕え」ながら同時に,神が求めておられる専心の献身を神に表わすようなことができないことを強調しています。真に神を愛し,是認を受ける仕方で神に仕えることを望む人は,確かに,地上における宝を人生の主要な目標とした結果生ずる奴隷状態を「忌みきらわ」ねばなりません。
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『開いた墓のようなえびら』ものみの塔 1978 | 12月15日
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『開いた墓のようなえびら』
エルサレムとユダの地に向かって進撃するカルデヤの軍隊に関して,エレミヤの預言はこう告げていました。「そのえびらは開いた墓のようであ(る)」。(エレミヤ 5:16,口)この比喩は,開いた墓が死者で満ちているように,バビロニア人のえびらが人を殺す矢で満ちていることを示しているようです。
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