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クリスチャンは自己防衛をどう見るかものみの塔 1968 | 9月1日
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れ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」― ペテロ第一 2:19,20。
ですから,しっかりと立って下さい。信仰において強くなりましょう。エホバは,いかなる反対や迫害にも耐える力を与えてくださるという確信をもちましょう。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をささへたまはん,ただしき人のうごかさるるを常にゆるしたまふまじ」。(詩 55:22,文語)したがって,もしあなたがクリスチャンであれば,攻撃や迫害をいつも恐れて生活する必要はないのです。むずかしい時がくればエホバが支えて下さるということを考えて,クリスチャンの道を歩み,確信をもって将来に向かえばよいのです。
まもなくエホバは,この悪い事物の制度に対してその力をふるわれ,悪を行なう者をことごとく滅ぼされますが,そのことを知っているのも喜びです。そして神は,忠実なしもべたちにかならず報いを与えられるのです。「正しい人は地にながらえ,誠実な人は地にとどまる。しかし悪しき者は地から断ち滅ぼされ,不信実な者は地から抜き捨てられる」― 箴言 2:21,22。
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読者からの質問ものみの塔 1968 | 9月1日
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読者からの質問
● 判事や統治者の前で起立し,頭を下げ,あるいはそのような人に話す際に特別な敬称を使うよう要求されたとき,クリスチャンが,行なうべき聖書的事柄は何ですか。―アフリカの一読者より。
クリスチャンは統治者や権威を持つ人々に対して敬意を示すように神から勧められています。そのような上にある権威に関して,使徒パウロは霊感の下にこう書きました。「あなたがたは,彼らすべてに対して,義務を果しなさい……恐るべき者は恐れ,敬うべき者は敬いなさい」。(ローマ 13:1,7)そのうえ,パウロは,「王たちと上に立っているすべての人々のために」取りなしを願うことができると述べています。(テモテ第一 2:1,2)この種類の敬意や尊敬を表わす方法は,土地によって異なります。その中には,統治者に頭を下げたりその前でひれ伏したりすること,あるいは統治者が部屋に入って来るときに,起立し,また特別な敬称を使うことなどがあります。そのような場合,クリスチャンは土地の習慣に従い,人の職務上の地位,またその職務に敬意を示すことが求められます。
聖書には,特別な姿勢をしてある程度の敬意を示した例があります。ヤコブはエサウと会う際に,7回身をかがめました。(創世 33:3)族長アブラハムも,カナンの土地の異邦人,ヘテの人々におじぎをしました。(創世 23:7,12)地上におられたときのイエスは,エホバから任命された王としての資格で,人々が彼にひざまずくのを許されました。(マタイ 8:2; 9:18)これらの行為は実際の人間崇拝を意味していなかったゆえ,敬意を示す動作として許されていたのです。―出エジプト 34:14。マタイ 4:10。
言葉でもってどのように権威に敬意を表わすかを示す聖書の例もあります。パウロはローマの総督フェストに「フェスト閣下よ」と述べています。(使行 26:25)支配者が長生きするようにとの願いをこめた,『王がとこしなえに生きながらえますように』といった表現は,神のしもべも異邦人も使っています。―列王上 1:31。ダニエル 3:9。
しかし,人間の権威者に敬意を帰することには限界があります。クリスチャンは,エホバだけが崇拝を受けるにふさわしい方であることを忘れてはなりません。(出エジプト 20:3-5。詩 100:3)エホバが昔から律法を通して強く禁じておられることは,人間を含めて,被造物に崇拝をささげてはいけないということでした。なぜなら,それは偶像崇拝となるからです。パウロとバルナバはこのことを知っていたので,ルステラの人々が二人を神々として崇め始めたとき,次のように願ったのです。「なぜこんな事をするのか。わたしたちとても,あなたがたと同じような人間である」。(使行 14:11-15)崇拝をささげる姿勢で人間の前にひれ伏すのは,まちがった行為です。そのわけで,コルネリオがそのような事をしたとき,ペテロは,「お立ちなさい。わたしも同じ人間です」と言って,それをやめさせました。(使徒 10:25,26)ヨハネに指摘されたように,御使いにさえ崇拝的行為をすることはまちがいです。ヨハネは感情を抑えきれず,まさに霊的平衡を失って御使いを拝もうとしていました。―黙示 19:10; 22:8,9。
部族の首長や判事や役人に敬意を示すような場合
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