思いやりのあるくびきと軽い荷
「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。そうすれば,わたしはあなたがたを元気づけよう。あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい」― マタイ 11:28,29,新。
1 今日の世界にはどんな事態が見られますか。どんな質問を提起できますか。
昨今は,どこへ行っても,疲れた人びとを目にします。仕事を終えて疲れて帰宅し,疲れたまま床につくばかりか,朝,起きても疲れはとれず,疲れたまま仕事に出かけます。人びとの顔には,疲労の跡がありありと現われ,からだつきは,重い荷を負うときのように曲がっている人も多くいます。いたいけな幼子や少年少女また十代の若者でさえ疲れを訴えます。昨今,人びとはどうしてそんなに疲れているのでしょうか。どうすれば,自分たちの魂を元気づけるものを見いだせるのでしょうか。
2,3 (イ)今日の人びとが疲れている理由を幾つかあげなさい。(ロ)聖書は,「すべて造られたるもの」のありさまをなんと述べていますか。なぜですか。
2 老若の別なく,人びとは現代の耐えがたい圧力から影響を受けています。場所によっては,時間までに職場に行くことさえ,精根が尽きはてるほどの大仕事になっています。諸都市の早朝の交通はそれ自体危険を伴い,その時刻には,交通道義は笑い草として忘れられてしまいます。汽車や電車また地下鉄はたいてい,みじめな顔の人びとでいっぱいになります。能率にかけては有能でも,思いやりに欠けた,生産性の向上を常に考える上司に接したところで,励みが得られるものではありません。それに,周囲全体が不健全な空気でみなぎっています。仕事の上では競争や対抗意識が見られたり,会話といえば,いつも不道徳で劣悪な内容になったり,また,互いに平気でうそをついたり,だましたり,盗んだりする同僚との交渉のために神経がすりへらされます。それに加えて,高い生活費,毎年ふえる税金,恐怖,つまり,盗まれはしまいか,強姦されたり傷害を加えられたりはしまいか,失業したり所有物を失ったりはしまいか,病気になっても,だれの世話も受けられないのではあるまいか,という恐れから生ずる緊張などの重荷を考えると,人類の負わされている荷,すなわち,この時代の恐るべき圧力のほどを理解できるでしょう。
3 しかも,これがすべてではありません。そのうえに,政治軍事および商業体制の不倫かつ劣悪な腐敗した慣行,戦争,革命そして不正などのもたらす重圧が加わります。さらに,世界的な宗教の課すきびしい重荷,つまり,伝統を固守する,活力の失せた無意味な諸制度,礼拝者のいない大聖堂や信仰を失った牧師たちを維持する財政負担があります。おまけに,現今の無軌道な若者や犯罪,暴力や暴動のもたらす重荷を考えると,人びとが疲れているのももっともなことです。聖書は,「すべて造られたるもの」が,「共に嘆き,ともに苦し(んで)」いると述べていますが,それは,「全世界(が)邪悪な者の権力のもとにある」からです。(ロマ 8:22。ヨハネ第一 5:19,新)人をとりこにして,徐々にその息の根を止める巨大なタコのような体制に,人びとはうんざりしています。(黙示 13:16-18)それにしても,人びとはいったいどうすればよいのですか。どうすれば,そうした体制を抜け出して,自分たちの魂を元気づけるものを見いだせるのでしょうか。
すばらしい招待
4 苦労し,かつ,重荷を負わされている人びとのために,イエスはどんな解決策を提供されましたか。
4 1,900年余の昔,神の子,イエス・キリストが地上におられた当時,人びとは今日と同様,圧迫されていました。その窮境を見て取ったイエスは,解決策を提供しました。イエスがお与えになった解決策とは,自分たちの魂を元気づけるものを得るため,イエスのもとに来なさいという,すばらしい招待でした。イエスは言われました。「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。そうすれば,わたしはあなたがたを元気づけよう。あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓が謙そんだからである。そうすれば,あなたがは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは,思いやりがあり,わたしの荷は軽いからである」。(マタイ 11:28-30,新)この美しいことばの中に解決策があるのです。それにしても,このすばらしい招待はだれに差し伸べられたのですか。また,20世紀の現代のわたしたちにとって,このことばは何を意味しますか。
5 (イ)イエスの招待は,当時のだれに差し伸べられましたか。(ロ)モーセの律法はそれ自体,重荷でしたか。
5 その招待は,苦労し,かつ,重荷を負わされている人すべてに差し伸べられています。イエスの時代には,それは特に,モーセの律法を守る義務のある人びとにかかわるものでした。使徒行伝 15章10節で,クリスチャン使徒ペテロは,エルサレムの年長者たちに話しかけて,こう言いました。「何ぞ神を試みて弟子たちの頸に我らの先祖も我らも負ひ能はざりし軛をかけんとするか」。ペテロは,モーセの律法のことを,負いがたい重荷を課すくびきと呼びました。それも,律法そのものがしょいがたいからではありません。それどころか,律法は,「聖にして正しく,かつ善」でした。(ロマ 7:12)しかし,不完全な人間は,その完全な規準にかなうことができないため,人間にとって負担となったのです。キリストは,そうした律法の義務のくびきにつながれている人すべてを,自由にされました。―ガラテヤ 3:13。
6-8 ほかにイエスの招待はだれに差し伸べられましたか。
6 同時に,「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい」という,すばらしい招待は,伝統を固守する,当時のむなしい諸体制のもとで重荷を負わされていた人びとにも差し伸べられました。そうした伝統を築いた律法学者やパリサイ人について,イエスは言われました。「重き荷を括りて人の肩にのせ,己は指にて之を動かさんともせず」。(マタイ 23:4。マルコ 7:2-5)パリサイ人は,さほど重要でない,詳細な事がらに極端な注意を払うあまり,公正,慈悲,忠実などの,より重要な事がらを完全に見過ごしました。人をとりこにする,そうした,むなしい崇拝にすぎない伝統から,イエスは人びとを自由にしました。―マタイ 15:1-9。
7 その招待はまた,カイザルの支配と課税の重圧にあえぐ人びとにも,そして,「牧ふ者なき羊のごとく悩み,且たふるる」ままにされた人びとにも差し伸べられました。(マタイ 9:36; 22:17-21)イエスの解決策を用いれば,そうした人びとも元気づけられることができたのです。
8 イエスはまた,罪の重荷のゆえに良心のかしゃくを覚えている人びとにも話しかけられました。罪をならわしにすれば,堕落と腐敗のきわみに達し,最悪の貧窮に陥ります。(マタイ 6:23)そのような人も,「わたしのもとに来なさい」とのイエスの招待に応ずれば,その重荷から自由にされたのです。
思いやりのあるくびきと人を元気づけるもの
9 イエスはどのようにして,人びとが,魂を元気づけるものを見いだすため,ご自分の招待に答え応じさせましたか。
9 キリストはどのようにして,その招待に人びとを答え応じさせ,自分たちの魂を元気づけるものを見いださせましたか。現代の多くのヒッピーが望んでいるように,人生の重荷もしくは仕事を回避するのではなく,キリストのくびきのもとに来て,その弟子になって初めて,人を元気づけるものが得られることを明らかにして,そうされたのです。イエスは言われました。「あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。……そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう」。(マタイ 11:29,新)1950年版の新世界訳脚注で,この句は,「わたしとともに,わたしのくびきの下にはいりなさい」と訳出されています。したがって,人びとは,世俗的なくびき,もしくは係累をかなぐり捨てて,自分たちの魂を元気づけるものを見いだすべく,キリストとともに,彼のくびきの下にはいるよう招待されています。その新しいくびきとは,みずからをイエス・キリストの弟子とする責任を負うことです。
10 (イ)イエスのくびきは思いやりのあるくびきであると言えるのはなぜですか。それは雄牛のくびきとどのように異なっていますか。(ロ)イエスの招待のことばは,詩篇のどんな招待のそれと似ていますか。(ハ)イエスに結ばれる人は,自分を元気づけるものを,どのようにして得ますか。
10 昔のイスラエル民族は農耕民族であり,くびきによく通じていたので,イエスが話されたことの意味がよくわかりました。また,大工としてイエスは,雄牛のくびきや,人びとが使う首当てを作られたに違いないことも,念頭におかねばなりません。そうした首当てはたいてい,首や肩によく合うように作られており,水その他の必要物を運ぶのに使用されました。ところで,雄牛に負わせるくびきは任意のものではありませんが,イエスが勧めておられたのは,任意のくびきです。イエスは,人びとがイエスのくびきを負って,彼の弟子になるよう招待されたのです。それはユダヤ人にとって,モーセの律法のもとから進んで出てきて,イエス・キリストの弟子となる,つまり,信仰のゆえに,キリストに結ばれ,自分の心臓・魂・思い・力のすべてをもって,神への奉仕にあずかることを意味しました。(マタイ 22:36-40。ロマ 1:17)その勧めは,詩篇 55篇22節の招待のことばと似ています。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」。エホバの助けを確信できると同様,神が地上におけるご自分の仕事を行なわせるためにつかわされた,イエス・キリストのことばも確信できます。救いのためのエホバの備えとしてのイエスに信仰を働かすなら,ほんとうに元気づけるものが得られることを,イエスは明らかにされました。なぜなら,「他の者によりては救を得ることなし,天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を,人に賜ひし事なければなり」とあるからです。(使行 4:12)そうした知識は,希望をはぐくみ,正義の新しい事物の体制における永遠の命に関する考えをいだかせ,人を元気づけます。―ペテロ後 3:13。ヨハネ第一 1:9; 2:17。
11 自分を元気づけるものとして何が得られますか。1世紀のクリスチャンはそれを得ていた,とどうして言えますか。
11 そうした,人を元気づけるものとはおもに,内面的な経験,つまり,キリストの弟子はモーセの律法の行ないによってではなく,信仰のゆえに神の家族の子である,ということを知る喜びの経験なのです。それは,エホバに全き愛の従順を表わされたイエスご自身の経験に,信仰によってあずかり,そうした交わりを通して神の是認を受けることです。疲れ果てた人は,キリストにたより,キリストと近づくたびに,自分を元気づけるもの,つまり歓喜すべき理由を見いだすのです。自分を元気づけるものとして得られるのは,みずから享受する平安な思いであり,心臓に宿る深い穏やかさであり,生きることに対する,理解を絶する満足感です。1世紀のクリスチャンは,そうした,自分を元気づけるものを確かに体験し,それについて聖書にしるしました。―ヨハネ 14:27。ピリピ 4:7。
今日の,思いやりのあるくびき
12 今日のキリストのくびきとはなんですか。
12 それにしても,今日のキリストのくびきとはなんですか。それは,怠惰のくびきでもなければ,仕事あるいは,なんらかの高潔な要求からの免除でもなく,永遠の報いを目ざす生き方,つまり,犠牲と手本を必要とする生活なのです。(マタイ 16:24-26; 19:16-29)したがって,それは拘束の全くない無責任な生活,“無軌道な自由”の生活ではありません。そのような生活をする人は,責任も持たなければ,物事を成し遂げたり達成したりすることもないため,日ならずしていらいらしたり,あきあきしたりするようになります。したがって,今日のくびきは,イエスの時代のそれと同じで,イエス・キリストの弟子としての,神への完全な献身のくびきであり,永遠の命を目ざして信仰によって生活する,エホバの真のしもべとしての生き方なのです。―ヘブル 10:7-10。詩 40:6-8。
13 今日,クリスチャンは,自分の魂を元気づけるものをどのようにして見いだせますか。それをまだ体験していない人は何をしなければなりませんか。
13 クリスチャンはそうしたくびきを自発的に負います。なぜなら,それは人を元気づけるものだからです。そうする人は,敬けんな自由を体験します。イエスが言われたとおり,「汝らもし常に我が言に居らば,真にわが弟子なり。また真理を知らん,しかして真理は汝らに自由を得さ」せるからです。「このゆえに子もし汝らに自由を得させば,汝ら実に自由とならん」。(ヨハネ 8:31,32,36)したがって,自由を得,自分を元気づけるものを体験するには,イエス・キリストの弟子にならねばなりません。そうした体験にあずかるには,それ以外に道はありません。(ロマ 7:4。ガラテヤ 5:1)今日,クリスチャンであると唱えながら,自由もしくは,自分を元気づけるものを体験していない人は,神と自分との関係を吟味しなければなりません。神はご自身の約束を成就されるかただからです。―列王上 8:56。
14 キリストのくびきは,どんな点が思いやりのあるものと言えますか。
14 イエスは,ご自分の弟子となるよう疲れ果てた人びとを招待した時,「わたしのくびきは,思いやりがあり,わたしの荷は軽い」と,それらの人に告げました。どうして思いやりのあるくびきと言えるのですか。イエスの時代と同様,今日でも,雄牛の首をすりむくことがないよう,柔かな布を内側にあてたくびきがあります。それは愛と配慮を示すので,「思いやりのあるくびき」と言えるでしょう。クリスチャンのくびきは思いやりのあるものです。なぜなら,献身のくびきは任意のもので,神とキリストの愛の裏打ちが施されているからです。そうした献身の特権に,貧富,老若,教育や能力また体力の差にかかわりなく,だれでも例外なくあずかれるのは,それが思いやりのあるくびきであることを実証しています。「神は偏ることをせず,何れの国の人にても神を敬ひて義をおこなふ者を容れ給ふ」と使徒ペテロは言いました。―使行 10:34,35。
15 (イ)わたしたちはどのようにしてキリストのくびきを負えますか。それはどうして喜ばしい経験といえますか。(ロ)キリストのくびきと違って,世のくびきはなぜ人を満足させるものではありませんか。
15 ここでいうくびきはキリストのくびきです。『あなたがたはわたしのくびきを負いなさい』と,キリストは言われます。したがって,キリストの模範に従うようわたしたちは求められており,そうするのは喜びです。なぜなら,キリストはご自身を,『気質が柔和で,心臓が謙そんな』者と述べておられるからです。(マタイ 11:29,新。ペテロ前 2:21)こうした特質は,世の権威者たちの過酷で,多くの要求をする精神とは対照的です。キリストは気質が柔和で,心臓の謙そんなかただからこそ,キリストとともに働くのは,確かに喜びです。キリストのくびきは,真の愛で裏打ちされています。それは,この世のくびきと違って,すり傷を負わせたりはしません。この世のくびきは過酷かつ無情で,多くの要求をします。それは人をいらだたせ,疲れさせます。なぜなら,それは過酷なものであるだけでなく,地上の邪悪な人間の飽くことのない利己的な欲望を満たすために働いたとて,永続する益も,何事かを達成する真の喜びも,真の満足感も得られないからです。ところが,キリストの弟子としてキリストのきずなに結ばれる人はおのおの,エホバに仕えることから得られる喜びと満足を味わえます。それこそ,人を満足させるものです。魂をほんとうに元気づけるのは,神のしもべであるという,こうした自覚なのです。―箴言 10:22。
軽い荷
16 キリストが述べた,『軽い荷』とはなんですか。
16 今日,重荷を負わされている,魂なる人間に対し,「わたしの荷は軽い」と,イエスは保証しておられます。(マタイ 11:30)その軽い荷とはなんですか。それは,命を得るための神の要求に従って生活することです。使徒ヨハネは書きました。「神の誡命を守るは即ち神を愛するなり,しかしてその誡命は難からず」。(ヨハネ第一 5:3)「エホバの汝に要めたまふ事は たゞ正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや」。(ミカ 6:8)正しい行ないをし,愛と親切を示し,へりくだって神とともに歩むことを求める神は,わたしたちに多くの要求をしすぎていますか。他の人びとにそうした特質が宿っているのを見ると,わたしたちは喜びを味わうのではありませんか。クリスチャンは神の王国の良いたよりを,「すべての国の民に対する証として,人の住む全地で」宣べ伝え,「すべての国の人々を弟子とし」て,聖書の原則に一致した生活をするよう,それらの人に教えることを命じられています。(マタイ 24:14; 28:19,20,新)それはしょいきれない,あまりにも重い荷ですか。考えてみましょう。
17 それはどうして軽い荷といえますか。
17 その荷は,わたしたちが神の王国について人びとに話しかけ,イエス・キリストの弟子になる方法を教えねばならないということを意味します。このことを念頭においてください。それはわたしたちにとって,あまりにも大きな要求ですか。たいていの人は,なんらかの言語で話すことができ,普通,身近かな物事について話すのは喜びです。事実,そうした会話は,人を生気づけ,励みを与えます。それでは,神への愛が身近かな事がらであるなら,わたしたちは自分たちの神について話したいと願いませんか。神の子,イエス・キリストがわたしたちに完全な模範と犠牲を備える点で行なわれたことを深く認識しているなら,それについて語りたいと思わないでしょうか。神の王国がこの地を楽園に変え,人間を完全な状態と永遠の命にまで向上させて,従順な人類すべてのために行なおうとしていることを十分に理解しているなら,神の王国の良いたよりについて,他の人びとに聞いてもらいたいと願わないでしょうか。もちろん,そう願うに違いありません。わたしたちの心臓にとって貴重な事がらは重荷どころか,魂を元気づけるものとなるのです。それも,神とキリストおよびキリストの王国にかかわる事がらについては,特にそう言えます。事実,「人は〔心臓〕に信じて義とせられ,口に言ひあらはして救はるるなり」とあるとおりです。―ロマ 10:10,〔新〕。
人を元気づける仕事
18 (イ)クリスチャン宣教を重荷と考える人は,何を行なえますか。(ロ)そのような人は何を目撃できますか。
18 しかし,中には反対意見の人もいて,弟子の荷は軽くもなければ,人を元気づけるものでもない,と主張するかもしれません。そうした主張が正しくないことを,どうしたら証明してあげられますか。そうした懐疑家,もしくは疑念の持ち主がいるなら,クリスチャンは神への奉仕にそれらの人を同行するよう招待できます。宣教に携わって,ほんとうに元気づけられるかどうかを見てもらいましょう。そうすれば,耳を傾けて聞く人を見いだして,王国について話すとき,神の奉仕者が元気づけられるのを見るでしょう。奉仕者の心臓は,事実,喜びで小踊りします! 耳を傾けて聞く人を戸口で見いだすのは,なんという喜びでしょう。神の王国について述べた文書を,たとえ1部でも,関心のある人に配布する喜びは,なんと大きいのでしょう。真理のうちにある奉仕者は,再び生気を与えられ,新たな力を得,気力を一新して,階段を昇り降りします。奉仕者たちは老若の別なく同様の影響を受けます。なぜそれほど鼓舞されるのですか。なぜなら,命を宿す,神のことばを他の人とわかち合うのは,人を元気づけるものだからです。
19 会衆の聖書研究に出席するのは重荷ですか。答えの理由を述べなさい。
19 クリスチャンは会衆の聖書研究に毎週出席するよう勧められていますが,これもまた重荷ですか。世俗の職場で1日働いたのち,疲れた気分でそうした聖書研究に出席する人も,集会で神のことばを1時間も勉強すると,たいてい疲労感は消散し,元気づけられるのを感じます。また,そうした気持ちをおくすることなく口にします。新たな真理を学ぶときには,なんと大きな喜びを味わえるのでしょう! からだも生き生きとしてきます。なぜそう感ずるのですか。なぜなら,そうした交わりにおいて,神のことばをわかち合うのは,魂を元気づけるものだからです。
20 王国会館における会衆の集会や,巡回・地域・国際大会に定期的に出席する人びとに関して,何を目撃できますか。
20 神のことばは,クリスチャンが会衆で定期的につどい合うことを励ましています。(ヘブル 10:24,25)それで,毎週数回の集まりに出席します。これは重すぎる荷といえますか。この世の荷を負って,いわば,からだを打ったり,そこなったり,痛めたりしながらも,来る週も,来る週も,忠実に王国会館にやって来ます。どうしてそうするのですか。なぜなら,そうすることによって初めて,仲間の兄弟たちと交わり,自分たちの魂を元気づけるものを見いだせるからです。家族をかかえている母親や父親が子どもたちを伴って,定期的に会衆の集会に出席するのは容易なことではありませんが,やはりそうします。巡回・地域・国際大会に出席するため旅行するのは,時には相当の費用もかかり容易ではありませんが,それでもそうします。なぜそうするのですか。なぜなら,そうした集会で,自分たちの魂を元気づけるものを見いだせるからです。「視よはらから相睦てともにをるはいかに善いかに楽きかな……そはエホバかしこに福祉をくだし窮なき生命をさへあたへたまへり」とあります。(詩 133:1,3)そして,人を富ませる,エホバの祝福を,こうした集会で体験するのです。
疲れても,満足を味わえる
21 (イ)それは,クリスチャンは疲れないという意味ですか。答えの理由を述べなさい。(ロ)現代のクリスチャンは,自分を元気づけるものを神から得ています。何がこのことを証明していますか。
21 とは言っても,クリスチャンは肉体的に疲れない,という意味ではありません。やはり疲れます。イエスはご自分の使徒たちに,「暫し息へ」と命じられました。(マルコ 6:31)霊は欲していても,からだがいうことを聞かない場合があります。(マタイ 26:41)しかし,そのような場合でも,そうした疲労感は,エホバの意志を行なった快い満足感をもたらします。あきらめる気持ちなど,みじんもありません。(ガラテヤ 6:9,10)それがほんとうかどうかを,宣教に最も長く,かつ最も熱心に携わっている全時間奉仕者に尋ねてごらんなさい。開拓者,宣教者,ベテルのしもべたちなど,神の全時間の働き人以上に幸福で,満ち足りた人びとのグループを見いだすことはできません。それらの人びとが幸福なのは,自分を元気づけるものを神から得ている証拠です。
22 (イ)多くの全時間奉仕者は,キリストの宣教についてなんと述べていますか。(ロ)それは何を奨励するものですか。
22 ニューヨーク市ブルックリンのある会衆の監督は,全時間宣教についてどう感じているかを知るため,会衆内の開拓奉仕者たちと話し合ったところ,その答えはだいたい次のようなものでした。「1日の奉仕の仕事を終えたのち,私は,神のことばに人々の関心を向けさせることができる喜びをしみじみと味わいます」。「開拓奉仕はほんとうにすばらしい経験なので,開拓者になったことを一度も悔いたことがありません」。「開拓奉仕以上に報いのあることを行なえるとは思いません。みんなが私と同じように思ってくだされば,と願わずにはおれません」。しかも,世界の各地からも同様のことばが寄せられています。それは明らかに,自分を元気づける,報いの多い生活です。あなたは開拓奉仕について少し考えておられますか。
賢明な決定を下し,失意しないように努める
23 (イ)クリスチャン宣教がしょいがたい荷であると言い張る人は何を行なえますか。(ロ)それらの人はどんなことに気づきますか。
23 それでも,クリスチャン宣教の荷は重い,いや,しょいきれない,とさえ唱える人がいることも無視できません。どうしてそう考えるのでしょうか。もし,あなたがそうした見方をしておられるなら,わたしたちはこう尋ねます。「どうしてそう考えるのですか。しょいきれないのはクリスチャン宣教ですか。それとも,世俗の仕事の要求ですか。宣教に対するあなたの態度が問題なのですか。世俗的な責務や係累のために疲れ果てて,享受してしかるべき喜びを宣教から得ることができないのですか」。問題をつきとめてください。誠実な気持ちで問題を調べ,それから真剣に必要な調整を行なってください。問題は,クリスチャン宣教の荷に関してではなく,たいがい,生活の仕方のどこかにあることがわかるでしょう。なんといっても,それは軽い荷であるとキリストは確かに言われたのです。
24 生活上の個人的な荷を軽くして,宣教をいっそう喜びのあるものにするためになしうる幾つかのことを述べなさい。
24 生活上の個人的な荷を軽くして,宣教からより大きな喜びを得られるようにするために,なしうることが幾つかあります。明らかにマルタは,手の込んだもてなしをすることに喜びを感じました。それがあなたの問題かもしれません。イエスはそれを奨励しませんでした。なぜなら,それは多くの時間を食い,体力を消耗させるおそれがあるからです。(ルカ 10:38-42)多くの所有物をかかえて,処置に困っている人もいます。そうした重荷を持つ人には,それを売りなさい,とイエスは助言なさいました。(マタイ 19:21)愚かにも肉の働きに屈して,罪をならわしにするわなに陥っている人もいます。(詩 38:3-5)それは人の思いにたえがたい荷です。悪行をやめなさい! 悔い改めて,神の意志にかなう生活をしてください。さもないと,悲惨な生活に陥いるばかりか,永遠の命を受けそこなうでしょう。
25 (イ)どうすれば,失意しないように努めることができますか。(ロ)わたしたちの魂を元気づけるものをどこに見いだせますか。
25 あなたがどんな問題を持っているにしても,それを早く解決してください。かかえている重荷のために,熱意を鈍らせたり,エホバに仕えることを思いとどまったりしてはなりません。今はだれにとっても困難な時代であることを忘れないでください。(黙示 12:12)同時に,危機の時の今,キリストのきずなに結ばれることこそ,人生における最も幸福な立場であることを銘記してください。キリストのくびきを負ってその弟子になれば,多くの問題があってもなお,魂を元気づけるものを見いだせます。祈りによるエホバとキリストとの交わりにおいて,クリスチャン会衆で清い兄弟姉妹と交わることによって,また,王国宣教に携わることにより,自分を元気づけるものをわたしたちは見いだします。キリストの弟子の家族の外には,休みもなければ,自分を元気づけるものを見いだすこともできません。
26 (イ)自分の魂を元気づけるものを見いだしたいと願うなら,今何をすべきですか。(ロ)どんな見込みをいだいてそうしますか。
26 ですから,王イエス・キリストの招きのことばに耳を傾けてください。「あなたがた,苦労し,かつ,重荷を負わされているものはみな,わたしのもとに来なさい。そうすれば,わたしはあなたがたを元気づけよう。あなたがたはわたしのくびきを負って,わたしの弟子になりなさい。わたしは気質が柔和で,心臓が謙そんだからである。そうすれば,あなたがたは自分の魂を元気づけるものを見いだすであろう。わたしのくびきは,思いやりがあり,わたしの荷は軽いからである」。このことばを信じて,その招待に答え応じ,キリストの真の弟子になって,そのくびきを負ってください。滅びゆく現在の事物の体制の終わりが迫っている今,激しい圧力を受けながら,なおかつ生活に深い喜びを見いだせることを認識しつつ,キリストの差し伸べる,クリスチャン宣教の軽い荷を背負ってください。なぜなら,『この疲弊した古い世は過ぎ去りつつあり,その欲求も同様である。しかし,神の意志を行なう人々は,自分を元気づけるものを今,享受するだけでなく,自分を元気づける生活を楽しむために永遠にとどまる』からです。(ヨハネ第一 2:17)このことが,「わたしのもとに来なさい」とのキリストの招待に答え応じるあなたの幸福な分となるでしょう。―マタイ 11:28-30,新。