-
『あなた方の仕える者を選べ』ものみの塔 1956 | 3月1日
-
-
と欲する故に,神と神の御目的に全く一致し,かつ神の奴隷になろうとその人は願い,欲しております。丁度ヱホバの御子キリスト・イエスがよろこんで御父のいましめを行つたと同じようであります。
20 ヱホバの奉仕に献身している人は,さながら,いつまでも主人に仕えようとするヘブル人の奴隷のようです。新しい世の社会に属する人々は,永遠にわたつて仕えるでしよう。ヱホバはその世を愛されたために,独り子をこの地に遣しました。それは,独り子を信ずる地上の人たちが永遠の生命を得るためです。ヱホバは,御子によつて人間家族を買うように取り極められました。多くの人々は,奴隷になることを拒絶し,この代価の恩恵を受けようとしません。むしろ,自分勝手な道を歩もうとしています。しかし,彼らの道は,『この世』の道であつて,彼らの死を意味します。―ヨハネ 3:16。ヨハネ第一書 2:17。
21 ヱホバに奉仕することを選ぶとき,どんな責務がともないますか?
21 『正しい者の名はほめられ,悪しき者の名は朽ちる。』(シンゲン 10:7,新口)贖を拒絶する人々は,永遠に死んで絶滅し,二度と生きることはないでしよう。丁度,ヱホバ神が,予言者エレミヤを通して述べた通りです,『彼らは永き寝にいりて目を醒すことあらじ。万軍のヱホバと名くる王これを言いたもう。』(エレミヤ 51:57)自分の生命をヱホバ神の奉仕に献身する人々は,クリスチャンであることがいい加減なことではないと悟るべきです。モーセも次のように語りました,『あなた方は,あなた方の神であるヱホバの御名を妄りに取つてはならない。ヱホバは,その御名を妄りに取る者を必らず罰するであろう。』(出エジプト 20:7,新世)自分はヱホバ神に献身しており,水によるバプテスマをうけたのであるから,神はすべてのことを自分のために為すべきである,などと考えてはなりません。神は人に祝福を注いだり,又注意を払われたりして,契約内の御自分の責任を必らず守ります。しかし,ヱホバ神に専心の献身を捧げると言う奴隷も,取り極め内の自分の責任を果さねばなりません。その者は,自分が奴隷であつて,至上支配者に従順に従う者であることを示さねばなりません。人の生命は,その人が真にして正しい崇拝を行つているか否かに依存しています。御父は,「専心の献身を求める神」である故に,「そのような種類の崇拝を求めておられる。」
-
-
『私の荷は軽い』ものみの塔 1956 | 3月1日
-
-
『私の荷は軽い』
1 キリスト教国を支持する人々は,イエスの足跡に従う者になることを,どう考えますか?
この世の多くの人は,事勿れ主義の道を取り,大多数の人の歩んでいる道に従います。しかし,その道は,罪にみちびき,ついには死と亡びにみちびきます。人によつては,クリスチャンになることは,大変むずかしいことであり,この悪しき世で自分にはとうてい背負うことのできないものである,と考えています。人は,キリスト教国の通称『クリスチャン』になることには,気にかけません。キリスト教国内では,あらゆる我儘をすることができ,天下御免で肉慾の満足を果せるからです。そして,自分たちは正しいことをしているのだ,と感じています。しかし,キリスト・イエスの足跡に従つて歩む真実のクリスチャンになることは,たいへん難しいことだと,多くの人は考えています。だが,キリスト・イエスは,『私の荷は軽い』と言われました。それでは,クリスチャンになるのは難しい仕事であると考えられていることと,キリストのこの言葉とは一致しないではありませんか? イエスの言葉に注意しましよう,『すべて重荷を負うて苦労している者は,私のもとにきなさい。あなた方を休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだつた者であるから,私のくびきを負うて,私に学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。私のくびきは負いやすく,私の荷は軽いからである。』― マタイ 11:28-30,新口。
2,3 (イ)ヱホバは献身した僕たちに,何を要求していますか?(ロ)イエス御自身その要求に,どう沿いましたか? また他の者がそうする取極めを,どうつくられましたか?
2 ヱホバ神は,私たちクリスチャンに何をするよう要求されていますか? 聖書を調べてみると,先ず第一番目の事柄は,全国民に対する証として,全世界にわたつて勝利の御国の音信を伝道することです。人はみな,なんらかの言語で語ることができ,自分の感情や考えを表現することができます。人がもしヱホバ神に献身しているという深い真実の感情を持つており,また御言葉に述べられているヱホバの御意を有しているなら,その人は良いたよりを他の人に伝道するでしよう。これ自体は,けして難しい仕事でありません。悪魔の制度内で重荷を負つて苦労している人,そして悪魔の制度の奴隷になつている人に対して,イエスはその重荷を捨てて,御許に来り,休みを得るようさし招いています。イエスは,くびきを取つて自分一人ですべての仕事をしなさい,とは述べていません。『私のくびきを負うて』という言葉についての欄外の註によると,『私と共に私のくびきの下に来なさい』と書かれています。別の言葉で言うと,地上におられた時に,イエスの負われたくびきを負い,かつイエスの為したと同じことをする,ということです。イエスに割り当てられた仕事は,イスラエルの失われた羊に伝道して,彼らに神の御国の祝福を得させることでした。イエス御自身,その伝道を行つただけでなく,弟子たちをも村々に遣して御国の善いたよりを伝道させました。イエスに師事した弟子たちが,ヱホバの御目的を学び,それからあらゆる場合にも,ヱホバの御目的を語り告げるようにと,イエスは望まれたのです。
3 四福音書に書かれているキリストの生涯を読むと,キリストが柔和な方で,へりくだつた方であると分ります。そして,イエスのもとにくるすべての人は,魂のやすらぎを得ました。病の癒された人は,行われたことを語ろうと切望しました。イエスが,直き直きの弟子に与えた責任は,伝道して,人々に語り伝え,そして人々に慰めをもたらすことでした。イエスは,彼らに命じて,家から家へ,村から村へ,町から町へ,そして国から国へ行くようにと告げました。国から国に,非ユダヤ人のところへ行くという大きな拡大の仕事は,イエスが伝道を始めてから7年後に始まりました。最初に,音信はユダヤ人に告げられ,神の音信を聞く充分の機会が与えられました。しかも,この音信は,もつとも簡単な方法である口頭伝道によつて伝えられました。そのくびきは,たしかに負いやすいものです。それは,重い荷でありません。
4 クリスチャン伝道者になると,どうして難しいことになりますか?
4 それでは,クリスチャンになると,どうして難しいことになるのですか? 伝道が難しい,ということは決してありません。イエスがクリスチャンたちに命じた仕事を行う柔和で謙遜な人々に対して,悪魔が反対をもたらすからです。反対は烈しいものであるとイエスは私たちを戒めました。しかし,クリスチャンに与えられている仕事は軽いものです。それは,負うことのできない程に重い荷ではありません。イエスは,山上の教えの中で次のように言われました,『心の清い人たちは,さいわいである,彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは,さいわいである,彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されてきた人たちは,さいわいである。天国は彼らのものである。私のために人々があなたをののしり,また迫害し,あなたがたに対し偽つて様々の悪口を言う時には,あなた方は,さいわいである。喜び,よろこべ,天においてあなた方の受ける報いは大きい。あなたがたより前の予言者たちも,同じように迫害されたのである。』― マタイ 5:8-12,新口。
5,6 (イ)誰がいま,ヱホバの御国の音信に反対していますか?(ロ)それら伝道者たちは,その反対をどのように見なしていますか?
5 イエスは,御国のこの良いたよりが伝道される終りの日に,地上にどんな状態が生ずるかを説明し,そしてクリスチャンたちについて次のように語りました,『人々はあなたがたに手をかけて迫害し,会堂や獄に引き渡し,私の名のゆえに王や総督の前にひつぱつて行くであろう。それは,あなた方があかしをする機会となるであろう。』(ルカ 21:12,13,新口)クリスチャンたちは良いことを行つて,ヱホバに専心の献身を捧げている故に,この迫害はみな悪魔の側から来ます。良いたよりは,人々の関心を宇宙の至上支配者と真の崇拝に向けさせます。しかし,あなたがこの良いたよりを平和のうちに伝道するなら,悪魔は,自分に属する悪鬼と全制度もろともにあなたに反対するでしよう。神に忠実を保つ人間に対して,悪魔は迫害を加えます。それで,難しいということは,悪魔と迫害者に敵対する立場を取らねばならない,ということです。残酷な悪魔は,いつもつらい仕事を課します。しかし,ヱホバ神は御子キリスト・イエスを通して,私たちにやさしい仕事を与えております。その仕事は,伝道することだけです。私たちがもたらすこの簡明,親切な御国の真理に対して,悪魔は反対しているのです。共産主義の国家,民主主義の国家,宗教家,政治家,商業家,すべてのものは,全人類の祝福のために世界中で行われている,神のすばらしい勝利の御国宣明に反対しているのです。反対者たちは,その宣明を欲しません!
-