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読者からの質問ものみの塔 1970 | 2月1日
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は,パウロに対してユダヤ人の多くが激しい敵意をいだいていたことを指摘しました。人々のうわさを信じたユダヤ人は,パウロがモーセの律法に反する過激な伝道を行なっていると考えました。これまでに見たとおり,それらのユダヤ人はまちがっていました。その点を公けに立証するため,ヤコブは,霊的に言って古い人々とともにパウロにこう勧めました。「我らのうちに誓願あるもの四人あり,汝かれらと組みてこれとともに潔をなし,彼らのために費を出して髪をそらしめよ。さらば人々みな汝につきて聞きたることの虚偽にして,汝も律法を守りて正しく歩み居ることを知らん」― 使行 21:23,24。
パウロと,誓願を立てていた他の4人の者はこの勧めに従いました。(使行 21:26)これらの人々が行なったことは背教,あるいはキリスト教の教理上の妥協ではありません。クリスチャンが誓願に関するユダヤ人の規定に従う必要がないからといって,そうした規定に従っても罪を犯すわけではないことを彼らは立証しました。それは,異教の神に香を供えるというような,キリスト教に真っ向から反する行為とは異なります。彼らの行なったことそれ自体はまちがいではありません。そのためにユダヤ人の偏見が排除され,また多くの人々が救いの音信に接することができるようになったようです。パウロが深い関心を払っていたのは,その救いの音信を伝道することだったのです。
● 許されない罪とはなんですか。
許されない罪として聖書に述べられている罪は,盗み,うそを言うこと,性的不道徳などのように簡単に類別できるものではありません。とは言っても,これらはゆゆしい,許されない罪になることもあり得るでしょう。(黙示 21:8)しかし,許されない罪とは,神の聖霊の明らかな働きに故意に逆らって犯す罪のことです。それは神から完全,かつ永久に離反した心から生じた罪です。
ある時,ユダヤ教の指導者たちが,イエス・キリストに会って話を聞くためガリラヤに来ました。しかし彼らは事前にイエスの死を企てていたのです。(マタイ 12:14)彼らはガリラヤで,イエスがおしや盲人,そして悪霊にとりつかれた人をいやすのを見ました。ところがこれらパリサイ人たちは,イエスが神の聖霊によって奇跡を行なっているという明白な事実を認めるどころか,イエスはサタンの力で奇跡を行なっているのだとしてイエスをあしざまに非難しました。彼らの誤りを指摘したイエスはつぎのように語りました。
「人のすべての罪と涜とはゆるされん,されど御霊を涜すことはゆるされじ。誰にてもことばをもて人の子に逆ふ者はゆるされん,されどことばをもて聖霊に逆ふ者は,この世にても のちの世にてもゆるされじ」― マタイ 12:31,32。マルコ 3:28,29。ルカ 12:10。
しかしこれら宗教指導者の場合,イエスの教えとわざを見聞きしても信仰を持つには至らなかったというだけのことではありません。コラジンやベツサイダの人々の場合,彼らは生活の事柄に心を奪われていたため,悔い改めてイエスの教えを受け入れようとはしませんでした。しかし彼らは明らかに神のあわれみにあずかってよみがえり,将来,義の道を学ぶ機会に恵まれるでしょう。(マタイ 11:20-24)またこれらパリサイ人にとって問題は,神のみこころを知らないために真の崇拝者を暴涜し,かつ彼らに逆らったということでもありませんでした。タルソのサウロはそうした人でしたが,あわれみを受けて許されました。(テモテ前 1:13-16)問題はそうではありません。これらの宗教指導者はいわば心の奥まで腐っていたのです。イエスはそのことをご存じでした。一般民衆とは異なり,彼らは神のみことばの相当の知識を持っていました。そのうえ今や神の霊のはっきりした働きを目撃したのです。ところが,エホバの霊によって成し遂げられたことを完全に退け,不敬にもイエスの行なった奇跡をサタンの力に帰しました。これ以上の悪に進めますか。
彼らの罪はゆゆしいものでしたか。「彼らの思を知」っておられたイエスは,これら宗教指導者が事実を眼前にして聖霊の働きを知ったにもかかわらず,その知識に故意にそむく罪を犯していたことを知っておられました。そして,彼らが「永遠の罪に定め」られていることを指摘されました。(マタイ 12:25。マルコ 3:29)これらのことばの文脈や,イエスが後日,当時の宗教指導者の多くはゲヘナの永遠の滅びに向かっていると言われたことから見て,彼らが犯したのは許されない罪だったということができます。(マタイ 23:15,33)彼らの罪は許されないものでした。それはエホバが寛大な神ではないというのではなく,彼ら自身が完全に悔い改めて救い出される見込みのまったくない状態にあったからです。彼らはその罪のゆえにエホバの真の崇拝に関し完全な背信に陥りました。このような罪を犯す者は,きたるべき事物の体制の下でも許されることはないでしょう。
今日でも聖霊に対して罪を犯し,許されない事態に陥ることがありますか。あります。そしてあり得ます。救いがたいほどに心と思いを腐敗させ,聖霊に対する罪を犯すほど深く罪に陥ることはあり得るのです。また,そうしたことは聖霊によって油そそがれたクリスチャン以外の人には生じないともいえません。パリサイ人は油そそがれたクリスチャンではありませんでしたが,許されない罪を犯したのです。このことを忘れないでください。
では許されない罪を犯したかどうかは,どうしてわかりますか。
ヘブル書 10章26節は,この種の罪について述べています。「我らもし真理を知る知識をうけたる後,ことさら罪を犯してやめずば,罪のために犠牲もはやなし」。ですから,この種の罪には故意に,あるいはあえてしようとする意志が伴っています。自分が神の聖霊の働きと神の正義の律法にまっこうから逆っていることを十分に知りながら,かたいじにも罪を犯すのです。さらにわたしたちはみな罪深く,許しを得るためにはキリストのあがないの犠牲を必要としています。しかしこのことを知りながら,しかも「神の子をふみつけ」,イエスが流された「血を潔からず」とする者の『罪のためには犠牲はもはやない』のです。そのような人は「恩恵の御霊を侮る」者です。(ヘブル 10:29)そのような人は決して悔い改めず,また犯した罪と,キリストのあがないを退けたことに対し,神の許しを謙そんに求めることをしません。悔い改めることがもはや不可能なのです。
しかし一つの大切な点を忘れてはなりません。イエスは,それらユダヤ人が心の奥にいだいていた考えや,その心の状態を知っておられたので,彼らが聖霊に対して罪を犯していたということを確認できました。今日の不完全なわたしたちはエホバやイエスのように人の心を読み取ることができないため,ある人の犯した罪が聖霊を犯すほどのものかどうかを決定することはできません。(マタイ 12:25。ヘブル 4:13)それを決めるのは神に属する事柄です。ある人が会衆から排斥されたからと言って,必ずしも許されない罪を犯したことにはなりません。その人は後に悔い改めるかもしれません。初期のコリント会衆の油そそがれたクリスチャンが不道徳の罪を犯し,悔い改めなかったために排斥されねばなりませんでしたが,明らかに後日,会衆に復帰しました。このことは彼が聖霊に対する罪を犯したのではないことを示しています。―コリント前 5:1-5。コリント後 2:6-8。
それにしても,聖霊に対する罪を犯す可能性はあるのですから,わたしたちは警戒しなければなりません。わたしたちは不完全な人間ですから,日常それと知らずに罪を犯します。犯した罪のために心を痛め,ほんとうに悔い改めているなら,その人は許されない罪を犯したのでないことがわかります。ですから,謙そんな心を保ち,あやまちを認めて,神の許しを求めるのはなんと大切なことでしょう。(ヨハネ第一 1:9。ミカ 7:18)また,「永遠の罪」すなわち聖霊に対する罪を犯す者の運命は,永遠の滅びであることを認識し,罪をならわしにしたり,神の霊の明白な働きを否定したりすることは避けねばなりません。
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道で拾った1冊の雑誌からものみの塔 1970 | 2月1日
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道で拾った1冊の雑誌から
◆ メキシコでのこと,ある婦人は1冊の「ものみの塔」誌が路上に落ちているのを見つけ,それを拾って読みはじめました。その内容にたいへん興味を覚え心を動かされた彼女は,近くの福音教会堂に行き,「ものみの塔」誌を頒布しているのはお宅ですかと尋ねました。教会堂の人は自分のところではないがどこそこの通りで配布されていると思うと言いました。興味を持ったこの婦人は,会う人ごとに尋ねながら,教えられた通りを二日のあいだくまなく捜しました。
ついにエホボの証人の集会場所を捜し出した彼女は,日曜日,集会の時間が来るのを朝の11時から待ちました。集会が始まったとき,彼女は聴衆のひとりとしてすわり,そこで行なわれる聖書研究を大いに楽しみました。この婦人との個人的な聖書研究が取り決められました。まもなく彼女は自分の学んだ事柄に動かされて変化をし始めました。エホバ神は目に見えないかたであり,したがってエホバ神の像を作ることはできないということを学ぶと,家から偶像を取り除きました。「ものみの塔」研究で注解に参加するため,よく準備して定期的に集会に来ました。結婚を合法的なものにし,夫が神のお目的に興味を持つようにも努めました。また親族にも神の真理を話し,そのうちのいく人かは集会に来ました。このすべては,神の真理を愛する人が道に落ちていた1冊の「ものみの塔」誌を拾ったことから起きたのです。
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