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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1953
塔53 1/15 24–32ページ

今日ヱホバは強き避所

1,2 今日我々は,何故エホバの名に対して,過去の僕が有したと同じ様な確信を持たなければなりませんか? 我々はどんな状況に遭遇するかも知れないでしよう?

前記に於いて,我々は力ある素晴しい体験について学びました。それらの体験は,過去に於いて神の忠実な僕達が,『かたき楼』としてのエホバの名のもとに避所を求めた様をはつきりと示して居ります。今日に於いても我々は全く同様な避所を得て居ります。過去の忠信者達がかたく確信して居たエホバこそ,我々が現にかたく信じ,依り頼んで居る者であります。我々は個人的にも又集団的にもエホバをかたく信じなければなりません。そして我々を害せんとする者が,個人であろうと地方団体であろうと或は国際的制度であろうと,我々のとるべき道<コース>は明白に示されて居ります。

2 これらの末の日に於いて,あらあらしい口をきく暴漢や自慢屋は,肉体的に傷害を加えてエホバの民を嚇します。そして我々は自分の力では彼らの攻撃に対抗出来ないことを知つて居ります。真理に忠実であり,主の御命令に従順である為には,或一定の道<コース>をとらなければならないでしよう。然しそうすれば悪の嚇を受けるのです。或は,主の民と交つて居るばかりに,商業界に於ける自分の立場がおびやかされることもあるでしよう。或は,真理に忠実である為に家庭状況が非常に険悪になり,自分が正義の道を棄てないならば暴乱な脅迫や他の方法で反対が加えられるかも知れません。或は又,暴徒達が集つて,忠実な証者を打ちひしいだり町から追い出さんとしたりして,逃げ道がなくなるかも知れません。その様な場面に直面した時,我々は何を為すでありましよう?

3 我々は,危急な時に於いて,彼の名のもとに避所を得ることが出来る為,何をしなければなりませんか?

3 先ず第一に貴方は自分が誰であるかを思い浮べて下さい。自分は神の子である事,キリストの忠実な追従者であること,それら前述の如き反対は,自分がエホバに仕える為最善を尽くして居なかつたならば受けずにも済んだであろうという事,等を思い浮べて下さい。それらの苦い事は,貴方が馬鹿であつたり,間違つたことをした為に与えられたのではありません。又,貴方の神は全能なる宇宙の創造主であり至高者である事,彼の子は新しい世の王であり,今や既に王座に着いて居る事をも思い浮べて下さい。更にエホバは己に忠実な者を養うという多くの約束を結ばれた事,そして必要あらば我々は神に救いの御手を差しのべて下さる様に呼ばわるべきである事をも銘記して下さい。エホバは御言葉の如く善き方であります。貴方には或状態下に於いてはそれを直ちに確信する事がむずかしいかも知れません。然し彼に依り頼み,それが真実であることを見出しなさい。依り頼むには全き確信をもたなければなりません。単に,神は自分を救う為何事を為して下さるでしようと望んで居るだけでなく,神は必ずそうして下さると絶対的に確信しなければならないのです。では,我々はどうしてそんなに強く確信出来るでしよう? それは,ただ彼がそう約束し給うたからです。彼の御名は非常に多くの意味を有しています。それはあらゆる意味を有しており,我々の必要とするすべての物はそれで充分であります。我々はこれを銘記することが出来るでしようか? 確信がもてたでしようか? 依り頼むことが出来るでしようか?

4 我々は如何にして,エホバにより自分を励ましますか? これは何故必要ですか?

4 御名が何を意味し,何を含んでいるかを思い浮べて,御名によつて自ら励みなさい。自分自身を励まし強める事は,非常に必要であります。ダビデ王について次の様に記されております。『時にダビデ大いに心を苦しめたり,其は民……ダビデを石にてうたんと言いたればなり。されどダビデその神エホバによりておのれをはげませり。』(サムエル前 30:6)彼は,自分がペリシテ人を打砕きに行くべきかどうかをエホバに尋ね,行けと告げられた事を思い浮べたことでしよう。そして今やアマレク人が不意に攻め入り,大破壊を行つたのです。然し彼はエホバの御命令を思い浮かべましたから,自ら己を強めたのであります。(詩篇 42:6-8を見よ。)我々も同様なことをしなければなりません。我々のとつた道<コース>を思い浮べることが非常に必要であります。即ち,それが神の御心に一致している事を確める為に,自分の能力の最善を尽くして如何にそれを験したかを思う必要があります。そして確証され,我々は確固と立つのであります。そうしたならば,疑をもたず確信をもつて依り頼みなさい。そして,かたき楼としてエホバの名に依り頼めるということを十二分に認識しなさい。そうすれば,我々はその名の下にあつて安全なのであります。

5 エホバの与えた約束で,我々が確信しなければならない約束の幾つかを述べて下さい。我々の依頼は何故完全なものでなければなりませんか?

5 その名が如何に永遠者を象徴しているか憶えて下さい。御自身善と見給う事を悉く為し遂げる全智,全能者,かぎりなく愛に満ち給う最高至上者であります。この神こそ我らの神にして,常に我らの保護者であります。彼の眼は決して寝ず,彼の耳は常に開いております。そして,彼の意表をつくことは決して出来ません。彼の約束の幾つかを思い出して下さい。『至上者のもとなる隠れたるところに住まうその人は全能者のかげにやどらん。我エホバのことをのべてエホバは我が避け所我が城,我がよりたのむ神なりと言わん。汝さきに言えり,エホバは我が避け所なりと至上者をその住居となしたれば災害なんじにいたらず……かれ我をよばば我答えん,我その苦難のときに共におりて之をたすけ之をあがめん。』(詩 91:1,2,9,10,15)これらエホバの与え給うた真実の約束は,弾圧,艱難,暴力,危険のあらゆる窮地に於いて,神の民を励ますものであります。ですから,彼ら神の民は確固としてエホバに確信を持つことが出来ます。御名は見えざる要塞であります。そして,我々は,その名の意味する所に全き信頼をよせて,自分を頑強な楼(タワー)の中に入れるのであります。然し,我々の依頼は全きものでなければなりません。そして,若し我々が求めるならば,神の憐みと真実とを受け得るでしよう。

6 神の民に対する諸国民の反対を示して居る聖句にはどんなものがありますか? これはどの様に或程度の成就を見ましたか?

6 我々に対する反抗は国家的であり,国際的であります。何故なら,此の世はエホバとエホバの民を憎んでいるからであります。この事は詩篇に良く述べられております。『如何なればもろもろの国人はさわぎたち諸民はむなしきことを謀るや,地のもろもろの王はたちかまえ,群伯はともに議り,エホバとその受膏者とにさからいて言う,われらその械をこぼち,その繩をすてんと。』『汝の敵の声をわすれ給うなかれ,汝にさからいて起りたつ者のかしがましき声はたえずあがれり。』『視よ汝の敵はかしがましき声をあげ,汝をにくむ者はかしらをあげたり,かれらはたくみなる謀略をもて汝の民にむかい,相共にはかりて汝のかくれたる者に向う,彼ら言いたりき,来かれらを断ち滅してふたたび国をたつることを得ざらしめ,イスラエルの名を再び人に知れざらしめんと。』(詩篇 2:1-3; 74:23; 83:2-4)エホバの敵達は,一度ならず神の民を滅し尽くさんとしました。最近に行われたその謀略は1917年から同18年にわたるものでした。然しその謀略は失敗しました。それはエホバが彼に依り頼む人々の叫びを聞き,その様な人々を死の深穴より救い出したからであります。再び,1933年にもその試みが為されました。その時,残忍苛酷な悪魔的傲慢者は,忌わしく悪むべきナチ制度によつて,エホバの民のなかへ侵入しました。そして,エホバの民を滅し尽くす為に最大の努力をしたのでした。然し悲惨にも彼らは失敗しました。何故なら,エホバの制度内にあつた人々は,御名に依り頼み,敵は滅し尽くされたからであります。それから,1939年及び世界第二次大戦中に於いても,神の国の敵は,非人間的迫害,投獄,追放,苦難,死等によつて神の民を滅し尽くさんとしました。その時も亦,真理に堅く従つている聖なる民を滅し尽くすことは出来ませんでした。その民は,御名を知り,御名の意味を認識するにいたりました。そして御名に依り頼んでおりました。

7 エホバの御目的を我らの目的とすることは,どんなことをも意味しますか?

7 エホバの民の或者は非常にはげしい苦しみをうけました。そして或者は,敵に殺されました。然し,エホバの御目的は妨げられませんでした。そして忠実な者の運命は確固としております ― 丁度アブラハム,ダビデ,ダニエル及び他の多くの忠信者達の運命の如く確固としております。彼らは,みな信仰をもつて,しかも御名を知つて死んだのであります。我々すべても亦,彼らの忠信者の如く次の事を理解しなければなりません。即ち,我々の興味は完全にエホバの御目的中に没しなければならない,という事であります。それら御目的が栄える限り,我らは生きようとも死のうとも幸福なのであります。何故なら,若し忠実であるならば,永久の生命が我々に保証されているからであります。我々はどんな点に於いても,決して精神的にも肉体的にも迫害されないという約束は一つも有しておりません。まこと,今より前にあつた忠信者達は,すべて苦しみを受けました。それはパウロの警告通りであります。『凡そキリストイエスにありて,敬虔をもて一生を過さんと欲する者は迫害を受くべし。』(テモテ後 3:12)然し,我々は,若し心を尽くしてエホバに依り頼むならば,必ず護られるという約束を明白に受けております。

8 今日,エホバは己の民の為に御力を表明して居りますか? その為,我々の敵は何と結論しますか?

8 今や,現代の悪い組織制度の終りに於いて,エホバは,素晴しい仕事を為さんとしております。それというのは彼は忠実な人々の為に,その不思議なる御力を表明しようとしているからであります。忠実な者達は,御力が自分達を護り,反対者達を滅す為に働くのを目撃する時,感謝の念で満たされるでありましよう。又一方外部にある人々は,エホバの恐ろしい行為を見て,恐怖感に襲われるでありましよう。今日に於いて,我々は非難とあらゆる種類の害悪にさらされております。それ故に,従順と忠実とを必要とします。事実,我々は,敵にとつて狙いやすい標的であります。我らの敵は言うでしよう ―『彼らは自ら護ることが出来ない。彼らの神は彼らを救うことが出来ない。若し出来るなら,彼らの神は何故そうしないのか?』と。成程エホバは,現在我々の為に侵略的な戦などしておりません。そして時には,我々は余り保護されずに敵の攻撃にさらされておる様にすら見えます。然しどんな時でも仕事だけは遂行出来る様に見まもつており給うのです。そして,神の御力が我々の為に働いているという証拠が屢々授けられております。

9 エホバは己が民の為に起ち上り戦い給いますか? それは何時でその時如何なる事が生じますか?

9 然し,形勢は常にこの様ではないとエホバが約束しております。形勢は必ず逆転するでありましよう。その時,我々の多くの敵は,エホバの不興の的となるでありましよう。今日に於いて,エホバは,彼らが長い間我らを苦しめるままにしております。然し,戦の為にエホバが起ち上る時,憎むべき彼らの迫害は完全に消滅し彼らの屍は地上に散乱するでしよう。その時,大いなるサタンの制度も何と無力になることでしよう! それというのは ― エホバがそれに息を吹きかける時,それは消え失せてしまうでしよう! 我々は,ただエホバが我々の為実際に戦う時まで待たなければなりません。その時になつて,あらゆる面に於ける絶対的完全な安全が齎されるのであります。エホバは肉体的なあらゆる害より自分の民を護るでしよう。それによつて,御言葉の真実性を表明するのであります。その時エホバの御力は敵を破滅せしめて,神の民の為に働くのです。そしてその御力を表明する多くの体験が未だ嘗てみられなかつた程大規模に生ずるでありましよう。我らの神が誰であるかという問題に関しては何の疑もなくなるでしよう。何故なら,彼らは自分の眼で見,又経験することによつてその問題を知るからであります。我らの神はエホバであり,御自身で善と見給うことを為し遂げるでしよう。『エホバ言い給う,この故に汝ら我が起ちて獲物をする日いたるまで我を待て,我もろもろの民を集え,もろもろの国を聚めてわが憤恨と我がはげしき怒をことごとくその上にそそがんと思い定む,全地はわが嫉妬の火に焼きほろぼさるべし。』『その時エホバ出で来りてそれらの国人を攻め撃ちたまわん。昔その戦の日に戦いしごとくなるべし。その日にはエホバかれらをして大いに狼狽しめ給わん。』― ゼパニヤ 3:8。ゼカリヤ 14:3,13。

エホバの敵を憎む

10 我らの敵を愛する事と,神の敵を憎むこととの違いについて説明して下さい。

10 主イエスは申しました。『汝らの敵を愛せ』と。(マタイ 5:44,新世)そして次の様にも申しました。『人の凡ての罪と瀆とは赦されん。されど御霊を瀆すことは赦されじ。誰にても言葉をもて人の子に逆う者は赦されん,然れど言葉をもて聖霊に逆う者は現在の組織制度にても,来らんとする組織制度にても赦されじ。』(マタイ 12:31,32,新世)人々は我々を呪つても赦されるでありましよう。我らに対する彼らの有害な行為の為に,我々は彼らを愛しません。然しその為に,彼らに対して憎しみを懐いてはなりません。反つて彼らの為に祈れと命令されております。然し,反対者達が,神と聖霊とに反抗している場合には,状態は全く異ります。即ち,エホバの手腕と御力の明白なる事実にも拘らず,それを曲解して神に悪の非難を浴びせる様な場合です。この様な,極端な堕落は,ただその人がサタンと同一である事を示して居るだけであります。サタンの最後は破滅であります。サタンは我々の敵であり,同時に神の敵でもあります。主イエスは,神を憎んだ者を愛せよ,と我らにすすめていたのではありません。イエス御自身の行動過程こそ,我々を案内するものであります。悪魔に誘われた時,彼はこう申しました ―『サタンよしりぞけ,汝の神エホバを拝し,ただ之にのみ事うべしとしるされたり。』再び彼は言いました。『彼は最初より人殺しなり,また真その中になき故に真に立たず……彼は虚偽者にして虚偽の父なればなり。』神は婦の裔と蛇の裔との間に怨恨をおきました。怨恨とは敵意又は憎しみを意味しております。故に我々は此の世,サタン又はその裔を愛することは出来ません。―ルカ 4:8; ヨハネ 8:44,新世。創世 3:15。ヤコブ 4:4。ヨハネ第一書 2:15-17。

11 神の敵に対する憎しみとは,何を意味し,何を意味して居りませんか?

11 神と神の民とを憎む者は,憎まれるべきであります。然し,これは我々が敵意や悪意をもつて彼らに肉体的傷害を加える機会をつかむというわけではありません。何故なら,清純な憎しみは違うけれども,敵意や悪意は二つながら悪魔のものであるからです。我々は真実の精神をもつて憎まなければなりません。それは,極端な積極的嫌悪をもつて見ること,非常に厭わしいもの,憎むべきもの汚れたるもの,嫌悪すべきものと考えることであります。確かに,神を憎む者は,美わしい神の地に住む価値がありません。悪人は地上より一掃されるでしよう。悪人達に肉体的傷害を加える為には,我々は一本の指をも動かす必要がありません。それというのは,神がそれを為し給うからです。然し,我々は,かれら敵を正しく認識しなければなりません。御名は,敵に対する報復を象徴しております。

12 聖書に,我々はエホバを憎む者をどの様にあつかわなければならないと記されて居りますか? 我らの決意と態度はどんなものでありましよう?

12 貴方は,自分が忌み嫌う厭わしい物をどうしますか? 答は至極簡単です。貴方はその物から離れるか,またはそれを自分のそばから除去するでありましよう。貴方は,それに関係する何者をも持ちたくないことでしよう。これこそ,エホバを憎む者に対する我らの態度でなければなりません。予言的にも次の様にしるされております。『神よ,汝は必ず悪しき者を殺し給わん,されば血に飢え渇く者よ我を離れ去れ,彼らはあしき企図をもて汝にさからいてもの言う,汝の仇はみだりに聖名を称うるなり。エホバよ我は汝をにくむ者をにくむにあらずや,汝に逆いておこりたつ者を厭うにあらずや? われ甚く彼らをにくむ。『(詩 139:19-22)血に飢え渇く者は血を流す者であり,従つて罪深き者であります。我々は,彼らの行動を甚く忌み嫌います。第二次大戦中,及びそれ以後に於いて,ドイツ,ギリシャ,ポーランドの兄弟達に与えられた恐るべき待遇を考えてもごらんなさい。それは独裁制度の残忍な野獣性が為したものであり,それによつて,血に飢え渇く者達は何千人もの兄弟を殺したのであります! 我々は,彼らの行動,エホバとエホバの民に対する反抗,不義不信及び悪い偶像崇拝的な目的を完全に忌み嫌います。我々は彼らに与かる事は少しもなく,彼らに対して,何らの興味も慕も有しておりません。

13 詩篇 74篇10・11節が今日如何に成就しつつあるか示して下さい。我々は,神が此の祈りに答えると期待できますか?

13 エホバの敵は,エホバの民とその民の行つている仕事にはげしい嫌悪を示します。ですからその嫌悪を見れば彼らを見分けることが出来ます。即ち,彼らは,出来得るならばエホバの民を打ち砕き,エホバの証者すべてを牢獄或は収容所におしこめるでありましよう。それは彼らが証者個人に対して何かの憎しみを有するからでなく,証者の仕事を憎んでいるからなのであります。彼らは冒瀆的な虚言を吐き,エホバという聖名を非難します。我らは,神を憎む者を憎まずにいるでしようか? 我々はそれら憎むべき敵を愛するわけにはいきません。何故なら,彼らはただ滅亡に価する者であるからです。我らは,詩篇記者の祈りを口ずさみます。『神よ敵はいくその時をふるまでそしるや,敵は汝の御名をとこしえに汚すならんか? いかなればその御手,みぎの御手をひき給うや? 願わくは,御手をふところより出してかれらを滅し給え。』(詩篇 74:10,11)我々は,エホバがもはや刑罰をのばすことのない様にと,熱心に祈り,この祈りを口に出すのであります。そして,エホバの御怒りが表明される様にと懇願するのです。汝の御手をひき出し,それを敵に見せしめ給え,その御手を用いて彼らを害い打ち砕き給え。正に時は熟しております。エホバの敵の不義は最悪に達しました。確かに我々すべては次の様に申します。『おおエホバよ,悪人の刑罰をひかえ給うなかれ,汝の御手をひきいだし,その御手を用いて敵に汝の御名を知らしめ給え! 汝の御力を再び揮い給え,汝の腕による一撃で,敵は消え失せてしまうからです!』

14 詩篇中にあるもので,エホバの敵に関するもう一つの言葉は,今日我々が正しい見解を得る為どの様に役立ちますか?

14 エホバの民達は,自分達自身のもう一つの予言的言葉として,次の様に申します。『願わくは我を助くる為に目をさまして見給え,汝エホバ万軍の神イスラエルの神よ,願くは目をさましてもろもろの国にのぞみ給え,あしき罪人に憐みを加え給うなかれ,彼らは夕にかえり来りて犬の如くほえて邑をへあるく』ここに於いて,エホバの敵達は,単に汚らわしい,不潔な,汚物を好む犬の如き者と見なされております。『御力をもて彼らを散らし,また卑し給え……かれらは呪いと虚偽とを言い出ずるによりて,その傲慢のために,とらえられしめ給え。憤りをもて彼らをほろぼし給え,再びながらうることなきまでに彼らをほろぼし給え。ヤコブのなかに神いまして統べ治め給うことを彼らに知らしめて地の極にまで及し給え。』(詩 59:4-6; 11:13)これらの言葉は,今日に於ける正しい者の,真実の感情であり,欲望であり,祈りであります。それは,貴方のものでもありますか? 自分がエホバの御名を知り,愛している範囲内でそうであると確信していることでしよう。若し貴方が彼を知らないならば,貴方は明らかに何が生じようと無頓着でありましよう。然し若し貴方がエホバを愛するならば,貴方は御名について何が生ずるかに大きな関心を持つでしよう。そしてまた,御名をこの堕落して厭わしい古い制度の泥と汚れの中へ投げ棄てる者に何が生ずるかについても大きな関心を持つでありましよう。

15,16 我々は,何故詩篇 83篇に指示されて居る如く祈りますか? そして,パウロは慰めと確信のどんな言葉を語りましたか?

15 エホバを真に愛する者は,栄光ある御名を高くかかげ,人間がその御名にぬりつけたあらゆる汚点を除去しようとします。そしてエホバは,此の貴い奉仕の為に彼らを愛します。神は御自分の名を高くあげることが出来ます。そして間もなく彼はそうするでしよう。然し,現代に於いては,彼は上記の如き態度で彼に対する愛を表明している人々に喜びを持ち給うております。御名を愛することは御名を大切にし,護衛し擁護し,御名の為に闘うことであります。その様な者はエホバに尊ばれます。我々は聖名に対する害悪を何と鋭く感ずるのでしよう! 我々は不義を働く者,及び神の制度を引き裂こうとする者の軽々しさを何と痛切に感ずるでしよう! それ故我らは次の様に祈ります。『汝さきにミデアンに為し給える如き,キションの河にてシセラとヤビンとになし給える如く彼らにもなし給え。彼らはエンドルにてほろび地のために肥料となれり。………かれらをまきあげらるる塵の如く風の前の藁の如くならしめ給え。林をやく火の如く山をもやす焔の如く汝の暴風をもてかれらを追い,汝の旋風をもてかれらをおそれしめ給え。彼らの顔に恥をみたしめ給え。エホバよさらば彼ら汝の御名をもとめん彼らをとこしえに恥じおそれしめ,惶まどいて亡びうせしめ給え。されば彼らエホバという名をもち給う汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし。』― 詩 83:9-18ア標。

16 それら悪い人々がただ捕えられて滅されるにふさわしい者であるという事には少しの疑もありません。彼らは,エホバを咎め汚す者であります。清い真実の宗教を冒瀆する者であります。忠実な礼拝者達を打ち砕かんとする者であります。神の聖都シオンに侵入し,主の子らを怖れしめ,野獣的に虐待し殺さんとする者であります。そして,あらゆる面に於いてエホバの真の敵であります。然し彼らの刑執行はエホバの仕事であります。何故なら誰が救い難い者であるかを決定する者はエホバであるからです。この様な者は確かに現在自分の運命を決定しつつあるのです。そしてやがて罪と罪人のわかれることが決して出来ない時がまいります。使徒パウロはこう申しました。『汝らに患難を加うる者に患難をもて報い,患難を受くる汝らに,我らと共に安息をもて報い給うは,神の正しき事なり。即ち主イエス焔の中にその力の御使たちと共に天より顕れ,神を知らぬ者と我らの主イエスの福音に服わぬ者とに報をなし給う時,かかる者どもは主の顔と,その力の栄光とを離れて限りなき滅亡の刑罰を受くべし。』― テサロニケ後 1:6-9。

17 我々は自分で何に警戒しなければなりませんか?

17 エホバの御名に対する我々の聖い熱情に於いて,我々は常に自分自身を見守つていなければなりません。そして,我々も亦エホバの礼拝に清く,詩篇記者の様に真心より出ずる感情を持つ様心がけなければなりません。即ち詩篇記者は次の様に祈りました。『神よ,願くは我をさぐりて我が心をしり,我をこころみて我がもろもろの思念を知り給え。願くは我によこしまなる途のありやなしやを見て,我を永遠のみちに導き給え。』『されど我は汝の大能をうたいあしたに声をあげて汝の憐みを歌いまつらん,汝わが迫り苦しみたる日にたかき楼となり,わが避け所となり給いたればなり,我がちからよ我なんじに向いて頌辞を歌いまつらん,神は我が高き楼われに憐みを給う神なればなり。(詩 59:16,17; 139:23,24)我々は,常に自分達のかたき楼に走り入るのであります。何故なら我々はエホバという名が次の意味を有している事を知つているからです。即ちその名は,彼が憐みと慈愛とに富み,怒るにおそく,惜しみなく愛を施す方であるという意味なのです。

歌いて依り頼む

18 何故我々は歌わなければなりませんか? 歌とは何ですか? モアブはどの様に描写されて居ますか?

18 我々は依り頼む時歌わなければなりません。何を歌うのでしよう。予言的な言葉が教えております ―『その日ユダの国にてこの歌うたわん,われらに堅固なる邑あり,神すくいをもてその垣その藩となし給うべし。汝ら門をひらきて忠信を守る正しき国民をいれよ,汝は平康にやすきをもて志かたき者をまもり給う,彼は汝に依り頼めばなり,汝ら常磐にエホバによりたのめ,主エホバはとこしえの巌なり。』(イザヤ 26:1-4)この聖句の文脈を簡単に考えましよう。25章はユダの隣国で,ロトの最年長の娘の子孫であるモアブに関するものであります。彼らは,イスラエル人が約束の地に旅していた時,イスラエル人への糧食供給を拒絶しました。その時以来,モアブ人はイスラエル人にとつて常に反抗してまいりました。モアブはイスラエルを呪う為にバラムを雇いました。(民数 22; 23; 24; 25:1-5及び 申命 23:3をも見よ)彼らはエホバの民を大いに侮り,自分達の『高き邑』を誇りとしました。その邑に相当する今日の邑は,サタンの全制度を代表している力ある宗教制度,即ち富める高き邑であります。今日に於けるモアブ人は,自らクリスチャンであると称している人々であります。彼らの言葉と行為とは,キリスト教及びエホバの清い崇拝から遠く離れております。即ち,モアブ人が真の崇拝及びエホバの契約から遠く離れていたのと同様であります。エホバは,モアブの不義と反抗に対して定めた刑罰を,前もつて警告しました。

19 現代に於けるモアブ人は誰ですか? 彼らのエホバの民に対する態度はどうですか?

19 今日に於けるモアブ人は,憎しみをもつてエホバの証者に反抗して来ました。彼らの憎しみは,正義の為に生じたものでなく,悪魔より生じたもので,あらゆる正義に反しております。我々はエホバのお喜びを受けており,彼らはエホバの不興を蒙つております。彼らが,この事実の明白な証拠を見る時,神の真実の民に対する彼らの憎しみは益々はげしくなります。彼らはあらゆる努力を払つて,善意ある人々が新世界に入るのを妨げております。彼らは,物質的にはエホバの証者より富んでおります。そして,その事に大いなる誇りと傲とを有しております。彼らは,大『死海』の一方の岸にあり,我らは他方の岸にあります。越えられぬ限界〔深淵〕は定められました。それはエホバの審判と同様,動かし得ないものであり,『富者』級と『ラザロ』級の中間に存する大いなる淵を非常に強く想い出させます。即ちルカ伝 16章19-31節に記されている譬話中の淵を想起せしめます。『しかのみならず此処より汝らに渡り往かんとすとも得ず,其処より我らに来り得ぬために,我らと汝らとの間に大いなる淵定めおかれたり。』

20 エホバは,彼らの傲慢を何時低くおとしますか? 彼らは如何に低くされますか。

20 現代のモアブ人は卑くされるでしよう。何故なら,エホバは彼らと完全に絶交したからであります。その刑罰のほんの一部分に耳を傾けて下さい。『エホバの御手はこの山にとどまり,モアブはその処にてあくたの水のなかにふまるる藁の如く蹂にじられん。彼その中にて泳ぐ者の泳がんとして手をのばすが如く己が手をのばさん。然どエホバその手の詭計と共にその傲慢を伏せ給わん。』確かに,肥料の中へ圧しつぶされたならば,如何なる者と言えども傲慢などちよつぴりも持たなくなるでありましよう。その様にしてエホバは現代のモアブに対する完全な侮辱を表明し,彼らを恥辱の泥中に転ばせておくのです。『汝邑をかえて石堆となし堅固なる城を荒墟となし,外人の京都を邑とならしめず永遠にたつることを得ざらしめ給えり。』『高きにいるものを倒し,そびえたる城をふせしめ地にふせしめて塵にまじえ給えり。かくて足これをふまん,苦しむ者は足にて之をふみ貧しき者はその上をあゆまん。』― イザヤ 25:10,11,2; 26:5,6。

21 審判の日に,モアブは何故何らの防禦物をも有して居ないですか? これは我々の歌を如何に励ましますか?

21 これが生じた時には,何と恐るべき変化が見られることでしよう! 形成は逆転するでしよう! 高ぶる者は,此の世の大いなる者として,富める者として又力ある者としての高き処より,最ひくき処にまで落されるのです! 最大限にひくく落されるのです! 余りにひくく落されるので,それは堆肥の藁の様に貧しいものに蹂にじられる事にたとえるほかありません。キリスト教国の高ぶつた外見,傲慢な言葉,誇言,神の聖言に対する優越的態度,偶像と人間と富への信頼等はみなこの世に属する物であります。その様な物は,エホバの嵐と烈風とがおとずれた時,彼らに何の安全物をも提供し得ぬでありましよう。彼らは何の防禦物をも有しておらず,恥辱を蒙つております。此の時に於いて『かの歌をうたうべし。』これはエホバの命令であり遵がわなければなりません。即ち次の歌を歌うことであります。『われらに堅固なる邑あり,神すくいをもてその垣その藩となし給うべし。汝ら門をひらきて忠信を守る正しき国民をいれよ。』(イザヤ 26:1,2)これは歌の主旨であります。他の多くの予言的な言葉,例えばイザヤ書 12章同じく4章2節-6節,詩篇 145,146,150篇等を考察するならば,その歌をもつと完全に理解し得るでありましよう。貴方の全精神を此の歌に向けなさい。声高らかに歌いなさい ―『エホバは大いなり,我らの神の都そのきよき山の上にて甚くほめたたえられ給うべし。シオンの山はきたの端たかくしてうるわしく喜びを地にあまねく与う,ここは大いなる王のみやこなり。』(詩 48:1,2,神の制度は素敵であり,最うるわしく,主イエスキリストの御国こそ全人類の希望<ホープ>であります。― 詩 48:12,13。

22 エホバの『かたき邑』は,『囚人』級に何を与えますか? この歌は,どの位の範囲まで歌い聴かすべきですか?

22 キリスト教国の防禦は何ら価値がありません。然しエホバの証者は『かたき邑』を有しており,それは讃め歌うべき物であります。何百万もの人々は,安全な場所を求めており,安全に窮乏しております。彼らにも『かたき邑』を持たせなさい! 『汝その石垣を救いととなえ,その門を誉ととなえん。』(イザヤ 60:18)この様な保護と救とを与え得るものはただ神の国のみであります。何故ならその邑の中にある時,安全であるからです。救を欲する者は,神の制度へと走り入り,永久に其の中におらなければなりません。そこは,真の避遁の邑であります。大群衆が門より入つて来るに違いありません。ですから,声高らかに明らかに,そして調子を合せて歌いなさい。そして,すべての人が救を与えるかたき邑のあることを知り,それが我らの邑である事を知り得る様にしなさい。それはエホバの邑であります! 全ての国々にこの歌が伝えられなければなりません。『この故に汝ら東にてエホバをあがめ海のしまじまにてイスラエルの神,エホバの名をあがむべし。われら地のはてより歌をきけり,いわく栄光はただしき者に帰すと。』(イザヤ 24:15,16)この歌は決して止むことなく,生ける物すべてがそれを歌うまで続くでありましよう。息あるものすべての者よ,エホバを讃めよ!

その門,国民,及び目的

23 シオンは何時建てられましたか? 神は何時建てられましたか? 神は何時門を開きますか? その中にどんな国民が歩み入りますか? そして誰がそれに続きますか?

23 『汝ら,忠信を保てる正しき国民の入り来らん為に門を開きて叫べ,栄えあれ! 栄あれ! 彼女に依り頼むことを教えられたればなり。汝ら末ながくまでヤゥエに依り頼め ― そはヤ,ヤゥエは年老いたる磐なればなりと。』(ロザ)国たみが入り来らん為に門を開かなければなりません。1919年,油そそがれた忠実な遺残者達は,新しく建てられた邑,シオンに入る日を待つておりました。『汝たちてシオンを憐み給わん……そのさだまれるとき既に来れり……エホバはシオンを築き栄光をもてあらわれ給えり。』(詩 102:13-16)彼らは祈りました ―『エホバはいたく我らをこらし給いしかど死には付し給わざりき,我が為に義の門をひらけ,我そのうちにいりてエホバに感謝せん。こはエホバの門なり正しき者はそのうちに入るべし。』(詩 118:18-20)その結果として,シオンは更に多くの子を得ました。それは正に予言された通りであります。『シオンは産のなやみを知らざるさきに生み,その苦しみきたらざる先に男子をうみいだせり,誰がかかる類を見しや? 一つの国はただ一日の苦しみにて成るべけんや? 一つの国民は一時に生まるべけんや? されどシオンは苦しむ間もなく直ちにその子らをうめり。』(イザヤ 66:7,8)1914年,母体制度シオンは,新世界の支配者としての王を産みました。そして,大いなる試煉と艱難(1917年-1918年)の後に,残余の忠節な子ら,即ち御国の遺残者級を産みました。その時以来,何千何万という善意者も,遺残者級との交りを続けて来ました。それら善意者達が,ハルマゲドンの戦までに,あとどの位多く加えられるかは我々に分りません。この級の者は,エホバが起ち上り,古代に為し給うた如く自分の民の為に戦う時,忠実な遺残者達と共にハルマゲドンを無事通過させられるのであります。今や,その門は囚人の帰りを待つて広く開け放たれております。シオンに於いて,彼らは育み養われ,エホバの命令について教えをうけ,エホバを真に学び知るでありましよう。

24 『かたき目的』とは何ですか?

24 イザヤ書 26章の3節に次の様にあります。『汝はかたき心志をまもり給う。』(ロザ)これは空しい想像ではなく,神の言葉に感動されたものであり,神の御目的の正しい認識から得られたものであります。それらは我々の目的であり,神はそれを必ず成就させるのであります。神はそれらを固く維持するものです。我々は,或約束が成就されるかどうかと疑つたり,思い悩んだりする必要は全くありません。何故ならそれは必ず成就するからであります。エホバはその御名の如くに善き方であります。故に我々は全き信頼と確信とを持たなければなりません。その様な者はエホバに維持され支持されるのであります。何故ならかれらはエホバの目的の一部分であるからです。彼はかれらを守ることを約束しました。ですから必ず彼らを守り給うでありましよう。

25 シオンに住む人々は,平和と繁栄とを如何に獲得しますか? 我々は,エホバの御名が『かたき楼(タワー)』であると如何に確信しますか?

25 それら確信もをつて依り頼んでいる人々は,常に自分の想像力を明確に,心を平静に保つております。彼らは敬虔にして不変で,決して妥協せず,確乎として信頼出来る者になる様努力します。そして目的と決意を変えず,それを遂行しようと努力します。エホバは,如何なる危急に対しても,常に力を有しておられます。彼らは,エホバに倣うことを知り,そう努力しており,大いなる祝福と平和とを受けております。あらゆる敵意がかきたてられて,神の民の信仰を打ちひしぎ,また神の邑を攻め撃たんとしております。然し,彼らはかたき楼エホバに安んじております。忠節にして従順なるシオンの子らは,真理を保ち,忠信を維持し,神の制度内にふみとどまるでありましよう。間もなく,最もはげしい艱難の時が現在の組織制度にのぞむでありましよう。然し,我々はエホバが我らと共にあることを知つております。ですから,我々は決して恐れる必要がありません。エホバは我らの避け所であります。宇宙にある何者もエホバの平静と落着と平和とを乱し得ません。何故なら彼は年老いたる磐であるからです。ですから,我々は彼に依り頼み,安全であります ― ただに現在のみならず永しえまでも。それ故,常にエホバの名を念頭におき,エホバに依り頼め! それは「かたき楼の如し。正しき者は,これに走り入りて安全を得。」心をつくしてエホバに頼め,されば平和を得べし。

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