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あなたはエホバに愛情を抱いていますかものみの塔 1983 | 2月1日
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に,神の感情を損なわないように心掛けさせるものとなります。使徒パウロがわたしたちに思い起こさせているように,しりごみしてエホバのご意志を行なわないなら,エホバはわたしたちに喜びを抱かれません。わたしたちは確かにそうしたことが自分の身に起きるのを望まないのではありませんか。(ヘブライ 10:38,39)愛ある神に信仰を置き,真の温かい愛情を抱くほうがどれほど優れているでしょう。
ですから,エホバ神に対する温かい愛情を培いましょう。エホバのみ言葉を読み,感謝の霊を抱いてエホバの善良さを思い巡らし,たゆまず祈り,行ないや,エホバのみ名と王国をふれ告げる熱心な宣教によってエホバに喜ばれるよう努めるなら,そのような愛情を培うことができます。
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読者からの質問ものみの塔 1983 | 2月1日
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読者からの質問
■ マタイ 16章4節で言及されている「ヨナのしるし」とは何のことですか。
イエスは,パリサイ人とサドカイ人がしるしを求めたのに対してこう言われました。「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めます。しかしヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」― マタイ 16:1-4。
これらの宗教指導者たちは,イエスをメシアとして受け入れる前に天からの目に見えるしるしを求めていたようです。彼らの期待はダニエル書 7章13,14節の間違った理解に基づいていました。彼らはメシアに関する自分たちの先入観にメシアが適合することを求め,イエスが行ないかつ教えておられたすばらしい事柄を見すごしていました。(ヨハネ 4:25-29,42; 7:31; 9:30-33)それでイエスはパリサイ人とサドカイ人に,それに加えて与えられる「しるし」と言えば,「ヨナのしるし」だけであろう,とお告げになったのです。
幾月も前に,イエスは「ヨナのしるし」に言及しておられました。その際イエスが付け加えられた言葉は,イエスの言わんとしておられた事柄を理解するのに役立ちます。「ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように,人の子もまた地の心に三日三晩いるのです」― マタイ 12:38-40。
ヨナは自分をのみ込んだ巨大な魚の腹の中にいた時,ある意味でシェオル,つまり墓の中にいました。(ヨナ 2:1,2)次いで,ニネベにおける預言にかかわる割当てを果たすために,ヨナはあたかも復活させられたかのように出てきました。イエスの場合も同じですが,ただもっと奇跡的なものになるはずでした。
イエスはご自分が死んで三日目に死人の中からよみがえらされることを予告しておられました。(マタイ 16:21; 20:17-19。ヨハネ 2:19-21)イエスが実際に三日目に死人の中からよみがえらされた時,弟子たちはイエスが言っておられたことを思い起こし,それによってイエスに対する信仰を強められました。(ヨハネ 2:22。コリント第一 15:3-8)ユダヤ人の祭司の中にさえ,「ヨナのしるし」とキリスト教の音信とを学んで,「この信仰に対して従順な態度を取るように」なった人がいました。(使徒 6:7)しかし,そうした人々は確かに少数派でした。イエスが自分たちの間を行き巡っておられたときにイエスのすばらしい業と教えに感銘を受けようとしなかったユダヤ人の指導者たちの大半は,同じ考え方を持ち続けました。彼らは,「ヨナのしるし」つまり三日目にイエスが死人の中から復活させられたことを信じようとしませんでした。
■ クリスチャンの集会や大会で,聴衆が歌と祈りのために起立するよう勧められるのはなぜですか。
歌と祈りは昔から真の崇拝の一部となってきました。(歴代第一 16:7-9。マタイ 26:26-30。ヤコブ 5:13,14)ですから,それらはエホバの証人の会衆の集会や大会での崇拝には当然あるもので,その重要な一部分なのです。
歌の多くは神への祈りや賛美の形を取っています。大勢の人から成るグループが歌と祈りのために起立するなら,感謝の表明を持って神のみ前に出るに当たって敬意を示しているものとみなせます。―列王第一 8:14,22,23。
とはいえ,どんな姿勢を取っていても,神に祈ったり賛美を歌ったりできることを聖書が示している点をも認識するのは良いことです。(ルカ 22:39-41; 使徒 16:24,25と比較してください。)ですから,この点に関して規則はありません。当人の健康状態や置かれた境遇ゆえに,会衆の歌と祈りの間座っている方が好ましいなら,それは差し支えありません。小さな会衆の書籍研究や家庭聖書研究や食事のときに祈る場合などは座ったままでいることが少なくありません。
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