聖書理解の助け ― カナン,カナン人(その二)
「知恵は主要なものである。知恵を得よ。自分の得るすべてのものをもって,悟りを得よ」― 箴 4:7,新。
カナン,カナン人(その二)。
絶滅の理由
歴史的な記述によると,イスラエル人が征服したカナン人の都市の住民は完全な滅亡に服させられました。(民数 21:1-3,34,35。ヨシュア 6:20,21; 8:21-27; 10:26-40; 11:10-14)ある批評家たちはこの点を挙げて,「旧約聖書」つまりヘブライ語聖書には残虐と気ままな殺りくの精神がみなぎっていると唱えてきました。しかし,明らかにここで関係しているのは,地とその住民に対する神の主権を認めるかどうかの問題です。神はカナンの地の保有権を『アブラハムの胤』に正式に与え,誓いで固めた契約によってそれを保証しておられました。(創世 12:5-7; 15:17-21,新。申命 32:8; 使徒 17:26,参照)しかし,その地に居住していた人々を単に立ち退かせたり放逐したりする以上のことを神は意図されました。『全地を裁く者』(創世 18:25,新)として行動し,死刑に値する者にその刑を宣告する神の権利,およびその宣告を履行して刑を執行する権利もまたここに関係していました。
既に述べたとおり,カナンに対する神の預言的のろいの正当性は,イスラエル人による征服のころまでにカナンに浸透していた状態によって十分に裏書きされています。エホバは『アモリ人のとがが満ちるまで』アブラハムの時から400年の猶予を置かれました。(創世 15:16,新)エサウのヘテ人(ヒッタイト人)の妻たちが「イサクとリベカに苦々しい霊を抱かせ」,リベカがその女たちのことで「自分のこの命をいとうようになった」ということも,カナン人の間に既に現われていた悪い状態を確かに示しています。(創世 26:34,35; 27:46,新)その後の数世紀の間にカナンの地には,偶像礼拝,不道徳,流血行為など種々のいとわしい慣行が浸潤しました。カナン人の宗教はことのほか不純低劣で,その「聖木」は明らかに男根の表象であり,その「高き所」で行なわれた儀式の多くにはなはだしい性の乱行と堕落が伴っていました。(出エジプト 23:24; 34:12,13; 民数 33:52; 申命 7:5,新)近親相姦,男色,獣姦などは『カナンの地の習い』であり,これがその地を汚し,こうしたとがのゆえに地そのものが「そこに住む民を吐き出す」までになりました。(レビ 18:2-25,新)魔術,呪術,心霊術,自分の子供を火で焼いていけにえにすることなどもカナン人のいとうべき習俗となっていました。―申命 18:9-12。
カナン人の宗教の有り様が聖書に記述されるとおりであったことを示す主な資料としては,フェニキアの学者フィロ(西暦1世紀の終わりから2世紀初めにかけて生きた人)の著作,シリア北海岸のラス・シャムラ(古代のウガリット)で発見された宗教文書,およびカナン人の生活地域で見つかる考古学上の人工物などがあります。古代の諸資料(エジプトのものもフェニキアのものも)の中で「カナン」の名はフェニキアの海岸全域を指して用いられてはいますが,ラス・シャムラ(ウガリット)は聖書の中で実際にカナン人の地域とされている範囲の外にあったようです。それでも,ウガリット文書から得られる情報は,西暦前二千年紀中ごろのものと見なされ,バアルおよびそれに関連した神々に対する崇拝の模様をはっきり示していて,カナン人風の考え方をよく反映しているものと思われます。
これら聖書外の資料から推論して言えば,カナン人の信奉したあらゆる男神女神たちの主神はエルでした。エルはどちらかといえば影の薄い遠い存在として扱われ,男神バアル,女神アスタルテ,アシェラ,アナテなどの背後に押しやられてはいますが,フィロはエルを残虐で血に渇いた暴君として描いています。エルは自分の父を廃位させてこれを去勢し,自分の息子を殺し,娘の首を切った者として描かれています。また彼は,神でありながら地上の女たちをたぶらかす者としても描写されています。
これら聖書外の資料に現われる神々の中で最も目立っているのはバアルです。これはカナンにおける状況として聖書が記録している点でもあります。(士師 2:12,13。士師 6:25-32; 列王上 16:30-32,参照)バアルは多産豊穣の神とされ,地上の草木の生長と腐朽もしくは休眠の季節的循環に呼応して死と再生を繰り返す者として描かれています。
カナン人の信奉した主要な女神であるアシタロテ(士師 2:13; 10:6。サムエル前 7:3,4),アシェラ,アナテは,あるエジプト文書の中では,母神でありかつ神聖な娼婦でありながら,背理的にも常に処女である者とされています。(字句的には,「はらんでも子を産むことのない偉大な女神たち」)これら女神たちに対する崇拝にはいつも神殿娼婦たちの働きが伴っていたでしょう。これら女神たちは性欲のシンボルとされただけでなく,加虐的暴力や戦闘の象徴でもありました。例えば,女神アナテは,ウガリットのバアル叙事詩の中では,男たちの大々的な殺りくを遂げ,そののち多くの首をつるして身を飾り,男たちの手を腰帯に取り付け,その血の中を喜び進む様で描かれています。パレスチナで発見される女神アシタロテの小像は,性器を露骨に誇張した女性の裸像です。カナン人の男根崇拝に関して考古学者オルブライトはこう述べています。「はなはだしい場合……彼らの崇拝行為のエロティックな面は,社会の退廃という点で極めて不潔な深みにまで沈み込んでいたであろう」。
カナン人の基本的宗教概念は古代バビロンにまでその系譜をたどることができます。バアルはバビロニアのタンムズに対応し,アシタロテ(アスタルテ)はイシュタルの対応です。エルサレムの霊的売春をとがめるエゼキエルの言葉の中でカナンの地とカルデア人とが結び付けられているのは,両者のこうした関連によるものかもしれません。―エゼキエル 16:29。
カナン人の堕落した慣行としてさらに述べるべきものは子供のいけにえです。メリル・F・アンガー(「考古学と旧約聖書」,279ページ)はこう記しています。「パレスチナにおける発掘調査は異教祭壇周辺の墓地から幼児の骨格の残片と灰とを多量に掘り出した。これは,その忌むべき残酷な慣行が広く行なわれていたことを示すものである」。
エホバは,全地球的な洪水の際,全地にいた邪悪な人々に対し死の宣告を執行するご自分の至上の権限を行使されました。ソドム,ゴモラ両市を中心とするその周辺の全域に対してもこれを行なわれました。それは『彼らに関する大きな苦情の叫びまたその非常に重い罪』のためでした。(創世 18:20; 19:13,新)エホバは紅海でファラオの軍勢に対しても滅亡の布告を執行されました。さらに,コラに属する諸家族その他イスラエル人の反逆者たちを絶滅に至らせられたことさえあります。これらの場合,神はその滅びを来たらせるために自然の力を用いられました。しかし,それとは対照的に,エホバは今イスラエル人に対し,神の布告の主要な執行者として仕える神聖な務めをゆだねました。これにはみ使いの使者による導きと神の全能の力による後ろだても加えられます。(出エジプト 23:20-23,27,28。申命 9:3,4; 20:15-18。ヨシュア 10:42)しかしカナン人にとってその結果は全く同じで,さながら神が洪水,火の爆発,地震などの現象を用いて彼らに滅びを来たらせているかのようでした。また罪に定められた民を死に処することが人間の代行者によって行なわれ,それがどれほど重苦しい任務に思えたとしても,それによって神の指示した行動の正しさが変わるわけではありませんでした。(エレミヤ 48:10)こうして人間を器として用い,それを,「彼らより多くより強大な七つの国民」に向かわせることによって,エホバの力が大いなるものとして示され,その神としての地位が立証されました。―申命 7:1; レビ 25:38,新。
カナン人はイスラエルが神の選びの民でありその器であるという強力な証拠について無知であったわけではありません。(ヨシュア 2:9-21,24; 9:24-27)それでも,ラハブとその家族およびギベオン人の数都市を別にすれば,滅びに直面させられたその民はあわれみを求めることも,他の地へ逃げ去る機会もとらえず,ただエホバに敵抗してその態度を硬化させる道を選びました。エホバはその明示したご意志に屈服して譲歩するよう彼らを強制するという手段は取られませんでした。むしろ,「彼らの心がかたくなになってイスラエルに戦いをしかけるようになることを許し,こうしてご自分は彼らを滅びにゆだね,彼らに何ら恵みある配慮を受けさせることなく,これを滅ぼし尽くして」,彼らに対するご自分の義の裁きが執行されるようにされました。―ヨシュア 11:19,20,新。
ヨシュアは,カナン人の滅亡に関して『エホバがモーセに命じたすべてのことのうちその一語も取り除くことのないよう』賢明に行動しました。(ヨシュア 11:15,新)しかし,イスラエル国民はこの良い手本に従い通さず,その地の汚れの元となるものを全く除き去ることを怠りました。カナン人がその中に引き続きとどまったことはイスラエル内に悪影響を持ち込むことになり,カナン人すべての絶滅の布告が忠実に遂げられていた場合より多くの死が(犯罪,不道徳,偶像礼拝などについては言うに及ばず)引き起こされる結果となったに違いありません。(民数 33:55,56。士師 2:1-3,11-23。詩 106:34-43)エホバはご自分の公義と裁きが偏ぱなものではなく,イスラエル人がカナン人と交渉を深め,姻せき関係を結び,信仰合同を行なってカナン人の宗教的習慣や堕落した慣行を取り入れるなら,そのようなイスラエル人も必然的に同じ絶滅の布告下に置かれ,『その地から吐き出される』ような結果になることを警告しておられました。―出エジプト 23:32,33; 34:12-17。レビ 18:26-30。申命 7:2-5,25,26。
士師記 3章1,2節(新)はエホバがカナン諸国民のある者たちをとどまらせることを述べ,その目的をこう記しています。「それによってイスラエルを,つまりカナンでの戦いを少しも経験したことのないすべての者を試みるため……イスラエルの子らの後の世代の者たち,それまでにそのようなものを経験したことのない者たちが経験を得,こうして彼らに戦いを教えるためであった」。これは,イスラエルの不忠実さのため,また「イスラエルがエホバの道を守るかどうかを試みるために」エホバがそれら諸国民を追い立てなかったというそれ以前の陳述(士師 2:20-22,新)と矛盾するものではありません。むしろそれは,ここに述べられる理由と一致するものであり,イスラエルの後の世代の人々がそれによって,カナン人に関する神の命令への従順を実証するかどうか,その従順を実証するため戦いで命を危うくするまでの信仰を表わすかどうかを問われるようになることを示しています。それ以後士師記に記されるカナン諸国民との戦い,およびサウルやダビデが行なった後の戦いはこうした目的を例証するものとなっています。
これらの点すべてから明らかなように,イスラエルによるカナン人の滅亡はクリスチャン・ギリシャ語聖書の『精神』と相いれないという一部の聖書批評家の見解は,事実と適合していません。マタイ 3:7-12; 22:1-7; 23:33; 25:41-46; マルコ 12:1-9; ルカ 19:14,27; ローマ 1:18-32; テサロニケ第二 1:6-9; 2:3; 啓示 19:11-21などの句と比較することによってこの点はさらに証明されるでしょう。
その後の歴史
征服の後,カナン人とイスラエル人との間の関係は,イスラエルにとっては有害な面があったとは言え,比較的に見て徐々に平和な共存関係となってゆきました。(士師 3:5,6。士師 19:11-14,参照)シリア,モアブ,ペリシテ(フィリスティア)などの支配者たちが相次いで一時イスラエル人を支配したことはありましたが,カナン人が十分に力を取り戻してイスラエル人を20年も服属させたのは,「カナンの王」ととなえたヤビンの時が最初です。(士師 4:2,3)バラクによってヤビンが最終的に打倒された後,王国時代以前のその時期にイスラエルが迎えた苦難は,ミデアン人,アンモン人,ペリシテ人など,カナン人以外の諸民族によるものが主でした。また,サウルの治世に関しても,カナン人の諸部族の中で簡単にせよ言及されているのはアモリ人だけです。(サムエル前 7:14)ダビデ王はエブス人をエルサレムから駆逐しましたが(サムエル後 6:6-9),ダビデの主要な戦闘はペリシテ人,アンモン人,モアブ人,エドム人,アマレク人,シリア人などに対するものでした。こうしてカナン人は,依然イスラエルの領地内に都市を所有し,土地を保有していたとは言え(サムエル後 24:7,16-18),軍事面で脅威となることはもはやなかったようです。ダビデの戦闘部隊の中にはヘテ人の戦士二人の名も挙げられています。―サムエル前 26:6。サムエル後 23:39。
ソロモンはその支配中に,カナン諸部族のうち残っていた人々を強制労働につかせて自分の多くの事業に加わらせ(列王上 9:20,21),ずっと北方のカナン人都市ハマテにまでその建築工事を拡張しました。(歴代下 8:4)しかし,後にカナン人の妻たちはソロモン没落の一因となり,その後継者から王国の多くの部分を失わせ,国民の宗教的堕落を導くものともなりました。(列王上 11:1,13,31-33)ソロモンの治世(西暦前1037-997)からイスラエルのヨラムの支配(西暦前917-905)までの間に一つの部族としてある程度の地位と力を保ったのはヘテ人だけのようです。それも明らかにイスラエルの領地の北方,シリアに隣接もしくは内包される地域においてでした。―列王上 10:29。列王下 7:6。
カナン人との通婚はバビロン捕囚から戻って来たイスラエル流刑囚の間でも依然問題になりましたが(エズラ 9:1,2),ヘテ人のものも含めカナン人の諸王国はシリア,アッシリア,バビロニアの侵攻のもとに既に崩壊していたようです。そして「カナン」という語は主としてフェニキアを指すようになりました。ティルス(ツロ)に関するイザヤの預言(イザヤ 23:1,11,新世界訳 1958年版[英文]脚注),またイエスに近づいたティルス,シドンの地域の「フェニキア人」(字義的には「カナン人」[ギリシャ語,カナナイオス])の女の場合などはその例です。―マタイ 15:22。マルコ 7:26,参照。
商業的また地政学的重要度
カナンはエジプトとアジア,とりわけエジプトとメソポタミアを結ぶ陸橋をなしていました。この地の経済は農業を基盤としてはいましたが,商業貿易活動も行なわれ,ティルス,シドンなどの海港は船隊の集結する大通商基地として当時の世界に広く知られました。(エゼキエル 27章参照)それで,早くもヨブの時代に「カナン人」という言葉は『商人』もしくは『商い人』の同義語となっていましたし,実際にそのように訳されてもいます。(ヨブ 41:6; ゼパニヤ 1:11,新。バビロンを「カナンの地」としているエゼキエル 17:4,12にも注目)こうしてカナンは「肥沃半月形」の中でも戦略上極めて重要な地位を占め,メソポタミア,小アジア,アフリカなどの大帝国が,この境域の軍事通路や交易の掌握を求めて攻略の目標にするところとなりました。したがって,神がご自身の選びの民をこの地に置かれたことが諸国民の注目を集め,深遠な影響を及ぼしたのは事の必然と言えます。宗教的な意味のほうが重要ですが,地理的な意味でも,イスラエル人は「地の中央部に」住んでいると言うことができました。―エゼキエル 38:12,新。
言語
聖書の記録はカナン人がハム系であることをはっきり示していますが,研究書の大多数はこれをセム系の民族としています。このような類別はカナン人がセム系の言語を用いたという形跡に基づいています。最もよく取り上げられる証跡はラス・シャムラ(ウガリット)で発見された大量の古代文書で,それは確かにセム系の言語もしくはその方言で書かれており,西暦前14世紀ごろにまでさかのぼるものとされています。しかし,既に述べたとおり,明らかにウガリットは聖書が述べるカナンの境界内には入りませんでした。「聖書考古学者」誌の一論文(第28巻,1965年4月,105ページ)の中でA・F・レイニーは,民族的,政治的,そしておそらく言語学的根拠から見て,「ウガリットを『カナン人の』都市とするのは今や明らかに誤称である」と述べています。彼はさらに証拠を挙げて,「ウガリットとカナンの地とはそれぞれ別個の政治的実体である」ことを示しています。したがって,それらの土板をもってカナン人の言語を決定するための明確な物差しとすることはできません。
エジプトで発見されたテル・エル・アマルナ書簡の多くがカナン本土の諸都市から発信されていることは確かであり,イスラエルによる征服以前のものと考えられるそれらの書簡は主として,セム系の一言語であるバビロニア語の楔形文字で書かれています。しかし,それは当時の近東全域における外交用言語であり,そのためエジプト宮廷への書状にも採用されたのです。それで,アルフレッド・ハルダー教授の以下の陳述(「注解者のための聖書辞典」,第1巻495ページの記述)は大いに興味をもって注目すべきものと言えます。「アマルナ書簡は,非セム系の民族要素が比較的早い時代にパレスチナとシリアに定着したという見解を支持する証跡を含んでいる。それら書簡の多くは非セム系国語の影響を明瞭に示しているからである」。[下線は当編者]
カナンの最初の住民が話した元々の言語はまだ突きとめられていないというのが実状です。「ブリタニカ百科事典」(1959年版,第4巻689ページ)も,テル・エル・アマルナ書板以前のカナンに関してこう述べています。「しかし,古代カナンは“無言の”国である。そこには一つの碑文もない。これは彼らの使用した書写材料が腐朽性のものだったからである。パピルス,木,革,などは湿った土の中で消滅してしまった」。それで,洪水後の約7世紀の期間についてカナン人の元の言語を決定する手がかりとなるような文書類は見つかっていません。
しかしながら,聖書の記述そのものも,アブラハムとその子孫がカナンの民と通訳を介さずに会話できたことを確かに示しているようです。また,非セム系の地名が用いられている所も多少はあるものの,イスラエル人が攻め取った町や都市の大部分は既にセム語系の名を付せられていたという点も注目できるかもしれません。しかしそれでも,アブラハム時代そして明らかにダビデ時代のペリシテ人の王たちも「アビメレク」という名で呼ばれていました。(創世 20:2; 21:32。詩篇 34篇表題)これは全くセム語系の名(もしくは称号)ですが,ペリシテ人(フィリスティア人)がセム系の民族であるとはだれもとなえていません。それで,カナン人の諸部族はバベルにおける言語の混乱(創世 11:8,9)以後数世紀の間に元々のハム系の言語からセム系の国語に変わったのであろうと見ることもできるでしょう。これが起きた要因としては,シリアのアラム語系諸民との緊密な接触,ある時期に続いたメソポタミアからの支配,その他今日明らかでないほかの事柄などが考えられます。そのような変化は古代の他の諸国民の場合と比べて決して大きすぎるものではありません。例えば,古代のペルシャ人は,インド・ヨーロッパ語族(ヤペテ系)に属していたのに,後にセム語系のアラム語とそのアルファベットを採用しています。
イザヤ書 19章18節で「カナンの言語」と呼ばれているものがありますが,これはそのころ(西暦前8世紀)までにその地の主要な言語となっていたヘブライ語を指しているものと思われます。