みことばを心に植える
「あなたがたの魂を救い得ることばが植えられることを柔和に受け入れなさい」― ヤコブ 1:21,新。
1 多くの人は,“新しい道徳”と呼ばれるもののために,聖書に対する確信をどのように失いましたか。
今から二,三十年前,人々は宗教にかなりの関心をいだいていました。しかし時代は変化しています。今日,キリスト教国のたいていの人は,変化する世界に対して牧師がいだいてきた新しい,しかし不自然な考えを歓迎しているようです。従来の物事の基準が時代遅れになるとともに,いわゆる「新しい道徳」が広く受け入れられ,また多くの宗教指導者は,「神は死んだ」という考え方を支持しています。したがって,キリスト教世界の諸教会の信者の多くが,「神が死んだのであれば,神のおきてはもはや有効ではない。では,どうして聖書の助言に従う必要があるのだろうか」と考えるのも当然です。今日,多くの人は,「自分の好きな生き方をすればよいのだ」と考えています。
2 しかし他の人々は聖書をどう見ていますか。そのような人の考え方は,イエス・キリストの考え方とどのように似ていますか。
2 一方,聖書と聖書の述べる神に深い関心を持つ,多数の国の人々から成る大群衆がいます。それらの人は,宗教指導者の言動のために信仰の動揺をきたしたにしても,依然として,聖書の教えにしっかり従おうとしています。そして,事態が悪化しているのは,人々が,姦淫・淫行・同性愛行為・盗み・詐取その他のあらゆる邪悪な行為に身をまかせているためであることを知っています。多くの人は,こうした行為を常軌を逃した事柄とはみなしていません。「上手にやればよいのだ」というのが多くの人の考え方です。しかしエホバの証人は,聖書を神のみことばと考えており,聖書にしるされている道徳律は守るべき正しいものであることを知っています。19世紀前,イエス・キリストは神の完全な律法に従って生活されました。イエスの教えと行動は,文字になったエホバのことばが,イエスの心と思いのうちに植えられていたことを物語っています。
3 (イ)エホバの証人は,イエス・キリスト及び彼が地上に来られた理由について,どんな考えを持っていますか。(ロ)エホバの証人は将来に対してどんな希望をいだいていますか。
3 聖書の述べるとおり,イエスは神の御子であり,したがってイエスは,「彼に信仰を働かせる者がひとりも滅びず,永遠の命をもつため(に)」,その父なる神が世に送られたかたです。エホバの証人はこのことを信じています。(ヨハネ 3:16,新)エホバの証人はまた,きたるべき平和な千年統治の期間に,キリスト・イエスが世の罪をぬぐい去ることをも信じています。世故にたけた人は,このような信仰を持つクリスチャンをうぶな人間とみなし,エホバの証人を変人と考えるかもしれません。しかしイエスがこの地上で人間として生活していた当時,キリスト・イエスの追随者にとって,このような信仰は少しも奇妙な事柄ではありませんでした。イエスの忠実な追随者は,多くの反対にもめげず,イエスの音信を伝道しました。そうすることは,それら追随者のある者にとって,キリストのために自分の命をさえ失うことを意味しました。また,キリスト・イエスが地上におられた時代以後の1,900年間に生活した幾百万の人々にとっても,そうした信仰は奇異なものではありませんでした。しかしわたしたちの住んでいる現代,つまり聖書で「終わりの日」,また,この事物の体制の「危機の時代」と呼ばれている今日,聖書の教えをほんとうに受け入れ,人類を買い戻すためのイエス・キリストの犠牲の価値のゆえに永遠に生きる希望をいだく人は比較的少数です。こうした教えはある人々にとって奇妙ではあっても,それが真実であることには変わりありません。イエスは言われました。「唯一のまことの神であられるあなたと,あなたのつかわされたイエス・キリストとの知識を取り入れること,これは永遠の命を意味します」。―テモテ後 3:1,新。ヨハネ 17:3,新。
4 神のみことばの真理を他の人々に教えたいと願う人は,どうすればヤコブ書 1章21節に従えますか。
4 『聖書はすべて神の霊感によるものであり,教えるのに有益である』ということを信じているエホバの証人は,ヤコブ書 1章21節の次の助言に従います。「すべての汚れ,およびあの無用なこと,すなわち道徳上の悪を捨て去り,あなたがたの魂を救い得ることばが植えられることを柔和に受け入れなさい」。(テモテ後 3:16,新)道徳上の悪について聖書は多くを語っています。イエスの異父兄弟で,聖書の一記述者であるヤコブは,教える側の者が,真理を人の心と思いにほんとうに鳴り響かせることを望むなら,神のみことばに反する誤った悪い事柄が取り除かれねばならないということを確信していました。つまり,教えを受ける人は,時間をかけて考え,植えられた神のみことばを柔和に受け入れねばなりません。神のことばが,人の心と思いの中にほんとうに植えられるなら,それはその人の魂,つまり命を救うものとなります。イエスが誘惑者サタンに対して,「人の生くるはパンのみによるにあらず,〔エホバ〕の口よりいづるすべてのことばによる」と言われたとおりです。(マタイ 4:4〔新〕。箴言 3:13-18)あなたはこのことばを受け入れることができますか。
5,6 (イ)人を汚すのは人の口から出るものであることを,イエスはどのように説明されましたか。(ロ)箴言 18章7節及び5章1,2節は,イエスのことばをどのように裏づけていますか。
5 イエスは,人が生きてゆくのに必要な実際の食物について少し説明されました。ある日,律法学者およびパリサイ人と論じたのち,イエスは彼らについてこう言われました。「彼らを捨ておけ,盲人を手引する盲人なり,盲人もし盲人を手引せば,二人とも穴に落ちん」。そしてイエスはペテロに向かってさらにこう話されました。「なんぢらも今なほさとりなきか。すべて口に入るものは腹にゆき,つひに厠にすてらるることを悟らぬか。されど口よりいづるものは心よりいづ,これ人を汚すものなり。それ心より悪しき念いづ,即ち殺人・姦淫・淫行・ぬすみ・偽証・そしり,これらは人を汚すものなり,されど洗はぬ手にて食することは人を汚さず」― マタイ 15:14-20。
6 もし心がよこしまで,道徳上の悪で満ちているなら,その人の考えは,上品で高潔,かつ正しい事柄から完全に逸脱するでしょう。したがって,そのような人の思考力は当人はもとより,周囲の人にも益するものではありません。また,心に宿る道徳上の悪に災いされて,その人の考えはエホバの律法に全く反するものとなるでしょう。ゆえに,ある賢人は箴言 18章7節で,「愚なる者の口はおのれのほろびとなり,その口唇はおのれの〔魂〕のわなとなる」〔新〕と述べました。イエスが言われたとおり,重要なのは,口にはいるものではありません。それは消化器官を通じて容易に捨てられるからです。しかし大切なのは,口から出るもの,つまり人の話す事柄です。それは話者のひととなりを表わします。人は,自分が意図する事柄を話すものです。それで箴言 6章12節には,「よこしまなる人,あしき人は虚偽のことばをもて事を行ふ」としるされています。神のことば聖書を退けて,神の助けがなくても,生活上の諸問題は解決できると考える人がいます。しかしそれは完全なまちがいです。賢人ソロモンのことばに耳を傾けてください。「わたしの子よ,わたしの知恵に心を用い,わたしのさとしに耳を傾けなさい。これは思考力を守り,あなた自身の舌が知識を守るためである」― 箴言 5:1,2,新。
7 人は思考力をどのようにして守れますか。
7 物事を正しく理解する最善の方法は,最高の権威者に尋ねることです。ゆえに,全知の神,すなわちエホバのことばに耳を傾けねばなりません。エホバのことばに心を用いて,その助言を守り,幸いを得てください。わたしたちがいま知らねばならないことは,しるされた神のみことばである聖書にしるされています。分別のある人は,エホバのことばに耳を傾け,何を行なわねばならないかを知ろうとします。それは思考力を守る道です。正しい道を知り,その道を思いめぐらす人は,淫行・姦淫・盗みその他のよこしまな考えをいだかないように,自分の思考力を守れます。真理と正義に基づく高潔な原則に自分の心と思いを絶えず向けるのは賢明な人です。思考力を正しく用いる人は,人の徳を高める正しく,かつ清い事柄を語ります。
心を清めることが必要
8 正しい考え方をするために,人は何を捨て去らねばなりませんか。
8 したがって,正しい考えを植えるには,心を清めねばならないことがわかります。肉の思いに属するすべての汚れた事柄,そうした無用なこと,また道徳上の悪を捨てなければなりません。そうすれば,自分の心に植えられた神のことばを受け入れるために,時間と精力を費やすことができるでしょう。これら二つの事柄は,同時に行なえるものではありません。同じ泉から甘い水と苦い水が出ることはありません。(ヤコブ 3:11)神のことばの真理が心に植えられ,かつ成長するには,人は考え方と物事の仕方とを変えねばならないのです。
9 これからイエスのどんなたとえ話を考慮しますか。このたとえ話を最もよく説明できるのはだれですか。
9 およそ1,900年前,ガリラヤ湖畔におられたイエスの下に,その知恵のことばを聞こうとして多くの人が集まりました。イエスの話し方はそれまでのどんな人とも異なっていました。人数がふえたので,イエスは小舟に乗って岸を離れ,水面を反響板がわりにして,岸辺の大群衆に向かって話しました。イエスは要点を強調するために,しばしばたとえを用いましたが,マタイ伝 13章にしるされているとおり,この時にもその方法を用いておられました。イエスがその群衆に語った幾つかのたとえ話の一つは,種をまく人に関するものでした。それはかなり詳しいたとえ話で,種まき人がまいた種のあるものは,道ばたや石の多い所,また,いばらの中などに落ちました。さらにイエスは,ある種は良い土に落ちて多くの実を結んだ,と語りました。もとより,このたとえ話は,それを聞いた人が自分の思考力を働かせて考えさえすれば,意味を理解することができました。しかしイエスがそのたとえ話の意味を説明して,ご自分の考えを明らかにされたなら,聴衆はその真意を悟れたでしょう。
10 イエスの弟子たちは,イエスの教えを理解しようとする点で,一般のユダヤ人とはどのように異なっていましたか。
10 イエスの弟子たちは,イエスの意図を知りたかったので,次のように尋ねました。「なにゆゑ譬にて彼らに語り給ふか」。イエスは答えて言われました。「なんぢらは〔天の御国〕の奥義を知ることを許されたれど,彼らは許されず。それたれにても,有てる人は与へられていよいよ豊ならん。されど有たぬ人は,その有てる物をも取らるべし」。(マタイ 13:10-12,〔新〕)イエスの十二弟子は多くのすぐれた情報を得ていましたが,さらに多くを望んでいました。彼らは「〔天の御国〕の奥義」を理解するために,自分の思考力を働かせました。使徒たちはすでにかなりの知識を得ていましたが,『さらに与えられて,いよいよ豊かに』なったのです。しかしユダヤ人の残りの者たち,つまり無関心で認識に欠けた人々からは,神とそのみことばに関して彼らが持っていた知識さえ取り去られてしまいました。そして西暦70年までには,彼らの聖都エルサレムとその宮はもとより,エホバ神から与えられていたと思っていた恵みさえ失ったのです。「有たぬ人は,その有てる物をも取らるべし」とは確かに真実です。
11 思考力を働かせるという点で,それに似たどんな状態が今日の人々に見られますか。
11 今日のキリスト教世界の人々と同様,かつてその湖畔でイエスの話を聞いていた群衆の大半は,神との契約関係にありながら,おそらくイエスのことばに深い敬意をいだいてはいなかったでしょう。それでイエスはさらにこう述べました。「この民の心は鈍く,耳は聞くにものうく,目は閉ぢたればなり。これ目にて見,耳にてきき,心にて悟り,ひるがへりて,我にいやさるることなからんためなり」。(マタイ 13:15)人々の心はあまりにも鈍くなり,話を聞いても悟れませんでしたが,それはたしかにキリスト・イエスのせいではありませんでした。今日でも多くの人は神のことばに耳を傾けようとはしません。神のことばの真意を悟ろうとはしないのです。しかし当時のイエスの弟子たちは,イエスのことばの真意を知ろうとしました。あなたも知りたいと思いますか。では,イエスの次のことばに耳を傾けてください。「汝らの目,なんぢらの耳は,見るゆゑに,聞くゆゑに,幸福なり。まことに汝らに告ぐ,多くの預言者・義人は,汝らが見るところを見んとせしが見ず,なんぢらが聞くところを聞かんとせしが聞かざりしなり。されば汝ら種まく者のたとへをきけ」― マタイ 13:16-18。
イエスの行なわれた説明
12 イエスのたとえ話の真意を悟るには,何をしなければなりませんか。
12 種まき人のこのたとえ話の意味をご自分の弟子たちに詳しく説明されたイエス・キリストは,なんとあわれみ深い親切なかたでしょう。あなたも神のことばにほんとうに関心を持っておられるなら,ご自分の聖書を開いて読み,その真意を悟ることができるのです。洞察力のある人は,このたとえ話をされたイエスの意図を正しく理解できるでしょう。今日,わたしたちは,イエスの最初の弟子たちと同様に恵まれた立場にあります。なぜなら,そのたとえ話はもとより,それに関係するイエスの説明を読むことができるからです。しかし,神のことばを勉強するには,思考力を働かせるとともに,それなりの時間を費やさねばなりません。では,そのたとえ話に関するイエスの説明を調べてみましょう。
13 (イ)種まき人に関するイエスのたとえ話は,どんな事柄と関連していますか。(ロ)イエスのたとえ話の真意を悟れない人が多いのはなぜですか。
13 一般に“新約聖書”と呼ばれているクリスチャン・ギリシア語聖書を調べてみると,イエスは神の御国に関する音信を絶えず宣明されたことがわかります。したがって,種まき人のこのたとえ話も御国に関するものでした。ゆえにマタイ伝 13章19節でイエスはこう述べています。「たれにても〔御国〕のことばをききて悟らぬときは,悪しき者きたりて,その心にまかれたるものを奪ふ。路のかたはらにまかれしとは,かゝる人なり」〔新〕。キリスト教国の内外を問わず,世界中の幾百幾千万もの人々は神の御国の宣明に接しましたが,その真意を悟りませんでした。理由は簡単です。「悪しき者きたりて,その心にまかれたるものを奪ふ」ためです。その悪しき者とはだれですか。聖書が明示しているとおり,今日の邪悪な事物の体制の神であるサタンが,「不信者の心を暗くし,神のかたちであられるキリストに関する栄光ある良いたよりの光が輝かないようにしてきた」のです。(コリント後 4:4,新)ゆえに,現在の事物の体制の神であるよこしまな悪魔サタンは,できるだけ多くの人々を暗やみのうちにとどめておこうとしています。あなたはサタンのそうしたしわざに身をゆだねたいと思いますか。聖書を読んだこともなく,また勉強したこともなければ,サタンはこれからもあなたをその暗やみのうちに閉じ込めておくでしょう。機会さえあればサタンは,御国のその良いことばが人の心に深くはいるのを妨げようとしています。まかれたものを奪い去ろうとしているのです。サタンはすべての国の人々を暗やみの中に閉じ込めることを決意しており,キリスト教世界においてさえ,牧師や司祭に神のみことばを卑しめさせています。そして牧師たちは,聖書を神話とみなし,神ではなく,人間の書いた単なる物語としています。
14 今日,悪魔が盛んに活動しているのはなぜですか。
14 現存する事物の体制の「終わりの日」である今日,悪魔と配下の悪霊が盛んに活動していることに疑問の余地はありません。悪魔は,御国の音信の真意をだれも悟らないことを望んでいます。ゆえに,「この事物の体制の神」である悪魔は,国家主義の風潮を助長しているのです。彼は,神の御国が何を意味するかを人々に理解させまいとしています。全宇宙の至上の神エホバにたよるかわりに,“既存の秩序”に心を用いて,世の支配者や国家を賛美し,崇拝することに人々を没頭させようと努めているのです。たしかに多くの人々は,滅びに通ずる広い道を忙しく進むことを余儀なくされて,神のみことばを理解する,あるいはその真意を悟る余裕を持っていません。たとえエホバの証人が毎年人々の家を何度か尋ねても,差し伸べられる音信の真意を多くの人は悟ろうとしません。あなたは,エホバの証人がいま語っている事柄に耳を傾けて,その真意を悟りましたか。
15 石地にまかれた種はどうなりますか。
15 イエスはさらに,「磽地にまかれ」た種について次のように言われました。「(これは)みことばをききて,直ちに喜び受くれども,おのれに根なければしばし耐ふるのみにて,みことばのために艱難,あるひは迫害の起るときは,直ちにつまづくものなり」。(マタイ 13:20,21)みことばを聞いて,その意味を悟り,直ちに喜んで受け入れる人がいます。エホバのクリスチャン証人として,あなたもそのような人に何度か会ったことがあるでしょう。そうした人々は,「これこそ世界の諸問題の解決策です」と語り,自分の学んだ事柄を多くの知人に話しはじめます。そして,神のみことばの真理から光と理解とを得て,学ぶ者また弟子となるように見えます。しかし石地に根をおろした種は育つものではありません。それはイエスのことばどおり,「みことばのために艱難,あるひは迫害のおこるときは,直ちにつまづくもの」です。イエスの予告どおり,多くの人は真理のために激しい反対にあいました。終わりの時に関する預言の一つとして,イエスはルカ伝 21章16,17節でこう言明されました。「汝らは両親・兄弟・親族・朋友にさへわたされん。またかれらは汝らのうちのある者を殺さん。汝らわが名のゆゑにすべての人に憎まるべし」。親族や友人からさえ受けるそうした激しい反対のために,ある人々はつまずくのです。
16 つまずいた人々は,石地にまかれた種に似ています。なぜですか。
16 聖書が示すとおり,そのような人はみことばを聞いて大いに喜びますが,石地にまかれたため,根をおろすことができません。自分が新たに見いだした希望について,親族・友人・隣人,その他できるだけ多くの人に話しますが,やがて迫害や患難がはじまり,その困難な事態は,神のみことばの真理に対する信仰を捨てるまで続きます。そして,さまざまな障害に直面します。牧師を尋ねて,神のみことばから得た喜びのほどを述べても,たいていは,聖書の研究をやめるようにと水をさされます。「エホバの証人には十分注意なさるほうが賢明です。彼らはあなたを惑わすからです」と言われるかもしれません。こうして親族・友人・宗教組織その他からの反対が増し加わり,また自分の心に宿るかたくなで利己的な考えに災いされて,直理の種は根をおろすことができません。みことばが心に深く植えられていないため,すぐつまずいてしまいます。根をおろし,成長するには,石地はあまりにも荒く,また堅すぎるのです。
17 いばらの中にまかれた種はどうなりますか。
17 さらにイエスはこう言われました。「いばらの中にまかれしとは,みことばをきけども,世の心労と財貨の惑とに,みことばをふさがれて実らぬものなり」。(マタイ 13:22)種は根をおろし,芽を出しましたが,まわりのいばらに妨げられて成長できませんでした。しばらくの間はみことばを聞き,その真意を理解できるかもしれませんが,現在の事物の体制とその心づかい,とりわけ,だれもが追求すべきものとされている富の惑わす力にとらわれているため,そうしたいばらのような事柄に妨げられて,決して実を結びません。わたしたちは,よこしまで無情かつ利己的な思いに満ちた事物の体制の下にあることを忘れてはなりません。人々は互いに敵対し合い,自称クリスチャンの大多数の愛は冷えました。したがって,現在の事物の体制下の心づかいや,富の惑わす力にとらわれるなら,直理のことばはたちまちふさがれてしまいます。それでこのような人も実を結びません。そのような人の生活には,「植えられたことば」を受け入れる余地がないため,成長が妨げられ,霊的に死んでしまいます。
良い土のような人々
18 (イ)良い土にまかれた種はどうなりますか。(ロ)昨奉仕年度中,どのようにして多くの人が神のみことばの真意を悟るように助けられましたか。
18 しかしイエスはこう続けます。「良き地にまかれしとは,みことばをききて悟り,実を結びて,あるひは百倍,あるひは六十倍,あるひは三十倍に至るものなり」。(マタイ 13:23)それには,『みことばを聞いて,悟ら』ねばなりません。神のみことばの真意を悟るには,個人的な研究を行なわねばなりません。エホバの証人はそうした個人的な研究を奨励するため,1969奉仕年度中,良い土と思える人々を見いだして,毎週109万7,237の家庭聖書研究を司会しました。それら個人的な家庭聖書研究の多くは成果を収めました。エホバの証人は,人々が御国のことばに接するのを助けています。そのために2億3,976万9,076時間を費やして,すべての国の人々に語りかけ,関心のある幾万もの人々と家庭聖書研究を始めました。そのすべてが聖書研究を毎週行なったわけではありませんが,1969年度の野外奉仕報告によれば,毎週百万以上の聖書研究が司会されました。神のみことばを学ぶためのこうした研究は必要です。なぜなら,それは心に宿るよこしまな考えを除き去るのに役だつからです。その結果,真理が人の心に育つのです。比ゆ的に言って,せわしい道ばたや石地,あるいはいばらの中では,だれも成長できません。良い土でなければ,成長は期待できません。あなたはどんな土ですか。わたしたちは,あなたが植えられたみことばを柔和に受け入れ,『すべての汚れ,およびあの無用なこと,すなわち道徳上の悪を捨て去る』人であってほしいと思います。真理の種が芽を出すには,根をおろすための良い土でなくてはなりません。
19 (イ)人は自分が良い土に似た者であることを,どのように示すことができますか。(ロ)1969奉仕年度中,多くの人は自らが良い土であることを示しました。その証拠を述べなさい。(ハ)過去4年間にバプテスマを受けた人の数を考慮すると,何がわかりますか。
19 殺人・姦淫・淫行・盗みその他のよこしまな考えを心から除き去るなら,人は自分が良い土であることを示せます。(マタイ 15:19)人の心に植えられた神のことばは,やがてりっぱに成長して実を結びます。あなたはクリスチャンとして成長しておられますか。真理,すなわち御国のことばは心に深くはいっていますか。そして,しっかりと根をおろし,よく成長していますか。そうであれば,やがて実を結ぶでしょう。このすべてを励ますものとして,イエスはこのたとえ話を次のことばで結びました。「良き地にまかれしとは,みことばをききて悟り,実を結びて,あるひは百倍,あるひは六十倍,あるひは三十倍に至るものなり」。(マタイ 13:23)エホバの証人が会って話をし,聖書研究を行なった,関心のある人々の多くは,自らが良い土であることを示しました。彼らはエホバに献身し,1969奉仕年度だけで12万905人がバプテスマを受けて,エホバのクリスチャン証人になりました。エホバの証人として知られる,献身してバプテスマを受けた人々がそれぞれ百倍,六十倍,あるいは三十倍の実を結んでいると言えますか。明らかにそれぞれ実を結んでいます。過去数年を振り返って見てください。1966奉仕年度には5万8,904人がバプテスマを受け,1967年度には7万4,981名,1968年には8万2,842名がそれぞれバプテスマを受けました。そして今や1969奉仕年度には12万905名が,献身してバプテスマを受けたクリスチャンとして生み出され,『御国のことば』を伝えるわざに携わりました。なんとすばらしいことでしょう。わたしたちはこうした豊かな祝福をエホバに感謝します。
20 (イ)“植える”とはどういう意味ですか。(ロ)このことは,わたしたちの教えるわざにどのようにあてはまりますか。
20 種あるいは神のみことばのいずれにしても,それを植えるには,まず第一にそれをしっかりと,つまり深く植えねばなりません。“植える”とは,植物が根を出して生長できるようにするため,種を地中に埋めるという意味です。同様に,教えるとは,学んでいる人が学んだ事柄を実行するのを助けることです。良い土のような学習者の心に真理が植えられると,その人は実を結びます。それは真理を学んだ結果です。幾世紀も昔,ユダヤ人がエホバの保護に恵まれた選民だった時分,エホバはイスラエル人の親たちすべてに対し,神のみことばの真理を子供の心に教え込むようにと命じられました。エホバは,親たちが知識と理解を持つことを望んでおられたのです。親たちに対するその命令は次のとおりです。「今日わが汝に命ずるこれらのことばは汝これをその心にあらしめつとめて汝のこどもに教へ家に坐する時も路を歩む時も寝る時も興る時も これを語るべし」― 申命 6:6,7。
21 (イ)イエスの時代にユダヤ国民の犯したどんな失敗が,今日のキリスト教世界に見られますか。(ロ)キリスト教世界は音信を聞く機会に恵まれなかったと主張できますか。
21 しかしユダヤ人は一国民としては,親たちから与えられた健全な助言を受け入れなかったために道に迷い,世の心づかいや富の惑わす力に災いされて,そうしたことばを忘れ,神との関係を見失いました。今日のキリスト教世界についても同じことが言えます。その教会の成員も神のみことばを退けています。多くの人は真のクリスチャンになることを望んでいません。次のことをしるした使徒パウロはこの点に気づいていました。「彼らと同じく,わたしたちにも良いたよりが告げ知らされたからである。しかし,その聞いたことばは,彼らに益を与えなかった。なぜなら,彼らは,ほんとうに聞いた者たちと信仰によって結ばれていなかったからである」。(ヘブル 4:2,新)パウロのことばからすれば,神のことばは多くのヘブル人に告げ知らされたことがわかります。事実,パウロは2種類の人々について述べています。それは良いたよりを聞いただけで何もしなかった人と,良いたよりを聞いたのちに,それを宣明していた者たちと信仰によって結ばれた人々のことです。今日,エホバの証人はキリスト教国で戸別訪問を続け,良いたよりを宣明していますが,多くの人の心は「鈍く,耳は聞くにものうく」なっています。(マタイ 13:15)世の人々は真理について聞く機会に恵まれなかったというのではありません。人々はその機会に確かに恵まれています。過去50年間,神の御国の良いたよりは宣べ伝えられ,殊にこれまでの25年間,全地でいよいよ徹底的に宣べ伝えられました。しかしそれに答え応じた人は比較的少数でした。それにしても,御国のことばを聞いてその真意を悟る人は,何を行なわねばなりませんか。
「柔和に」
22 (イ)神のみことばが人の心に植えられるためには,その人はどんな霊の実を持っていなければなりませんか。(ロ)このことからすれば,どんな人は除外されますか。
22 イエスの異父弟ヤコブは,種まき人に関するイエスのたとえ話をよく知っていたことでしょう。それでヤコブは,植えることについて述べた時,イエスの話された事柄を心にとめていたと思われます。ヤコブは次のように語って,そのたとえ話をみごとに要約しています。「すべての汚れ,およびあの無用なこと,すなわち道徳上の悪を捨て去り,あなたがたの魂を救い得ることばが植えられることを,柔和に受け入れなさい」。人は,植えられたことばを柔和に受け入れねばなりません。わたしたちはこのことを心にとめましょう。クリスチャンの教え手は,たかぶった思いを持つ高慢な人の心にみことばを鳴り響かせるのではありません。なんでも知っているというような顔をする人は,けんそんな態度を示すことができません。根をおろせない岩のような堅い土に植えることはできません。知識と理解を捜し求める人の心にはいった聖書の真理は,偉大な創造者に対し深い敬意をいだくその人の思いと心に奥深くはいります。そしてその種はやがて芽を出して生長し,時節が来ると成熟します。イエスが言われたとおり,たしかに『実を結び』ます。ある人は百倍,あるいは六十倍,また別の人は三十倍の実を生み出します。これは確かに真実です。真理を知り,戸別訪問による伝道と聖書研究の司会に時間を費やす人々の収めた成果を考えると,それらの人は成すべきわざを確かに行なっているということがわかります。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……バプテスマを施し(なさい)」とイエスは言われませんでしたか。(マタイ 28:19,新)エホバの証人は一生のあいだに30人,または60人,あるいは100人ほどの人々が真理を理解するのを助けることができるかもしれません。『御国のことば』が良い土にまかれるなら,それはやがて良い実を生み出します。あなたは聖書を教える者となるために努力しましたか。「行って…人々を弟子とし…彼らにバプテスマを施し(なさい)」とのイエスのご命令に答え応じておられますか。
23,24 人格を改めるという点で,100万を越えるエホバのクリスチャン証人は何をしましたか。
23 今日,100万を越えるエホバの証人は,道徳上の悪・肉の汚れなどの無用なものを捨て去ることによって,救いを得るための正しい段階を進んでいます。彼らはパウロの語った次のことばを信じています。「あなたがたの以前の生き方に基づき,人を欺く欲望にしたがって腐敗している古い人格を脱ぎすて,あなたがたの心に動く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着けるべきである」。(エペソ 4:22-24,新)「神の御心にしたがって造られた」新しい人格を築くには,まず第一に古い人格を脱ぎ捨てなければなりません。それ以外に道はありません。そうすれば,変化が生じはじめます。そして,「魂を救い得ることばが植えられることを柔和に受け入れ」る人の心には,新たな力が働くようになるでしょう。パウロはそうした新しい人格を築くことに深い関心をいだいていました。コリント前書 9章27節(新)で次のように述べたのもそのためです。「わたしは自分のからだを押えて,奴隷のようにこれを導く。それは,他の人々に伝道しておきながら,どうかして自分が非とされることのないためである」。
24 タルソのサウロはその心に『御国のことば』を植えられて,使徒パウロになりました。彼は自分が良い土であることを示しました。そして多くの実を結ぶことを願った彼は,行って伝道し,人々にバプテスマを施しました。この点でパウロは今日のわたしたちの良い模範です。
[201ページの図版]
神のことばを伝えるわざは,種をまくことに似ている
邪悪な者がある人々の心から種を奪い去る
ある人々は迫害の熱を受けて負ける
生活のわずらいのために成長をはばまれた人もある
真意を悟る人は多くの実を結ぶ