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すべての事に時と場所があるものみの塔 1961 | 10月15日
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なり,クリスチャンは「肉に従って戦っているのではな」く,霊的な戦いをし,「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし」ます。―創世 14:14-16。サムエル前 18:7。コリント後 10:3-5,新口。
イエスは弟子たちに,敵を愛するようにとすすめました。しかし,神の御言葉はまた,「悪を憎」むようにとも言っています。何が善であるかを知って後もなお,悪しきことを続け,その結果悪が深くしみ込み,遂にはその人と切っても切れないようになる時,クリスチャンは悪を憎むさいその人を憎まねばなりません。悪はその人の一部になりきっているからです。心のかたくなな,エホバの敵を愛するようにと,イエスが言ったのではないということは,ダビデの次の言葉からも分かります。これは神が是認しているものです,「ヱホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんぢに逆ひておこりたつものをいとふにあらずや,われいたくかれらをにくみてわが仇とす」― マタイ 5:44。アモス 5:15。詩 139:21,22。
神の僕は永遠の生命を待ち望んでいます。今のところ,クリスチャンにとっても死ぬ時があるかもしれません。イエス・キリストと共に王となり祭司となって,天の生命を受けつぐ者にとって,死は避けることができないものです。死ぬ時があります。天の報いを得るために,どうしても死なねばなりません。今日多くのクリスチャンは,この悪しき組織制度の終りに生き残り,死を一度も味わずに神の新しい世にはいる,という希望をいだいていますが,いまだに死ぬ時があるかもしれません。神の律法に忠実に従い,そのために命をおとすか,あるいはその当座の命を延ばすために,妥協するかという選択をせまられるなら,神の僕は死ぬまで忠実を保つでしょう。このような時は,死ぬ時なのです!―マタイ 16:25。
憎しみ,戦争,殺害そして死は,泣いたり悲しんだりすることと共に,この悪しき世と切っても切れないつながりをもっています ― この世はこれらのことが栄える場所になってしまいました。この古い世が続いている限り,神の僕の生活にも,甘い経験ににがいことが加わる時があるでしょう。しかし神の御言葉は,幸いなことに,間もなく「世と世の欲とは過ぎ去る」と約束しています。神の御心を行なっている者は,生きながらえて神がつくる新しい世にはいります。そこでは神が,「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる,もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」。神は「地のはてまでも戦闘をやめ」させ,「平和は月のうするまで豊」かになるでしょう。―ヨハネ第一 2:17,新口。黙示 21:4,新口。詩 46:9; 72:7。
エホバのこのような祝福を楽しむ時と場所は,神の新しい世です。神はそこで祝福に苦しみを加えるということは,なさいません。地球は笑い声と愛でみち,いやされた者はとびまわり,平和がうすれることはないでしょう。泣く者の声は聞こえず,人々は戦争しあったり,殺しあったり,憎しみあったりしなくなります。―箴言 10:22。
そのような時に生きたいと思うすべての人は,今こそ生命にたいする,エホバの御要求を知り,それに従って生活すべき時です。そのようにしてのみ,神の新しい世にたしかにはいることができ,神の祝福である「かぎりなき生命をさへ」楽しむことができるのです。―詩 133:3。
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宗教的な無智ものみの塔 1961 | 10月15日
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宗教的な無智
「フィリピン群島の善意的なカトリック信者は,よく次の質問をします。われわれはどのようにして,エホバの証者や他の同じような宗派の成長をくいとめることができるか。唯一の確かな方法は,カトリック信者が自分の宗教のことをもっとよく知り,その宗教を実践することのように思われる。カトリック教がはいっている国々で,この制度の一番強い誘因というのは,実にこの宗教的無智にある。われわれが自分たちの宗教を知るようにし,生まれた時からカトリック教徒であるというだけでなく,良きカトリック教徒としていずこでも期待されているように,われわれの宗教を実践する時にのみ,われわれが生まれながらに持っていた信仰,われわれが育てられてきた信仰そしてわれわれの生きる指針となる信仰を変えさせようとしてやってくる者たちが,ドアをたたいても,決して恐れなくなるであろう」。―「ホーム・ライフ」フィリピンで発行されているカトリックの雑誌。
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