神から任命された人々に十分協力する
「汝らを導く者に順ひこれに服せよ,彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば,汝らのたましひのために目を覚しおるなり。彼らを歎かせず,喜びてかくなさしめよ,然らずば汝らに益なかるべし」― ヘブル 13:17。
1 正義を愛する人々はすべて何を見ることを切望しますか。それはどのように可能になりますか。
あなたは正義と公正を愛する人ですか。もしそうであるならば,あなたの心は,憎しみと暴力がなくなって,平和が行き渡り,幸福が憂うつに取って代わるのを見ることを切望しないでしょうか。このすべては,そしてさらに多くのことは,この地の事柄を十分に指導する神の王国によって可能になるのです。(イザヤ 11:3-5。マタイ 6:9,10。黙示 21:1-4)あなたが見ることを個人的に望んでいるのは,利己主義と罪の支配するこの古いひん死の体制に取って代わる,その完全に新しい体制ではありませんか。あなたは全能の神以外のだれかが,古い体制の廃虚の上に,完全に新しい体制を打ち立てるという大事業を,しかもわたしたちの世代のうちに遂行するところを想像できますか。―ダニエル 2:44。箴 29:2。
2 新しい体制が非常に近いことはどうしてわかりますか。くわしいことはどうすればわかりますか。
2 ここで年代学を論ずるのはわたしたちの目的ではありませんが,人間の地上存在期間が,あとほんの二,三年で6,000年に達するという証拠を聖書から示すよう,どのエホバの証人でもかまいませんから自由にお尋ねください。そしてそのことが,神の見地から見て,真の自由と解放にかんし何を意味するのか,それについての彼らの考えを尋ねてみてください。彼らは喜んでそのことにかんする知識をお分かちするでしょう。a
「新しい秩序」は協力を要求する
3 新しい体制において行なう必要がある大事業をいくつか述べなさい。
3 しばらくの間,神の新秩序において成し遂げる必要のある,いくつかの大事業のことを考えてみてください。ひとつには,何百万という死者が墓からよみがえってくるときに,彼らに新しいことばを教えるという膨大な教育計画が必要となります。(ヨハネ 5:28,29)さらにその人々の心と思いを変えさせるために必要な仕事を考えてごらんなさい。彼らの多くは,聖書のことも,あるいは神の律法や人類に対する神の目的についても,一度も聞いたことがありません。またこの地球を,神が意図された美しい園に変えるために着手される計画のことを考えてみてください。わずか1ヘクタールの土地でも,そこを切り開き,土を耕し,植樹して,その地域に,庭園と呼ぶに価するほどのかん木や樹木やその他の植物が育つまでにするには,どれほど長くかかるかを考えるなら,地球全体を楽園に変え,住みごこちよい程度の人口を養うに足る食糧生産地域を地上に準備する仕事がいかに大事業であるか,想像がつくでしょう。―創世 1:28。詩 72:16; 67:6。エゼキエル 34:27。
4,5 (イ)コリント前書 15章24-28節が成就するためには,王としてのキリストの支配は何を成し遂げることに成功しなければなりませんか。(ロ)その時王が確かに味わう満足について述べなさい。
4 そして考えてみてください,このすべては,次の預言が成就するように,1,000年という期間内に完成されなければならないのです。「次には終きたらん,その時キリストは,[神に反対する]もろもろの権能・権威・権力を亡して国を父なる神に付し給ふべし。彼はすべての敵をその足の下に置き給ふまで,王たらざるを得ざるなり。最終の敵なる死もまた亡されん。『神は万の物を彼の足の下に服はせ給ひ』たればなり。万の物を彼に服はせたりと宣給ふときは,万の物を服はせ給ひし者のその中になきこと明かなり。万の物かれに服ふときは,子も亦みづから万の物を己に服はせ給ひし者に服はん。これ神は万の物において万の事となり給はんためなり」。(コリント前 15:24-28)この預言が成就するためには明らかに,最初の目的どおりに,しかも1,000年という期間内に,地球全体が楽園に変えられねばなりません。―黙示 20:2-6。
5 そしてまた,こうした仕事すべての指導者,またそれらの仕事を調整する者として,天の父に事実上次のように言うときの,イエス・キリストの喜びと満足を考えてごらんなさい。「さあ,どうぞ父上。このとおり,あなたが私にお命じになった仕事を完成いたしました。地球はエデンのような楽園になりました。シェオールの中にいた死者はみなよみがえされ,訓練され,訓戒されました。人類は完全になりました。あなたが私にお言いつけになった事は今やすべて,そして時間通りに完成いたしました」。
6 わたしたちはこのように将来をかいま見て,どんな結論に達しますか。
6 ところで,わたしたちがかいま見たこの将来はわたしたちに何を教えるでしょうか。それは,なかでも,わたしたちが将来成し遂げねばならない膨大な仕事が,組織と,一致と,熟達した働き手と,自ら進んで事を行なう人々,りっぱな管理者たち,とりわけ,時間通りにそれを成し遂げるためにエホバの霊の祝福が必要であることを強調するものです。そういう監督を受けることによって,わたしたちは,近づいている将来の新しい体制の中で働き,生産するための備えをすることができます。これこそ神が今日わたしたちに愛のある監督を行なっておられる理由のひとつではないでしょうか。―ヨハネ 15:5,8。コロサイ 2:19。
指導する人たちに従順でありなさい
7 現在および将来における監督と懲らしめに対するわたしたちの態度について,どんな質問が起きますか。
7 したがって,神のすべてのしもべたちは,今日のクリスチャン会衆を通して行なわれる指導,監督,懲らしめなどに対してどんな態度を取るべきですか。では,わたしたちの取るべき態度のみならず,現在また将来において,指導や懲らしめに対して正しい見方を持てばどんな報いがあるかを調べてみましょう。―ヘブル 12:5-11。
8 (イ)人間の監督はすべてまちがいをするとはいえ,クリスチャン会衆内の監督に任命された人々をわたしたちは信頼することができます。なぜですか。(ロ)この面でヘブル書 13章17節はわたしたちにどんなことを考えさせ,どんな導きを与えますか。(ハ)「責任」とその影響について説明しなさい。
8 ひとつには,わたしたちは自分が人間であること,そして人間はすべてまちがいをすることを覚えていなければなりません。(詩 51:5)しかし,献身したクリスチャン,とりわけ監督や奉仕のしもべたちは,親切で,愛に富み,役に立ち,しかも決断力を持つように訓練されています。こうした愛のこもった親切,あわれみ,公正などの特質は,円熟したクリスチャンであることを示すしるしです。(ヨハネ 13:35。ミカ 6:8)わたしたちの心はこうした人々を信頼するように動かされないでしょうか。事実,使徒パウロは,そういう人たちに従うようわたしたちに勧め,ヘブル書 13章17節で次のように書いています。「汝らを導く者に順ひこれに服せよ,彼らは己が事を神に陳ぶべき者なれば,汝らのたましいのために目を覚しをるなり。彼らを歎かせず,喜びてかくなさしめよ,しからずば汝らに益なかるべし」。ところで,わたしたちはこの聖句を考えてみるときに,これらの監督が,わたしたちの魂,すなわち命のために申し開きをする責任をもつことに気づきます。だれかが,自分よりも上の人に対して責任があることに気づくと,その人は,ことばを出す前に,あるいは行動に移る前に,よく考えるのが普通で,決してむてっぽうな行動はしないものです。
9 歴代史略下 19章6,7節は,さばいたり,助言を与えたりする人々に何を教えていますか。
9 エホバはむかしから,さばき,導き,指示を与える責任をもつ人間たちに対し,行動する前によく考えることを勧めてこられました。歴代志略下 19章6,7節には,この原則が実によく示されています。「しかして裁判人に言けるは汝等そのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます されば汝らエホバを畏れ慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人を偏視ことなく賄賂を取ることなければなり」。したがって,行動するとき,つまり決定するとき,評決するときには常に,注意深さ,事実の吟味,あらゆる証拠の審査が先行します。
10 (イ)監督であるのはやさしいことですか。説明しなさい。(ロ)クリスチャン会衆内で行なわれている監督に対して心配をする必要はありません。なぜですか。(ハ)そのような愛のこもった監督を受けることはどれほど重要ですか。
10 長老,牧者,監督,審判者になるのはやさしいことではありません。神の民に益となる決定をくだすには,分別と,知識と,理解が要求されます。(箴 2:3-5)また人間的な要素のために,多くの点において,すべての人が扱いやすいとは限りません。あなたは,少なくともある程度,助言を拒否する人かもしれません。あるいはエホバの組織と交わりはじめてまのないかたかもしれません。または,エホバの民といっしょに勉強している人で,懲らしめや,今まで慣れてきた人間的標準に従う生活を調整するように言われて,そのことを気にしている人のひとりかもしれません。エホバの組織が与える愛のある監督を恐れないでください。それは,新しい事物の体制内での生活にわたしたちを備えさせるものであるばかりでなく,現在,つまりわたしたちが不完全な状態にある今日において,他の人々と仲良くやってゆくのに役だつ非常に貴重なものです。(詩 141:5)怒りが燃え,うわさ話に舌を誤り用いる人たちがおり,自制ということばなどほとんど理解されず,まして実行されることなどまずないと言っていい,この古い体制の中でわたしたちに加えられる圧迫のことを考えると,霊的に古い人々の愛ある監督を受け,彼らから直接助言を受けることがいかに重要であるかを理解することができます。(箴 1:22,30,33)長老たちのすぐれた指導と愛のこもった援助は,結果としてすばらしく変化に富んだ才能と性格の混合を生み,そのすべてが組み合わさって,今日の地上における最も重要なわざ,すなわち手おくれにならないうちに王国の良いたよりを宣べ伝えるというわざを成し遂げます。―マタイ 24:14。
誤った道を歩む人をどのように正すか
11 (イ)教師としての責任をもつ人たちはなぜ舌を賢明に用いるべきですか。(ロ)監督はまちがいを目にする時に助言をためらうべきですか,説明しなさい。
11 助言を与えることがやさしくないことも忘れてはなりません。責任をゆだねられ,教えることや,助言することを求められている人は,自分の言うことを慎重に吟味しなければなりません。(ヤコブ 3:1)舌はいやすことをしますが傷つけることもあります。(ヤコブ 3:5-10)しかし,神の民の監督たちは,まちがいを目にするときは,ためらってはなりません。だからこそパウロは次のように書いたのです。「兄弟よ,もし人の罪を認むることあらば,御霊に感じたる者,柔和なる心をもてこれを正すべし,かつおのおの自ら省みよ,恐らくは己も誘はるることあらん」― ガラテヤ 6:1。
12 (イ)ガラテヤ書 6章1節は,監督たちだけに対して言われていますか。(ロ)重大な罪に気づくとき,わたしたちはそれをどのように扱うことができますか。(ハ)神に対して真に忠誠な人が,クリスチャン会衆内で罪深い行為を見た場合,どんな協力をその人に期待することができますか。
12 この聖句は監督または長老たちだけに言われているのでしょうか。そうではありません。というのは,だれでも,仲間の働き人が気づかずに誤った道を歩んでいるのを見たら,柔和な心でその人を正すのはその人の責任だからです。実際にそれはわたしたちの愛のある行ないです。もしそれがゆゆしい罪であるならば,そのことをすぐに会衆内の責任ある監督に告げるよう非行者に言うのは正しいことです。そしてもしその人がそれをしないなら,わたしたち自身が,エホバの組織に対する忠誠な愛から,その問題に会衆の審査委員の注意を引く義務があります。(コリント前 5:9-13。詩 31:23)正義を愛し,神に対して真に忠実な人は,もし会衆内でひどく罪深い行為を目撃したならば,それがどんなものであろうと,勇敢に進み出てそれを暴露し,求められれば,問題の真相にかんして,つつみかくさずに証言します。―レビ 5:1。エペソ 4:24。ルカ 1:74,75。
13 クリスチャン会衆内で,愛がどのようにわたしたちの助けになるかについて説明しなさい。
13 もちろん,お互いに仲良くやってゆく問題,また監督の立場にある人々への協力の問題について考える時に,わたしたちはみなお互いに対して愛のある態度を示さねばならないことをしばしば思い出します。実際に愛は多くの罪をおおいます。仲間に対して愛のある態度で接するとき,人は許すことができ,そして忘れることができます。愛はほんとうに不思議な働きをします。(ペテロ前 4:8。コリント前 13:4,5)しかしながら,時には,献身したクリスチャンたちが愛に動かされて,非行を無視せずに,重大問題であるかもしれないために非行者を助けるように努力することがあります。では,個人の間の深刻な争いを解決する定則はなんでしょうか。
『兄弟の罪をいさめよ』― いつ,どのように?
14 (イ)個人に対して罪が犯され,それが見のがすことのできない重大な罪である場合,それに対する措置としてイエスはどんな方法を示されましたか。(ロ)「異邦人また取税人のごとき者」と見られることは,その人にとって何を意味しますか。
14 イエスは個人に対して犯されるかもしれない,そして性質が重大で無視できない,と考えられる罪について助言を与えました。イエスは次のように言われました。「もし汝の兄弟,罪を犯さば,往きてただ彼とのみ,相対していさめよ。もし聞かばその兄弟を得たるなり。もし聞かずば一人・二人を伴ひ往け,これ二,三人の証人の口に由りて,すべての事のたしかめられんためなり。もし彼らにも聴かずば〔会衆〕に告げよ。もし〔会衆〕にも聴かずば,これを異邦人または取税人のごとき者とすべし」。(マタイ 18:15-17〔新〕)イエスの話を聞いていた者たちはユダヤ人でしたから,同じ民族の他の者たちから,「異邦人または取税人のごとき」ユダヤ人と見られることは,ユダヤ人の会衆から追放された者として見られる,という意味であることを知っていました。
15 個人に対する小さな罪はどのように扱うのがよいでしょうか。しかし,イエスがここで言われているのはこの種の罪のことですか。
15 イエスが示した措置は,そのような重大な結果に至ることがあるので,イエスが個人に対して犯されるあらゆる小さな罪を扱うための一つの定則を示しておられたのではないということは明らかです。ちょっとしたことで個人的なわだかまりができたときに,しだいに大きくなっていっているように思われるみぞを埋める目的で,その人のところへ行って話すのは,もちろん正しい,賢明な,そしてたいへん効果のあるやりかたです。(マタイ 6:14,15。箴 12:18)この方法で多くの誤解が消えます。しかし,この時イエスが言われていたのは明らかにそのことではありませんでした。イエスは,単なる個人的な仲たがいではなく,会衆から追放されるに価するほどの重大な罪をさして言われていたのです。
16 マタイ伝 18章15-17節に示されている措置をはじめる前にどんな注意が必要ですか。
16 したがって,マタイ伝 18章15節から17節までに示されている措置をはじめる前には,そのような重大な罪があなたに対して実際に犯されたことを示す確実な証拠がなければなりません。イエスは,『もしあなたの兄弟が罪を犯したとあなたが思ったら』とは言われませんでした。箴言 25章8節から10節の助言をよく考慮して,結局は自分自身に恥と屈辱をもたらすだけのようなことを始めないようにしなければなりません。たとえ証拠があっても,問題を言いふらしたり,それについてのうわさ話をしたりするのではなく,直接加害者のところへ行って,「相対していさめ(る)」べきです。
17 この聖句の中の,兄弟を『得る』という表現は何を意味しますか。
17 もしあなたの兄弟が『聴いて』,あなたのいさめを容れるなら,あなたは「その兄弟を得た」のです。これは単に,個人的な和解が生まれることを述べているにすぎないでしょうか。そうではありません。あとのイエスの助言が示しているように,それは,その人が会衆内にとどまるように,会衆から追放されて神の恵みも祝福も失われる結果を招く道から引きもどすように助けたという意味で,『彼を得た』ということにちがいありません。ですから,あなたの兄弟を『得る』ということは,ヤコブ書 5章19,20節,ガラテヤ書 6章1節,ユダ書 22,23節で説明されているような意味を持っているにちがいありません。実はこれこそ,あなたの主要な目標,主要な願いであるべきもので,それはある罪に対する謝罪を得るとか,自分がほっとした気持ちになるとかいうものであってはなりません。
18 イエスがここで与えている指示は,どんな罪には適用しませんか。なぜですか。
18 罪を犯した人がいさめを容れて許しを求めるなら,それ以上ことを荒だてる必要はない,とイエスは言われています。この事実は次のことを物語っています。つまり,ここで論じられている罪とは,たとえ重大でも,当事者個人の間で解決しうる性質の罪に限られるということです。これには,淫行,姦淫,同性愛,神を汚すこと,背教,偶像崇拝その他この種の重大な罪は含まれていなかったでしょう。というのは,当時まだ有効であった律法契約のもとでは,これらの罪は,被害者の許しだけではすまされなかったからです。―コリント前 6:9,10。ガラテヤ 5:19-21。
19 ここで取り上げられている罪はどんな性質の罪ですか。何がそのことを示していますか。
19 このことや,またマタイ伝 18章21節から35節にしるされている,イエスがそのあとで話されたたとえ話などを考えてみますと,ここで取り上げられている罪は,ある物に対してきちんと支払いをしないとか,詐欺に類する行為といった,金銭上の問題や財産の問題に関した罪,あるいは実際に中傷して人の評判を傷つけること,またはそれに類する罪などであったことは明らかです。こうした問題の場合は,もし加害者が自分の非を認めて可能なかぎりそれを正す意志のあることを示し,許しを求めるならば,被害者が許しを与えることによって問題は解決します。―マタイ 5:25,26。ルカ 12:58と比較してください。
20 (イ)もし非行者がふたりだけで話す時に良い反応を示さないなら,さらにどんな措置を取らねばなりませんか。(ロ)あなたが伴って行く別の「一人・二人」というのはどんな人ですか。
20 しかし,もしあなたがこの最初の措置を取っても,罪を犯した人がそれに応じないならどうですか。罪が重大であるためにあなたは問題を放っておくわけにいきません。イエスの助言は,あなたがひとり,またはふたりを伴って再び加害者のところへ行って話すことを勧めています。当然その人たちは非行の証人であるべきはずです。その人たちは単なる中立の傍観者,あるいは和解または妥協による解決をはかる仲裁者として行くのではありません。そうではなくて,その人たちは非行を目撃しており,あなたのことばを立証できるために,あなたはその人たちを伴って行くのです。彼らはまたその時に言われたことを聞いた者として行動することができます。もし問題がさらに一歩進んで「会衆」の前に提出され,加害者が前に言ったこと,また認めたことを一部否定したり変えたりするなら,その人たちは証言を行なって事実を持ち出すことができます。そして望ましいことは,この一歩進んだ措置を取る必要がなくなり,加害者が,正しい道に引きもどそうとする力を合わせた努力に答え応ずることです。もしそうなれば,問題はそこで終わります。
21 それでもまだどんな措置が必要になるかもしれませんか。どういう結果になる可能性もありますか。
21 しかしもし加害者が依然として自分の罪を認めないならどうしますか。その時は,会衆内の責任ある兄弟たち,すなわち長老の一団のうちの,審理する者として奉仕するよう任命されている人々の注意を促します。ここまできたら,その人は,彼らの正式のさばきに耳を傾けて,会衆内にとどまるのにふさわしい人として,『得た』人になってほしいものです。しかし,もしそうでなげればその人は排斥され,それ以後は外部の人として扱われます。―マタイ 18:17。
他の事柄で協力する
22 会衆内の個々の奉仕者たちが自発的に行なえる親切な事柄をいくつかあげなさい。そのような活動は,どのように会衆のためになりますか。
22 神から任命された人々への協力はいろいろな形を取り,それらはすべて,クリスチャン会衆内の一致と調和を助長します。ここで,個々の奉仕者が自発的に行なえる事柄をいくつかあげておくのはよいかもしれません。クリスチャン各人に,病気の人,励ましを必要としている人,あるいは入院している人などに対して責任があることは容易に理解できます。そういう状態が存在するときに,わたしたちは主宰監督のところへ行って,私にできることが何かありますか,と言って尋ねなければならないでしょうか。たとえば,あるクリスチャンの婦人が病気で寝ていて最近退院し,静養しているとすれば,何かの援助を必要としていることは明らかでないでしょうか。暖かい食事を持って行ってあげる必要があるかもしれません。だれかが家の掃除をしてあげる必要があるかもしれず,あるいは本を読んであげたり,励ましてあげたり,またはその人の家族に,物質的,霊的援助を差しのべる必要があるかもしれません。これはわたしたち互いをどんなにか親密にすることでしょう。またわたしたちのそのような行ないはなんとキリストに似ているのでしょう。―ヤコブ 1:27; 2:14-17。
23 わたしたちが進んで行なって,クリスチャン会衆内の人々に愛を示すことができる他の奉仕について述べなさい。
23 次には王国会館のそうじと修繕のことを考えてみましょう。これらの責任は時々,会衆内の少数の人々だけにかかっていることがあります。あなたは協力できますか。むしろ自発的にそれを手伝いますか。それとも,あなたが励まし,あるいは援助することのできる霊的病気にかかっている人がいますか。集会を休む人,あるいは野外奉仕に以前と同じ喜びを持っていないように見える人がいますか。そういう人には長老たちだけが関心を示すのですか。もちろん,そうではありません。あなたは,個人的な事柄をせんさくすることなく,そういう人に対して霊的励ましとなり,助けとなることができますか。その人たちの問題を見つけ出すつもりで行くのではなく,ただその人たちの家を訪問するだけでも慰めとなり,話が進むうちに問題が明るみに出ることも少なくありません。それから適当な霊的援助を与えることができます。会衆内の人々全部に対する愛に支配されているなら,わたしたちはなんと多くのことができるのでしょう。
24 (イ)今日,何が正義を愛する人々すべての願いであるべきですか。(ロ)エホバによって任命された人々の支配と愛ある監督に今日慣れておくことにはどんな益がありますか。
24 わたしたちが異常な時代に住んでいることは,疑問の余地がありません。献身したクリスチャン,また彼らと聖書の勉強をしている人々は,「大なる患難」が来ることを知っています。(マタイ 24:21,22)その時は非常に近づいています。わたしたちは神の恵みが神の会衆の上にあるのを見ています。クリスチャン会衆との完全な一致こそ,正義を愛する人々すべての願いであるべきです。しかし,クリスチャン会衆と交わっている人々の中には,ほんとうに心をつくしてエホバに奉仕していない人,あるいはエホバにあまり従順でない人たちがいるようです。多くの事柄がそういう人たちの注意をそらさせます。彼らはいわば「片足を古い体制の中に入れている」ように見えます。そのような人たちは,これからほんの数年後にはどうなっているでしょうか。彼らはそこにいるでしょうか。そのときには古い体制は全くなくなり,神の王国が全地と地上の事柄を完全に支配しているでしょう。その時わたしたちが交際する人々はみなわたしたちの兄弟,すなわち,新しい事物の体制の中で生活するように教えられた人々でしょう。わたしたちはみなエホバの愛の律法によって支配されます。(ヤコブ 2:8)その時の生活のことを考えて,クリスチャン会衆内にいる,エホバから任命された人々の牧羊のわざと愛ある監督に今日慣れておくのは賢明なことです。(テサロニケ前 5:12,13)このことによってわたしたちが,新しい事物の体制においてすばらしい出発をすることは確実です。新しい事物の体制にはこの古い事物の体制のものは何一つ残っていないでしょう。ですからわたしたち各自は,今日,クリスチャン会衆の愛ある監督のもとに来て,ともに働き,わたしたちの心と思いを変え,肉体的なものであろうと,感情的,霊的なものであろうと,エホバを喜ばすのに必要な調整を行なわなければならない,やみ難い理由があるのです。―ロマ 12:1,2。
25 エホバの民を今日非常に幸福な集団にしているのは何ですか。
25 ほんとうに,エホバのクリスチャン会衆は驚異です。絶対的,究極的な意味においては完全ではありませんが,エホバに対しては確かに完全に献身し,エホバの属性である愛ある親切,あわれみ,公正を表わしています。古い事物の体制の汚染された環境は致命的です。新しい事物の体制の清い環境は命を与えます。エホバの愛ある親切によって新しい事物の体制にはいれるように,ともに歩み,互いに協力するときに,エホバと王なるみ子イエス・キリスト,そして「忠実なさとい奴隷」によって行なわれる監督をとおして教えられ,矯正され,そして保護されることを知るとき,聖書に関心をもつ正義を愛する人々はもちろん,わたしたちすべてはほんとうに大きな幸福を感じます。
[脚注]
a くわしくは,「神の自由の子となってうける永遠の生命」という本の第1章,「造られた人間がなお自由にされる理由」をごらんください。
[659ページの図版]
任命された監督たちに協力する方法はたくさんある。王国会館のそうじを手伝うのもそのひとつ