-
あなたは神が憎まれるものを楽しいと感じますかものみの塔 1980 | 11月1日
-
-
て神を愛するようにと命じられています。神を本当に愛しているなら,神の不興を買うような事柄すべてを避けたいと思うでしょう。(マルコ 12:30)神は聖なる方であり,わたしたちが聖なる者であることを望んでおられます。(ペテロ第一 1:15,16)正しい意味で自分を大切にするように,という問題もあります。神はわたしたちに自分自身を愛するようにと命じておられます。しかし隣人を自分のように愛しなさいとも命じておられます。(マルコ 12:31)わたしたちは,悪にふけることは何の益にもならないことだといつも自分に言いきかせなくてはなりません。神の言葉もこう述べています。「惑わされてはなりません。神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」― ガラテア 6:7,8。
健全な精神習慣を身に着けることは役立ちます。読むもの,見るもの,考える事柄に絶えず気をつけたいものです。聖書を毎日読むことも助けになります。聖句を覚えるなら,さらに良いことです。また,祈りから得られる価値ある事柄を見過ごすべきではありません。祈ることを習慣にしてください。「たゆまず祈りなさい」。イエスについて「あなたは義を愛し,不法を憎んだ」と書かれている通り,イエスはわたしたちに立派な手本を示されました。―ローマ 12:12。ヘブライ 1:9。
このような努力を払うことにはどんな報いがあるでしょうか。パウロがさらに語った次の言葉はこの場合にも当てはまります。「敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。この言葉は自己鍛練という狭くて険しい道を歩むことを意味します。しかし,その道を歩むことから現在心の平安と満足が得られ,たどり着いたところには永遠の命があります。―テモテ第一 4:8。マタイ 7:13,14。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1980 | 11月1日
-
-
読者からの質問
● わたしの友人がクリスチャンになったとき,彼の妻は離婚し,彼に会おうとさえしません。友人は再婚の自由がないことを聖書から理解していますがそれでもある人とデートを続けています。そのようなデートについて聖書は何と述べていますか。またどのようにしたら最も効果的に彼を援助できるでしょうか。
妻が不当な離婚によって彼を寂しさと誘惑にさらしたのは悲しいことです。それでも,聖書的に再婚する自由がない限り当人がデートをするのは間違っており危険です。あなたの友人は親切な,しかもしっかりした援助を必要としていますが,あなたも幾らかの援助を与えることができるかもしれません。
今日,法的離婚はさまざまな理由で認められます。政府の観点からすれば,いったんそのような離婚が成立すると二人はもう一度“独身者”になります。しかし神の言葉はそれとは違った見解を示しています。「だれでも,淫行[ポルネイア,はなはだしい性的不道徳]以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」。(マタイ 19:9)それでたとえ政府が離婚のための聖書的根拠がないのに法的離婚を認めたとしても,それ以後,不道徳が生じなかったなら神はやはり二人を夫婦とみなされます。
このことを知っていると,聖書的に再婚の自由のない人はどのように振る舞うべきかがわかります。当人はまだ法的に結婚していて,配偶者と一緒に生活しているかのように振る舞うべきです。特に結婚関係に言及しながら箴言 5章15節から21節は結婚している男子がほかの女性に対してロマンチックな関心を抱くべきでないことをはっきりさせています。『あなた自身の妻に忠実であって,彼女にのみ愛を与えなさい。あなたの妻と共に幸福であり,あなたが結婚した娘と共に喜びを見いだしなさい。彼女の魅力があなたを幸福にするように。彼女がその愛をもってあなたを囲むように。あなたは自分の愛を他の人に与えなくてもよいではないか。主はあなたの行なうすべてのことをご覧になります』。(福音聖書)確かに,神の観点から見て結婚している人は他のロマンチックなかかり合いを避けるべきです。忠実なヨセフは結婚している女性と不道徳なかかり合いを持つのを断わりました。―創世 39:10-12。
そうした態度を取らないとすれば,それは結婚の取決めとその創始者に対して不敬を示すことになり,またクリスチャンの振る舞いの点で悪い手本を残すことになり
-