バプテスマは信仰を表わす
「わたしはまいります…わが神よ,わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」― 詩 40:7,8。
1 最もすぐれた信仰の手本を残したのはだれですか。彼はすでに子供の時からどのように信仰を示しましたか。
イエス・キリストは,被造物が創造者に信仰を表わした,最もすぐれた手本です。イエス・キリストが地上の人となって行なわれた事柄の記録は,神のものを神に返そうと努力しているわたしたちにきわめて必要な導きとなっています。イエスは,文字にしるされた神の律法を持ち,それを守る契約の義務の下にあった国民の中に生まれました。その国民の多くは神の律法を守っていませんでしたが,イエスの子供の時からの行ないは,イエスがエホバに強い信仰を持っていたことを示しています。イエスは神の恵みを得るに至る道を進んで行きました。子供時代のイエスについて次のことがしるされています「さて,イエスの両親は,過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も,慣例に従って祭のために上京した。ところが,祭が終って帰るとき,少年イエスはエルサレムに居残っておられたが,両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで,一日路を行ってしまい,それから,親族や知人の中を捜しはじめたが,見つからないので,捜しまわりながらエルサレムへ引返した。そして三日の後に,イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって,彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな,イエスの賢さやその答に驚嘆していた……イエスはますます知恵が加わり,背たけも伸び,そして神と人から愛された」。(ルカ 2:41-47,52)子供の時でさえ,イエスは神との関係を真剣に考えていました。
2,3 (イ)イエスは詩篇 40篇7,8節を成就して,何をされましたか。(ロ)この信仰の行ないが神に喜ばれたことを示す証拠はなんですか。
2 知識と知恵にすすむ,この模範的な道をとることによって,イエスは信仰に成長しました。イエスは神のみこころをご存じでした。そしてこの知識と信仰,加えて神に対する責務をはたしたいという願いが,みこころを行なうための,エホバへの献身にイエスを導いたのです。詩篇 40篇7,8節の次のことばは,預言的にイエスのことを述べています。「わたしはまいります……わが神よ,わたしはみこころを行なうことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」。イエスがご自分からすすんで以前の生活をやめ,エホバの特別なしもべとなられたのは,およそ30歳の時でした。「イエスが宣教をはじめられたのは,年およそ三十歳の時であって……」。(ルカ 3:23)これには信仰が必要でした。しかしイエスは,信仰と神への従順という,この道をとっていられたことをどのように公けにされましたか。
3 「そのときイエスは,ガリラヤを出てヨルダン川に現れ,ヨハネのところにきて,バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは,それを思いとどまらせようとして言った,『わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに,あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。しかし,イエスは答えて言われた,『今は受けさせてもらいたい。このように,すべての正しいことを成就するのは,われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを,ごらんになった。また天から声があって言った,『これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である』」― マタイ 3:13-17。
4 クリスチャンのバプテスマにはどんな意味がありますか。それは必要なことですか。
4 イエスは罪人ではありません。イエスが水の下に沈められたのは,罪を除くためではありません。「キリストは罪を犯さ……なかった」と,ペテロの第一の手紙 2章22節にしるされています。ゆえにクリスチャンのバプテスマは罪を除くためのものではなく,神から離れた世にあって自分を積極的に神にささげたことを公けに証明するためのものです。それはイエスにとって必要でした。また今日においても,神への責務をはたそうと願う人々にとって必要です。今日,神への献身とバプテスマには信仰が必要であり,また神への祈りがそれに伴っていなければなりません。―ルカ 3:21。
5 バプテスマのすぐのち,イエスはどのように信仰を示されましたか。
5 真の信仰の証拠はバプテスマの時に示されるだけではありません。イエスが示されたとおり,信仰を表わす行ないをその後ずっとつづけなければなりません。イエス・キリストはエホバに奉仕することによって信仰を証明されました。まずイエスは,エホバへの従順の道からイエスをひき離そうとする圧迫と戦うことが必要でした。熱心な研究と熟考によって蓄えられた聖書の正確な知識,加えて信仰によって,イエスは重大な勝利を得ることができました。サタンは神への責務をはたそうとする人々に敵対します。イエスの場合,油そそがれたばかりのイエスの前に誘惑をおいたサタンは,機に乗じてそのことをしました。しかし誘惑のことばに直面するたびに,イエスは最も強力な方法すなわち聖書を用いてそれに答えられました。最初の答えは,申命記 8章3節から引かれた次のことばです。「人が生きるのはパンのみにはよらず,エホバのみ口から出るすべてのことばによる」。2番目の答えは申命記 6章16節から引用されました。「あなたはあなたの神エホバを試みてはならない」。3番目の,そして最後の答えは,申命記 5章9節と6章13節およびヨシュア記 24章14節に基づいたもので,イエスは次のように宣言されました。「あなたが崇拝しなければならないのは,あなたの神エホバであり,あなたは彼のみに聖なる奉仕をささげなければならない」― マタイ 4:4-10,新世訳。
6 (イ)誘惑ののち,イエスは何をされましたか。(ロ)イエスと使徒たちは,なぜ神学校の教育を必要としませんでしたか。
6 バプテスマと誘惑ののち,イエスは宣教を始められました。「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた,『悔い改めよ,天国は近づいた』」。(マタイ 4:17)それは人々にとって福音であるべき御国の音信でした。しかしそれを伝道するには強い信仰が必要でした。聞いて信じた人は少なかったからです。イエスの教えを信じた少数の人はイエスの追随者となり,やがて伝道し教えるわざに加わりました。伝道は山や海辺で,会堂や家々で,およそどこでも人のいるところで行なわれました。記録の示すように,おもなわざはエホバの御名をほめ,御国を語ることでした。それは寄付集め,慈善事業,孤児院,病院,大学,僧院,福祉施設の建設などではなく,親切と思いやりと理解をもって行なわれる教えるわざです。イエスは,確固とした信仰の基礎が知識の集積にあることをごぞんじでした。知識を授けるために教えることが必要です。注目すべきことに,創造主への奉仕の生活にはいる準備として,イエスと使徒たちが神学校に行ったことはありません。クリスチャンの道は,霊感による神のことばを学び,教えることです。―ヨハネ 7:14-18。
7 イエスが信仰を持ち,生活の中で霊的な事柄を第一にされたことは,どんな聖句から明らかですか。
7 イエスは物質的なものを求めることを生活の第一の関心事とせず,信仰をもって霊的な事柄を第一にされました。そしてエホバは,宣教の最後に至るまでイエスが物質のものに不足することのないように配慮されました。イエスはある富んだ若者に対して,追随者になるようにと言われました。イエスはご自分の道が神に喜ばれるものであり,神に対する人間の務めをはたすものであるのをご存じでした。しかしその若者はイエスに従う信仰に欠けていました。―マタイ 6:20,33; 8:20; 10:9,10; 19:21。ルカ 12:34。
8 (イ)当時の偽りの宗教と政治に対してイエスがとった模範的な態度を説明しなさい。(ロ)復活後,イエスは神に対する聖別がいつまでも続くものであることをどのように示されましたか。
8 またキリスト・イエスは,周囲にある偽りの宗教とのかかわりをどのように避けるかを示されました。イエスは神の律法をご存じであり,たとえ皆に反対され,危害を加えられることがあっても,神の律法について語ることを恐れませんでした。神のことばを空しくする偽りの宗教の言い伝えを人々の前で暴露したことは,イエスの強い正義感を示しています。イエスはバビロン的な宗教のならわしに反対する立場をとり,まちがった教えや偽善的な崇拝に公然と反対されました。(マタイ 15:1-9; 16:6,12; 23:16-36)同様にイエスは,たとえそのためにクリスチャンが殺されるようなことがあっても,不品行や政治を含めて,現存する事物の制度の事柄に中立の立場をとる必要を追随者に説明されました。(ヨハネ 15:18-21; 16:1,2,33; 17:14-16)従順に加えて信仰のゆえにイエスはエホバ神のために聖別された立場を守ることができました。イエスは前途に死があることをご存じでしたが,エホバと復活させる神の力に信仰がありました。復活後においてさえ,神の目的をひきつづき教えることによって,イエスは創造者のために永遠に聖別された立場を明白に示されました。「モーセやすべての預言者からはじめて,聖書全体にわたり,ご自身についてしるしてある事どもを,説きあかされた……そこでイエスは,聖書を悟らせるために彼らの心を開いて……」。(ルカ 24:27,45)これらはイエス・キリストの,すぐれた信仰のわざの一部にすぎません。聖書をよく読む時,イエスの行なわれた,さらに多くの信仰のわざを知ることができるでしょう。それは神のものを神に返すクリスチャンの手本です。―ペテロ第一 2:21-25。
イエスのあとに従う人へ
9 イエスの宣教にひきつづいてどんなわざが行なわれますか。
9 キリストの宣教のあと,献身してエホバ神に奉仕する人々に対して,イエスはマタイによる福音書 28章19,20節にある次の命令を与えられました。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によって,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである」。このことが命ぜられたのはなぜですか。地上のどの民族も,もはや神の選民として扱われることはないのです。事物の新しい制度が到来しました。それで献身した男女となって神と一致することは,あらゆる民族の中の各人が自由に決める問題となったのです。イエスのことばからわかるように,正しくバプテスマを受ける前に,いろいろな事柄を考えておかねばなりません。
10 バプテスマの前に要求されている事のひとつはなんですか。
10 まず人々を弟子にすること,教えるわざが必要です。人はイエス・キリストの父であるエホバ神について学び,エホバの戒め,律法,原則について基礎的な知識を得なければなりません。神の崇拝は至上者である神の地位をまず認識してから始められるべきものです。クリスチャンの献身とバプテスマにさきだって,神を知る知識と信仰がなければなりません。それで,生まれた時からのクリスチャンはいません。また幼児に水をふりかけるバプテスマも,クリスチャンのバプテスマとは言えません。人はバプテスマを受ける前に理解を得ていなければならず,自分がどのように生きるかを決定していなければなりません。そのことは幼児には不可能です。
11 み子をとおして設けられた神のご準備に関して,人は何を理解しなければなりませんか。
11 『子の名』すなわち神の目的に関連してみ子の占める地位を認識することも,ひとつの要求です。罪を除くためにエホバがキリストによって備えられたあがないの犠牲の必要を認めなければなりません。そのとき人は,自分が悔い改めを必要とする罪人であることを正しく認めます。「だから,自分の罪をぬぐい去っていただくために,悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは,〔エホバ〕のみ前から慰めの時が(くる)……ためである……神がまずあなたがたのために,その僕を立てて,おつかわしになったのは,あなたがたひとりびとりを,悪から立ちかえらせて,祝福にあずからせるためなのである」。(使行 3:19,26,〔新世訳〕)悔い改めるとき,人はエホバのご準備に信仰を表わし,エホバの油そそがれた王としてイエス・キリストを認めます。そしてエホバの物事のとりきめに心からすすんで従い,イエスの教えを守って生活しながら神のみ子の模範にならうことを望むでしょう。
12 聖霊とはなんですか。人は聖霊に対する正しい認識をどのように示しますか。
12 エホバの聖霊を考慮の外におくことはできません。聖霊は人格のある者ではありません。エホバは霊すなわち風と同じく人間の目に見えない活動力を送り,それを受けて人は霊にみたされます。(使行 2:1-4)神のことばを学ぶ人は,被造物の組識にエホバの霊がどのように働き,またエホバがこの活動力をどのように用いられるかを悟るようになります。聖書はエホバの霊の霊感によって書かれました。その理解はやはり霊によって明らかになります。それでエホバの霊の働きにさからったり,霊感のみことばに反対することはできません。―使行 7:51。ペテロ第二 1:21。
13 エホバに受け入れられる献身をする前に,人はどんな高い標準にかなっていなければなりませんか。
13 献身と浸礼によって神と正しい関係にはいることを願う人に必要なことは,これだけですか。そうではありません。霊感の聖書を学ぶと明らかになるとおり,ほかにも考えなければならないことがあります。神のことばはクリスチャンの生き方を定めており,世の中で行なわれている,ある種の行ないからクリスチャンが身を清めるべきことを示しています。パウロは霊感によってコリント人に手紙を書き送りました。それは彼らのみならず,わたしたちの導きのためでもあります。「それとも,正しくない者が神の国をつぐことはないのを,知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には,以前はそんな人もいた。しかし,あなたがたは,主イエス・キリストの名によって……洗われ……たのである」。(コリント第一 6:9-11)ここに使われていることばの意味を理解することが大切です。一部のコリント人と同じく,過去においてこのような事を行なっていた人が献身とバプテスマの資格を得るには,このような行ないから全く身を清めなければなりません。それは,強い信仰の働きを示す行ないです。
14 神のしもべの資格として,聖書はほかに何を要求していますか。
14 ほかにも考えなければならないことがあります。エホバは預言者イザヤにイザヤ書 2章2節から4節のことばを書きしるさせ,ご自身のしもべについて預言的にこう語られました。「終りの日に次のことが起る。〔エホバ〕の家の山は,もろもろの山のかしらとして堅く立ち,もろもろの峰よりも高くそびえ,すべての国はこれに流れてき,多くの民は来て言う,『さあ,われわれは〔エホバ〕の山に登り,ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる,われわれはその道に歩もう』と。律法はシオンから出,〔エホバ〕の言葉はエルサレムから出るからである。彼はもろもろの国のあいだにさばきを行ない,多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて,すきとし,そのやりを打ちかえて,かまとし,国は国にむかって,つるぎをあげず,彼らはもはや戦いのことを学ばない」。(文語)これは,神に奉仕する人々の平和な営みを物語っています。イエスの手本もまた,わたしたちが何をすべきかを教えています。―マタイ 26:52。
15 偽りの崇拝との関係を一切断ち切ることは,なぜ必要ですか。
15 まちがった崇拝の行ないをつづけている人がいますか。自分を吟味しなければなりません。古代バビロンで行なわれたと同様な,そして聖書の黙示録 18章2節において大いなるバビロンと呼ばれている偽りの宗教の世界帝国の保護の下にある崇拝と,一切のかかわりを断ち切ることが必要です。生ける神エホバへの責務をはたそうとする人は,天からの命令に耳を傾けなければなりません。「わたしはまた,もうひとつの声が天から出るのを聞いた,『わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており,神はその不義の行ないを覚えておられる』」。(黙示 18:4,5)大いなるバビロンと関連した組織みまた崇拝者の団体に属し,あるいはそれらに勤めているならば,辞表を出すのは正しいことです。イエスもご自分を神にささげ,バプテスマを受けられた時,決して偽りの崇拝者ではなかったことを思い出してください。そのようにしてのみ,人はエホバに専心の献身をすることができます。―出エジプト 20:5。
16 (イ)心のどのように正しい献身をするかを知るうえに,コルネリオに関する記録はどのように役だちますか。(ロ)神に献身する前に,どんな重要な質問を考慮しなければなりませんか。
16 軍隊の士官コルネリオに関して聖書にしるされた記録は,以前の生活を変えてクリスチャンの奉仕者になった人の記録です。使徒行伝 10章30節から32節は,エホバにささげられたコルネリオの熱心な祈りに答えて天使が現われたこと,ペテロがその家に来るようになったいきさつを述べています。バプテスマを正しく施すことができるのは献身した人です。そこでペテロがつかわされました。神に献身することを願う人にとって特に関心が持たれるのは,祈りという信仰の行ないです。人は献身する時,神と人との仲保者であるみ子イエス・キリストの名によってエホバに祈ります。あなたは神に奉仕するため献身することを願い,祈りによってそのことをエホバに語った人ですか。エホバに奉仕するためエホバに正しく献身する,聖書的な資格があるかどうか,好ましくない世のならわしから身を清めたかどうかを吟味してみましたか。献身は無条件の,厳粛な決定であり,信仰の行ないです。クリスチャンのバプテスマを受けようとする人にいつもきまって発せられる次の二つの問いに,「はい」と答えることができますか。
(1)あなたは自分が救いを必要とする罪人であることをエホバ神の前で認め,またこの救いはみ子イエス・キリストをとおしてエホバ神からもたらされることを認めましたか。
(2)神と神の救いのご準備に対するこの信仰に基づき,あなたは,神が聖霊の啓発する力の下にイエス・キリストと聖書をとおしてあなたに明らかにされるみこころを今後行なうため,神に無条件の献身をしましたか。
もしそうであれば,わたしたちは次のように言います。「そこで今,なんのためらうことがあろうか。すぐ立って,み名をとなえてバプテスマを受け,あなたの罪を洗い落しなさい」― 使行 22:16。
献身ののち何をすべきかを心に留めなさい
17,18 (イ)献身とバプテスマは,なぜ「良い出発」であると言えますか。(ロ)キリストとともにあって神の奉仕を始める人の目標はなんですか。
17 献身ののち,信仰とわざをつづけて行かなければなりません。父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けるのみならず,人は父と子と聖霊に対して自分が持つ関係を認識し,その後ずっと,この認識を忠実に表わして行かなければなりません。献身とバプテスマは良い出発であったと言えるでしょう。その後,忍耐してエホバのみこころを絶えず行なっていかなければなりません。それはイエス・キリストとともに行なう,霊的に生気を与えるわざです。(マタイ 11:28-30)イエスは神に献身して信仰と忍耐を示した特別な模範であり,わたしたちはイエスを見つめなければなりません。「こういうわけで,わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか。彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで〔刑柱〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは,弱り果てて意気そそうしないために,罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを思いみるべきである」― ヘブル 12:1-3,〔新世訳〕。
18 バプテスマは生命に至る道あるいは競争の初めの部分です。この競争を走るにあたって,おもな要素は忍耐です。現在のところ,神のみこころは御国の福音の伝道であり(マタイ 24:14),このわざはまだ終わっていません。クリスチャンは献身のゆえに神に対して責務を負っています。そして信仰を守るときに幸福を得ます。バプテスマを受けた使徒パウロは宣教の生涯の終わりにあたり,確信をもって次のように言うことができました。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした」。(テモテ第二 4:7)要求されていることのひとつは,神のみわざのその部分が完結するまで,伝道と教えるわざを続けることです。のちに,他の祝福された特権が,エホバに奉仕する忠実な被造物に与えられるでしょう。―イザヤ 32:1。
19 献身とバプテスマののち,真理である神のことばの助けによって,どんな道を歩みつづけなければなりませんか。
19 他にも注意しなければならない事柄があります。献身したしもべは,大いなるバビロンおよびサタンの事物の制度の他の部分から離れた清い立場を保たなければなりません。神の大いなる戦いハルマゲドンの前に,神のしもべが全世界に散っていることは,御国の福音を宣べ伝えるという見地から見て大切です。それで世の人との接触は避けられませんが,神のしもべは世に巻き込まれないようにします。真理である神のことばをしっかり心に留めるならば強められ,汚れに注意することができます。彼らは,死の前にイエスが天の父に祈られた次の事柄を心にとめています。「わたしがお願いするのは,彼らを世から取り去ることではなく,彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように,彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります」― ヨハネ 17:15-17。
20 献身したエホバのしもべはどのように,またなぜ真理を研究しますか。
20 真理を固く保つ最善の方法は,信仰を持つ他の人々と会衆において交わっていつも真理を心に留めることです。サタンの支配が終わりに近づくにつれて,そのことはますます重要になります。会衆において聖書を学び,各人が聖書の真理を言い表わす集会は,しもべたちを強めるエホバのご準備です。そこでクリスチャン会衆と常に交わり,「ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます」そうすることは,神に対する,人の務めです。(ヘブル 10:23-25)真理を学ぶことに際限はありません。永遠の生命を得るにはそのことを続けなければなりません。イエスはエホバ神への祈りの中でそのことを次のように言われました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります」― ヨハネ 17:3。
21 (イ)どのように円熟を目ざして励みますか。(ロ)円熟した人はどんな実を生み出しますか。
21 正確な知識を持つ時,強い信仰を保つことができます。クリスチャンとしての道を歩みはじめた時の知識は,わずかなものであったでしょう。しかしバプテスマの時までに学んだ事柄で満足してはなりません。バプテスマは初歩の教えのひとつです。使徒パウロが堅い霊的な食物と呼んだものをしっかり学んで使わなければなりません。神によく奉仕するには,神の目的に関する知識をまし加え,神の助けを得て円熟に進む願いを持つことが必要です。これは神のことばを用いつづける時に可能となります。またわたしたちは善を選んで悪を捨てることができるようになり,神に喜ばれる生活に自分を導くことができるようになるでしょう。「堅い食物は,善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。そういうわけだから,わたしたちは,キリストの教の初歩をあとにして,完成を目ざして進もうではないか。今さら,死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごとについての教と按手,死人の復活と永遠のさばき,などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て,そうすることにしよう」。(ヘブル 5:14–6:3)へりくだって神とともに歩む人は,くる年もくる年も円熟を目ざして励み,それによって今よく奉仕し,また忠実ならば今後何世紀にもわたって奉仕する備えを身につけます。この賢明な道を歩むことは,神のしもべ各人に大きな働きをします。献身した神のしもべとして成長すればするほど,神のみたまに一致した生活をすることができます。「自分の肉を,その情と欲と共に」杭につけ,「愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制」といったみたまの実を表わすことは,各人の心からの願いでなければなりません。―ガラテヤ 5:22-24。
22 献身とバプテスマはどのように信仰を試みますか。
22 献身とバプテスマおよびその後にとるべき行ないに関連して,神のご要求は何かを簡単に考慮しました。それで今,あらゆる国の人々を弟子とし,すべての戒めを守るように教えることを命じたイエス・キリストのことばの意味を理解できます。(マタイ 28:19,20)献身の誓いをする時,人は神が人間に授けられた理知と自由意志を働かせなければなりません。神が求められることを行なってひとたび献身したならば,わたしたちは生きている限り,永遠までもエホバに奉仕することを期待されています。(伝道の書 5:4)それには信仰が必要です。しかしエホバの助けによって自分の責務をはたせるという信仰を持たなければなりません。忠実な使徒たちはこの信仰を持ち,神に祝福されてそれを成し遂げました。現代においても,昨年だけで6万4393人の人が水の浸礼を受け,神への献身を象徴しました。そしてエホバはその人々を助けられます。神に献身した人には,互いに助け,また励ますべき大ぜいの兄弟がいます。クリスチャンにとって,バプテスマはエホバ神の永遠の崇拝を目ざしての,喜ばしい第一歩です。
するべき事をはたす
23,24 (イ)すべての人は何をすべきですか。(ロ)エホバは人間と地に対して関心を持たれていませんか。
23 人間は実際にこのすべてを神に負っていることを,改めて考えたことがありますか。神がこのすべてを人間から求めるのは理にかなっていますか。人間がだれから生命を与えられたかを忘れないようにしましょう。生命がなければ,何も楽しむことができません。しかしエホバに奉仕したからといって誇ることはできません。イエスはたとえによってこの点を強調されました。「あなたがたのうちのだれかに,耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき,彼に『すぐきて,食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって,『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ,帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで,飲み食いをするがよい』と,言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって,主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも,命じられたことを皆してしまったとき,『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」― ルカ 17:7-10。
24 すなわち,神に奉仕しても,それはなすべき事をしているにすぎません。それは当然のことです。エホバ神は人間にとって何が良いことかをご存じです。神に奉仕するとき,わたしたちは正しい立場に立っています。ノアの時代には大ぜいの人がこれと反対の道を歩んで滅びました。昔のイスラエルは道を踏みはずして災いを招きました。エホバ神は人類に対しても,地上の出来事に対しても無関心ではありません。しかしイスラエルは神が無関心であると考えました。「彼等いふエホバは我等を見ずエホバはこの地を棄たりと」。(エゼキエル 8:12,文語)「エホバは福をもなさず災をもなさず」。(ゼパニヤ 1:12,文語)しかしそう考えた人々はまちがっていました。エホバは,すべての暴力,悪,また御名に対する無関心や非難をご存じであり,悪を行なう者を罰します。―黙示 11:17,18。
25 神は信仰を証明するどんな行ないを,わたしたちに望まれますか。
25 人間が人を殺したり,地を滅ぼすことは,エホバが人間を創造した目的ではありません。また何よりも人は二つの大きな戒めを守るはずになっています。「『あなたは思いをつくし,魂をつくし,心をつくしてあなたの神エホバを愛さねばならない』。これは最も大きな,第一の戒めである。第二も同じくこれである。『あなたは自分のようにあなたの隣人を愛さねばならない』。律法全体と預言者とはこの二つの戒めに拠る」。(マタイ 22:37-40,新世訳)エホバの道は愛です。「互に愛し合うことの外は,何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は,律法を全うするのである。『姦淫するな,殺すな,盗むな,むさぼるな』など,そのほかに,どんな戒めがあっても,結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから,愛は律法を完成するものである」。(ローマ 13:8-10)神と隣人に愛を表わすのは積極的な行ないです。忍耐を用い,そのことに力をつくさなければなりません。無関心になったり,おろそかにするならば,神への奉仕にふさわしくないものとしてしりぞけられます。(黙示 3:16)兄弟と隣人に愛を示して第2の大きな戒めを守る一方,最も大切な戒めを忘れてはなりません。それは創造者エホバ神を常に愛することです。それは神に受け入れられる真実の信仰を示すものとなります。
26 人間の本分はなんですか。
26 献身とバプテスマを考慮しているならば,今は自分の立場を考え,エホバ神のみこころにかなう者となる道を歩む絶好の機会です。すでに献身した人であれば,その責務をはたしてきたか,またクリスチャンの円熟にむかって励んでいるかどうかを省みるのに良い時です。人間が創造者に対してどんな関係を持つかというこの問題を考慮してのち,各人は自分が神に負うものを知るはずです。「事の帰する所は,すべて言われた。すなわち,神を恐れ,その命令を守れ。これはすべての人の本分である」― 伝道の書 12:13。
[659ページの図版]
『夕食の用意をしてくれ』