人間の危機を救う神の愛
どの危機の時も,心配の時です。生きるか死ぬかの病気の時に,医者は病状が危機に達するのを良く観察し,そして症状の決定的な変化を見定めて,死が必らず来るか,又は回復して生命を得るかを断定します。病気の容態が,健康に回復して,尊い生命の生き延びることを示すとき,医者は感謝の気持をもちます。あなたの体は病気でなくても,しかし霊的には病気ですか? あなたは危機に達して,生命の道のしるしは,希望のない永続の死に行くと指し示していますか? 人類の歴史上いま現在にあるような諸発展とともにあなたは,そうです,私たちはみな岐れ目に達しました。どちらの道に行きますか? この記事の言葉は,すべての読者を助けて危機を無事に通過させ,より良い世の幸福な将来という一番明るい希望を持たせることです。1954年の夏および秋に,全世界で開催されたヱホバの証者の80以上の地域大会で,42万7000人以上の人は,この良いたよりを聞きました。
1 なにがあることに,人間はよろこびを感じ得ますか? なぜ現在,特にそうですか?
神の愛,たしかに神の愛というものがあることに,人間はよろこびを感じ得ます。人間はその危機に達した,つまり危機の時と場合にいるために,現在は特にそうであります。この世の組織制度は,その道を進み,その終りのどこであるかは確かです。この世が,その向きを変えることはありません。それで,危機はこの世についてではなく,また問題はこの世が良い方か,あるいは悪い方に向かうかということではありません。神の目的と神の予言されたことを知らない人々は,この世の改善と回復を強く希望します。しかし,神の目的を学び知り,神の予言されたことを信ずる人々は,この世の改善と回復には希望がないと知つています。この世の亡びの間近いことは確かです。この世は,人間に想像もできないような最悪のくるしみのうちに非業の最後をとげますが,それは宇宙の最高権力者の定め命じたことであり,絶対に取消のないものです。神の愛のみが,人類を亡びより救うことができます。
2 誰にとつて,いまは危機ですか? そしてなぜ? 緊急の時に何をすべきですか?
2 危機は人間,または人類についてです。問題は,どちらの道に各人は行くかということです。それであなたにとつても危機であるわけです。『危機』(クライシス)という言葉はその元の言語では,『裁き』または『決定』を意味し,いまは各個人にとつて決定すべき時であります。全人類は岐路におります。人類は正しい方向をとりますか? 全人類,また大多数の人類は正しい方向をとりません。その理由で,たとえつらい決定になろうとも,あなたは人類に従うべきではありません。しかし,あなたはある時機に達しており,あなたの個人的な事柄と行為を,いまあるままに行いつづけるか,あるいはまた変化をするなり,または終らせて,違つた目標と結果をもつ或る新しいものを取りあげねばなりません。あなたは行をしなければならぬ時代と環境の両方の圧迫をうけているのです。あなたが危機に達しているのは,その理由なのです。危機の時は,無限に続くのではなく,それには結果をもたらす終りがあります。―あなたには,どのような結果ですか? 世の終る場所に行くのを避けたいならば,いまこそ心を決定し,そして行動する緊急の時であります。
3,4 私たちはなぜ否応なく危機に追いこまれていますか? ずつと以前のどんな危機に相当しますか?
3 私たちはなぜ,否応なく危機に追いこまれていますか? 恐ろしい水素爆弾が最近に爆発されたという『水素時代』に突然に投げこまれたためですか? あるいはそれよりももつと悪いコバルト爆弾や窒素爆弾が論議されるようになつたためですか? 軍事や政治指導者たちの言葉によると,第三次世界大戦のときに行われる原子戦争は,文明を亡ぼし,人類の存在をすら脅かすというためでしようか? 否,これらの恐ろしい事がらを恐れるぐらいでは,人間は強く刺激されず,正しい決定をしようとはいたしません。
4 私たちが水素時代に投げいれられる以前に,危機は存在していました。神の言葉が『終りの時』と言う時にいるために,危機は私たちに臨んでいます。目に見えぬものも,地上の見えるものをも両方を含むこの古い世にとつては,いまは『終りの時』です。(ダニエル 11:35; 12:4)それで,現在の危機は,現在の人間種族の祖先,すなわち忠実を守つた人で,その生涯を『神と共に歩いた』ノアの時代に存在した4000年以前の危機に相当します。数え切れぬほどの多くの水素爆弾が爆発するよりも,もつと悪い世界的な亡びが,ノアの時代に来ました。それは地球全体を覆つた大洪水であつて,当時の堕落し腐敗していた文明をすつかり亡しさりました。その時の人類は,見えざる天よりの不従順な霊者たちの侵害をうけてますます汚されてゆき,暴力は地に充ちていました。人の悪は多くなり,その心の思うことはいつもただ悪だけであつて,そして人は偽善的に『ヱホバの名前を呼び』唯一つ,真の生ける神の御名をいやしく軽んじました。(創世 4:26,新世)真の神についての悪い考えを直し,人類に正義の新しい出発を与えるため,ヱホバ神は世界全体に及ぶ大洪水をもたらしました。それについては,今日でも地上に証拠があります。中核または族を保存して,それより人類に新しい出発を与えるため,ヱホバ神はノアに命じて巨大な方舟または箱を建造させました。ヱホバ神は,この方舟によつて,ノアとその7人の家族そして幾百という地上の動物の標本を保存し守りました。それは洪水が過ぎて後に,それらの子孫で地を充すためでありました。―ペテロ前 3:20。
5 どのような新しいものがつけ加えられたために,今日の状態は昔の状態よりも悪いのですか?
5 ノアの子孫が4000年間存在した後の今日,状態はその時よりさらに悪いものです。地上の状態は,あまりに良く知られているため,ここで説明する必要はありません。一般の人は知らず,認めず,または信じないかもしれませんが,いまでは一つの新しいものがつけ加えられており,それは人間社会の提案し,今日用いている国際連盟や国際連合,そして他の救済策にもかかわらず,世界の状態が絶えず悪化して行く理由を説明する補助となつています。そのつけ加えられた新しいものとはこうです。つまり,悪の大いなる創始者は,悪に変向させたすべての悪鬼すなわち霊者たちと共に追い落されたということです。これらすべてのものは,見えない天にある高い権力ある地位から,この地の近くまで追い落され,予定の時の亡びまで監禁されています。このことは,第一次世界大戦の始まつた西暦1914年以来行われています。私たちに警告をあたえるため,天では叫びの声が言われ,聖書にこう書かれました『このために,天と天に住むあなた方はよろこべ! 地と海とは災いである。なぜならば,悪魔は自分の時の短いのを知り,大きな怒りをもつてあなた方のところに来たからである。』(黙示 12:12,新世)悪魔とその悪鬼たちが完全に行動を止めさせられるまでの時の期間が短いために,私たちの時代はその大きな怒りの時であります。それで,悪魔はこの短い期間のうちに,できるかぎりのすべての悪と害を地に住む人々に集中しようと決心しています。悪魔は自分の時がますます短くなつているということを知つていても,人間にはこのことを知らせまいとしています。悪魔はハルマゲドンの宇宙戦争で自分自身が砕かれると同時に,人間をも亡ぼそうと計画しているからです。それで,『地と海とは災いである。』
6 悪魔のどんな政策,またどんな力のために,人類はみな亡ぼされる危険にいるのですか?
6 この故に,この世の組織制度が危機にあるのではなく,人間,つまり人類種族が危機にあるのです。将来にある恐ろしいことがらを考えて見ると,人間はみな容易に亡ぼされます。悪魔またはサタンに関するかぎり,もし悪魔が自分の好き勝手なことをすることができるならば,人間はみな悪魔とその悪鬼共とともに亡びてしまうでしよう。悪魔の気狂じみた無謀の政策は『支配か,あるいは滅亡!』です。人類の支配が不可能ならば,悪魔は人類を亡ぼすでしよう。悪魔には親切心がなく,また人類に対して愛を持つていません。悪魔はこの世の人の隙のある心を支配するその力により,ひそかに人間を欺いて,人間自身の亡びを企らんでいます。その亡びは,水素爆弾や大量殺人の他の殺人武器を完成してなされます。しかし,それだけではなく,水素爆弾が直接人間に落されるとか落されないということに関係なく,特に人間の救のための唯一の道を取るのを拒絶するためになされるのです。人間のつくつた爆弾は,ただ現在の生命を亡すことができます。しかし,人間の救いのための神の愛の提供を拒絶するならば,正義の新しい世における幸福な永遠の生命を失うという結果になります。
7 特に誰によつて,この世の亡びは19世紀前に予言されましたか? 彼は誰の予言から引用いたしましたか?
7 聖なる書,つまり『聖書』を正しく教えられている人たちは,地上最大の予言者,神の子イエスによりこの世の組織制度の亡びが19世紀前に予言されたことを知つています。亡びについてのイエスの多くの予言は,次のように言われたとき最高潮に達しました。『その時には,世の初めから今までに起らなかつた程の,否二度と起らないような大きな苦難があるであろう。実際に,それらの日が短くされないならば,一人も救われないであろう。しかし選ばれた者たちのために,それらの日は短くされるであろう。』(マタイ 24:21,22,新世)それよりも幾世紀も昔しに,ヱホバの予言者ダニエルはこのことを予言しており,イエスはダニエルの予言から引用しました。この予言の中で,『終りの時』についてダニエルはこう言いました。『その時なんじの民の人々のために立つところの大いなる君ミカエル起あがらん。これなやみの時なり。国ありてよりこのかた,その時にいたるまでかかるなやみありし事なかるべし。……ダニエルよ,終りの時までこの言葉を秘し,この書を封じおけ。多くの者行きわたらん。しかして知識増すべし。』この予言を成就して『終りの時』とその意味についての理解は増し加わつています。―ダニエル 12:1,4。
8 それよりもずつと以前に,この世の終りはどのように予言されていましたか?
8 しかし,ダニエルよりずつと昔しに,そうです,ノアの時代の洪水以前であつても,この世の組織制度の終りは予言されており,例えば,『神とともに歩いた』別の人であるエノクは予言していました。聖書にこう書かれています。『アダムから七代目の人,エノクもまた彼らについて予言し,次のように言つた「見よ! ヱホバはその千万の聖い者を率いてこられた。それは,すべての者に裁きを行うためであり,すべての不敬虔な者が不敬虔な仕方で行つたすべての不敬虔な仕業と,不敬虔な罪人らがヱホバに反対して語つたすべてのはげしい事がらを処罰するためである。」』(ユダ 14,15,新世。創世 5:21-24。ヘブル 11:5,6)しかし,ヱホバ神御自身が世の終りを語られた最初の方であり,それは,ずつと昔しに最初の人間が悪い罪の行いをし,人間の創造者がくるしみと死の裁きを人間に申し渡されたエデンの楽園の中の時でした。蛇のように,このすべてのことをもたらそうと計画した叛逆の霊にヱホバ神は話しをされ,このように言われました『私はお前と女のあいだ,またお前の裔と女の裔のあいだに敵意を置く。彼はお前の頭を打ち砕き,お前は彼の踵を打ち砕くであろう。』(創世 3:15,新世)悪の大いなる蛇の頭を打ち砕くということは,特に神の女の裔である神の愛子によつて蛇のこの世の組織制度が私たちの時代に亡ぼされることをも意味します。それでサタンがその神であるこの世に希望はありません。
9 人類を死滅させないために,人類種族のある者には,生き残る機会があるかどうかの疑問に,神はどう答えていますか?
9 この世ではなく,人類種族のある者は救われ,回復されますか? 現在の危機において,それは決定されねばならぬ問題点であります。サタンの世の亡びの時に,すべての人類はサタン悪魔やその悪鬼共とともに亡びますか? 人類種族のうちのある者には,生き残る機会があり,この地上に人類を永続させるでしようか? しかり!と神の最大の予言者イエスは言いました。しかり!と神御自身も次の言葉に言われています。『われ地をつくりてそのうえに人を創造せり。われ自らの手をもて天をのべ,その万象をさだめたり。ヱホバは天を創造したまえる者にしてすなわち神なり。また地をもつくりなして之をかたくし,いたずらにこれを創造し給わず,これを人の住所につくりたまえり。ヱホバかくのたもう。われはヱホバなり,我のほかに神あることなし。』(イザヤ 45:12,18)ハルマゲドンの宇宙的戦争のあいだ,ヱホバ神は住む人なしに地が荒廃することを許されないでしよう。
10 ペテロはどのような言葉を述べて,神の愛は生残者を守るということに私たちの注意をひき起していますか?
10 全能の神は,この世の組織制度の終りに,人間を生存させることができると,霊感を受けた筆者ペテロは私たちの注意をひき起し,こう言いました『彼は古い世を罰するのをためらわなかつた。しかし,不敬虔な人々の世に洪水をもたらした時,正義の伝道者であるノアと他の七人の者たちを安全に守られた。ヱホバは,敬虔の人々をくるしい試みよりどのように救うかを知つておられるが,また不義の人々を裁きの日に亡ぼしさるために監禁される。このようにして,これらのものはみな溶けさるのであるから,あなた方は聖い敬虔な行いをいたし,ヱホバの日の臨在を待ちのぞみ,心に深く思つていなければならない。その日には天は燃えさり,諸元素は強度に熱く溶かされるであろう。しかし,神の約束に従い,その中に正義の宿る新しい天と新しい地を私たちは待つている。』(ペテロ後 2:5,9; 3:11-13,新世)神の愛は,この新しい世に生き残る者たちを守られるでしよう。
愛の神
11 大多数の人類にとつて,『神の愛』という言葉はなぜ奇妙なものですか? しかし神の愛は真実実際のものですか?
11 『神の愛』は,人類の大多数の人々にとつて,耳慣れない奇妙な言葉です。なぜ? なぜならば,それらの人々は愛の神,すなわち生物,特に人間に愛を持たれている最高全能の神,愛の神のような方を知らないからです。悪の存在および,増し加わる悪しきことが許されているために,人々は困惑し,神について間違つた考えを持つようになりました。つまり,神のような方がいるということを信じない程になつたのです。陰謀を企だてる利己的な宗教指導者の神を侮辱する教えは,神を悪く偽つて描き,神は人間の死に残酷なよろこびを感じ,また復讐の気持から,罪深い人間がその体の死後にも永遠の筆舌の及ばぬくるしみをうけるよう準備される愛のない不正な神であると示しています。キリスト教国の宗教制度は,火の燃える煉獄とか,体の死後も人間の魂を果てしなくくるしめる灼熱火焔の地獄というその非キリスト教の教えを今日にいたるまで公やけには放棄していません。目に見えない悪鬼共の存在だけを信じていて,もし悪鬼たちを宥め和らげないならば,悪鬼はすぐに人間に害を及ぼすと信ずる人たちにとつて,最高の愛の神という考えは,以前には決して慰めを感じなかつたものです。それにもかかわらず,神の愛は真実実際のもので,証明できるものです。
12 今日私たちの欠点のある状態について,なぜ創造者を非難すべきではありませんか? 今日私たちが存在していることは,どのように彼の愛のしるしですか?
12 つくられたすべてのものは,全創造物がその上に依存する岩の基礎のようなこの生ける真の神からのみ来ているのです。この神について予言者モーセは次のように歌いました。『私はヱホバの御名を讃めたたえよう。あなた方は私たちの神に栄光を捧げよ! ヱホバは磐であられ,彼の業は完全,彼の道はみな公正であられる。ヱホバは誠実の神であられ,悪いところなく,全く正義公正の方であられる。彼らは自ら悪を行つて亡びをもたらしたのであり,彼の子たちではない。欠点は彼ら自身にある。』(申命 32:3-5,新世)人類は幾千年のあいだ自分自身亡びをもたらすように行い,彼の子のごとくに行つていない故に,もし創造者が愛を持たないならば,私たちは今日ここに生存しないでしよう。創造者は,6000年昔しに完全な人間,最初の男と女を創造し,地の完全な園の場所,つまりたのしみの楽園の中に彼らを置きました。彼らがその愛の創造者にそむき死の刑罰をうけた時,二人が子供たちを産む前にヱホバ神は彼らを即刻に消滅してしまうことができたでしよう。ヱホバ神はそのようにして,今日の私たちのような罪深い人間の存在を阻止されたことでしよう。しかし,そのような場合に,私たちはいま何処にいるでしょうか? 今日の人類の欠点は,なにか愛のない創造者という理由によるのではありません。神自身の書かれた言葉はその奥義を私たちにこう説明しています。『一人の人(アダム)によつて罪は世に入り,その罪によつて死が世に入つた。それですべての人はみな罪を犯している故に,死はすべての人に及んだ』私たちはみな罪人アダムから,この欠点のある罪深い状態に産まれました。―ロマ 5:12,新世。創世記 2章と3章。
13 (イ)全人類を消滅する他のどんな場合が神にありましたか? しかし,そのとき神はどのように愛を示されましたか?(ロ)神はなぜ和解の音信を送られましたか? 和解することは,何を意味しますか?
13 全能の神,創造者には全人類を消滅することのできた別の場合がありました。それは,ノアの時代の洪水の時でした。その洪水は世界全部に及ぶ全体的なものであり,山々でさえ幾キューピットも覆われ,地上に40日間溜まつていました。そして太陽の暦で丸1年たつまで,その洪水は凹地に退かず,今日ある乾いた表面は出て来なかつたのです。しかし,神は8人の人間を救われ,また多くの番いの下等動物を救われました。その結果今日では23億人以上の人間と多くの動物が地上にいるのです。人類のほとんど大多数の者たちは,神を知らず,愛さず,崇拝せず,そして従おうとはせず,かえつて神の敵として生活しても,それでも愛の神ヱホバは欠点を持つこれら人間の上に太陽を照らし,雨と雪を降らします。『あなた方の敵を愛し続けなさい。あなた方を憎む者たちに善を行いつづけなさい。あなた方を呪う者を祝福しつづけなさい。』と私たちに命ずる資格を持つ方がいるとすれば,その方はヱホバ神です。そして,ヱホバ神は彼の愛子,イエス・キリストを用い,パレスチナの山上の垂訓の中でヱホバ神の代りにこのことを言わせられました。(ルカ 6:27,28,新世。マタイ 5:1,2,44)神は19世紀昔しに,以前の敵たちが神に和解する,つまり彼と再び友の関係を持つように戻り帰えるための基礎を置きました。それから神は彼の大使たち,すなわちイエス・キリストの真の追随者たちを遣わし,こう言わせられています『それで私たちは,キリストの代りである大使であり,恰も神は私たちを通してすゝめているようである。キリストの代りの者として私たちは願う。「神と和解するようになりなさい。」』(コリント後 5:20,新世)私たちがヱホバ神と和解する時,それは一般人類の他の人たちがしているように,ただ太陽や雨そして地の産物という自然の祝福を楽しむということ以上のものを意味します。私たちにとつて,それは神の新しい世における永遠の生命をうける救を意味します。
14 現在の痛みに充ちた生存の故に,真実の救は何でなければならぬと多くの人は間違いの考えをしますか? しかし,痛みとくるしみについての神の目的は何ですか?
14 正義の新しい世における人間の生活に苦痛が交り込むことはなくなるでしよう。霊感をうけたクリスチャンの筆者ヨハネは,新しい天と新しい地がなりたつ新しい世についての素晴らしい幻しを見て,次のように言いました『私は新しい天と新しい地を見た。前の天と前の地は過ぎ去つたからである。海ももはやない。……そして神自ら人間と共にいるであろう。神は彼らの目から涙を全部ぬぐい取られるであろう。死はもはやないであろう,そして歎きも叫びも,苦しみもないであろう。前にあつたものは過ぎ去つたからである。』(黙示 21:1-4,新世)いまの人間の生存には,悲しみや痛みが充ち充ちているために真の救いとは,存在から全く逃げることにちがいないと,考える人が多くおります。悲しみや,痛みや,そしてくるしみをなくするためには,生きるのを止めねばならぬという間違つた考えを彼らは持つています。くるしみを持つ多くの人々はくるしみをすつかり止めるために,死を願い求めています。また,魂の転生を信ずる人々は,魂の転生の循環の終りは,無意識でなにもない無の涅槃にくるようにと強く願い求めています。罪深い人間の生存は,いま不幸で痛みに充ちていますが,しかしすべての生存が不幸で痛みに充ちているわけではありません。唯一つの生ける真の神ヱホバは『幸いの神』と述べられています。(テモテ前 1:11,新世)ヱホバ神にいま和解している人々は,今日の地上で真に幸福な人々です。それらの人々は,新しい世にあつて完全に幸福で,痛みも,悲しみも,死ぬこともない永遠の生命をすべての人にあたえるという神の目的を良く例証しています。
15 無または絶滅に行くことは,なぜ救ではありませんか? それで,神からの救とは何ですか?
15 神からの救いは,生存を止めて逃れることではなく,死または無からの救助です。神の次の言葉から,無になるということは,神に反対する悪い行いの罰であります。『罪の払う価は死であるが,しかし神の与える賜物は私たちの主キリスト・イエスによる永遠の生命である。』(ロマ 6:23,新世)その無の状態に行く人々は,生命あるいは生存からの救いを経験しているというような考えを持つて自分自らをだまし,うぬぼれてはなりません。そのような人は,罰をうけているのであり,神の新しい世における完全な生命の永遠の幸福というものを失つています。どんな動物でもまたは野獣でも死ぬことができます。それで死ぬ人間は野獣や動物の運命にまさるところはありません。霊感をうけた賢い人の言葉を引用してみましよう。『世の人に臨むところの事は,また獣にものぞむ。この二つにのぞむところのことは一つにして,これも死ねば彼も死ぬるなり。皆一つの呼吸によれり。人は獣にまさるところなし。……みな一つの所にゆく。みな塵より出で,みな塵にかえるなり。』(伝道之書 3:19,20)結果として,神よりの救いとは,この獣のような運命より救われる,または逃れることです。つまり無または絶滅よりの救いです。神は不幸や痛みの状態に止ませるためにその敵または罪人の生命を守ることをいたしません。神は,神を愛する者たちの生命を守り,完全な幸福を永遠に楽しませます。こう書かれています『ヱホバは,己を愛しむものをすべて守りたまえど,悪しき者をことごとく亡したまわん。』― 詩 145:20。
16 自分で救うという教は,誰から来ますか? そのような教をひろめる彼の目的は何ですか? 生命を強く願い求めることに耽つても,なぜ私たちは正しいですか?
16 人間の大敵はサタン悪魔です。私たちの救いは外部の神からくるのではなく,私たち自身の心を抑制することに依存し,心を通して体を抑制する私たち自身のカに依存するという教えがそのサタンより,ひろめられています。そのような教えをひろめる敵サタンの目的は,人間をしてヱホバ神からくる唯一つの救いを拒絶させることです。この危機の時であつても,または他の時であつても,救いは人間にありません。詩篇 3篇8節は『救いはヱホバにあり。』と言つています。幸福のうちに永遠に生きることは,下等動物に与えられないものです。人間に与えられますが,しかしそれは人間自身によるのではありません。その可能性は,人間の外部の者,つまりヱホバ神から来ます。神からのこの救いを私たちが強く求め願うことは正しいことであり,そのような求めや願いに耽つたところで,くるしみやなやみをうけることはなく,また失望をも感じません。御子イエス・キリストを通して示された神の道に従うならば,あらゆるくるしみ,老年,悲しみから遂には逃れ出ることができ,痛み,不完全,貧亡,精神的な無智も混乱もなく,そして愛ある幸いの神から遠ざかることのない永遠の生命を得ることができ,救いへのそのような私たちの強い願いも全く満たされるでしよう。その故に,どのように生命が来たか,生命の目的は何か,なぜいまの生命は痛みや不幸で充されているかということについて自分自らを偽りあざむいてはなりません。生命とその目的について,人々は間違つた考えを持つていますが,それは生命の泉または源である唯一つの生ける真の神について人間が知らないためによるのです。(詩 36:9)人間を無智の中に閉じ込めて,人間自ら不敬虔な悪しき者たちの運命を願い選ばせるのは,敵である悪魔サタンの望むところです。神の招きの言葉はこうです。『あなた方は生命を選ばねばならない。そうすれば,あなた方とあなた方の子孫は生きるであろう。すなわち,あなた方の神であるヱホバを愛し,彼の声を聴き,彼にかたくつき従いなさい。彼はあなた方の生命であり,あなた方の日を長くすることができるからである。』― 申命 30:19,20,新世。
17,18 (イ)生命を選ぶことは何をすることを意味しますか?(ロ)永遠の生命という神の賜物が『キリスト・イエスによつて』与えられる重要な理由は何ですか?
17 現在の危機にあつて,理性を持ち分別のある人,すなわち正しいことを愛する人は,生命を選びます。つまり,生命に導く道を選ぶことです。『神の与える賜物は,私たちの主キリスト・イエスによる永遠の生命である。』を記憶しなさい。神が誰を選んで提供しようとも,生命は受けいただくのに価値あるものです。それで,キリスト・イエスによつて生命が提供されるという理由でなぜ怒りを感じますか? キリストを通して生命が与えられることについては,非常に大切な理由があるのです。全人類種族の堕落は,私たちの最初の親であるアダムの罪によつてもたらされました。父である神に反対して犯した愛のない罪のため,アダムが得た価いは死でした。死だけではなく,それに不完全,悲しみ,痛み,悪魔の支配,神よりの離反がつきともないました。神はもともとに塵より人間として完全なアダムをつくりましたが,アダムは遂に死んでその塵に戻りました。アダムの不従順な妻は彼に影響を及ぼして罪を犯させ,アダムとその妻から出て来た人類はみな罪と死の処罰をうけついで来ました。そればかりでなく,恐怖,なやみ,不幸,戦争,争い,老年,損失,そして失望がともなつて来ました。アダムは神によつて創造され,生命を神からいただいたために,エデンにいた完全なアダムは『神の子』であつたと聖書は述べています。(ルカ 3:38)アダムの子孫全部の堕落は,一人の人アダムが完全と敬虔の道から離れたためにもたらされたのです。それで,別の『神の子』によつて,アダムの子孫たちのうちで望む者たちすべてを救う,または解放することができます。しかし,その『神の子』はアダムの子孫たちのために,完全な人間としての自分の生命を与えねばなりません。人間としての短い生存をアダムから受ける者で,人間家族の犠牲となつて完全な生命を与えることのできる人は一人もないために,神は天からその独り子を遣し,地上で肉の完全な人にならせました。
18 人間の性質を持ち,完全な人間で真実に肉は血の人間になるため,天からのこの神の子は,ユダヤ人の処女である有徳の女から生まれることに服従し,それから成長し30歳で全く成年者になりました。それから,彼は神の御国のみが人類にとつて唯一つの希望であると伝道し,父なる神が彼に示された犠牲の路に従い行いました。忠実に伝道したために彼はヱホバ神の殉教者または証者として殺される結果になつたものの,彼は罪なくして死なれ,人間の最初の父アダムがエデンにしたように,神の道からは離れ去らなかつたのです。このために神は,死につつある人類のために犠牲として,その子の捨てられた人間の生命をうけ入れられました。神はまたこの忠実にして自らを犠牲にした子を死から復活させて天の不滅の生命を与え,人類を支配する神の約束した御国の王にさせることにより報いを与えました。これは,神の取り極めの中でイエス・キリストはなぜそんなにも重要であるかという理由です。これは,神の主たる統率者であるイエス・キリストを通して,私たちはなぜ神に来なければならぬかという理由です。これは,人類に与えられる永遠の生命という神の賜物が,なぜ『私たちの主キリスト・イエス』によるかという理由です。
19 (イ)この取極めの中には,なぜ完全な公正と,また節約があるのですか?(ロ)この目的のためにその独り子を選ばれたことにより,神は何を表わしていますか?
19 神によるこの取り極めの中には,完全な公正があります。エデンで罪を犯したために失われた完全な人間の生命の代りに,引き換えとして一つの完全な人間の生命が与えられました。また,この取り極めは経済でもあり,浪費が除かれています。というのは,死や処罰や,不完全や,そしてくるしみは一人の人アダムによつて人間家族全部の上に来ましたが,しかし今永遠の生命への機会は,完全な犠牲者イエス・キリストを通してアダムの家族のうちで望む者すべてに来るからです。それで,イエスについて神はこう言われています。『これは,私の認める愛子である。彼の言うことを聴きなさい。』(マタイ 17:5,新世。ペテロ前 1:17)分別をもつて事柄を良く考えた後になつてみるとき,全人類の永遠の福利をこの一人の人イエスに依存せしめ,そしてすべてのものをこの忠実にして価値ある子のなかに持たせあづけるという神の取り極めに不快を感ずべきではありません。この神の取り極めのどこが間違つていますか? 望んだ結果を生ずることができないというところは,どこにありますか? あなた方がその個人個人の好きな宗教的な者を表わし示すのを許すために,全能の神は多くの者の援助を求める必要があるでしようか? 数多くの宗教は,それぞれの宗教的な者を持つており,それらの者たちをよろこばせるためには,パンテオンつまりすべての神々の殿堂を築くことは必要でしよう。しかし,唯一つの生ける真の神は,彼御自身の選ばれた者を持たれています。その者とは犠牲として神の与えられた彼の独り子である正しい方です。神の愛を受ける資格は全くないどころか,処罰をうけた罪人であつた者たちのために,神はその最も愛する独り子を与え,罪人たちの手によつてその子を死なせましたが,その行いは愛,そうです,最も高い程度の神の愛を表わし示すものです。
20 そのような愛は,私たちを怒らせる代りに,私たちに何をしますか? それをはねつけることは,何を表し示しますか?
20 そのような常のものとは違う愛に,私たちは不快を感ずべきですか? そのような愛の無私の性質は,私たちをよろこばせるものです。その神の愛の恩恵をうけた一人の人は,そのことについてこう言いました。『私たちがまだ弱かつた時,キリストは不敬虔な人々のために定めの時に死なれた。実に,正義の人のために人が死ぬというようなことは殆どない。多分良い人のためならば,ある者は敢えて死ぬかもしれない。しかし,神は御自身の愛をこのようにして私たちに表し示されている。つまり,私たちが罪人であつたあいだ,キリストは私たちのために死なれた。』(ロマ 5:6-11,新世)そのように私たちに表し与えられている愛をはねつけ,拒絶することは,実際に極悪の忘恩ということを示すものです。
21 私たちの愛は,なぜ神に答え応ずべきものですか?
21 地上の人間でその愛する子を与えて,その子が恥をうけて苦しみなやみ,最もいたいたしい状態のうちに死なせるとしたらどうでしようか? しかも,それは,その人がなにの義務をも負わないばかりでなく,当然に亡びをうけるべき者たちが,そのことから恩恵を受けるためであるとしたならばどうでしようか? 神は私たち人間のために,その素晴らしい愛を表し示されました。このことについてこう書かれています。『神は愛である。このことによつて,神の愛は私たちの中に明らかにされた。なぜならば,神はその独り子を世に遣し,私たちが彼を通して生命を得ることができるようにされたからである。私たちが神を愛したのではなく,神が私たちを愛し,そして私たちの罪のための宥めの犠牲としてその子を遣わされたことに,愛はあるのである。』(ヨハネ第一書 4:8-10,新世)そのような神を愛せずにどうしておられるでしようか? この無私の神を愛するのを学ぶ時に,クリスチャン使徒ヨハネのようにどうしても次のように言わざるを得ません。『私たちについては,彼が最初に私たちを愛したために,私たちは愛するのである。』― ヨハネ第一書 4:19,新世。
良い政府の手段による救い
22 良い政府を愛するという点で,私たちは誰に似ていますか? 彼はそのような良い政府に対して何をされましたか?
22 正義を求め願う人々が,唯一つの生ける真の神を知り,そして愛するようになると,神の愛とそれらの人々の愛が一つの特別な点で似ているものであると,よろこびのうちに認めるようになります。つまり,それは人類のための良い政府を愛するということです。このような正義で完全な政府を愛して,私たちはその政府を強く願い求めたものの,それについては何もすることができませんでした。悪くて利己的な,そして圧制の政府の勢力は,私たちにとつてあまりに力の強いものでした。私たち自身では,悪魔やその群と戦うことができません。しかし,ヱホバ神は全宇宙の最高至上者であるため,すべての正しい政府の源であります。ヱホバ神はこの世の不義な政治支配を良いとは認めていず,また無期限にそれらを許して人類を支配させるのはヱホバ神の目的ではありません。ヱホバ神は宇宙のあらゆる場所を支配する良い政府を愛せられる故に,人類を支配する良い政府を約束し,また取り極められており,それに最善の支配者,つまり彼の独り子を用いられます。その政府はヱホバ神から来るものであり,天にいて御座についた子によつて統治されるために,『神の御国』或は『天の御国』と呼ばれます。その政府にあつて,油注がれた王イエス・キリストは神に奉仕します。ヱホバは予言の中でイエスを指し示し,こう言つています『わが助くるわが僕,わが心よろこぶわが選び人をみよ。我わが霊をかれに与えたり。かれ異邦人に道をしめすべし。……彼は衰えず,気落ちせずして道を地にたておわらん。もろもろの島はその法言をまちのぞむべし。』― イザオ 42:1-4。
23 その政府をすすめるために,神の選ばれた僕は地上で何をしましたか?
23 この選ばれた僕が人間イエス・キリストとして地上にいた時,彼は神の御国を伝道し願うすべての者たちに御国を生活のなかで第一のものとするように強くすすめ促し,この政府への献身を示しました。彼は,病気の者たちを直す多くの奇蹟の業を行い,死んだ者を生命に甦らすことすらいたしました。それは,イエスこそ御国のために神の選んだ者であると示すためであり,また従順な臣民たちにたいして御国のする力ある仕事を示すためでした。『それは,予言者イザヤによつて語られたことが成就されるためであつた。イザヤはこう言つた「見よ! 私が選び,愛し,私の魂が認めた僕を! 私は彼の上に霊を置く。彼は裁きの何であるかを諸国民に明らかにするであろう。……本当に,諸国民は彼の名に希望を置くであろう。」』― マタイ 12:17-21,新世。
24,25 (イ)神はその油注いだ王にどんな特質を持つように欲しますか? イエスは,そのような者であると,どのように示しましたか?(ロ)それでは,人間の危機を救う神の愛は,どの種類の政府によつて来ますか?
24 ヱホバ神は良い政府を愛し支持しますが,その聖霊によつて油注ぎ,王位につける王が,丁度牧者が自分の羊に対してやさしくあるように,その人間の臣民に対してもやさしくあるようにと欲しています。イエス・キリストは牧者のような性質を持つていると証明しました。正しい牧者は,自分の羊のために生命を棄てます。丁度それと同じく,完全な人間であつたイエスは,自分の羊である追随者たちのためにその人間の生命を棄てました。イエスは,牧者 ― 王として自分に何が要求されているかを知つていたということは,彼が次のように言つたことから分ります『私は正しい牧者であり,父が私を知つており,私が父を知つているように,私の羊を知つており,私の羊は私を知つている。そして,羊のために私の魂を棄てる。また私は,この檻のものではない他の羊を持つており,私はそれらをも導かねばならず,彼らは私の声を聴き,一つの群一つの牧者になるであろう。私が魂を棄てる故に,父は私を愛しているのである。……私はこの命令を父から受けた。』(ヨハネ 10:14-18,新世)そしてイエスは,自分の羊のために完全な人間としての彼の魂または生命を棄てましたが,それは死から甦えつて天の御国でイエスと共に支配する小な群の羊のためだけではなく,また地上にあつて御国の支配をうける忠義で従順な臣民となるすべての『他の羊』のためでもあります。
25 イエスは自分の羊に対して最大の愛を持つていました。彼自身の言葉を引用するとこうです『人がその友のために自らの魂を棄てることより大きい愛はない。』(ヨハネ 15:13,新世)あなたが,イエスの友であるならば,使徒パウロと共にこう言うことができます『神の子は私を愛し,私のために御自身を渡された。』(ガラテヤ 2:20,新世)ヱホバ神はそのような支配者を愛します。それは,この神の子について語つている予言が次のように述べている理由であります『あなたの御国の杖は正しい原則の杖である。あなたは正義を愛して不法を憎まれた。その為に,あなたの神はあなたの仲間のものに勝つて喜びの油をあなたに注がれた。』(ヘブル 1:8,9,新世)神の愛がいま人間を救われるのは,その子によるこの御国,すなわち善と真理を愛するこの神権政府によるのです。これこそ神がいま認め,人類を支配するよう権威を与えている唯一つの政府であります。
26 神がこの古い世を亡ぼす理由が愛であるとはどうして可能ですか?
26 正義の政府と忠実な支配者に対する神の愛の故に,ヱホバ神は悪い政府を有するこの古い世を亡ぼされます。神は悪を行つている者たちを亡ぼしますが,それは愛の表われです。たしかに,その愛とは,正義の原則の愛,圧迫をうけることなく平和と繁栄のうちに地上で生きるにふさわしい者たちへの愛であります。神の憎まれるものがありますが,それらのものがこの古い世にあることから,この古い世は必らず亡びるにちがいありません。こう書かれています。『ヱホバの憎み給うもの六つあり,否その心に嫌い給うもの七つあり,すなわち,驕る目,いつわりを言う舌,罪なき人の血を流す手,悪しき謀計をめぐらす心,すみやかに悪に走る足,いつわりを述ぶる証人,および兄弟のうちに争いをおこす者なり。』(シンゲン 6:16-19)神は彼の憎むものを私たちが愛するのをよろこばれません。私たちへの神の命令はこうです『世とまた世にあるものとを愛するな。もし世を愛するならば,父の愛はその者の中にない。なぜならば,世にあるすべてのもの ― 肉の慾,目の慾,そして財産を見せびらかすということは,父から始まつているのではなく,世から始まつているのである。それに,世は過ぎ去つており,そしてその慾も過ぎ去つて行くが,神の御意をするものは永遠に存続する。』― ヨハネ第一書 2:15-17,新世。
27 ハルマゲドンの時に,愛はなぜ最大のなやみをもたらしますか? 無私の気持から新しい世を愛する者に対して愛は何をしますか?
27 正しい見地から見る時に,この世の組織制度が,ハルマゲドンで全歴史のうちで最も大きななやみのうちに過ぎ去ることは,亡ぼすために神のもたらすなやみがどれ程に恐ろしいものであろうと,それは神の愛のあらわれであります。地の不敬虔な悪い全制度だけでなく,この目に見える組織制度の背後にある目に見えない悪魔の勢力,つまり地の近くに追い落され,そしていま地と海に災いを生じさせているサタンとその悪鬼たちを亡しさるためにそのすべてのなやみはどうしても已むを得ないものです。すべてのなやみのうちでも最も悪いそのなやみにくるしむ者たちは,神が愛の御心のうちにいまさし延べられている保護と脱出の路をしりぞけまた拒絶することにより自らそのような苦しみを選ぶのです。神は,この古い世を愛する利己的な者たちをハルマゲドンで亡ぼすでしよう。ヱホバ神は,無私の気持から正義の新しい世を愛する者たちを保護し,その宇宙戦争のあいだ守り通して,新しい天と新しい地を持つ新しい清い世に導き入れます。これらの者たちは,神の御意を行い続けることにより,正義の新しい世で永遠に存続するでしよう。
28 神が強く愛された世はどんな世でしたか? 神はその世に対する愛をどのように,またなぜ示しましたか?
28 正義の新しい世を準備し,ハルマゲドンの宇宙戦争の後にその世を設立することは,神の愛の表現です。その世こそ,ヱホバ神が強く愛された世であつて,その世のために彼は最大の犠牲を払われました。この理由のために,神の子イエス・キリストは,神の御国について論じた時に,次のように言われたのです。『神はその世を強く愛されたので,彼の独り子をあたえられた。それは,彼に信仰を持つ者はみな亡ぼされず,永遠の生命を持つためである。』(ヨハネ 3:3,5,16,新世)神はその愛された子をよろこんで地に遣し,犠牲の死を遂げさせましたが,それは神がそんなにも愛されている新しい世をつくり上げる人々のためでありました。イエスの死は,この貴重な新しい世において生命を得るという彼らの救いへの手段を設けるものでした。しかし,彼の犠牲の益を得るためには,彼らはその価値と力に信仰を持たなければなりません。この信仰に基いて行うことにより,彼らは古い世を愛する者たちと共に亡びるのを逃れ,新しい世での永遠の生命という祝福をうけます。新しい世の愛された王と交る者たち自身は,王のなされた犠牲を信ずる者たちであり,神はその信仰の故に,御霊によつて彼らを生まれしめ,霊の子たちとして選び取ります。死から甦えらす時に,神は霊の生命をそれらの者たちに与えて,新しい世の霊的の部分となし,彼らが天の御国にいるキリスト・イエスと共にいるようにします。この御国の愛される地的臣民になるすべての者も,同じように彼らの王の犠牲に信仰を持たなければなりません。こうするならば,その結果は,この地に回復される楽園にあつて完全な幸福の状態の下に永遠の生命の賜物を受けることになります。
29 新しい世は,その最初からなぜ違つた世ですか?
29 新しい世は,其処に住む人たちの生活に働く神の御霊の果でその最初から充たされるでしよう。こう言われています『御霊の結ぶ果は愛,よろこび,平和,忍耐,親切,善,信仰,温和,節制である。それらの事がらに反対する律法はない。』(ガラテヤ 5:22,23,新世)それはいまとは全く違つている世なのであります!
30 神御自身の愛を考えるとき,どんな真理が見えてきますか? また,増し加わわる不法を考えるとき,何を生ずる危険に私たちはいますか?
30 神は愛のうちに人間の危機を救いに来られている故に,私たちはこの愛という性質の重要さを悟ります。それで,大きな真理は明白に見えて来ています。私たちは,生きるために愛さなければなりません。このことは,私たち各個人についても真のことです。それよりも大きな規模について言うならば,人間の人種は,生きるために愛さなければなりません。エデンの園にいたアダムとエバは,その創造者である神に対して愛を失つて罪を犯し,神を愛し得ずに死なねばならなかつた時に,そのことを知り悟りました。今日の人類は,そのことを知り悟らねばなりませんが,しかし,アダムとエバの場合のように遅すぎてはなりません。アダムとエバが神を愛し得ず,また互いに愛し合えなかつたその愛の失敗のために,今日私たちはみなそのつらい結果を感じております。しかし,増加し続ける多くの人々は,ハルマゲドンの激烈な勃発によつて時の遅すぎることが示される以前の今それを知り悟つております。そして,必要な愛を発展し行使しようと学んでいます。私たちは今日『終りの時』に住んでおり,その終結に非常に近づいているため,利己主義と狂気の憎しみに屈するという危険におります。世の終りについての予言のなかでイエス・キリストは次のように述べこのことを警告しました。『不法の増し加わるために,多くの者の愛は冷えるであろう。』(マタイ 24:12,新世)愛することを止めるならば,それは死を意味します。死にたくないならば,私たちは愛さねばなりません。
31 今日の人類の間ちがいは,どんないましめに不従順ですか? その二番目だけを守ろうとすることは,結局はどういうことになりますか?
31 今日の人類の間違いは,二つの大きないましめに従つていないということです。それでは,それらの二つのいましめとは何ですか? イエス・キリストはこう答えています。『律法の中でどれが一番大きないましめですか?』と尋ねられた時,イエスはこう答えました『すべての心,すべての魂,すべての精神をこめて,あなた方の神であるヱホバを愛さねばならない。これは一番大きな初めのいましめである。第二のいましめもこれと同じ様に,自分のごとくに隣人を愛さなければならない。これら二つのいましめに,すべての律法と予言者たちは懸かつている。』(マタイ 22:35-40,新世)これら二つの主要ないましめは,積極的なものです。それらは愛を要求しています。最初に神への愛,それから私たち自身と同じ程に仲間の者を愛することです。最初に神への愛がないならば,仲間の者たちへの見せかけの愛,見せかけの人道主義も最後には失望と失敗になるでしよう。
32 どんな予言の成就の故に,生命はいまの終りの日にいる大部分の人類にとつて空虚のものですか? この古い世は,なぜ死の中にとどまりますか?
32 聖書の予言によると,私たちは『苦しい時』が地上に存在する『終りの日』に住んでおります。この苦しい日,危機の時に,人類の大部分にとつて生命は空虚のもので意味の無いものです。生命の空虚であるということには,何が責任ですか? 予言はこう答えています。『人々は自分自身を愛する者となり,金を愛し……自然の情を持たず……善を愛さず……自尊心のために思いあがり,神を愛するよりは快楽を愛し,敬虔の形だけは持つているが,その力にたいしては偽りなることを証明している。』(テモテ後 3:1-5,新世)人類は愛のないために,その生命の欠亡を感じています。人類は愛に欠乏しているために,生命に欠乏しています。次の言葉は真です『(これら二つの大きないましめに従つて)愛さない者は,死の中に留まる。』この愛のない殺人の古い世は,ハルマゲドンまで死の中にとどまり,そしてハルマゲドンで永遠に亡ぼされるでしよう。―ヨハネ第一書 3:14,新世。
33 新しい世の生命を得ようとする私たちの努力は,どのように全然利己的ではありませんか? それで,大多数の人類はなぜハルマゲドンで滅亡しますか?
33 ただ単に愛されるということではなく,愛すということ,そうです特に愛すということは健全で,意気を高め,富まし,励まし力づける事柄であります。神を愛することは,最も崇高な経験です。人間の危機のこの時において,永遠の救をもたらす神の条件を私たちが認めそれに従うのは,主として神を愛するからであります。なぜならば,新しい世で生命を得ようとする私たちの努力は,全然利己的なものではないからです。人類のこの危機にあつて,私たち自身を実際に益しそして,神を崇めるためには,神の愛に答え応じ,神の二つの大きないましめに従わねばなりません。人類の大部分はそれを拒絶し,また神の与える生命の真の希望を持たず,神の処罰をうけてハルマゲドンの時に彼らは本当に亡び朽ちます。彼らは『キリストの兄弟たち』にも,彼の他の羊にたいしても愛を持つていません。これらの者たちに愛を持つていないために,彼らは実際にはキリストやまた彼の神であるヱホバを愛しません。彼らは最後の亡びの時にいたるまで死の中に留まることを望むため,自分自身の運命を決めるか,またはハルマゲドンで亡び失せます。
34 諸国民はどんな時にいるために,全人類は危機にいるのですか? そしてなぜ?
34 すべての人類は,諸国民の裁きの時にいるために,いま危機の時におります。聖書の予言と,そして現代歴史におけるそれら予言の成就によると,そうです聖書に書かれてある神御自身の時の予定によると,この世の国々の『終りの時』は西暦1914年に初まり,神の御国が天に設立される正しい時が来ました。1914年に第一次世界大戦の起つたことは,その事実を証明する予言された証拠の一つにすぎません。そして,神のすすめに従いイエス・キリストは御国に来て,支配のために天の御座に坐りました。それは,この古い世を亡ぼして新しい世をまつたく導き入れるためです。
35 (イ)御座に坐した王は,いまどんな分離の業をしていますか? なぜある者は処罰され,他の者は賞められるのですか?(ロ)それら賞められた者たちは,すでに生命の状態にどのように移りましたか?
35 世の終りについての同じ予言の中で,イエスは,栄光を持ち,また聖なるすべての御使たちをしたがえ来て,栄光の御座に坐り,地の国民をみな御前に集めて,分離の業を始めると言いました。牧者が羊と山羊を分けるように,イエスは分けますが,しかしそれは政治的な国民を分けるのではなく,人々を互いに分けることです。イエスは恵みの右に羊のような人々を置き,排斥の左には山羊のような人々を置きます。イエスは山羊の級のものたちを非難しますが,それは彼らがキリストの霊的兄弟たちに対して愛を示さなかつたからです。また彼は『悪魔とその御使たちのために準備された永遠の火』によつて表わされている永遠の亡びに彼らを宣告します。彼は羊級の者たちを賞めますが,それは彼らがキリストの霊的兄弟たちに愛を示すからです。そしてこれらの義しい者たちを導いて,新しい世における永遠の生命を与えます。(マタイ 25:31-46,新世; 24:7)彼らは,ハルマゲドンの亡びの力に対してもキリストを通してなされる神の力で保護をうけ,この古い世の恐ろしい終りにあつても生きたまま通り抜け,開かれている栄光の新しい世に入るという希望を持つています。なぜ? なぜならば,今でさえ神とキリストを愛することを学び,また自分自身のように隣人を愛することを学ぶことによつて,彼らは死の状態から生命の状態に移り,永遠の生命への道を歩んでいるからです。このことのために,世は私たちを憎むでしよう。クリスチャン使徒ヨハネはこう言つています『私たちは兄弟を愛すために,死より生命に移つたことを知る。』― ヨハネ第一書 3:14,新世。
36 私たち生けるものに対して,神のいま開かれている手は何をなし得ますか? しかし,ある者はなぜ不満足のままにハルマゲドンで滅亡しますか?
36 それで私たちは,いままでのうちで最大な危機にいるのです。ヱホバ神は,すばらしい愛を持たれて私たちを助けに来られたという事実に目覚めるならば,私たちは悩む代りに幸福になり,そしてヱホバ神の道によろこんで従い救われたく思います。神の開かれている手をうけ入れるならば,私たちは愛ある心の願いを満すことができます。美しい御国の詩篇は,神の愛の御親切を説明し,次のような言葉で神に呼びかけています。『なんじ御手を開きてもろもろの生けるものの願いをあかしめたもう。』しかし,贈物をするには,二人が必要です。与える者がいるならば,受け取る者が必要です。全人類は,利己的な気持ちから,ヱホバの開かれた手の準備される物質的な良い物だけをうけ入れ楽しもうと欲しています。しかし,すべての人が,ヱホバの開かれた手の与える最大な提供,つまり霊的な提供物を心から認め感謝するわけではありません。永遠の生命という神の贈物は私たちの主イエス・キリストを通して来るという理由で,それらの人々はその神の贈物の提供を排斥し,また,物質的な食物だけでなく生命を与える霊的食物で養おうと差し出す手を彼らは咬みます。彼らは全くの意味で満足を感ぜず,不満足のままにハルマゲドンで滅亡してしまうでしよう。
37 (イ)それで私たちは永遠の満足をどのように見出しますか?(ロ)何をすることにより,私たちは生命を得る決定をなし,また行い果しますか? そして何を立証いたしますか?
37 しかし,詩篇はこう言つています『ヱホバは己をおそるるものの願いをみちたらしめ,その叫びをききて之を救いたもう。ヱホバはおのれを愛しむものをすべて守りたまえど,悪しき者をことごとく亡したまわん。』(詩 145:16,19,20)それで,いまヱホバの開かれた手にある愛の提供をうけいれることによつて,私たちは永遠に満足を見出すでしよう。私たちは愛の感謝の気持ちのうちに,私たちの救いの大きな手段,つまりイエス・キリストによるヱホバの御国を認めうけ入れます。その御国は,いまや天で設立されており,私たちは終りの来るまで証しとしてその御国を全世界に宣べ伝えます。(マタイ 24:14)私達は新しい世の社会として互いに結び合い,また定期的に集会します。それを必らずすることにより,互いに愛と正しい業にはげましすすめ合い「あの大いなる日が近づくのを見つめれば,ますます」そういたします。(ヘブル 10:24,25)これをすることにより,私たちは人間の危機のこの時にあつて生命を得るか否かを決定をなし,また行い果すことになります。そして私たちを救いに来る神の愛は立証されます。