16章
予告された「しるし」の成就は近づく
1 わたしたちは,イエスの使徒たちがマタイ 24章3節にあるような質問をしたことを感謝できます。なぜですか。
わたしたちは今日,イエス・キリストの使徒たちがイエスに次のように質問したことを感謝できます。「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3)こうした質問を受けたイエスは長い詳細な預言を述べましたが,波乱に富むこの二十世紀におけるその成就の進展を見るにつけ,わたしたちはその正確さに驚嘆させられます。その預言は,苦悩する人類に対する神の目的達成の過程のどの時点にわたしたちが位置しているかを確定するのに助けとなります。わたしたちはキリストの予告した「しるし」を確かに見ているのですから,キリストの霊者としての見えない「臨在」の期間および「事物の体制の終結」の時に実際に生活しているという信仰の面でわたしたちは強められています。
2 その「しるし」の特色すべてはどんな箇所で説明されていますか。今度は,その記述のどの部分を考慮しますか。
2 その「しるし」はあらゆる詳細な点で,注意深い観察者ならだれも考え違いをする余地のないほど全く明確に見える段階に近づいています。マタイの記述の24章と25章,マルコの記述の13章そしてルカの記述の21章に述べられているように,その「しるし」には数多くの特色があるので,そのすべてが十分明白に現われるまでには人類の一世代のほとんど一生涯の期間が経過しました。これまでの章では,マタイの記述の25章に説明されているしるしのそうした特色を考慮しました。今度は,それに対応するマルコとルカの著わした記述とともに,マタイの記述の24章に著わされているそうした特色を考慮しましょう。
3,4 「そうしたことはいつあるのでしょうか」とイエスに尋ねた弟子たちは,どんな事がらを指していたのでしょうか。
3 「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか」と言って質問を開始したキリストの使徒たちは,西暦33年ニサン11日,火曜日のその同じ日にイエスが既に預言的に述べた事がらを指して言っていました。エルサレムの神殿で宗教上の偽善的な書士やパリサイ人を公然と非難したイエスは,次いでこう言いました。「わたしはここで,預言者と賢い者と公に諭す者たちをあなたがたのところに遣わします。あなたがたはそのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなたがたが聖所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなたがたに臨むのです。あなたがたに真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人びとに石を投げつける者よ ― わたしは幾たびあなたの子どもたちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるがごとくに。しかし,あなたがたはそれを望みませんでした。見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています。あなたがたに言いますが,『エホバの名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなたがたは今後決してわたしを見ないでしょう」。
4 イエスは神殿つまり崇拝の家を去る前に,さらに厳粛な預言のことばを付け加えました。それについてはこう記されています。「さて,イエスがそこを立って神殿から去って行かれるところであったが,弟子たちが神殿の建物を示そうとして近づいて来た。イエスはそれにこたえてこう言われた。『あなたがたはこれらのすべてをながめないのですか。あなたがたに真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してありません』」― マタイ 23:34から24:2。
5 エルサレムへの勝利の入城にさいし,イエスはその都に関して何と言われましたか。
5 その二日ばかり前のニサン9日,日曜日のこと,イエスはエルサレムへの勝利の入場にさいして立ち止まり,そのきたるべき滅びのゆえにエルサレムのために泣きました。そして,西暦70年におけるその都の恐るべき滅びを預言して,こう言われました。「あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに塁を築き,取り囲んで四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり,彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです」― ルカ 19:41-44。
6 割礼を受けたそれら生来のユダヤ人の弟子たちにとって,それはどんな種類の預言のことばでしたか。彼らにとってはどんな精神的問題が生じましたか。
6 キリストの使徒たちのように割礼を受けた生来のユダヤ人にとって,それは憂慮すべき預言のことばでした。彼らが一部を成していた世代は,ユダヤ人の歴史の流れの中で,またそれ以前に流された無実の人びとの血の報復を受けようとしていました。厳密にいってそれらの事がらはいつ成就するのでしょうか。使徒たちはそれを知りたかったのです。彼らはイエスがメシアもしくは油そそがれた者つまりキリストであると信じ,また告白しました。しかし,予告されたエルサレムの滅びは,イエスがメシアによる王国をその滅びに定められた都に建てるのではないことを暗示しました。イエスはご自分が「今後」人びとには見えなくなること,また「エホバの名によって」到来することについて語りました。では,いつ再び臨在してメシアの役割を果たされるのでしょうか。エルサレムとその神殿のきたるべき滅びは,必ずやユダヤ教の事物の体制の終わりをもたらすに違いありません。聖なる都や聖なる神殿がなくなるのですから,レビ人アロンの家系のユダヤ人の祭司は,「地面に」たたきつけられるエルサレムの「子ら」の中に含まれるか,あるいは少なくともその神殿で奉仕をする立場から追われることでしょう。してみれば,使徒たちがエルサレムとその神殿の滅亡に関してだけでなく,さらに「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と尋ねたのは少しも不思議なことではありません。
7 「事物の体制の終結」について尋ねた使徒たちの質問はどうして当を得たものといえますか
7 使徒たちの質問は当を得たものでした。というのは,イエスはユダヤ教の事物の体制の「終結」の時期に到来したからです。他の聖句もその事情を同様の意味で指摘しています。ヘブライ 9章26-28節は,イエスがご自身を繰り返し犠牲にする必要がなかったことを示してこう述べています。「そうでなければ,彼は世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けねばならないでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。……キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました」。さらに,コリント第一 10章11節はこう述べています。「そこで,これらの事は例として彼らに降りかかったのであり,それが書かれたのは,事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです」。この問題についてイエスが預言を述べた年から数えると,ユダヤ教の事物の体制はなお37年間,つまり40歳の寿命の一世代以下の期間もつことになっていました。エルサレムはローマ軍によってエルルの7日(つまりグレゴリウス暦の西暦70年8月30日)に攻略され,滅ぼされました。キリストの使徒たちのうち何人が殉教の死を免れて,その恐ろしいできごとの生じた時まで生存していたかについては聖書の記録は何も述べていません。
試みと災難の時
8 使徒たちに答えるにさいして,イエスはまず最初にどんな事がらを述べましたか。
8 使徒たちの問いに答えたイエスは,まず最初に,その世代のうちに生ずるエルサレムの滅びに至るまで徐々に進展してゆくできごとを述べました。「そこでイエスは答えて言われた,『だれにも惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,「わたしがキリストだ」と言って多くの者を惑わすからです。あなたがたは戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです』」― マタイ 24:4-6。
9 自らメシアと唱えるユダヤ人が現われたところで,それは何が進行していることを示すものではありませんか。それはどんな望ましいできごとをもたらすものではありませんか。
9 自分は肉身を備えて戻ったイエスであると唱えるのではなく,約束のメシアつまりキリストであると唱えるユダヤ人が現われるでしょう。しかし,使徒たちも,また彼らの仲間の弟子たちもそうした自称メシアもしくは自称キリストに惑わされてはなりませんでした。そのような者たちの働きはイエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアを示すものでも,ユダヤ国民の救出をもたらすものでもないからです。西暦66年に起きたローマ人に対するユダヤ人の反乱は,そうしたメシアによる努力の現われとなるはずでしたが,かえってそれはエルサレムの滅びとユダヤ国民の離散を招きました。メシアに関する,それら惑わされた人びとの希望は無惨にもついえてしまいました。
10 戦争についてはどうですか。弟子たちはどうしてそうした事がらでおびえてはなりませんでしたか。
10 その37年の期間中,弟子たちのすぐ近くで起きたり,あるいは単にニュースとして伝えられたりした戦争が幾つかありました。しかし,それらの戦争はユダヤ国民の境遇に影響を及ぼしはしたものの,ユダヤ教の事物の体制の終わりを直接もたらすものではありませんでした。それで,弟子たちは恐怖に陥って早まった行動を起こしてはなりませんでした。「終わりはまだ」だったのです。
11 イエスの預言したどんな事がらが,「苦しみの激痛のはじまり」となりますか。
11 イエスはちょっと前に触れた戦争や戦争のうわさについて次のように詳しく述べました。「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの激痛のはじまりです」― マタイ 24:7,8。また,マルコ 13:8。
12,13 (イ)「苦しみの激痛のはじまり」となるそれらの事がらは,特定の人びとに降りかかることになっていましたか。(ロ)メシアについて知らせ,その追随者として歩むゆえに,弟子たちにはどんな事がらが降りかかろうとしていましたか。
12 そうした悲惨な災いは「苦しみの激痛のはじまり」に過ぎなかったので,終わりは「まだ」来ませんでした。それら悲惨な災いは単なる徴候であって,最終的な死の苦悶ではありませんでした。それは一般の人びとに影響を及ぼすものでしたが,特にイエスの弟子たちに降りかかる事がらもありました。なぜなら,彼らは真のメシアつまりキリストについて知らせ,その足跡に従ったからです。したがってイエスは次のように続けて言いました。
13 「その時,人びとはあなたがたを患難に渡し,あなたがたを殺すでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。しかし終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:9-14。マルコ 13:9-13と比べてください。
14 (イ)それらの事がらが当時の人びとの世代のうちに起きたことを何が確証していますか。(ロ)何が成し遂げられるまでは,エルサレムとユダヤ教の体制に終わりは臨み得ませんでしたか。
14 聖書の「使徒たちの活動」と題する書は,イエス・キリストのそれら預言的なことばが当時のその世代内においてさえ成就したことを証明しています。というのは,その書は西暦61年ごろ医師ルカによって著わされたものだからです。聖書中の他の書,つまり西暦70年におけるエルサレム滅亡以前に使徒や他の弟子たちが霊感を受けて記した手紙類も,使徒たちの活動と題する前述の書の記述を確証しており,また迫害やキリスト教に対する国際的な憎しみを受けて苦しんだクリスチャンに関する記録を増し加えるものとなっています。神の王国の良いたよりは中東を越えて小アジア,アジア大陸,アフリカ,ヨーロッパそして地中海諸島などの各地に浸透していました。王国の音信を宣べ伝えるわざは,人の住む全地で遂行されていました。その結果,あらゆる国の民に対する証しが行なわれました。とはいえ,世界中の人びとをキリスト教に改宗させたわけではありません。それを成し遂げることは決して意図されてはいなかったからです。しかし,その結果として,あらゆる国々の民に対して証しが行なわれました。(コロサイ 1:6,23)率直に語るクリスチャン証人によってその賞賛すべき偉業が成し遂げられるまでは,エルサレムとユダヤ教の事物の体制には悲惨な終わりは臨み得ませんでした。
エルサレムの二度目の滅亡の近いことが示される
15 エルサレムとユダヤ教の体制の滅亡が非常に近いことを示すのは何であるとイエスは言われましたか。また,その後には何をすべきであると言われましたか。
15 「終わり」に先だって生ずることになっていた事がらをかなり詳しく示したイエスは,今度はエルサレムと,その都とそこにある神殿を中心とした事物の体制との終わりが非常に近いことを示す特別の事がらを詳細に述べて,こう言われました。「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,野にいる人は,外衣を取ろうとして家に帰ってはなりません。その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! あなたがたの逃げるのが冬期または安息日にならないように祈っていなさい」。
16 イエスが忠告したように,クリスチャンのユダヤ人と改宗者たちはどうしてそんなに急いでエルサレムやユダヤを去るべきでしたか。
16 ローマ領ユダヤ州にいたクリスチャンのユダヤ人と改宗者たちは不必要な重荷を携えずに,適切な時機を見て,まっすぐな道を通って同州外の山地に全速力でぜひとも避難しなければなりませんでした。なぜなら,イエスはこう続けて言われたからです。「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。事実,その日が短くされないとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」― マタイ 24:15-22。
17 (イ)使徒たちやその仲間のクリスチャンはなぜイエスのこの助言を無視してはなりませんでしたか。(ロ)それで,今やどんな重大な質問が持ち上がりますか。
17 使徒たちや他の弟子たちはイエスのこの助言を忘れたり,無視したりしてはなりませんでした。嫌悪すべきものが聖なる所に立つのを見た後,ユダヤから逃れるのを遅らせるなら,命を失う恐れがありました。そのような人は患難の日が短くされるゆえにかろうじて救われる「肉なるもの」として言及されている比較的少数の人たちの中に入れなかったでしょう。それにしても,その「嫌悪すべきもの」とは何ですか。それが聖なる所に立っているのが見えたなら,それは壊滅的な「大患難」が正に迫っていて,今や時間があまり残されていないことを確証するものなのです。
18,19 (イ)荒廃を引き起こすこの嫌悪すべきものは,既にだれによって,またどこで予告されていましたか。(ロ)イエスの預言に関するルカの記述によれば,イエスはその嫌悪すべきものが何であるかをどのように示されましたか。
18 イエスはそれが何かをあいまいにはせず,それは「預言者ダニエルを通して語られた」嫌悪すべきものであると言われました。(マタイ 24:15)エルサレムの二度目の滅亡に関連して預言者ダニエルによって予告された「嫌悪すべきもの」とは,ダニエル書 9章26,27節(特に,ヘブライ語聖書本文のギリシャ語七十人訳のその箇所)に説明されているものです。a 一般の歴史は,その「嫌悪すべきもの」が「君」の率いる異教のローマ軍であることを明らかにしています。これがその預言の正しい解釈であることは,マタイの記述の中のイエスの預言のその箇所を,ルカの記述の中のイエスの預言のそれに対応する箇所と比較すると,確証されます。ルカ 21章20-24節はこう述べています。
19 「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。都の中にいる者はそこを出なさい。町外れにいる者は都の中に入ってはなりません。なぜなら,これは処罰の日[あるいは復讐の日]であり,それによって,書かれていることの[ダニエル書 9章26,27節を含め]すべてが成就するのです。その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。そして人びとは剣の刃に倒れ,捕われとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。―また,マルコ 13:14-20と比較してください。
20,21 (イ)ユダヤにいたクリスチャンのユダヤ人が,嫌悪すべきものが「聖なる所」に立つのを見たのはいつですか。(ロ)その嫌悪すべきものはこうしてどれほどの期間そこに立ちましたか。
20 エルサレムやユダヤにいたクリスチャンのユダヤ人が,「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に」,すなわちエルサレムとその周辺に立つのを見始めたのは西暦66年のことでした。その年のこと,キリスト教に帰依しなかったユダヤ人が,ローマ帝国による支配をそれ以上許すまいとしてメシアにかかわる夢を抱いて反乱を起こしました。それに対する反応としてローマの将軍ケスチウス・ガルスがシリアから下って来て,「野営を張った軍勢」によりエルサレムを包囲しました。おりしもユダヤ人はチスリ15日から21日まで仮庵(または幕屋)の祭りを祝っていました。同年のその時期は(グレゴリウス暦の)10月22-28日までの七日間に相当しました。ケスチウス・ガルス将軍は祭りを祝うその都から「五十ファーロング」(約10㌔)以内の地点に軍勢を進めました。十分に武装したユダヤ人は勢いよく攻撃して,ローマ軍に幾らかの損害を与えました。
21 次いで今度は「三日間待った」後,ガルス将軍はユダヤ人をいやおうなくエルサレムに引き上げさせ,軍隊を都の近くに進めました。しかし,彼が初めて軍隊をエルサレムの都の中に入れたのは,チスリの月も最後の日(11月5日ごろ)のことでした。今や彼は正しく,ユダヤ人にとって「聖なる」所とみなされていた場所に入りました。ローマ軍は五日間神殿の壁に対して攻撃を行ない,六日目にはその壁の基部を崩しました。それは確かに,ユダヤ人が最も聖なるものとみなしていた事物に対する攻撃でした。今やローマ軍はしようと思えば容易にその都全域を攻略できました。ところがその時,突然,何らもっともな理由がないにもかかわらず,ガルス将軍は都から引き上げ,撤退しました。得意になったユダヤ人は激しく追跡し,撤退するローマ軍を悩まして相当の損害をこうむらせたため,ローマ軍は敗走させられました。b それは世界制覇を目ざす誇り高いローマ人に痛烈な打撃を与えるものとなりました。エルサレムは解放されたのです! そこでユダヤ人はそれを記念して,片面に「聖なるエルサレム」と刻んだ新しいシケル銀貨を少し鋳造しました。
22 そのようにしてエルサレムが独立を回復したからといって,キリスト教に帰依したユダヤ人は欺かれませんでした。どうしてですか。彼らはどのようにして身を守りましたか。
22 ユダヤ人のその地がこうして独立を回復したことにより,エルサレムおよびユダヤ州にいたキリスト教に帰依したユダヤ人は欺かれましたか。イエスの預言と助言を心に銘記していた人たちは欺かれませんでした。彼らは聖都エルサレムが野営を張った軍隊で包囲されるのを実際に見たのです。「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が,兵士により神々として偶像視された軍旗を伴って,「立ってはならない」「聖なる所に」立っているのを見ました。(マルコ 13:14)そのことから,『その[つまりエルサレムの]荒廃が近づいたことを知ら』ねばなりませんでした。(ルカ 21:20)今やエルサレムから出て,あるいはその都に入らずにユダヤ州全域から逃れて,同州外の山地に,たとえばヨルダン川を渡って東方のペレヤ州に行くべき潮時でした。キリスト教に帰依したそれらユダヤ人は,滅びに定められた地域の外のそうした場所に行けば,滅びに定められた不信仰なユダヤ人とともに朽ち果てるかわりに,真のメシアによる神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざを続行できました。
23,24 (イ)ユダヤの独立はなぜ長続きしませんでしたか。(ロ)エルサレムの攻囲はどうして重大な恐ろしい事態をもたらすものとなりましたか。
23 ユダヤにいたユダヤ人の得た独立は,短期間のそれとなりました。ローマのヴェスパシアヌス将軍はガルス将軍の跡を継ぎ,翌年の西暦67年の初頭にはパレスチナに着きました。彼はその地方の残りの部分を支配下に収めるべく努力を払ったので,その間にユダヤ人は自分たちの防備を強化しました。西暦68年に皇帝ネロが亡くなった後,ヴェスパシアヌスは帝位に推されてパレスチナを去り,西暦70年の半ばごろローマに着きました。彼は息子ティツス将軍を後に残し,シリアに駐在したローマの軍勢を同将軍に託しました。やがて西暦70年のユダヤ人の過ぎ越しが近づき,クリスチャンではないユダヤ人は祭りを祝うためエルサレムの都に群れをなしてやって来ました。ティツス将軍が四軍団を率いて来て,祭りを祝うユダヤ人を都の中に閉じ込めたのはその時でした。反抗的なユダヤ人を飢え死にさせるため,彼はイエスが予告したことを行ない,ユダヤ人の逃亡を防ぐため,都の周囲に全長8㌔に及ぶ堅固な防御さく,つまり『先のとがった杭の塁』を築きました。
24 エルサレムの中に閉じ込められたユダヤ人の窮状はすさまじいものになりました。第一世紀のユダヤ人の史家フラビウス・ヨセフスはその著書の中で,ローマ軍の攻囲のもたらした恐るべき結果をなまなましく描写しています。ユダヤ人の死者の数はいよいよ増大してゆきました。もしその攻囲があまり長く続いたなら,包囲された都の中の「肉なるものはだれも」救われないように思えました。それはイエスがエルサレムとユダヤに臨むその「大患難」に関して予告したとおりでした。「事実,エホバがその日を短くされなかったとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに,彼はその日を短くされたのです」― マルコ 13:19,20。
25 (イ)エルサレムに臨んだその患難の日は,どのようにして短くされましたか。(ロ)生き残ったユダヤ人は,イエスがその預言の中で述べた「選ばれた者たち」でしたか。
25 神意によるものでしたが,その攻囲の期間は比較的短く,ニサン14日からエルル7日にわたる142日間,つまり陰暦のあしかけ6か月間だけでした。それはつまり,グレゴリウス暦によれば西暦70年8月30日まで続きました。ヨセフスの計算によれば,幾ばくかのユダヤ人の肉なる者,つまり9万7,000人ほどのユダヤ人が生き残り得ましたが,彼はその攻囲下で110万人が滅びたことを伝えています。それら9万7,000人の生存者は,エホバがそのためにその日を短くした「選ばれた者たち」でしたか。囚われや奴隷の身として選ばれた者とでも言うのでないかぎりそうではありませんでした。というのは,イエスの言われたとおりだったからです。「その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。そして人びとは剣の刃に倒れ,捕われとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そして,エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」― ルカ 21:23,24。
26 (イ)ではだれが,その預言の中でイエスの述べた「選ばれた者たち」でしたか。(ロ)エルサレムの患難の日数は彼らのゆえにどのようにして少なくされましたか。
26 いいえ,エルサレムの「大患難」の日数がそのために少なくされた「選ばれた者たち」とは,その「処罰の日」にエホバの大いなる「憤り」をこうむったそれら9万7,000人ものみじめなユダヤ人の囚われ人ではありません。エホバの「選ばれた者たち」とは,首都エルサレムを含め,ユダヤ全域から即刻逃れるよう,エホバから合図を与えられた,キリスト教に帰依したユダヤ人のことでした。「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に立」つのを見たなら,すばやく逃れるようにとのイエスの助言を信じて行動することにより,彼らすべてが危険地帯の外に無事に出ることをエホバは望んでおられました。エホバはご自分のみ子イエス・キリストのそれら「選ばれた」弟子たちすべてを,天与の処罰を受けることになっていた場所から出した後,反抗的なユダヤ人に対する復讐を短期間で執行させることができました。こう記されているとおりです。『エホバは地上で決済をして結末をつけ,しかもそれを短くされるのである』。(ローマ 9:28。イザヤ 10:23)それで,エルサレムに臨んだ大患難の日が「選ばれた者たちのために」短くされたのはもっともなことでした。
27 (イ)イエスはエルサレムの滅亡に関する描写をもってその預言をとどめましたか。それとも,それよりも先のことを見通しましたか。(ロ)エルサレムが異邦諸国民によって踏みにじられることは,どうして1914年に終わったと言えますか。
27 一般の歴史の記録は,イエスの預言の正確さを示しています。しかし,イエスの預言は,地上のエルサレムの滅亡に関するそうした記述をもって終わっているのではありません。というのは,イエスの臨在と「事物の体制の終結」との「しるし」に関しては論ずべきことがさらに多くあるからです。彼は西暦70年におけるエルサレムの滅亡よりさらに先のことを見通しておられました。というのは,ルカ 21章24節で,「そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」と言っておられるからです。イエスは,普通異邦人の時と呼ばれる,その諸国民の定められた時が満ちる「終わり」の時に注目しておられたのです。つまり,イエスは西暦1914年を待ち望んでおられました。なぜなら,その年に,ダビデ王の永久相続者に託されるメシアの王国を保持する,エルサレムの権利が諸国民によって踏みにじられることが終わったからです。1914年当時,中東の地に再建されたエルサレムの都はなお回教徒のトルコ人の支配下にあった以上,どうしてそう言えるのですか。なぜなら,その年には異邦人の時の終わりにさいしてエホバ神は,トルコ人の支配する地上のエルサレムではなく,天のエルサレムでダビデ王の永久相続者を即位させられたからです。―ヘブライ 12:22。
対型的な不忠実なエルサレムに臨む成就
28 エルサレムの滅亡をそれほど恐るべきものとして語ったイエスは,どんな意味でエルサレムに言及しておられたに違いありませんか。
28 イエスがその預言の中でエルサレムの都を単に文字どおりの意味だけでなく,より巨大な他の何ものかを予表するものとして模型的な意味で用いておられたことは明らかです。さもなければ,西暦70年におけるその滅亡に関して,「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があ(ります)」とは言わなかったでしょう。(マタイ 24:21。マルコ 13:19)事情に通じている人ならだれでも,西暦70年のエルサレムの滅亡は世界の始まり以来最悪の大惨事ではなかったことを知っています。というのは,ノアの日の世界的な大洪水についてはどうですか。それに,西暦70年以後,ローマ人によるエルサレム滅亡に匹敵する事件が起きなかったとしても,この二十世紀の第一次および第二次世界大戦についてはどうですか。イエスの言い回しは誇張ではありませんでした。かえって彼は明らかに,エルサレムのことを預言的模型として,つまり同様の滅びをもって全世界を包含するある事がらを警告する実例として考えておられたのです。彼は対型的な不忠実なエルサレム,すなわち現代の対型物を考えておられました。では,それは何ですか。それは対立する幾百もの宗派を擁するキリスト教世界です。―コリント第一 10:11。
29 (イ)イエスの預言はキリスト教世界の滅亡に加えて,ほかにどんな事がらにも当てはまりますか。(ロ)したがって,イエスが預言を述べてからエルサレムの滅亡までの時期に対応するのはどんな期間ですか。
29 イエスの預言のこうした適用の仕方は,キリスト教世界の政治・商業・軍事および司法上の情夫すべてとともに同世界に迫っている滅びに関してだけでなく,直接同世界の絶滅をもたらすに至る世界のできごとに関しても当てはまります。キリスト教世界は今やこの二十世紀における経験の点で,イエスがオリーブ山上で預言を述べて以来,西暦70年にローマによりエルサレムとその神殿が滅ぼされるまでの期間に似た一時期に存在しています。キリスト教世界に定められた,この特定の対応する期間は,1914年における「諸国民の定められた時」の終わりに始まりました。それ以来の世界のできごとを考えてみてください。
30 1914年以来,キリスト教世界は,イエスの述べた「苦しみの劇痛のはじまり」となるどんな事がらを経験してきましたか。
30 「苦しみの劇痛のはじまり」となるのはどんな事がらであるとイエスは言われましたか。それは戦争,食糧不足,地震,疫病などではありませんでしたか。(マタイ 24:7,8。マルコ 13:8。ルカ 21:10,11)一世紀のキリストの使徒たちの時代のどんな「戦争」が,西暦1945年における第二次世界大戦終結以後の他の戦争すべてをさておき,第一次および第二次世界大戦に匹敵し得るでしょうか。西暦33年から同70年までに生じた飢饉や地震や疫病などは,1914年における異邦人の時の終わり以来キリスト教世界および世界の残りの部分すべてが遭遇してきた食糧不足や地震や疫病をしのぐものでしたか。
31 (イ)エルサレムが滅びる前に弟子たちの身の上に何が起こるとイエスは言われましたか。(ロ)今日,だれの受けている苦しみは,その時期の弟子たちの受けた苦しみに対応していますか。
31 イエスはまた使徒たちに,弟子たちがひどく迫害され,艱難に遭わされ,殺されることを述べました。そうです,弟子たちはあらゆる国々の民の憎悪の的となります。また,偽預言者や偽りのメシアが現われ,神に対する不法行為が増大し,その結果,宗教家と称する者たちの大多数の愛が冷えます。また,そのような期間中,クリスチャンにふさわしい忍耐が必要となります。(マタイ 24:9-13。マルコ 13:9-13。ルカ 21:12-19)そうした種々のできごとは一世紀の使徒時代を特色づけました。では,1914年に異邦人の時が終わって以来の世界のできごとについてはどうですか。世界の人びとはキリスト教にすっかり改宗させられたので,キリストの真の弟子たちに対する迫害はやみましたか。エホバのクリスチャン証人以上に,「わたしの[つまりキリストの]名のゆえにあらゆる国民の憎しみ」の的となっている宗教上の少数者がいますか。1914年の昔から現代に至るまでそれらエホバのクリスチャン証人に加えられてきた迫害以上におびただしいものがありますか。記録があるので,だれでも調べられます。
32 ほかのどんな特徴が,西暦70年に至るまでのその使徒時代を際立たせることになっていましたか。その特徴は当時だれによって成就されましたか。
32 西暦70年前の一世紀のその使徒時代に関してはもう一つの際立った特徴がありました。イエスはエルサレムにいたユダヤ教徒の反対者たちにこう言いました。『神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられます』。(マタイ 21:43)偽のメシアを擁していながらも,ユダヤ人は神の王国を異邦人にふれ告げることによってその実を結んでいたわけではありませんでした。エルサレムの滅亡以前に彼らはバプテストのヨハネの音信を取り上げて,天の王国が近づいたことをふれ告げたりもしませんでした。それどころか,エルサレムの神殿に最後に訪れたイエスは,宗教上の書士やパリサイ人に言いました。「あなたがたは人の前で天の王国を閉ざ(していま)す。あなたがた自身がはいらず,またはいる途中の者がはいることをも許さないのです」。(マタイ 23:13)では,「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」というイエスの力強いことばが西暦70年前に成就したことは,だれの名誉となりましたか。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)それは,「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」となった人たち,つまりイエスの弟子たちの名誉となりました。
33 それに対応するものとして,1914年以来,神の王国の良いたよりをだれが国際的に宣べ伝えてきましたか。宣べ伝えられているこの王国は,キリスト教世界によって告げ知らされたそれとはどのように異なっていますか。
33 同様に,それに対応する,西暦1914年における異邦人の時の終わり以後のこの期間に,神の王国の良いたよりに関するイエスの預言の現代的成就をもたらしているのは,「[キリストの]名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」として際立っている人たちです。彼らこそ,憎悪や迫害をものともせずに,神のメシアの王国の良いたよりをあらゆる国々の民に対する証しとして全地に十分宣べ伝えてきました。これはキリスト教世界が四世紀のコンスタンチヌス皇帝の時代に存在し始めて以来説いてきたような神の王国,つまり同世界の何億人もの教会員の内にある,その心の中の王国,すなわち世界の人びとがキリスト教世界の諸教会の信仰に改宗させられることによって最後に実現する王国の音信ではありません。それとは全く違って,1914年における異邦人の時の終わり以来エホバのクリスチャン証人が宣べ伝えてきた王国とは,その年に天で誕生した現実の政府です。それはダビデ王の永久相続者に託された樹立された神の王国です。しかもそれは,この地の政治上の政府すべてを終わらせて,永遠の命と平和と幸福とをもって地の住民を祝福します。
34 (イ)国際的になされている王国を宣べ伝えるこのわざは,どんな事がらの「しるし」の一部となることになっていましたか。(ロ)どんな大惨事に先立って,王国を宣べ伝えるそのわざが成し遂げられることになっていましたか。
34 そのわざが驚くべき仕方で成し遂げられていること,つまりエホバのクリスチャン証人が人の住む全地で国際的な証しのためにこうした良いたよりを宣べ伝えているのは,重大な意義のある事がらです。それは統治する王イエス・キリストの霊における「臨在」もしくはパルーシアを特徴づけることになっていた「しるし」の明るい輝かしい特色をなしています。天においてイエスが神の右で即位したその年以来,エホバのクリスチャン証人は,世界大戦その他の世界的な規模の災難にもめげず,戸別訪問や現代の他のあらゆる通信機関によりその宣べ伝えるわざを優に半世紀余にわたって遂行してきました。人類の事がらすべてを今や引き継ごうとしている神のメシアの王国に関してあらゆる国々の民に対してなされている証しのわざは明らかに,ごく近い将来完了するに違いありません。王国を宣べ伝えるこの世界的なわざは,「終わり」に先立ってなされることになっていました。全地の人びとは今や,王国が宣べ伝えられるのを聞いています。「あらゆる国民」はもはや証しを受けないままでおれるものではありません。「それから」この事物の体制の「終わりが来るのです」とイエスは言われました!
「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」
35 (イ)「しるし」のどんな特徴は,エルサレムの滅亡が正に迫っていることを明示しましたか。(ロ)一世紀当時のその世界強国がもはや存在しないので,どんな質問が生じますか。
35 「しるし」のもう一つの特徴は,待望久しい「終わり」が近いことを確実に示しています。他の驚くべき事がらが危機的な期間内に起きても,なお終わりはそのとき直ちに臨むわけではありませんが,イエスは,災難の時が正に臨もうとしていること,つまり避難するのを遅らせる人たちすべてに荒廃をもたらす終わりが今や突如襲おうとしていることを明示するある不吉な事がらを予告されました。一世紀当時のローマ領ユダヤ州の住民の場合,それは野営を張った軍隊によってエルサレムが包囲されること,つまり「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が立ってはならない「聖なる所」に立つことでした。そうなれば,それは時も時,イエスをメシアとして信ずるユダヤ人がユダヤから完全に逃れ去るべき時でした。しかし今日,荒廃者である「嫌悪すべきもの」に似た何ものかが見えますか。その出現はキリスト教世界にとっては不吉な前兆です。同世界は一世紀の不忠実なエルサレムの現代的対型物だからです。ユダヤ教の礼拝の行なわれたその聖なる首都は,聖書の歴史上の第六世界強国つまり異教のローマ帝国の軍隊によって荒廃させられました。しかし,その世界帝国は今や存在していません!
36 今日の第七世界強国は,嫌悪すべき荒廃者のもたらす影響を思い知らされることになっています。なぜですか。
36 今日,それも1914年以来,世界の舞台は依然として第七世界強国つまり英米二重世界強国によって支配されています。英国王あるいはその女王は英国国教会系教会また英国国教会のかしらと称しており,アメリカ合衆国は同最高裁判所により「キリスト教国」であると宣言されていますから,この第七世界強国はキリスト教世界の顕著な部分であり,同世界の頑強な擁護者です。ゆえにそれは宗教的な面で,あの嫌悪すべき荒廃者のもたらす影響を幾らか感ずるはずです。
37 啓示 17章9-11節は,第七世界強国が最後の世界強国かどうかを示すどんな事がらを述べていますか。
37 とはいえ,聖書巻末の書は第八世界強国を暴露しています。興味深いことに,啓示 17章9-11節は,七つの頭と十本の角を持ち,宗教上の娼婦,「大いなるバビロン」を乗せた緋色の野獣に関する幻の中で使徒ヨハネに告げられた事がらを,わたしたちに知らせています。その節はこう述べています。「ここが知恵の伴うそう明さの関係しているところである。七つの頭は七つの山を表わしており,その上にこの女が座っている。そして七人の王がいる。五人はすでに倒れ,ひとりはいまおり,他のひとりはまだ到来していない。しかし到来したなら,少しの間とどまらなければならない。そして,かつていたがいまはいない野獣,それ自身は八人めの王でもあるが,[その七人]cから出,去って滅びに至る」。
38 使徒ヨハネの時代には,どの世界強国は既に倒れており,どれが当時存在しており,またどれが来ることになっていましたか。それはどれほどの期間存続しますか。
38 使徒ヨハネの時代,つまり一世紀においては,第六世界強国が彼を囚人として流刑地パトモス島に拘留しました。第七世界強国はまだ来ていませんでした。歴史は,十八世紀になって初めてそれが来たことを確証しているからです。同世紀には大英帝国が商業および海軍の点で海上の覇者となりました。したがって,この第七世界強国は今日までに2世紀余を経ているに過ぎないので,この期間は,およそ18世紀にわたった第六世界強国の支配期間に比べれば「少しの間」といえます。それで,緋色の野獣の七番目の頭はこの第七世界強国を表わしていましたが,他の頭は先の六つの世界強国,つまりエジプト,アッシリア,バビロニア,メディア-ペルシア,ギリシャそしてローマを表わしています。これら七つの世界強国はすべて,偽りの宗教の世界帝国である宗教上の娼婦,「大いなるバビロン」と関係を持ってきました。―啓示 17:1-6,18。
39 共産主義のソ連あるいは共産圏諸国家は第八世界強国ではありません。どうしてですか。
39 その野獣「それ自身は八人めの王である」ゆえ,それは第八世界強国を表わしています。それは共産主義のソ連あるいは共産圏諸国家のことではありません。ソ連や共産圏諸国は「その七人から出」たのではないからです。すなわち,先の七つの世界強国から出たのではありません。共産圏諸国に関しては,『その野獣はかつてはいたが,いまはおらず,のちに現われる』などとは言えません。―啓示 17:8。
40 (イ)では,第八世界強国とは何ですか。(ロ)その世界強国はいつ存在しなくなりましたか。また,それはいつ現われるようになりましたか。
40 それでは,偽りの宗教のバビロン的な世界帝国が,使徒ヨハネの幻に現われた緋色の野獣に乗った娼婦,大いなるバビロンとしてその上に今日まで乗ってきた第八世界強国とは何ですか。それは世界の平和と安全のための国際機構です。第二次世界大戦前,それは国際連盟と呼ばれ,第二次大戦後は国際連合と呼ばれてきました。この「世界の平和と安全のための」機関は第一次大戦後の1919年に設立されましたが,1939年に第二次世界大戦が勃発するに及んで,底知れぬ所同様の不活動と無力の状態に陥りました。第二次世界大戦中,それは世界平和の守り手としては実際上『いません』でしたが,1945年に第二次世界大戦が終わった後,この度は国際連合という新しい名称のもとに,底知れぬ所から上ってきました。その時以来,それは「現われ」ています。今日,国連の成員国は世界の132か国に達しています。それらの諸国家はすべて軍備を有しており,そのうちの5か国は既に核爆弾で武装を整えています。
41 国際連合はキリスト教に則した機構ではありません。なぜですか。それはどうして神にとって嫌悪すべきものとなっていますか。
41 それにしても,象徴的な野獣である第八世界強国つまり今日の国際連合はどうして「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」と同一視されているのでしょうか。それが娼婦を背中に乗せた,七つの頭を持った野獣にたとえられていることは,それが神の前に汚れたもの,神にとって「嫌悪すべきもの」であることを示しています。また,「その七人」つまり七つの非キリスト教の世界強国「から出」ているので,それはキリスト教に則した機構ではありません。国際連合の成員国の半数はキリスト教を奉じているとは唱えてさえいませんが,同機構のもとでキリスト教世界の諸国家が非キリスト教の,つまり異教の諸国家と政治的に結合していることに気づきます。国際連合はこの世のものであり,「世の友」です。したがって,それは「神の敵」です。(ヤコブ 4:4。ヨハネ 8:23; 18:36)国連を偶像視する者たちはメシアにかかわる希望を国連に託しており,キリスト教世界は国連を,樹立されたメシアによる神の王国の代用物として受け入れています。正に嫌悪すべきことです。
42 国際連合は『荒廃をもたらすもの』になる点で,どんな軍隊に似ていますか。
42 国際連合は数多くの良い事がらを行なってきたと考えられています。では,どうして国連を荒廃者,つまり『荒廃をもたらすもの』と呼び得るのでしょうか。第六世界強国であったローマ帝国は地上の至る所でローマの平和なるものの維持に努め,中東で平和を保とうとしましたが,後にその軍隊は一変して宗教上の聖都エルサレムの荒廃者となりました。同様に,第八世界強国つまり国際連合はこれからその予告された世界的な役割を仕遂げて,「去って滅びに至る」のです。(啓示 17:11)それはやがて,「荒廃をもたらすもの」となります。だれに荒廃をもたらすのですか。啓示 17章15-18節はそのことを明らかに示しています。そこにはこう書かれています。
43 啓示 17章15-18節は荒廃させるわざをどのように象徴的に描写していますか。
43 「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている。そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。すなわち,彼らの王国を野獣に与えて彼らの一つの考えを遂行し,神のことばの成し遂げられるに至ることである。そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市なのである」。
44 では,国際連合は何の荒廃者になりますか。神の民となるためには,荒廃させられるものに関して今何を行なうのは分別のある行為ですか。
44 それで,第八世界強国である国際連合は,象徴的な国際的娼婦つまり大いなるバビロンに荒廃をもたらすさい,『荒廃をもたらすもの』と化します。ユーフラテス河畔の古代バビロンは一つの都市でしたから,したがって「大いなるバビロン」は「大いなる都市」にたとえられています。それに,大いなるバビロンは「地の王たちの上に王国」を有していますから,偽りの宗教の世界帝国を意味しています。分別のある人の今なすべきことは,偽りの宗教のそのバビロン的な世界帝国とともに滅ぼされないよう,その滅びが臨まないうちに同帝国から出ることです。これこそ,霊感を受けた天からの声が,神の民になりたいと願う人たちに対して,次のように行なうよう命じている事がらにほかなりません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」― 啓示 18:1-4。
45 (イ)キリスト教世界の教会に所属している人びとが既にバビロンから出たかどうかについては何と言うべきですか。なぜですか。(ロ)それで,キリスト教世界が大いなるバビロンとともに滅ぼされるのは必至です。なぜですか。
45 今は欺かれるままになっているべき時ではありません。キリスト教世界がキリスト教を奉じていると唱えているからといって,同世界の幾百もの宗派に属している教会員は,自分たちは既に大いなるバビロンを出たと考えてはなりません。依然キリスト教世界の一部であるかぎり,大いなるバビロンとともに留まって,同世界の罪にあずかっているのです。それはどうしてですか。なぜなら,キリスト教世界はそれ自体大いなるバビロンの一部であり,事実,偽りの宗教のその世界帝国の最も有力な部分だからです。そのうえ,戦争の罪のある血だらけのキリスト教世界は現代の対型的な不忠実なエルサレムであり,イエスの真の弟子たちはすべてそこから避難して身の安全を図らねばならないからです。第八世界強国(つまり国際連合)が大いなるバビロンを荒廃させるとき,同強国は大いなるバビロンの最も責むべき部分,すなわちキリスト教世界をも滅ぼすからです。ユダヤ人にとって非常に神聖な所とみなされた場所に『荒廃をもたらす嫌悪すべきものが……立つ』のを見た後,イエス・キリストのユダヤ人の弟子たちがユダヤとエルサレムから逃れたとおり,真の神と一致して命を愛する人たちは,即刻キリスト教世界から逃れなければなりません。
46 早くも1917年には,神を恐れる人びとに対して大いなるバビロンから出るようにとの警告がどのようにして発せられましたか。
46 統治する王イエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアの時である,西暦1914年以来今日まで,神を恐れる人びとは,大いなるバビロンの滅びに巻き込まれないよう,そこから逃れるよう警告されてきました。早くも,アメリカ合衆国が第一次世界大戦に突入した後,1917年7月に発表された,一般人伝道者協会の「完成された奥義」と題する出版物によって警告が発せられました。それはヨハネへの啓示の書全体を,同書の17,18章を含め一節一節注解した本でした。その本は翌年の初め,政府により発禁処分を受けました。しかしそうなる前,1917年12月30日,日曜日のこと,その初期の警告は広く知らされました。それはその日の朝,「バビロンの倒壊」と題する4ページの冊子,「聖書研究者月刊」第9巻,第9号を米全土で一斉に頒布することによって行なわれました。強烈なことばで著わされたその冊子をそのように時を同じくして全国で頒布した後,その日の午後,今度はバビロンのことを主題として取り上げた公開講演が各地で行なわれました。―「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,1917年12月15日号の370ページの「自発奉仕者の日 ― 12月30日」と題する見出しの箇所を見てください。
47 (イ)第一次世界大戦後,早くも聖書研究者たちの考えは,何の実体を明らかにすることに向けられましたか。(ロ)1921年1月1日号の「ものみの塔」誌はそれについて何と述べましたか。
47 現代の(キリスト教世界を含む)大いなるバビロンは『荒廃をもたらす嫌悪すべきもの』によって滅ぼされることになっているため,聖書研究者たちの考えは大戦後早くも,二十世紀の諸般のできごとの中でその嫌悪すべきもの,もしくは悪むべきものの実体を明らかにすることに向けられました。国際連盟が設立され,パレスチナが大英帝国の委任統治下に置かれた後,「ものみの塔」誌,1921年1月1日号はその12ページの「預言者ダニエルによって言われた」という見出しのもとにこう述べました。
「……地はエホバのものであるゆえ,当然問題の[つまり黙示録 13章の]獣はパレスチナの地を支配する権威を持ってはいないことになります。人間の立てたものである,彼らの国際連盟(その権威のもとでパレスチナは大英帝国の委任統治を受けている)は主にとって悪むべきものです。従って,この悪むべきものは,立つべきではない所に立っています。……
ゆえに,すなわち荒らす悪むべきものが立ってはならない所に立っており,つまり聖地,神ご自身の地,『聖なる所に立って』おり,またエルサレムが『軍勢に囲まれる』,つまりほかの獣の軍勢に囲まれるのを見ているゆえに,わたしたちが世の終わりの時に達したことをさらに確証する証拠に注目してください。また,ものを読み得る人は,わたしたちが世の終わりの時に達したことを確と知るべきです。……
48 1926年には,世界の平和と安全のためのその国際機構はどんなものであることが明らかにされましたか。どんなできごとに際して明らかにされましたか。
48 マタイ 24章15節やマルコ 13章14節(欽定訳,文)の字義どおりの適用に基づいて解釈したとはいえ,『荒らす悪むべきもの』(つまり「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」)とは当時の国際連盟であるとする結論は正確でした。何年かの後,世界の平和と安全のためのその国際機構は聖書預言の中の第八世界強国であることが明らかにされました。そのことは1926年5月30日の日曜日の夜,英国,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行なわれた,「世界の諸強国がよろめいている理由 ― 真の解決策」と題する公開講演の中で明らかにされました。その講演者である,ものみの塔聖書冊子協会の会長J・F・ラザフォードは,「予告された連盟」というテーマを取り上げて,次のように述べました。
神は七つの世界強国のことを予告しました。それはすなわちエジプト,アッシリア,バビロン,メディア-ペルシア,ギリシャ,ローマそして大英帝国です。また,その七つの強国から第八のそれが生ずることをも予告されました。後者はまた,「獣」として象徴されています。なぜなら,その目的は地の諸民族を支配し,統御することだからです。主はその獣の誕生,その短い存在期間およびその永遠の滅亡をも予告しました。―黙示 17:10,11。イザヤ 8:9,10。―1926年7月15日号の「ものみの塔」誌の215ページをご覧ください。
49 「選ばれた」者たちの残れる者は,大いなるバビロンが野営を張った軍勢で取り巻かれるのを見るまで,そこから出ることを遅らせたりはしませんでした。なぜですか。
49 こうして,第一次世界大戦が1918年に終わった後,エホバの「選ばれた」者たちの生き残っている油そそがれた残れる者は,「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」を認め,それについての,また世界の舞台におけるその出現の意味に関する理解を得はじめました。彼らは第一次世界大戦中,大いなるバビロンとその政治および軍事上の情夫のとりこになりましたが,今や大いなるバビロンから出るようにとの天からの声に答え応じました。神の「選ばれた」者たちのその残れる者に後に加えられた,神を恐れる人たちもまた,神命に服して,(キリスト教世界を含む)大いなるバビロンを去りました。対型的な不忠実なエルサレムすなわちキリスト教世界は地上のエルサレムやパレスチナの地に局限されてはおらず,世界的なものですから,同世界から逃れる人たちは,キリスト教世界が第八世界強国(世界の平和と安全のための国際機構)の軍隊で包囲されるのを見るまで待つ必要はありません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」というみ使いの命令は,そうしたできごとが生ずるまで延ばされていたのではありません。
50 (イ)エホバの「選ばれた」者たちがそのように早くも逃れたことは,何を示すものとなりましたか。また,それはだれにとって良い模範となりますか。(ロ)「嫌悪すべきもの」が何を経験した後に,大いなるバビロンは滅ぼされることになっていますか。
50 それにしても,エホバの油そそがれた「選ばれた」者たちが,そうしたできごとの生ずる前に逃れたのは,不忠実なキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分の荒廃が近づいたことを,しかもこの世代のうちに,つまりあたかも「一時」のごとくに短い,第八世界強国の存続期間中に起こることを示す注目すべき事がらでした。こうして早くもエホバの「選ばれた」者たちがすぐさま逃れたことは,キリストの「ほかの羊」の「大群衆」が西暦1935年以来今日まで従うべき確かな模範となりました。対型的な不忠実なエルサレムであるキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分が「嫌悪すべきもの」の軍隊によって荒廃させられるのは,今や遠い将来の事がらではあり得ません。「嫌悪すべきもの」は第八世界強国として「底知れぬ深み」から上った後に大いなるバビロンを荒廃させるという点に留意すべきです。国際連盟という形を取った第八世界強国は,第二次世界大戦が1939年に勃発するとともに倒れて,「底知れぬ深み」同様の死同然の無力な状態に陥り,1945年に国際連合という形を取って「底知れぬ深み」から出てきました。(啓示 17:8,11,12)それはおよそ30年前のことです。逃れるのをもっと遅らせるのは確かに危険です!
「大患難」が類例のないものとなる理由
51 (イ)対型的な不忠実なエルサレムに臨む患難はどうして「大」患難となりますか。(ロ)大いなるバビロンから逃れるのを遅らせた人びとはどうなりますか。
51 現代の対型的な不忠実なエルサレムであるキリスト教世界の荒廃は,正に「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」の一部となります。(マタイ 24:21)キリスト教世界の領域は世界的なもので,地上のエルサレム市が首都として位置しているイスラエルの地よりもずっと広大です。「地の王たちの上に王国を持つ」大いなるバビロンの領域は,単なるキリスト教世界のそれよりもなおいっそう広大です。従って,象徴的な「十本の角」と緋色の「野獣」の残りの部分が,娼婦のような宗教上の大いなるバビロンを憎み始め,荒廃させるとき,その荒廃はこの地球全体を包含する,類例のない宗教上の大惨事となるでしょう。キリスト教世界は,流血の罪を負う不倫な大いなるバビロンの残りの部分すべてと同様,もはや神の保護を受けません。西暦70年におけるエルサレムの滅びが恐ろしいものであって,またそれが預言的な描写であったとすれば,この度の世界的な宗教上の大惨事もまた恐ろしいものでしょう。それで,天来の声に留意せず,大いなるバビロンの中に利己的にも留まってきた宗教家たちは,彼女の罪にあずかる者とみなされ,当然のこととして,彼女のこうむる災厄の一部を味わわされます。
52 (イ)大いなるバビロンの滅びはどうして「大患難」のほんの一部にすぎないのですか。(ロ)第八世界強国は荒廃者として行動した後,何を行ないますか。
52 大いなるバビロンの滅びは,きたるべき「大患難」のすべてではありません。その最初の部分にすぎないのです。この世の政治的・経済的・社会的分子は宗教上の大いなるバビロンと,快楽を求め,物質面で自らを富ませる,汚れた関係を持ってきました。彼らは大いなるバビロンの流血の罪,エホバ神に対する反対,イエス・キリストの真の弟子に対する迫害,また「王国のこの良いたより」を証しとして宣べ伝えるそれら弟子たちのわざに対する妨害行為などに彼女とともにあずかってきました。そのために彼らは神との貸借を清算しなければなりません。政治的分子はまた,第八世界強国つまり国際連合を支持しており,その諸国家は国連の成員国となっています。キリスト教的精神に反するこの第八世界強国は,メシアによるエホバの王国にふてぶてしい態度で抵抗しています。キリスト教世界の僧職者の協賛を得た同世界強国は,神のお用いになるキリストの正当な王国の占めるべき場所を地上で占めています。同強国は自分の以前の恋人である大いなるバビロンを荒廃させた後,エホバのお用いになる統治する王,子羊イエス・キリストに対して不敬にも全攻撃力を揮って戦います。
53 啓示 17章12-14節に述べられている事がらはどうして「大患難」の最高潮を成すものとなりますか。
53 使徒ヨハネはその最終的対決となる戦いを次のような象徴的な言い回しを用いて描写しています。「また,あなたが見た十本の角は十人の王を表わしている。彼らはまだ王国を受けていないが,[第八世界強国の成員国になることにより]一時のあいだ野獣とともに王としての権威を受けるのである。……これらの者は子羊と戦うであろう。しかし子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する。また,召され,選ばれた忠実な者たちも彼とともに征服する」。(啓示 17:12-14)これは「大患難」の最高潮,すなわちハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を意味します。その宇宙的な戦いについては啓示 19章11-21節にいっそう十分に説明されています。
54 それで,全能の神は地上のどれほどの多くの敵を相手取って戦われますか。その時になされる殺りくは,それ以前の何らかの例とどのように比べられますか。
54 この戦いには地球上の30億以上の住民が関係します。人間の創造以来1,656年ほど経た後の族長ノアの日の大洪水でさえ,全地球的な災害だったとはいえ,それほど多くの人間が関係したわけではありません。全能者であられる神はその「大いなる日の戦争」にさいして,地上の諸国家すべての核爆弾の全威力を凌駕できますし,地上の敵すべてを一緒にして相手取って戦うことができます。(啓示 16:13-16)それはこの地球がいまだかつて経験したこともない,また決して再び起こらないような大殺りくを予示しています。ですから,イエスが西暦70年における古代エルサレムの荒廃よりもはるか後代のことを見越して次のように評したのも何ら驚くにはあたりません。「事実,エホバがその日を短くされなかったとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに,彼はその日を短くされたのです」― マルコ 13:20。
55 (イ)どうして患難の日は「選ばれた者たちのゆえに」短くされるのですか。(ロ)だれがこの取決めを利用しますか。
55 奇跡的な事がらとならざるを得ないとはいえ,ある肉なる人びとは「救われ」ます。それはエホバが,「そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに」「大患難」の日数を少なくされるからです。ご自分の「選ばれた者たち」を地の表から取り去るのではなく,滅びに定められたこの事物の体制との協力関係から彼らを離れさせ,しかも「大患難」の始まる予定の時以前にそうさせることによって,エホバは患難の日数を少なくするのをよしとされます。また,ご自分の油そそがれた「選ばれた者たち」だけを保護に浴せる安全な状態のもとに助け出すのではなく,キリストの霊的な兄弟たちの最も小さな者たちに対してさえ善を行なう「義」にかなった羊のような人たちの「大群衆」をも同様に助け出してくださるのです。(マタイ 25:31-40)エホバ神はご自分の「選ばれた者たち」と「大群衆」の双方をやぎのような人びとから分けたなら,子羊イエス・キリストを用いて,この世界的な事物の体制のものとして留まる敵すべてに対して行なわれるご自身の復讐を「短」期間に手早く済ませることができます。―ローマ 9:28。
56 西暦70年におけるエルサレムの滅びのさい,救われた「肉なるもの」となったのはだれですか。どんな点で不興をこうむっていたにもかかわらず救われましたか。
56 これは「肉なるもの」が正しくこの地上で救われることを保証しています。創造者であるエホバ神は,人間の作った核爆弾か,刑を執行するご自分の天の軍勢のいずれかによって人類を地から一掃させようなどとはしておられません。西暦70年におけるエルサレムの滅びにさいしては9万7,000人のユダヤ人という形で「肉なるもの」が救われました。それら9万7,000人のユダヤ人はエルサレムが西暦66年に野営を張ったローマの軍隊で包囲されるのを見ました。しかし,その短期間の攻囲や「嫌悪すべきもの」が立ってはならない所,つまり聖なる場所に立ったことは,彼らのこうむった「大患難」の一部ではありません。その「患難」は二部に分かれてはいませんでした。ケスチウス・ガルス将軍によるその攻囲は不意に解かれ,ローマ軍の撤退は敗走と化し,ユダヤ人は勝利を博しました。しかし,「大患難」が西暦70年の春に正しく始まったとき,それら9万7,000人のユダヤ人が辛うじて生き残れたのは,患難の日数が少なくされたからにほかなりません。それら9万7,000人の人びとはエホバの「選ばれた者たち」ではなかったにもかかわらず救われて生き残りました。しかし,命は助かったものの,ローマ帝国内の至る所で奴隷として残りの人生を送ったにすぎません。
57 きたるべき「大患難」のさいに救われる「肉なるもの」を構成するのはだれですか。彼らについては何と言えるようになりますか。
57 迫り来る「大患難」の日数が少なくされることは,「肉なるもの」が再び救われる保証となります。とはいえ,この度のその「肉なるもの」とは,昔のエルサレムに閉じ込められた反抗的なそれら非キリスト教徒のユダヤ人同様の神の敵の一部ではありません。この度は神の敵はすべて刑を執行されて滅びます。神の「選ばれた者たち」のほかに,その「肉なるもの」となるのは,神のおきてに従い,滅びに定められた(キリスト教世界を含む)事物の体制を捨てて神の側に立っている従順な羊のような人たちの「大群衆」です。「肉なるもの」のその「大群衆」は,キリストの千年統治下の神の新秩序に救われて生き残るので,彼らについては,『これは大患難から出て来る者たちである』と言えるようになります。(啓示 7:14)その時,それら生存者の「大群衆」は何と幸いでしょう。また,患難を短くしてくださるエホバは何と恵み深い方でしょう。
偽メシアに対するメシアの警告
58,59 (イ)イエスが予告した偽キリストはどのように人を失望させるものとなりましたか。それら偽キリストはエルサレムの滅亡後,ユダヤ人にだれを待ち望ませましたか。(ロ)偽キリストに関連して用いられた策略についてイエスはさらに何と言いましたか。
58 イエスはご自身の「臨在」(パルーシア)と「事物の体制の終結」との「しるし」に関するご自分の預言の中で,西暦70年にエルサレムが荒廃する以前に偽キリストが来ることを指摘しました。イエスは不審に思う使徒たちに次のように言って,その特徴に関する預言を語りはじめました。「だれにも惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです」。(マタイ 24:4,5)しかし,彼らはにせ者,ぺてん師でした。というのは,彼らはエルサレムの何らかの解放も,またいかなる解放も全然もたらさなかったからです。エルサレムの滅亡後,メシアとしてのイエスを信じなかったユダヤ人は,肉身のメシアを引き続き待ち望まねばなりませんでした。一方,ユダヤ人および非ユダヤ人のクリスチャンは,真のメシアである神のみ子イエスの約束の「臨在」(パルーシア)を引き続き待ち望まねばなりませんでした。イエスは,ローマの軍団によるエルサレムの文字どおりの荒廃を予告した後,詐欺師らが関心のある者たちを誘って偽称メシアのあとを追わせようとして講ずる策略を説明し,次のようにことばを続けました。
59 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。ご覧なさい,わたしはあなたがたにあらかじめ警告しました。それゆえ,人びとが,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』と言っても,それを信じてはなりません。いなずまが東のほうから来て西のほうに輝き渡るように,人の子の臨在[パルーシア]もそのようだからです。どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているのです」― マタイ 24:23-28。
60 偽キリストが「荒野に」,あるいは「奥の間に」現われるのはどういうわけですか。
60 地上の他のだれよりも「人の子」イエスは,ご自身の到来と臨在をどのようにして成し遂げるかをよくご存じでした。彼は「ここ」とか「あそこ」,あるいは地上のどこか特定の場所に居を構えるわけではありません。イエスがある孤立した場所,つまり「荒野に」現われて,メシアを求める人びとがその地の政府当局者の目を逃れてそうした場所に出かけて行って彼の助けを求め,そこで彼の指導のもとに訓練を受け,政治的な思いきった攻撃つまりクーデターを敢行するよう準備し,イエスを世界のメシアなる支配者に仕立てるわけではありません。(使徒 5:36,37。サムエル前 22:1,2と比べてください。)また,イエスは選ばれた少数の者にしかご自身の所在のわからない,ある「奥の間」に隠れて,人に気づかれないよう,そこでひそかに陰謀を企て,共謀者と一緒に世界の政府を転覆させる秘密計画を立てて,自らを約束のメシアとして任ずるわけてもありません。(列王下 9:4-14と比べてください。)それとは反対に,イエスが王として到来し,王として臨在を開始することに関しては,隠すべき事がらは何もないことになっていました。
61,62 (イ)キリストのパルーシアはどんな点でいなずまのようになることになっていましたか。(ロ)公にされることに関し,使徒たちに話されたイエスのどんなことばが今日のその弟子たちに当てはまりますか。
61 イエスの臨在もしくはパルーシアはその影響の点ではいなずまに似ることになっていました。そのパルーシアは,突如として不意に,しかも一瞬のうちにきらめく点でではないのですが,いなずまのようになることになっていました。ここではいなずまが突然立ちどころにきらめくことではなく,東の方から西の方へと広範囲に輝き渡る点が強調されています。(ルカ 17:24)いなずまには詩篇 97篇4節で,『エホバのいなびかりは世界をてらす 地これを見てふるえり』と述べられているような照明力があります。同様に,地の住民は人の子のパルーシアに関して暗闇のうちに放置されたままにはされないことになっていました。地平線の果てから果てに至るまであらゆる人びとがイエスの王としてのパルーシアについて啓発されるのです。それはいなずまの照明力,つまり遙かかなたにきらめき渡る力による閃光のように公にされることになっていました。19世紀前にイエスが使徒たちに語った次のようなことばは,その見えないパルーシアについて精通している今日のキリストの弟子たちに当てはまります。
62 「それゆえ,彼らを恐れてはなりません。覆われているもので,おおいをはずされないものはなく,知られないで終わる秘密はないからです。わたしがやみの中で話すことを,明るい所で言いなさい。また,ささやかれて聞くことを,屋上から宣べ伝えなさい」― マタイ 10:26,27。
63 (イ)それら予告された偽キリストや偽預言者が起こるのは何のためですか。(ロ)忠実な「選ばれた者たち」は,実際に死がいがある所に集まる鷲にどのように似ていますか。
63 偽キリストや偽預言者が起こるのは,『できれば選ばれた者をさえ惑わす』ためです。(マタイ 24:23-25。マルコ 13:21-23)しかし,忠実な「選ばれた者たち」は「当てもなく探し回る」ことはしません。見える肉身の詐称者を求めて,さまざまな方面に導かれるようなことはありません。また,自らキリストと称して,自分がそうであることを示そうとして大々的な宣伝を行なう見える肉身の人間に引きつけられることもありません。(ルカ 17:22,23)どこに目を向けるべきかを聖書から学んで知っています。はるかかなたの眼下の地上にあるごく小さなものを拡大して的確に見分けられる遠目のきく鷲のようです。(ヨブ 39:27-29)したがって,偽キリストのもとに集まって,霊的に養われぬままに終わることはありません。えさになる死がいを遙かかなたから見つけることができ,そこに寄り集まって一緒に食べる鷲のように,「選ばれた者たち」は真の霊的な食物の見いだせる所を,すなわち見えない仕方でパルーシアの進行している真のキリストのもとに見いだせることを識別し,そこに一緒に集まって霊的な栄養物を見いだしています。―ルカ 17:37。
64 (イ)偽キリストはどこにだけ現われることができますか。それはなぜですか。(ロ)そこでイエスが述べたように,それらの日の患難の後,イエスのしるしはどこに現われますか。
64 王イエス・キリストはパルーシアにさいして地球の表面のいずれかの場所に肉体の形で現われることは決してありません。単なる血肉の人間にすぎない偽キリストが行ない得るのはただそれだけです。しかし,復活させられて栄光を受け,統治しておられる主イエス・キリストの場合は異なります。(テモテ第一 6:14-16)ご自分の預言をさらに発展させて次のように述べたイエスは,そのことに対して使徒たちの注意を喚起したのです。「それらの日の患難のすぐのちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天の諸勢力は揺り動かされるでしょう。その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:29-31。マルコ 13:24-27。
「すぐのちに」生ずる天界の諸現象
65 そこでイエスが指摘しておられた「それらの日の患難」とはどんな患難のことですか。イエスの予告した事がらは,そうした「患難」の「すぐのちに」,つまりその「のち続いて」起きましたか。
65 「それらの日の患難のすぐのちに」という表現によってイエスは明らかに,西暦70年にローマ人の手で中東のエルサレムにもたらされた「大患難」の日のことを指しておられました。とはいえ,歴史上の記録をどんなに調べてみても,のち立ち所に,のち続いて,つまり一連のできごとのように途切れずに続くという意味で「すぐのちに」起こるものとしてイエスが説明したような事がらは見いだせません。エルサレムの滅びをもって終わったその「大患難」ののち立ち所に「人の子のしるし」が「天に現われて」,ローマの攻囲軍や他の『地の部族』が,「力と大いなる栄光」を帯びて雲に乗って来る人の子の姿を見て,「悲嘆のあまり身を打ち」たたいたりしたわけではありません。信頼できる歴史の記録によれば,ローマ軍団は聖都エルサレムを滅ぼした後,ユダヤ人の最後の砦,死海西岸のマサダ山頂の要塞を攻囲して西暦73年に攻略し,それでユダヤ州全土の征服を完了しました。では,この点でイエスは間違っていましたか。
66 それで,この点でイエスは偽預言者でしたか。それとも,この点では「すぐに」ということばに関して,明らかに何が間違っていますか。
66 いいえ,イエスはその点で偽預言者ではありませんでした。神の聖霊による霊感を受けていた以上,間違えることはあり得ませんでした。では,ここで何が間違っているのでしょうか。それは明らかに,「すぐのちに」という表現に関する一般的な理解です。明らかにこの箇所の「すぐ」という意味は,ヨハネ 6章21節(欽定訳)のそれと同様です。その箇所では,イエスがガリラヤの海の水の上を歩いて行って,弟子たちの乗っていた船に乗り込んだ後のことがこう記されています。「船は直ちに,彼らの行かんとする地に着けり」。彼らがその地に着くまでには確かに一瞬間以上の時間が経過しました。そのことばは次のように記されている啓示 1章1節の「ほどなくして」ということばに似ています。「イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである」。この「ほどなくして」ということばは時間の点で,使徒ヨハネが西暦96年ごろその啓示を得た時から,二十世紀の現代におけるその啓示の成就する時までの期間を指すものとしてその意味が広げられています。(ローマ 16章20節の「まもなく」ということばで表わされている時間の長さと比べてください。)
67 では,「すぐのちに」というイエスのことばはどう解すべきですか。
67 マタイ 24章29節のイエスの預言と知り得る諸事実とを調和させるためには,イエスの用いた「すぐのちに」という表現は,二十世紀の現代に至るまでの何世紀もの期間を飛び越すものと解さねばなりません。d 西暦1914年以来,人の子のパルーシアの期間の経過している今日,その節でイエスが予告したことに正しく相当する事がらや事件が確かに起きています。
68,69 (イ)1914年以来の世界情勢は,天体に関してイエスが予告した事がらの影響とどのように似ていますか。(ロ)自助能力に欠けているゆえに,人間はイザヤ書 59章9,10節およびゼパニヤ書 1章17,18節に描かれている人たちにどのように似ていますか。
68 歴史家は人類が西暦1914年以来その生存期間の中でも最も暗たんたる時期に入ったことを認めます。それはあたかも日中に太陽が「暗くなり」,夜には月が「その光を放たず」,また月の光が照らないその同じ夜に,星が天から落ちて夜の暗闇の中に消えてしまったかの観を呈しています。キリスト教世界を含め,滅びに定められている事物の体制にとって,日中でも夜でも,将来に対する明るい見通しはありません。キリスト教世界においてさえ,人間は独自の人為的手段で世界情勢を切り抜ける道を見つけることはできません。このことはいみじくも昔の聖書預言の中で次のように言い表わされています。
69 『われら光をのぞめど暗きをみ 光輝をのぞめど闇をゆく われらはめしいのごとくかきをさぐりゆき 目なき者のごとくさぐりゆき 正午にても日暮のごとくにつまずき 強壮なる者のなかにありても死ぬるもののごとし』。(イザヤ 59:9,10)『われ[エホバ]人々に患難をこうむらせて盲者のごとくに惑いあるかしめん彼らエホバにむかいて罪を犯したればなり彼らの血は流されて塵のごとくになり彼らの肉は捨てられて糞土のごとくになるべし かれらの銀も金もエホバの烈き怒りの日にはかれらを救うことあたわず全地その嫉妬の火に呑まるべし すなわちエホバ地の民をことごとく滅したまわん その事まことに速やかなるべし』― ゼパニヤ 1:17,18。
70 (イ)科学的観察に照らして考えると,天はその恵み深い様相をどのように失ってきたことがわかりますか。(ロ)天の諸勢力はどんな仕方で揺り動かされてきましたか。
70 天はその恵み深い様相を失ったように思えます。現代科学は太陽の表面から何千㌔もの高空に噴射される原子エネルギーの巨大な火焔について教えています。それは太陽黒点のように見えますが,地球に到達して影響を与える粒子の膨大な嵐を放つのです。地球は宇宙空間の未知の領域から飛来する見えない核エネルギーの放射線を絶えず浴びています。電波望遠鏡は最も強力な天体望遠鏡を用いても見えない恒星から届く電波による信号を捕えますが,そのような電波はその種の恒星が宇宙空間に同様に存在する証拠となっています。宇宙飛行士たちはこれまでに六回月面に降り立ちましたが,中にはその月を地上の敵に対して行なわれる戦いを指揮する軍事基地に変えたいと考える軍事専門家もいます。また,超音速の軍用機や恐るべき破壊力を有する核爆弾を装備した弾頭を持つ大陸間ミサイルのことを考えると,「天の諸勢力は揺り動かされるでしょう」と述べたイエスのことばの重大な意味をいっそう正しく評価できます。(マタイ 24:29)人間は天空や宇宙空間に侵入し,事物の正常な均衡を乱してきました。
71 (イ)海洋はどのように脅威をもたらすものと化しましたか。大気はどのように悪影響を受けてきましたか。(ロ)1970年に発行されたロンドンのメディカル・ニューズ-トリビューン誌は,どんな警告を掲げましたか。
71 かつて神秘な領界とされていた海洋さえ今や脅威をもたらす領域と化しました。海洋には,陸上の無防備な住民に恐るべき破壊をもたらすミサイルを海底から発射できる最新式の近代装備を整えた,人間の作った潜水艦が群れをなしています。それに加えて,命を脅かす老廃物を深海に投棄するため,海は汚染されています。海は地上最低の場所である中東の死海のように死に陥いる脅威にさらされています。同時に,陸上はもとより海上の大気も工場や自動車,大陸や大洋を横断する飛行機などが出す,増大する危険な排気ガスで汚染されています。ロンドン(英国)のメディカル・ニューズ-トリビューン誌,1970年3月27日号が,「1984年までに地球は死に絶える恐れがある」と題する大見出しの警告を掲げたのは,事の成り行きを多少でも正しく見通したうえでのことでした。
「人の子のしるしが天に……」
72,73 (イ)地球という惑星そのものが滅びるのでないとすれば,何が,またどのようにして滅ぼされることになっていますか。(ロ)19世紀前にはメシアに関するどんなしるしが与えられましたか。しかし,イエスはそのパルーシアの期間に何が与えられると述べましたか。
72 しかし,惑星であるこの地球は,人間が引き起こす核戦争によって滅ぼされることは決してありません。それが「かつての偉大な惑星であった地球」などと称されることは決してありません。その創造者は地球が人間を含めてあらゆる生物のいない所と化すようなことは決して許されません。滅ぼされるのは,今この地上で存続している事物の国際的な体制です。その滅びは,神のメシアなる王イエス・キリストとその配下の聖なるみ使いたちすべてにより神からもたらされます。イエスが人の子と呼ばれて,肉身の姿で地上におられたときのこと,彼が正しく約束のメシアであることを示す証拠として「天からのしるしを見せてくれるよう」,懐疑的なユダヤ人はイエスに頼みました。しかしイエスは,地的なしるし,つまり「ヨナのしるし」以外は何も与えられないと彼らに告げました。イエスが死んで地のただ中であしかけ3日を経,ついで死人の中から3日目によみがえらされたとき,そのしるしが与えられました。(マタイ 16:1-4; 12:39,40)しかし,霊の様によるイエスの見えないパルーシアの期間である今,地上の住民には「天に」現われる「しるし」が与えられます。天の諸勢力がどのように揺り動かされるかを述べた後,イエスはさらにこう言いました。
73 「その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう」― マタイ 24:30。
74,75 (イ)マタイ 24章30節の「来る」というイエスのことばは何を指していますか。その「来る」ということは,どのようにして成し遂げられていますか。(ロ)「天に」現われる「しるし」に関するこの預言は,ダニエルのどんな預言と関係していますか。
74 これは霊の様によるイエスのパルーシアの始まり,つまりその到着ではなく,「世のはじめから[まだ]起きたことが……ないような大患難」にさいしてイエスが「来る」(ギリシャ語: エルコーメノン)ことを指しています。それも,「天の雲に乗って」来るものとして描写されていますが,それはイエスが長期間にわたる注意をこの地に向け,また壊滅的な威力を伴うその力をこの地に及ぼすことによって見えない様で来ることをはっきり示しています。人びとはそうした威力が人間からではなく,天から,つまり神の代表者として行動する,栄光を受けた人の子からもたらされるものであることを思い知らされます。これは預言者ダニエルが見た天のしるしと関係しています。彼はそれを次のように描写しています。
75 『我また夜のまぼろしのうちに観てありけるに人の子のごとき者 雲に乗りて来たり日の老いたる者のもとにいたりたれば すなわちその前に導きけるに これに権と栄えと〔王国〕とを賜いて諸民 諸族 諸音をしてこれに事えしむ その権は永遠の権にして移りさらず またその〔王国〕はほろぶることなし』― ダニエル 7:13,14〔新〕。
76 (イ)ダニエルの幻はいつ成就し始めましたか。(ロ)あらゆる部族は人の子が「来る」のをどのようにして見ますか。その時,どんな人びとは,彼らとともに自己本位の態度を取って嘆き悲しむようなことはしませんか。
76 ダニエルのその幻は西暦1914年以降,霊的な天で成就しましたが,目には見えませんでした。それで,神のご予定の時に,栄光を受けた人の子は大いなるバビロン(キリスト教世界を含む)とこの地の敵対する諸国民に対してご自分の権威と力をもって処置をとります。人の子が彼らに対して処置をとっていることを示す証拠を,彼らは見たり感じたりすることができますが,それが彼らにとって「天に」現われる「しるし」となります。差し迫った自分たちの絶滅に直面して,「地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき」ます。しかし,神の「選ばれた者たち」の残れる者と羊のような人たちの「大群衆」はすべて,大いなるバビロンとその情夫たちから離れているので,おびえるそれら地の諸部族とともに自己本位の態度を取って嘆き悲しむようなことはしません。彼らはすべて,統治する王イエス・キリストの右側に集められているのです。―啓示 7:9-17。マタイ 25:31-40。
「選ばれた者たち」がみ使いによって集められる
77 (イ)その時までには,何を集めることが成し遂げられていますか。それはいつから行なわれてきましたか。(ロ)そのようにして集めることは,「大きなラッパ」の音によってなされるように成し遂げられてきました。どのようにしてですか。
77 その時までには,イエスが次に述べておられる事がらが成し遂げられています。すなわち,こう記されています。「そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」。(マタイ 24:31)「選ばれた者たち」をみ使いがこうして集めることは,イエスのパルーシアの期間であるこれまでに行なわれてきました。西暦前537年にユダヤ人の残れる者がバビロンから故国に戻ったように,「選ばれた者たち」が大いなるバビロンに囚われた状態から去って,地上における神から与えられた霊的な状態に戻り始めたのは大戦後の1919年のことでした。メシアによる神の王国は天で樹立されており,彼らは天のその王国の側に堅く立って,「王国のこの良いたより」を世界中に宣べ伝えるべきであるという宣言はそれ以来,「大きなラッパの音」のように鳴り響いてきました。良いたよりに関するその発表はラッパによってなされるように大声で「四方の風」の方向に向かって行なわれ,天の一方の果てから他方の果てにまで鳴り響き,聞こえてきました。
78 (イ)「選ばれた者たち」がこうしてみ使いによって集められてきたことは,すべての人に,それも特にどんなできごとによって明らかにされてきましたか。(ロ)とりわけだれが,そうした集めるわざに気づいて行動を起こしてきましたか。
78 その「大きなラッパの音」の人を引きつけるような響きと一致して,パルーシアを開始した人の子に付き添っている天のみ使いたちは,その「選ばれた者たち」を地球上の四方八方から集めてきました。こうして集められてきたことは,特に1919年9月1-8日にわたって開かれた国際聖書研究者協会の大会を皮切りに,1973年中,地球の至る所でエホバの証人の催した「神の勝利」と題する主題に基づく国際大会に至るまでの一連の大規模な大会において,あらゆる人びとの目にはっきりと示されてきました。(「ものみの塔」誌,1973年5月1日号の284,285ページに載せられた国際大会に関する発表をご覧ください。)とりわけ「大群衆」に属する人びとは,キリストのパルーシアの期間中に「選ばれた者たち」がみ使いによって集められていることに気づいており,彼らもメシアによるエホバの王国の側に立ち,集められた「選ばれた者たち」とともに集まり,また一緒に働いています。
79 イエスの預言のこれまでの成就から見て,明らかに地上の諸部族がどんな感情を表わす時が近づいていますか。
79 「事物の体制の終結」に関するイエスの預言のこれまでの成就からしてその弟子たちは,地のすべての部族が,栄光を受けた人の子の手によってもたらされる自分たちを脅かすものを見て『悲嘆のあまり身を打ちたたく』ようになる時が非常に近いことを知っています。
それが近いことを確定するものとなる例え
80 「大患難」が危機的なほどに近いことを知るには,イエスがご自分の預言のこの重大な時点で行なったどんな発言に留意する必要がありますか。
80 わたしたちは,この「事物の体制」全体に対する「大患難」が勃発する正確な年とその日,またその時刻を知る必要はありません。今やそれが危機的なほどに近いことを知るには,イエスがご自分の預言の中で,それもこの重大な時点で次のように述べたことに留意しさえすればよいのです。「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなたがたはすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなたがたは,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。あなたがたに真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしのことばは決して過ぎ去らないのです」― マタイ 24:32-35。
81 この世代のわたしたちはどんな証拠から,イエスの予告した「しるし」の成就が近いことを知り得ますか。
81 1914年における第一次世界大戦の勃発を目撃したこの世代のわたしたちは,「彼が近づいて戸口にいる」ことを知るには,イエスの預言の成就に関してさらにどれほど多くの事を見なければならないのでしょうか。証拠という点でさらに何を求め得るでしょうか。わたしたちは,1914年における異邦人の時の終結以来,地上で起きてきた種々の事がらに関して不安な無知の状態に放置されてはいません。聖書を研究する,理知的で,理解力のある者としてわたしたちは,「[キリストの]臨在と事物の体制の終結のしるし」の成就が近いことを確信しています。―マタイ 24:3。
82 イエスのパルーシアの期間中の世界のできごとに対してわたしたちはどのように行動すべきであるとイエスは述べましたか。
82 そのためにわたしたちは意気阻喪しますか。それは現在の生活からすべての喜びを奪いますか。奪うようであってはなりませんし,また奪ってはいません。なぜなら,イエスは見えない様でなされるご自分のパルーシアの期間中の世界のできごとに対してどのように行動すべきかを弟子たちにこう告げられたからです。「また,太陽と月と星にしるしがあり,地上では,海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います。天の諸勢力が揺り動かされるからです。そのとき彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。しかし,これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身を起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」― ルカ 21:25-28。
83 それで今は,「選ばれた者たち」や「大群衆」に属する人びとは何をすべき時ではありませんか。その救出は彼らにとって何をあらかじめ示すものですか。
83 この世代のわたしたちは「これらの事が起こり始め」るのを見てきましたか。「これらの事」が西暦1914年以来の何十年間かにわたってずっと起きてきたのを見てきましたか。わたしたちはそれを見てきたのですから,国際的な「苦もん」のために頭を垂れる理由はありません。わたしたちは,キリスト教世界を含む大いなるバビロンの強いる奴隷状態のもとで身をこごめる理由はもはやありません。今は,いと高き神で,主権者なる主エホバの自由な崇拝者らしく,身をまっすぐ起こすべき時です。今はもはや,絶望して下を向き,地面に視線を落とすべき時ではありません。今は頭を起こして天を見上げ,イエスの預言の収められている聖書の明るく輝く光のうちに,人類のための極めて心強い将来を指し示す証拠を認めるべき時です。そうした証拠の意味には間違える余地はありません。救出は近づきました! このことは神の「選ばれた者たち」とその仲間の崇拝者たちの「大群衆」が目前に迫った「大患難」を生き残れることをあらかじめ示しています。神の保護のもとにその「大患難」から出て来るとき,わたしたちは,死をもたらす現在のこの事物の体制の回復不能な廃虚をあとにします。わたしたちの前には神の新しい事物の体制が堂々と開けてゆくのです!
[脚注]
a ダニエル書 9章26,27節にはこう書かれています。「その六十二週の後,メシアは断たれる。彼のうちに悪事はないが。そして,彼はやって来る支配者とともに,その都と聖所とを破壊する。それらは洪水で破壊され,ついには定められた戦いの終わりに至って荒廃をこうむる。さて,一週,多くの者のために契約を堅く結び,その週の半ばにわたしの犠牲と献酒は取り去られる。神殿の上には荒廃させる忌むべきものが現われる。そして,ついに終わりがその荒廃させるものにふりかかる」― チャールズ・トムソン訳,七十人訳聖書(英文)。
b ヨセフス著,「ユダヤ戦記」第二巻,第十九章1-7節をご覧ください。
c 英文新世界訳から翻訳されたものです。
d 「ものみの塔」誌,1971年3月1日号,151ページの30,31節と比べてください。イエスはその同じ預言のマタイ 24章36節で,ご自分がこの事物の体制を滅ぼすために来る「その日と時刻」についてはいかなる被造物も知らないと言われたので,「すぐのちに」という表現がエルサレムの滅亡後どれほど間もない時期を意味しているかをうんぬんできる人はいませんでした。19世紀後に生きている私たちは,その短い表現がそうした長い期間をどのように橋渡ししているかを正しく評価できます。マルコの記述の中の対応する節では,「のち」という前置詞の前に「すぐ」という副詞が用いられていない点にも注目できます。―マルコ 13:24。