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覚えていますかものみの塔 1983 | 3月15日
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は身体的な病気よりもはるかにひどい事柄です。(マタイ 12:31,32)―82/11/15,31ページ。
□ クリスチャンはなぜ時間を意識するべきですか。
神はご自分の意志や裁きを表明するための定めの時を常に設けてこられました。聖書を調べるなら,キリストの目に見えない臨在のような,人間に影響を及ぼす様々な出来事がいつ生じるか意識していることができます。―83/1/1,4-7ページ。
□ 神の支配が現実のものであることを示す,どんな際立った証拠が今日ありますか。
神の王国に既に服するエホバの証人が世界中に幾百万も存在していることは,神の支配が現実のものであることの証拠です。その人たちはもはや人種的偏見をもって,また国家主義的な見方で物を見るのではなく,兄弟姉妹として一団となり,一致して働いています。(ヨハネ 13:34,35)―83/1/15,7ページ。
□ 荒廃をもたらす「嫌悪すべきもの」が侵入する「聖なる場所」とは何ですか。
「聖なる場所」とは,地上の忠実な油そそがれたクリスチャンが代表する「天のエルサレム」のことです。しかし,宗教指導者たちは,国際連合を神の王国に代わるものとすることにより,事実上この人間製の代用物を「聖なる場所」に立たせました。それは神の目に「嫌悪すべきもの」です。また,キリスト教世界は同世界の宗教的活動分野を表わす「聖なる場所」を持っていると主張します。今日,国際連合は,神を信じない多くの国々の行動により,キリスト教世界のその「聖なる場所」にとって脅威となっています。神の預言の言葉は,そうした対決が荒廃という結果になることを示しています。(啓示 17:16)―83/2/15,5,6ページ。
□ パウロがエフェソス人への手紙の中で論じている「神聖な奥義」とは何ですか。
それは,神の「管理」によって宇宙の平和と一致を回復させるという神の目的です。(エフェソス 1:9,10)―83/3/1,9ページ。
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読者からの質問ものみの塔 1983 | 3月15日
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読者からの質問
■ 啓示 20章5節は,「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」と述べています。これは最終的な試みの前のことですか,それとも後のことでしょうか。
この表現は,千年期の終わりに人間が完全な状態に達した時,しかしサタンが底知れぬ深みから解き放たれて人類に決定的な試みをもたらす前の時期に当てはまるものと思われます。
啓示 20章5節の文脈は,キリストと共同の相続人にならせるべく神が復活させる,油そそがれたクリスチャンに関するものです。(ローマ 8:17)その人々は,「生き返り,キリストと共に千年のあいだ王として支配」します。(啓示 20:4)この点をはっきりさせた後,さらにこれらの支配者たちについて述べる前に,啓示 20章5節は地上に住む人々について次のような注解をはさんでいます。「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」。
身体的には死んで,千年期の間に地上に復活させられる人々は,依然として不完全な人間です。また,神の戦いを生き残る人々も即座に完全にされ,罪がなくなるのではありません。地上に生き残ることになるそれらの人々は,千年期の間,神に忠実を保ち続けることにより,徐々に完全性へと進歩してゆくものと思われます。ですから,どちらの部類に属する人でも,受け継いだ罪から解き放たれていない限り,それらの人々は神の目にはある意味で「死んで」いるのです(それゆえまだ完全に生きているとは言えない)。―ルカ 9:60。エフェソス 2:1。
復活した人であれ,「大患難」を生き延びた人であれ,千年期の間に生まれてきた人であれ,その人々の見込みは明るいものとなり得ます。(啓示 7:14)神に対して忠実で,キリストの贖いの益を受け入れるなら,千年期の終わりにもはや罪と不完全さに苦しむことはなくなります。受け継がれた『死はもはや王として支配しません』。(ローマ 5:14)それどころか,アダムとエバが罪を犯す前のような状態になり,人間としての完全性に達しているでしょう。
ですから,千年期の終わりに地上で神に仕える人々,つまり「残りの死人」は,『完全な人間の命に達して』おり,イエスは完全な人類をみ父に首尾よく返すことができるでしょう。(コリント第一 15:28。啓示 20:14)啓示 20章7-10節がさらに示しているように,サタンはその後人類に対する徹底的な試みのために解き放たれます。その試みのもとでエホバに忠節を実証する人々は,楽園で人間としての永遠の命を受けるにふさわしいものとされます。
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