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「さあ,花婿だ!」神の千年王国は近づいた
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たとえ話の中では,そのために処女たちはそれぞれランプに油を補充しなければなりませんでした。彼女たちのともしびは「消えそう」だったからです。しかし残念なことに,愚かな「処女」たちは自分のランプにすぐには油を補充できないことに気づきました。油を入れ物に満たして携えてはいなかったのです。一方,思慮深い処女たちは携えていました。そのために処女たちは二分されることになりました。なぜですか。マタイ 25章8,9節はその点をこう説明しています。「愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました,『あなたがたの油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから』。思慮深い者たちはこう答えました。『わたしたちとあなたがたに足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のを買いなさい』」。
20 愚かな者たちと自分の油を分かち合うことを拒んだ思慮深い処女たちは,利己的でしたか。思慮深い者たちはどんな決意を抱いていましたか。
20 夜中のその時刻に出て行って,開いている灯油店,もしくは必要な油を用立ててくれる灯油商を探し出すのは,それら愚かな処女たちにとってどんなに困難なことかは想像するにかたくありません。それでは,自分たちの蓄えを無思慮な処女たちと分かち合おうとしない思慮深い処女たちは利己的だったのではありませんか。いいえ,そうではありません。もしそうしていたなら,十人の処女たちはひとりも,花婿の家の戸口に着いて婚宴に招じ入れられたりはしなかったからです。十人の処女たちが皆で蓄えを分け合っていたなら,そこに着かないうちに油は尽きてしまったでしょう。思慮深い処女たちは,急場のための油を携えて行くことにより,どうしてもそこに着かねばならないと感じていることを示しました。そのことはまた,彼女たちが皆そこに着く決意でいたこと,そして今やそれら思慮深い処女たちは自分たちの努力がだいなしにされ,花婿へのお祝いのためという自分たちの正しい意図が阻まれるのを許すつもりはないことを示しました。それに,愚かな処女たちは,思慮深い処女たちが功を奏するのを妨げたり,危うくさせたりなどせずに,なおほかの所からでも油を入手できたのです。
21 これは,聖書を研究して花婿について学びたいと願う人に対する「思慮深い」処女級の取り扱い方に関して何を意味してはいませんか。
21 このことは,天の花婿のパルーシアもしくは臨在が始まっている現代におけるそのたとえ話の成就に関しては,どのように解されますか。それは主イエス・キリストの目に見えない臨在について聞いたある正直な人が「思慮深い」処女級の人に聖書研究を司会してもらい,花婿のお祝いに加わらせてもらいたいと願う場合,「思慮深い」処女級の者がそうすることを拒み,自分で何とかするようにと,その人に告げることを意味していますか。その人が神のみことばと聖霊で満たされたいと願う場合,そうすることはこのたとえ話の教訓に背くことになりますか。決してそうではありません。
22 「油」を分かち合うという問題を考慮するさい,灯をともしたランプを高々と掲げることは何を意味していることを思い起こすべきですか。その「油」は何を象徴していますか。
22 では,その成就において,「思慮深い」処女級はなぜ「愚かな」処女級と自分たちの油を分かち合うことを拒んだのでしょうか。自分の入れ物に油を入れて持っていることは,自分自身の内に象徴的な油を持っているのと同じであることを,わたしたちは銘記しておかなければなりません。また,灯をともしたランプを高々と掲げるのは,人が自分の光を輝かせる,つまりこの無知蒙昧の暗い世の人びとがわたしたちの良いわざを見,またそれゆえに神の栄光をたたえるようになるために,発光体のように自ら輝くのと同じことです。(マタイ 5:14-16。フィリピ 2:15)啓発する力を与えるのは,象徴的な油であり,その「油」は,神の崇拝者にとってともしびとも光ともいうべき神のみことばと(詩篇 119:105),わたしたちのために神のみことばを解明し,またその所有者すべての内に「霊の実」と呼ばれる優れた敬虔な特質を生み出す神の聖霊の両方を表わしています。(ガラテア 5:22,23。エフェソス 5:18-20)では,「思慮深い」処女級は,自分の内に持っているこの「油」,つまりこの啓発する力を減らすべきでしょうか。そしてついには,輝かなくなってもよいのでしょうか。
23 (イ)「愚かな」処女級は「思慮深い」処女級が自分たちに対して何を行なうことを望んでいますか。(ロ)「愚かな」処女級の人たちはどんな「クリスチャン」ですか。
23 それこそ「愚かな」処女級が「思慮深い」者たちに行なわせたいと思っていることなのです。「愚かな」者たちは,「思慮深い」者たちが自分たちと妥協することを望んでいます。
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「さあ,花婿だ!」神の千年王国は近づいた
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25 (イ)では,「思慮深い」処女級に関して問題となっているのは何ですか。(ロ)要求に最終的にかなうためには,彼らはペテロとパウロのどんなことばを実行する必要がありますか。
25 問題は明らかです。「思慮深い」処女級の人たちは,キリスト教世界に見られるような単なる宗教的感傷によって影響されることになるのでしょうか。彼らは自分たちの霊的な「油」を枯渇させ,真のクリスチャンとして終わりまでずっと輝くことを不可能にさせられ,花婿に伴って婚宴の間の戸口に到達するまで光を掲げる者たちの行列から,やがて落伍せざるを得なくなるようにさせられるままにするつもりでしょうか。彼らは,ペテロの第二の手紙 1章10節が述べるように,『自分の召しと選びを自ら確実にするため力をつくして励む』ことが必要です。地上の生涯の終わりが迫ったころ,次のように書き記した使徒パウロに見倣わねばなりません。「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました。今からのち,義の冠がわたしのために定め置かれています。それは,義なる審判者である主が,かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです」。彼らは花婿の婚宴の開かれる部屋に通ずるあの戸口に到達するとき,キリスト教の要求にことごとくかなっていなければなりません。―テモテ第二 4:7,8。
26 第一次世界大戦中,「思慮深い」処女級はどのようにして束縛状態に陥りましたか。その級の人たちは1919年になぜ「愚かな」処女級との交わりを絶ちましたか。
26 そのような理由で,「思慮深い」処女級は,小麦と雑草あるいは毒麦(ホソムギ)のたとえ話の中の雑草のような,単にキリスト教を奉ずると自称する人たちとの交わりを絶ちました。第一次世界大戦中,彼らは偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンとその軍事・政治および司法上の情夫に捕われた状態に陥っていました。彼らはかなり,有力な地位にある人間に対する恐れのゆえに束縛されただけでなく,投獄されたり,兵営その他の場所に拘留されたりして文字どおり捕われの身となりました。が,1919年,彼らは大いなるバビロンに関する天からの次のような召しの声に答えて行動しました。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。(啓示 18:4)彼らはその問題で「愚かな」処女級と妥協することはできませんでした。彼らは大いなるバビロンとその世俗的な情夫たちよりもむしろ神に従わねばなりません。彼らはまた,野獣の像,つまり西暦1919年に大いなるバビロンが高々と乗った国際連盟を崇拝する点で,大いなるバビロンと行動をともにすることはできませんでした。―啓示 13:14,15; 14:11,12; 17:1-18。
27 1919年9月7日,日曜日に公に述べられたことばが証明するように,「思慮深い」処女級の立場はどのように最初から明確でしたか。
27 この問題で「思慮深い」処女級が取った立場は,最初から明確なものでした。その証拠として,1919年9月7日,日曜日,午後,シーダー・ポイント大会でラザフォード会長は「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演を行ない,その中で国際連盟は神の不興を買うものであることを指摘しました。1919年9月8日,月曜日付,サンダスキー(オハイオ州)・スター-ジャーナル誌に発表された報告を次に引用します。
日曜日,午後,ラザフォード会長は,木陰に参集したおよそ7,000人の聴衆に向かって講演を行なった。同会長は,平和で豊かな時代を確立することによって人類の向上を図りたいとの願いに動かされた政治および経済上の諸勢力により創設された国際連盟は,多大の善を成し遂げるであろうと言明し,次いで,それにしても,僧職者は ― カトリックもプロテスタントも ― 神の代表者と称しながら,神の計画を放棄し,国際連盟を承認し,連盟を地上におけるキリストの王国の政治的表現として歓呼して迎えたゆえに,主の不興が連盟に臨むのは必至であると断言した。―1919年10月1日付,「ものみの塔」誌,298ページ,第1欄。
28,29 「思慮深い」処女級はなぜこうした立場を取りましたか。ヤコブの用いた非難のこもったどんな用語は,彼らには適用できませんでしたか。
28 「思慮深い」処女級は,1914年における異邦人の時の終結にさいして神の愛するみ子の王国が天で樹立されたという信仰を抱いていたので,妥協せずにその王国を支持し,その代用物はいっさい認めたり,崇拝したりすることを拒みました。彼らは自分たちの霊的な「油」を少しでも配って,神のメシアによる王国に対する全き専念の度合いを弱めさせることはできませんでした。王国に対するそうした堅い愛着はこの世で,あるいはこの世の友の間で彼らに人気を得させるものとはなりませんでした。それは彼らに対するこの世の憎しみを強めました。しかし,世からのそうした憎しみや敵意は,彼らが天の王である花婿と自分たちとの関係をほんとうに固守していることをかえって明らかにするものとなりました。彼らに対して,「姦婦」という非難のこもった用語を適用することはできませんでした。それは弟子ヤコブが1世紀当時の会衆のある成員をさして,次のように述べて用いた語だからです。
29 「姦婦たちよ,あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」― ヤコブ 4:4。
30,31 そうすることによって,「思慮深い」処女級は,許嫁の処女の特質をだれに示しましたか。そうした花嫁の美しさはイザヤの預言の中でどのように描写されていますか。
30 それで,蓄えておいた霊的な「油」すべてを妥協せずに保持し,それを用いて自らを明るい焔を上げて燃え続ける「ともしび」のような状態に保つことによって,「思慮深い」処女級は,自分たちがその許嫁となっている,あるいは婚約している天の花婿を礼遇していました。彼らはその「ひとりの夫」である主イエス・キリストの天の花嫁になる人たちの内に求められている,忠節で,貞潔で,清くて,純粋な特質を自らのうちに光輝かせていました。
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33 イエスのたとえ話によれば,「思慮深い」処女たちは「愚かな」者たちに向かって何と言うことしかできませんでしたか。こうして,「思慮深い」者たちは何を示しましたか。
33 「愚かな」処女級は霊的な「油」を欠いていたため,到着して居合わせており,婚宴に臨もうとしていた花婿を礼遇しようにも光輝くことができませんでした。彼女たちには,「思慮深い」者たちが自ら携えていて,花婿の跡を追うために必要としていた「油」を少しでももらう資格はありませんでした。それで,たとえ話によれは,「思慮深い」者たちは「愚かな」者たちに次のように言うことしかできませんでした。「わたしたちとあなたがたに足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のを買いなさい」。(マタイ 25:9)そうした態度を取った「思慮深い」処女たちは自分たちの思慮深さをいっそう示し,無思慮で,無分別な処女たちの愚かさは彼女たちにとって悲惨なものとなりました。彼女たちは灯油商を探し出して,自分たちのランプに油を補充しなければなりませんでした。
34,35 たとえ話の成就において,油をそのように買うということは,どのようにして行なわれましたか。しかし,その間に何が起きたことをたとえ話は示していますか。
34 同様に,たとえ話の成就においても,「愚かな」者たちは自分たちの必要とする霊的な「油」を入手しなければなりませんでした。彼らは自分たちの信条にしたがって,天に入る道を開くものとなる「油」を入手できると宗教上感じていた所に行きました。したがって彼らは,宗派や分派に分かれている自分たちの宗教制度の販売している一種の「油」を求めて,そうした宗教制度を探し出し,そして天の花婿に正しい仕方で専念することなしに,快く代価を払えるような「油」をそうした商人から入手しました。
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