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エホバの証者の逮捕をうながすカトリック牧師ものみの塔 1962 | 12月15日
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的な行いは,「偶像を礼拝する者」が神の国をつがないことを,信徒に警告することではないでしょうか。―コリント前 6:9。黙示 22:15。
三位一体(神とキリストが同等であると教える)というカトリックの教えを,「父がわたしより大きいかたである」(ヨハネ 14:28,新口)と述べたイエスの教えとくらべるのに,何のごまかしも必要ありません。コリント前書 11章3節に使徒パウロの述べた,「キリストのかしらは神である」(新口)という言葉からも,イエスの言われたことの意味は明らかです。キリストは神に従うのであって,神と同等でないことは,聖書から見て全く明らかです。―コリント前 15:28
聴書のエゼキエル書 18章4節とマタイ伝 10章28節(この牧師の引用している句の前半だけでなく,その全部を読んで下さい)を開くと,カトリックの教えとは違って,人間の魂は死ぬこと,滅びることが分かります。パウロによれば,彼の時代においてさえ,神のほかに不滅性を持つのはキリストだけでした。(テモテ前 6:16)従ってだれでも生来,「不滅の魂」を持っているのではありません。天の生命を追い求める競争にはいるクリスチャンは,不滅性を持たないからこそ,それを求めるのです。この事実を認めるのに,何のごまかしもいりません。―ロマ 2:7。
カトリックの神学者は,イエスの母の肉体が神によって天にあげられたと教えるかも知れません。しかし「肉と血とは神の国を継ぐことができない」(コリント前 15:50,新口)ことを強調している聖書の言葉を,人々に無視させることはできません。また牧師は,ミサの儀式によって日毎にキリストの犠牲をくり返すと教えます。その事を信じたいならば,そうしなさい。しかし聖書を取り出して,パウロの次の言葉を読むことが,「ごまかし」であるなどと言うべきではありません,「ところが,キリストは,ほんとうのものの模型にすぎない,手で造った聖所にはいらないで,上なる天にはいり,今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。大祭司は,年ごとに,自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが,キリストはそのように,たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば,世の初めから,たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実,ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために,世の終りに,一度だけ現れたのである」。―ヘブル 9:24-26,新口。
だれの弟子
カトリックの牧師が,カトリックの人々にむかってエホバの証者と聖書を論じてはいけないと言い,また「改宗を図る彼らの活動を警察に密告せよ」とすすめている理由は,これらの聖句から明らかです。自分でも認めているように,聖書の知識のかぎを人々から取りあげてしまった牧師は,聖書の自由な討論を人々に許すとき,失うものが多いのです。それはイエスの証言活動によって,ユダヤの「祭司長たち」が多くのものを失ったのと同様です。
ご自分のカトリックの聖書を開いて,マタイ伝 26章46-50節をお読みになれば分かる通り,イスカリオテのユダは,これらの宗教家の言いなりになってイエスを裏切りました。従って今日,それと同類の人々の手によって,キリストの足跡に導かれる代りに,ユダの道に導かれないように注意して下さい。それは,エホバの証者が,良いたよりのために自由を失うのをいとうからではありません。しかしあなたは,きわめて悪い助言のために,永遠の生命を失うことを望みますか。
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ベネズエラでものみの塔 1962 | 12月15日
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ベネズエラで
ある証者は,3人の子供を持つ母親とほとんど4年間も聖書研究を続けて来ましたが,あまり進歩しない事などが理由で,研究を中止しました。それから約1年たって,その母親のものみの塔予約が切れたので,証者は訪問してみました。すると彼女は,再約しただけでなく,もっと別の文書をも求め,さらに聖書研究を再び始めたいと頼みました。そして彼女は,これまで不信者の夫の言うなりになって来た事を認めました。今彼女はよく進歩して,会衆のあつまりに出席し,クリスチャン宣教の仕事にも加わっています。
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