向を変えよ ― 新世社会に
1 クリスチャン会衆は,どんな種類の制度ですか。
神権的なクリスチャン会衆の中には,ヱホバの目的遂行に永遠に専身している一つの制度があります。それは,この地上に神の美徳を保存している唯一つの制度です。『あなたがたは,地の塩である』と言われたイエスは,クリスチャンたちが人間の生命,ヱホバの崇拝,そして美徳を保存するもの,と言及したのです。(マタイ 5:13,新口)いま新しい世の社会の中にあるこの『塩』は,避けることのできない責任,すなわち,最後までヱホバの正義を擁護する責任を持つています。その特権と義務は,クリスチャン崇拝に従事するすべての人々に課せられているのです。
2 初期クリスチャン会衆内では,どんな必要を充たさねばなりませんでしたか。
2 キリスト・イエスは,クリスチャン会衆を開始しました。杭にかけられて殺され,復活して天に揚げられて後,キリストは天の御父の霊と力を弟子たちに送りました。それは,初期クリスチャン会衆として彼らが真の崇拝の拡大に励むためだつたのです。キリスト教の良いたよりを伝道し,そして人々が霊的に強くなつて,当時支配していたローマ帝国の腐敗にも対抗し得るために,会衆が組織され,かつ会衆内の各人がクリスチャン宣教の教えと訓練を受けることが必要でした。新しいクリスチャンたちも,経験を積んだクリスチャンも,みなクリスチャンの領域内におり,神権的な原則の行使をうけねばなりません。もし,そうしないなら,腐敗は神の命じた仕事を為すクリスチャン会衆の勝利に妨害を加えるでしよう。
3 クリスチャン会衆の必要と要求を充すために設けられた御準備を示しなさい。
3 その故に,クリスチャン会衆の中では義務の委託がなされていました。義務の委託すなわち特別の特権と責任に任命されることは,霊的な円熟を示し,かつ自分の義務と任務を忠実に行う献身した人々になされたのです。そのような任命は,エルサレムに本部を持つ初期クリスチャン会衆の統治体によつてなされました。統治体は,使徒や他の円熟したクリスチャン,そして彼らの代理をなす代表者によつて構成されていたのです。任命を受けた者たちも,すべてのクリスチャンたちに共通な宣教に参加しました。彼らは,自分たちの住むところにあつた会衆,そして共々に奉仕をなした会衆内で,制度的な義務を成し遂げました。それぞれの会衆を管理して監督するためには,監督のクリスチャンたちが必要でした。彼らは,会衆自体と会衆内の各人が,美徳の道に歩むように監督したのです。
4 誰が特別な奉仕に正しく任命されることができますか。
4 テモテ前書の第3章の中には,クリスチャン会衆の監督に任命せられるべき者の資格が述べられています。監督は,非難のない人でなければなりません。また,ひとりの妻の夫であり,自らを制し,慎み深く,礼儀正しく,仲間の者を憎まず,大酒を飲まず,人と争わず,金に淡白で,年少者犯罪を育成するような者であつてはなりません。また,信者になつて間もない人であつてもならず,仕事を不正に行う者であつてはなりません。監督たちについては,聖書にこう書かれています,『彼らはまず調べられて,非の打ちどころがないなら,奉仕者の任につかせるべきだ。』(テモテ前 3:10,新世)『そして,あなたが多くの証人の前で私から聞いたことを,さらに他の者たちにも教えることのできるような忠実な人々に,ゆだねなさい。』― テモテ後 2:2,新口。
5,6 この任命の手続は,どのくらい一般的なものでしたか。任命を受けた者は,キリスト教国の牧師のようですか。
5 これは,クリスチャン会衆内のいたるところで行われた一定した取極であり,会衆の群を世話するために責任のある人々を任命する方法だつたのです。そのことは,はるか遠いアンテオケでも行われていたのです。聖書にこう書かれています,『アンテオケにある会衆には,予言者や教師たちがいた。』(使行 13:1,新世)ピリピ人に宛書したパウロは,こう語つています,『ピリピにいる,キリスト・イエスにある聖徒たち,そして監督たちと宣教上の僕たちへ』(ピリピ 1:1,新世)神権的なクリスチャン制度内にいるこれらの宣教上の僕たち,監督,そして補佐たちは,キリスト教国の牧師級の者と全然似ていません。神権的な僕たちは,自分の群を政治,社会改革,精神療法,賭博,または異教の宗教的な教理と行に導くなどと主張もしなければ,企てもしません。そのような僕たちは,次の事柄の故に認められているのです,すなわち彼らは神の言葉とキリストの律法を学んで教え,ヱホバの御国とキリストの贖,復活,新しい世,を伝道しました。そして,先ず,クリスチャン制度を構成する各人は,美徳を保たねばならず,もしそうでないなら排斥される,と主張したのです。
6 それで,このような方針に沿つて,初期の教会は組織され,運営されました。使徒の死後に生じた状態に対しては,初期の教会も,また初期の教会が伝道した神の言葉も責任を持たないのです。後になつて,クリスチャン制度は異教の世に束縛されるようになり,混成のもの,すなわち異教と偽りのキリスト教の融合した宗教が生じてきました。キリスト教と『キリスト教国』は同じものでありません。両者は,清い崇拝と美徳に関する論争で正反対の側に立つているのです。
7 (イ)使徒行伝 20章にあるパウロの予言の環境と内容を論じなさい。(ロ)その予言は成就されて,真理と美徳はすつかり無くなつてしまいましたか。
7 神の霊を持つていた使徒パウロは,サタンの反対とクリスチャン制度を取巻く環境を良く知つていました。それで,霊感を受けて語つた使徒パウロは将来のことを見こして,ミレトからエペソの会衆の円熟した人々に,手紙を書送り,こう告げました,『私はいま信じている,あなたがたの間を歩きまわつて御国を宣べ伝えたこの私の顔を,みんなが今後二度と見ることはあるまい。だから,今日,この日にあなた方に断言しておく。私はすべての人の血について,なんら責任がない。神の御旨をみなあますところなく,あなた方に伝えておいたからである。どうか,あなたがた自身に気をつけ,またすべての群に気をくばつていただきたい。聖霊は,神が(御子の)血であがない取れた神の会衆を牧させるために,あなた方をその群の監督に任命したのである。私が去つた後,狂暴な狼が,あなた方の中に入りこんできて,容赦なく群を荒すようになることを,私は知つている。また,あなた方自身の中からも,いろいろ曲つたことを言つて,弟子たちを自分の方に,ひつぱり込もうとする者らが起るであろう。……あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならない,また「受けるよりは与える方が,さいわいである」と言われた主イエスの言葉を記憶していなければならない。』(使行 20:18-35,新世)パウロの予告した通り,神の群は内と外からの狼によつて荒らされました。そして,歴史の記録によると,その後の時代に真理の光はまつたく細々と照つていたのです。クリスチャン会衆は囚れの状態に入りましたが,しかしキリスト教の原則は存続し,かつ神の言葉は神の力によつて幾世紀ものあいだ保存されたのです。それで,神の言葉は,今日でも清いものであり,信頼を置くことができます。
これに向を変えることができる
8 今日どんなご準備が実際にありますか。
8 しかし,今日では,神の言葉以外のものも存在しています。それも,神の言葉の場合と同じく,ヱホバの霊によつて可能にされているのです。それは全地に拡大している新しい世の社会です。それは,すべての国の人々により構成されているもので,各人はヱホバ神に献身し,かつ清い崇拝の拡大の業に参加するとき,ヱホバの是認と霊を持つ,という証を立てています。いままでにない程に堕落し切つたこの世にあつて,正義の宿る新しい世に献身している社会がある,などということは,どうして可能ですか。(ペテロ後 3:13)成員や,交る者たちは,美徳を行わねばならぬと強く主張するひとつの社会,すなわちクリスチャンたちの一つの群は,実際にこの地上に存在しており,あなたはそれに依存することができますか。たしかに,あるのです!
9,10 どんな発展を通して,神権的な支配は再び確立されましたか。
9 エペソの会衆の円熟した人々への最後の話の中で指摘したように,使徒パウロは御国の音信を伝道しました。ヱホバの約束に信仰を持つた人々は,ヱホバの予定の時に立てられる天の御国の設立に信仰を持ち,かつその設立を期待していたのです。この正義の政府の誕生する時が近づくにつれて,ヱホバはひとつの業をこの地上になさせました。そして,御自分の真理の言葉を理解させることにより,クリスチャンたちをクリスチャン教理,制度,そして実践に進歩せしめたのです。19世紀の後半になつて,神の御国を宣明する準備の業がこの地上で始まりました。それは小さなものでしたが,決して軽視せられるべきものでなかつたのです。クリスチャンたちは,一つの非宗派的な社会,そして会衆を形成し,統一的な聖書研究と宣教を行つたのです。彼らは牧師支配の弊害を見たために,先ず民主主義的な方針にしたがつて組織し,各会衆は民主主義的な投票により自分たちの事柄を処理して行きました。後になつて,進歩が行われ神権的な支配がなされるようになりました。1931年が来たとき,業の統一的な運営のために形成された彼らの正式な協会は,一歩前進した段階を取り,地上にいるクリスチャンたちの中に神権的な支配の復旧を図つたのです。
10 翌年の1932年,全世界にいたヱホバの証者の会衆は,神権的な取極に服し,ヱホバの明白な祝福を頂きました。今日にいたるまで,全地に拡大している新しい世の社会は,初期クリスチャン会衆と同じく,非営利的に,また非政治的に運営されています。そして,その中にいる各人は,自発的に行うのです。それで,今ではクリスチャン会衆に対して正しい神権的な支配が為されているのです。その支配は,パウロの警告した束縛の時から後に存在していませんでした。
11 誰がクリスチャンの新世社会を指示しますか。
11 誰がその制度を制御しますか? 誰がその制度を指示しますか。誰がその頭ですか。ひとりの人? 人々の群? 牧師級? 法王? 教職者制度? 会議? そうではありません。その一つでもないのです。それでは,どうしてそれが可能ですか。どの制度であつても,その制度を制御して導く,指示の頭すなわち綱領を設ける部分が必要ではありませんか。たしかに必要です。生ける神ヱホバは神権的なクリスチャン制度の指示者ですか。たしかに,そうです!
12 どんな重大な事実は,前述の答えを証明しますか。
12 次のような重大な事実があります,すなわち神権的な新世社会の運営を支配する法律はヱホバ神の言葉であり,また天に即位されたキリスト・イエスは地上におけるヱホバの業を行うヱホバの代理者であるということ,そしてキリスト・イエスによる神の霊は,神の言葉を通して献身した僕たちの心と思に注がれている,ということです。その理由で新世社会は,『神の支配するもの』という意味において神権的なものです。
13 (イ)宣教上の僕たちの任命は,どのようになされますか。(ロ)そのような任命が神権的であることを証明しなさい。(ハ)神権的な制御は誰になされますか。
13 キリスト・イエスが,この地上に来て,各宣教上の僕たち,監督,補佐,そして地上の会衆内にいる他の奉仕者たちを任命するのですか。そうではありません。それでは,そのような任命は,どうしてなされるのですか。そのような任命は,合法の機関である協会と結合している見える統治体によつてなされます。1884年,ヱホバの証者はその目的の為に協会を法人化しましたが,それは今ペンシルバニアの『ものみの塔聖書冊子協会』と言われます。それは神権的なものです。なぜなら,それは大いなる神権者の書かれた御言葉に一致して行い,またキリスト・イエスの始めた初期クリスチャン教会なる会衆の模範的な制度に一致して行うからです。『こじつけだ。』と言う人がいますか。それでは,ヱホバの証者は神権的な制度でない,と主張する人々に,いつたいどの点でヱホバの証者が神権的でないかを指摘させてごらんなさい。言葉においても行においても,教理においても,制度においても,また実践においても,新しい世の社会はヱホバ神の言葉に従おうと熱心に努め,またヱホバ神の言葉の原則に拠ろうと努めています。それですから,それは聖書的であり,キリスト教のものであり,神権的なもの,神の指示せられている制度です。ヱホバは,御自分の御言葉を通して,御意を人々に告げています。聖書の型,すなわち聖書の模範に従つている他の制度は,ひとつとしてキリスト教国の中にありません。ヱホバの証者の新しい世の社会だけが,その成員たちに,個人的な事柄や会衆の事柄において聖書の型に従わねばならぬ,と強くすすめているのです。この神権的な制御と指示は,すべての人々に為されているわけではないのです。それと接するすべての人々,またヱホバの証者の会衆と交る人々や,集会に出席するすべての人々に,神権的な制御と指示がなされるわけでありません。各人は,ヱホバ神に個人的な献身をなすことにより,自ら進んでその恩恵をもたらす支配の下に服さねばなりません。そのわけで,神権的な制御と指示は,献身した者たちだけになされるのです。
14 どんな目的のために神権的な任命がなされますか。
14 現在,会衆の僕たちや神権制度の他の特別な代表者たちに義務が委託されていますが,それは特定の目的の為です。これらの人々は,神の群を養い,忠実に愛をもつて牧さねばなりません。それらの人々は,どの場所にいようともヱホバの民を援助して,聖書を研究させ,また円熟に進ませて,御国の良いたよりを他の人々に伝道する野外宣教の訓練を施さねばならないのです。また新しい世の社会制度に属する会衆内で美徳を保存しなければなりません。あらゆる種類の腐敗,悪行が入りこんで汚れるのを防ぐために,このことは必要なのです。
15 排斥するという神権的な原則は新しい世の社会に,どのように存在していますか。
15 前に学んだごとく,模型的なイスラエルの国民の場合,清い崇拝を腐敗させた悪しき者たちは,殺されました。クリスチャン会衆の場合,会衆の成員は,悪を行つた者を殺しません。しかし,キリスト教的な排除,つまり排斥がなされます。これは人間の生命を殺すことではありませんが,しかしヱホバ神に仕える献身した僕たちの会衆の交りから排斥する,つまり新しい世の社会から取り除くことです。そのような事柄に対処するクリスチャン規則の他の御準備をすつかり用いつくした後では,このことが必要です。そして,その処置は,円熟した判断によつて為され,クリスチャン会衆内の任命された僕たちは良く考慮を払つてその処置をいたします。これは,彼らの責任です。忠実な僕たちは,情に動かされずに,その責任を果さねばなりません。それは,当事者すべての為であるだけでなく,ヱホバの誉のためでもあり,また制度を清く保つためでもあります。
排斥にたいする態度
16 清めを必要とする非行を列挙しなさい。
16 排斥を必要にした非行は,初期のクリスチャン会衆の時に刑罰を受けたものを含んでいます。そのような非行とは,嘘を言続けること,盗むこと,不正直な仕事をすること,性の非行,偽の教理を教えること,キリスト・イエスを通して設けられるヱホバの御準備を否認すること,神権制度に反逆すること,分裂を惹起すこと,そしること,陰口を言うこと,そして他の悪行を含んでいます。これらのものは,有徳のものでない,と私たちは知つていますし,ヱホバ神や御子キリスト・イエスがそれらのものを行うなどとは信ずることができません。
17 どのような面で,排斥は愛の行ですか。
17 これらの事柄におけるクリスチャンの律法は,人間の弱点を無視しておらず,またキリスト・イエスのあがないの御準備やヱホバのゆるし,と憐れみを見過しません。排斥の処置は,これらのものをみな考慮に入れるのであつて,清めと美徳を保ち,かつ回復を図るための他の準備がみな旨く行かない場合に,いよいよ最後になつて,取られる手段なのです。この故に,排斥は実際には愛の行なのです。まず,ヱホバ神とキリスト・イエスの愛,神権制度そのものの愛,そしてその行を直接に正しくなす会衆内の僕たちの愛なのです。排斥は,悪意を抱くとか,親切心のない気持で為されるのでありません。それはヱホバの正義の律法に従つて為される故に,愛の行であります。それは,忠実を表わす行です。制度を清く保つことに失敗することは,不忠実です。排斥には,三つの目的があるのです,(1)新世社会のクリスチャン会衆を清く保つこと,(2)この峻烈な手段を取ることにより,できるなら非行者を援助すること。それには,その者が自分の過ちを銘記し,そしてヱホバ神の前に正しく悔改めることを条件とする,(3)その処置を見る者たちのため。これを見ることによつて,それらの人々は神権制度の正しいことを確信すると共に,正しい行から外れることの重大さについての警めともなります。
18 性の非行とクリスチャン律法の他の非行とを比較しなさい。
18 いろいろな非行があります。そのいくらかは前に述べましたが,それらは,もし行い続けて行くならば,個人や会衆を弱めてしまいます。その大部分は,他の人々に対する非行である,と認めることができます。それらは,他の人々より特定の権利を奪い取つてしまう故,愛の不足を示します。しかし,或る人々にとつては,性の非行がなぜクリスチャン制度内では不都合なのか,またなぜ神は御言葉である聖書の中でそれを強くいましめて,禁じておられるのか,理解し難いように思えます。人間の生命を伝える御準備をつくられた方は,大いなる創造主御父なのです。これは極めてすばらしいものであり,また神聖なものです。私たちはみなその恩恵を受けました。おかげで私たちは生きております。もしこの恩恵をうけ入れるなら,私たちはもちろん神の方法を受けいれます。そして,その恩恵と方法を受けいれるなら,事柄全体についての神の規定を受けいれるのは私たちの義務であります。或る人々は,こんな風に論ずるかもしれません,性の非行は何の害をもなさない,その行に進んで同意して為す者にも害がない。それだから,その行が非常に悪い,ということはない。嘘を言うことは,もちろん悪いし,盗むことも,もちろん悪い。そのようなものは,他の人々から,その人々に属する正しい分を取つてしまう。しかし,姦淫とか淫行のような行は,それらのものとは違うのではなかろうか。古い世では,その行は広く一般に行われているではないか。新しい世の社会の成員が,そうすることは,なぜそんなにも悪いのか,というのです。
19 パウロは,宗教の含まれていることをどのように示していますか。
19 多分,使徒パウロは,そのような考え方もしくは類似した考え方に面したのかもしれません。とにかく,コリント前書 6章の中でパウロは宗教が含まれている,と示しています。その一部は次のようです,『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は,からだの外にある。しかし,不品行をする者は,自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは,神から受けて自分の内に宿つている聖霊の宮であつて,あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』― コリント前 6:9-20,新口。
20 主の『他の羊』は,なぜ性の非行をしてはなりませんか。
20 ここで,パウロはキリストの体の成員たちに向つて述べています。すると,汚れた性行為を禁ずるこのいましめは,新世社会の大多数を構成している主の他の羊には適用しない,ということですか。そのように結論することはできません。道徳的な清めを保て,と命ずるこのいましめは,ヱホバ神に献身しているすべての僕たちにひとしく適用するのです。なぜ? なぜなら,神の霊は,群なる体としても,または個人としても,献身した御自分の民の上に注がれているからです。罰に処せられる他の罪,すなわち嘘を言うこと,盗むこと,悪い教理を教えること,そして反逆することは,主の『他の羊』に属する各成員の体の外でなす罰です。しかし,姦淫や淫行の罪は,神を崇めるために用いねばならぬ自分自身の体に対して犯す罪です。
21 神を崇(あが)めるために,私たちは何をしなければなりませんか。
21 神の定めた規定に従うのを拒絶するなら,私たちはこのことや,他の事において神を崇めることはできません。ヱホバの他の羊の者たちもヱホバの霊を持つていますか。持つています。その故に,彼らは自分自身の体に対して罪を犯そうとはしないのです。私たちの生活している時代は,危険な時であり,苦しい時です。それで,美徳を保存することは必要になつています。それは,『キリストの体』の残れる者の成員だけでなく,主の『他の羊』の成員にも要求されているのです。両方の者は皆新しい世の社会を構成しているか,あるいは構成することを望んでいます。ずつと昔のパウロの時代でも,淫行はひろまつている,とパウロは述べていました。今でも,淫行は昔と同じくひろまつているのです。
22 美徳を保存する,というこの事柄において,全会衆の特権と責任についてはどうですか。
22 美徳を保存するというこの事において,全会衆の特権と責任についてはどうですか。模型的なイスラエルの場合,ヱホバ神の律法に照らして死刑を受けるに価する悪行者に対しては,死刑を執行したのは会衆,すなわち国民であつた,ということを想い起します。クリスチャン会衆内では,すべての人はヱホバの美徳を人々の中に保存しようと,誠実な気持から願わねばなりません。彼らは,排斥というような事柄に関する僕たちの決定を尊重しなければなりません。このことは,テトス書 1章5-16節の聖句によつて裏づけられています,『彼が健全な教によつて人をさとし,また反対者の誤りを指摘することができるためである。……法に服さない者……彼らの口を封ずべきである。……彼らをきびしく責め……彼らは神を知つていると,口では言うが,行ではそれを否定している。彼らは忌まわしい者である。』このことから,法に服さぬことは,許されないということが分ります。法に服さぬことは,2番目の違反です。神の律法を破る最初の違反をするなら,排斥の処置が取られます。2番目の違反をしても,その最初の違反に何らの助けにもならなければ,また救うこともできないのです。排斥の処置に関する決定に疑問を持つ人は,神とその言葉に信仰を持つという自分自身の言葉,そして神の言葉が神の民のなかで実施されるのを見たいという自分自身の言葉と矛盾しています。それは,清い崇拝の拡大というすばらしい業をなしている新世社会に加わわることと矛盾します。それは,信頼の欠如を示します。一方,会衆内のすべての者が協力して,全員のために為された排斥につき,指示通りに従うことは,交りを持つ人々が信頼を示していることになります。そのわけで,会衆内のすべの人が,会衆の方針を受入れることは必要です。パウロはテサロニケ人に宛てて,次のように書きました,『兄弟たちよ,私たちはお願いする。どうか,あなた方の間で労し,主にあつてあなた方を指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思つて,特に愛し敬いなさい。』― テサロニケ前 5:12-27,新口。
23 誤を犯した人は,自分の罪のゆえに,どの程度まで悲しまねばなりませんか。
23 排斥された者が怒りを持つなら,その者は悔改めていません。悔改めている人が,怒りの気持を抱く,ということはあり得ないからです。そのわけで,はきちがえた憐れみ,はきちがえた同情があつてはなりません。排斥されたときに,心は悲しみを感じなければなりませんか。そうです。排斥されると,心は悲しみます。小さなものにせよ,重大なものにせよ,神の律法を破つて罪を犯す人は,心から悔改めねばなりません。そして,心は悲しまねばならないのです。排斥された人の場合,その排斥が当人の為にもなり,また,会衆への復帰が許されるためには断腸の思をしなければなりません。また,美徳を持とうという誠実な真の欲求がなければならないのです。この欲求は,悔改めに導くでしよう。
24 どんな行によつて,私たちはヱホバに依存していることと,ヱホバの美徳を愛するということを示しますか。
24 真正な崇拝と神の美徳の保存ということに関し,全会衆は試験を受けているのです。従順な行をするなら,ヱホバの祝福を頂きます。それで,会衆内のすべての者は,あらゆること,― 真理そのものに対し,また私たちの忠実を保たせ,私たちの宣教を行わせるヱホバの霊に対し,そして生命という共通の祝福に対しても,キリスト・イエスを通してヱホバに依存している,ということをいつも示します。助言や導きや,また厳しいこらしめが適用されて与えられるなら,「徳といわれるもの,称讃に値するものがあれば」それはキリスト・イエスを通してヱホバ神から与えられるものです。年々歳々,神権的な新しい世の社会は,クリスチャンである私たちの心からの支持と協力を受けるに値するものです。私たちクリスチャンたちは,美徳のある勝利の御国にいられるヱホバ神に崇拝を捧げ,美徳を保存します。新しい世の社会に向を変えなさい!