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聞くに早く語るにおそくせよものみの塔 1960 | 6月15日
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口。
23 ヤコブの助言は,どのように私たちを助けますか。
23 それでヤコブの次の助言を心にとめなさい,『聞くに早く,語るにおそく,怒るにおそくあるべきである。』それは,あなたが神に受け入れられる実を産み出す助けとなるでしよう。それは,あなたが舌を用いて創造者の栄光を述べる助けとなるでしよう。それはあなたがロマ書 14章19節に述べられているごとく神の御心を行う助けとなるでしよう,『平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか。』
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怒る事をおそくせよものみの塔 1960 | 6月15日
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怒る事をおそくせよ
『人の怒りは,神の義をつくり出さない。』― ヤコブ 1:20,新世。
1 なぜ神の怒りは,不正をつくり出しませんか。ヱホバは,どのように模範を示されていますか。
怒りそのものは悪ではありません。ヱホバの怒りは,罪,悪そしてあらゆる形式の不義に対する絶対正義の神の正しい反応であります。『これらのことから,神の怒りは不従順の子らに下るのである。』神の怒りは,公正,知恵,愛そして力という神の御性質の下に全く抑制されています。『ヱホバは怒ることおそく。』ということは,預言者ナホム,ヨエル,そしてヨナの確証しているところです。詩篇記者は次のように述べています,『ヱホバは恵ふかく,なさけみち,また怒り給うことおそく』ヱホバ御自身も,出エジプト記 34章6節で次のように述べています,『ヱホバすなわち彼(モーセ)の前を過ぎて宣たまわく,「ヱホバ,ヱホバ,あわれみあり,めぐみあり,怒ることのおそく,めぐみと真実の大なる神」』それで,ヱホバは怒るにおそいということについて模範を示されています。―エペソ 5:6。ナホム 1:3。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。詩 145:8。
2 なぜ怒るにおそいことは,不完全な人間に大切ですか。
2 それですから,私たちに怒るのをおそくせよ,と神が要求するのも全く当然です。不完全な人間は,怒ることを特におそくしなければなりません。霊感をうけた記者ヤコブは,その理由を説明して次のように述べました,『人の怒りは,神の義をつくり出さない。』多くの理由から,このことは真実です。人間の怒りは,しばしば十分の理由なしに引きおこされます。かりにたしかな理由があるとするなら,人間の怒りはしばしばその理由以上のものになつています。それですから,あらゆる種類の害に人をみちびきます。人間の怒りは,多くの場合に節制を失なわせます。―猛烈な激怒そしてたいへんな『腹立ち』をひきおこします。それらは,正しくないものの中に入るのであつて,それについて聖書は次のように述べています,『このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない。』人間の怒りは,神の定めた正義の原則に従う生活に人をみちびくものではありません。―ヤコブ 1:20。ガラテヤ 5:20,21,新口。
3 怒るに早いことの結果は何ですか。
3 ヱホバのクリスチャン証者は,正義の神の是認を得るため怒る事におそいということに鋭い関心を持つています『ヱホバはそのすべての道に正しい。』それで,ヱホバが怒りを表わすことは正しいものです。しかし,人が怒つたときに行動をするなら,たいていの場合に神の義を行いません。全くのところその人自身が後になつて後悔するようなことをいたします。神の規則はたしかです,『愚かな者は高ぶつて用心しない。怒りやすい者は愚かな事を行い。』人が怒る事に早いときは,たいていの場合に自分自身を愚かな者にしてしまいます。この事実は私たちに深い印象を与えるべきです。怒る事に早い人は,自分自身を愚か者と表わすだけでなく,その行いの結果もまつたく愚かなものです。怒りに早い人々は,たいていの場合に,言葉で言い争つたり,実際に打ち合うことなどして,他の人に害を与えます。それで,人間の怒りは,利己的なもの,害あるものになる傾向があります。―詩 145:17。箴言 14:16,17,新口。
4 (イ)義憤とは何ですか。誰がその正しい使用を例示しましたか。(ロ)義憤をすぐに示さないのは,なぜ賢明ですか。
4 利己的でない正しい怒りは,義憤と呼ばれます。良心が神の正義の律法に従つて訓練されるとき,神の目から見て悪いものに対して自ずから反対します。義憤を感じたイエスは神の義を行なうつよい言葉を語り,そしてつよい行為をいたしました。(マルコ 3:5。ヨハネ 2:14-17)キリスト・イエスの正義の怒りは,つねに真理と正義にもとづいたもので,彼の思いのままに制御されていました。しかし,不完全な人間の義憤は,誤解と偽りの考え方にもとづくなら,不義にみちびきます。イエスがベタニヤにいたとき,ひとりの女が彼の頭に香油を注ぎました,『すると,ある人々が憤つて互に言つた,「なんのために香油をこんなにむだにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売つて,貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。するとイエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。私に良い事をしてくれたのだ。」』イエスは,彼らの義憤が正しくない理由を説明いたしました。それですから,人間が義憤と呼ぶものであつても,それを言うのにおそいことは知恵のある行いです。それによつてすべての事実と状況を理解するための機会を得ることができます。―マルコ 14:3-9,新口。
5 人は神の真理を知つてから,どんな種類の変化をしなければなりませんか。
5 人は神の御心を知る前には,しばしばすぐに怒つて,非常な憤りに駆られ,汚ない言葉を吐くか乱暴な行動をしました。『私たちもみな,かつては彼らの中にいて肉の欲に従つて日を過ごし,肉とその思いとの欲するままを行い。』ヱホバの正義の御心を知つてからは,変化しなければなりません。神の御言葉は,クリスチャンたちにこう命じています,『今は,これらいつさいのことを捨て,怒り,憤り,悪意,そしり,口から出る恥ずべき言葉を捨ててしまいなさい。』憤りと怒りと密接にむすびついている悪は,『悪意,そしり,そして恥ずべき言葉』であることに気をつけなさい。怒る事に早いことから,怒る事におそいことに変化する必要はなんと大きいのでしよう!―エペソ 2:3。コロサイ 3:8,新口。
新しい人格を着る
6 (イ)怒る事におそいことは,是非なされねばならぬどんな基礎的な変化の一部ですか。(ロ)なぜ新しい人格は,外面上の性格改善ではありませんか。
6 怒る事におそい事は,聖書の言う『新しい人格』を表わし示すものの一部です。神の是認を探し求める人々は,変化をしなければなりません。使徒は,その変化について次のように書いています,『以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格を脱ぎ捨てなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御心にしたがい,まことの義と愛に満ちた親切のうちにつくられる新しい人格を着なさい。』それで,この変化がなされるのは神の御こころです。神の御霊は,心を変化させ,心に働きかける力です。神の御こころの正確な知識も,この変化を行なわせるのに大事な役割を果します。古い人格をその行いと共に脱ぎ捨て,正確な知識によりつくり主の像に従つて新しい人格を着なさい。』『新しい人格』は,『古い人格』の上につける或る種類の美しい仮面ではありません。『新しい人格』は,外面はうつくしい様子を示しながら,内面では以前と変らぬ『古い人格』のまま,というような性格の改善ではありません。実際のところ,その心は神の御霊と御心にしたがつて新しくされていないのです。『新しい人格』には,不誠実とか偽善というものはひとつもむすびついていません。それは真正なものです。『古い人格』が変装したものではありません。それは,実際には神の御霊の実を,心の奥底から表わし示しています。『御霊の実は,愛,喜び,平和,寛容,慈愛,善意,忠実,柔和,自制である。』― エペソ 4:22-24。コロサイ 3:9,10。ガラテヤ 5:22,23,新世。
7 この世の或る人々は,新しい人格をどのように見なしますか。なぜ彼らの理解は間ちがいのものですか。
7 神の御こころに従がう変化をすることは,不可能ではありません。ある人々は疑つています。特にヱホバの証者と交わつていない人々は,疑いを持つています。ヱホバの証者の新しい世の社会について書いた多数の人々は,心の態度を神の御こころに従わせるということを,美しい理論に過ぎないと見なして研究します。それらの人々は,霊的な意味,衝動の力を得ません。正確な知識の力,神の御霊の力,神の御心を行なうために神に献身する力を理解しません。『新しい人格』は,理論では決してありません。それは人間のつくるものでもないのです。『新しい人格は,神の御こころにしたがいつくられ』るとパウロは語りました。―エペソ 4:24,新世。
8 新しい人格に変化することは,なぜ不可能ではありませんか。怒るに早い気質を持つ人々に対して,神は例外を設けますか。
8 それで,神の言葉は変化ができないという考えをもつて書かれていません。変化はできる,そして変化はされねばならぬ,という考えで,聖書は書かれています。神は,次のように言う自称クリスチャンの言訳を受け入れません,『私はいつでも気短かで,それは私の気質です。いまさら変えることはできません。』使徒はエペソ書 4章31節で神の御心を述べたときに,すぐ怒る気質の人々に対する例外を設けていません。彼は神の御心を次のように強く述べています,『すべての無慈悲,憤り,怒り,騒ぎ,そしり,また,いつさいの悪意を捨て去りなさい。』すぐ腹を立てて,怒りを爆発するのは生まれながらの性質であり,抑制することも変えることもできないと一般に信ぜられていることは,いつわりのものです。変化は可能であるという証拠はたくさんあります。ヱホバの証者の新しい世の社会内の幾千人という人々は,かつては極めて気の早い人々でした。しかし,今日では『怒る事におそい』人々になつています。彼らは真実に『新しい人格』を着ました。そして,変化は不可能でなく,可能であるという考えでもつ
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