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山上の垂訓 ― 六番めから九番めまでの幸いものみの塔 1978 | 6月1日
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この『天での報い』(つまり神からの)は,なされた仕事に対して受け取る賃金といった意味においてではありません。いかなる事情の下であろうと,罪深い人間が神の恵みを報酬として獲得したり,自分たちを祝福する義務を神に負わせたりすることはできません。(ガラテア 2:16。ヤコブ 2:10)王国の祝福という報いは,「言いつくしえぬ無償の賜物」,つまり神の深い思いやりと寛大さの証拠です。(コリント第二 9:15。ヤコブ 1:16-18)それは,神への破れることのない献身ゆえに,非難や迫害,また自分たちに対して言われる邪悪な偽りなどに忠実に耐えたことに対して,クリスチャンに与えられる報いです。
イエスはまた,これら最後の二つの幸いと対照をなすものとしてこう言われました。「災いです! すべての人があなたがたのことをよく言うときには。そのようなことは,彼らの父祖が偽りの預言者たちに対して行なったことなのです」。(ルカ 6:26)古代イスラエルの「偽りの預言者たち」は,神の真理を宣明するのではなく,人々が聞きたいと思っていた事柄を語り,人々は『それを愛しました』。(エレミヤ 5:31,新)しかし,そうした人気は,決して神の恵みを示すものではありませんでした。エホバ神の是認は,神のみ言葉と一致して語り行動する人々の上にだけあります。(詩 15:1,2)しかし,そのようにする人々は迫害を予期しなければなりません。イエスがこう言われたからです。「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなたがたをも迫害するでしょう」― ヨハネ 15:20。
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読者からの質問ものみの塔 1978 | 6月1日
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読者からの質問
● 夫婦間の性関係において何が道徳的で,何が不道徳かを,聖書は明確に定義していますか。会衆の長老には,こうした結婚生活の親密な問題に関して会衆の成員を取り締まるよう努める責任がありますか。
夫婦間の性行為のあり方に関して,聖書は明確な規定や制限を設けていないことを銘記しておかねばなりません。箴言 5章15節から20節,および雅歌の中の数々の節(1:13; 2:6; 7:6-8)など,ふさわしい愛の表現方法を簡単に描写している箇所はあります。これらの聖句,およびヨブ記 31章9節と10節などは,愛戯や性行為として習慣的また正常な行為が何であったかを少なくとも示しており,それは今日習慣的で正常と一般にみなされている行為とも符合します。
聖書の中で最も力強い助言は,神への全き愛と,自分に対すると同じように隣人への愛を保つようにとの助言です。夫は自分の体のように妻を愛し,妻をいたわり,妻に誉れを配さねばなりません。(マタイ 22:37-40。エフェソス 5:25-31。ペテロ第一 3:7)使徒の述べるとおり,愛は「みだらなふるまいをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいらだちません」。(コリント第一 13:4,5)こうした原則に従えば,配偶者が不快な行為,あるいは嫌悪感を抱かせる性欲倒錯とさえみなす,異常な行為を相手に強いるようなことはしないはずです。
聖書はこうした基本的な指針以上のことを述べてはいないので,わたしたちにできることといえば聖書の述べる事柄に従って助言を与えるぐらいのことです。これまで当誌には,夫婦間の口腔性愛などある種の異常な性行為について幾らかの注解が載り,そうした行為はゆゆしい性の不道徳と同一視されてきました。この考えに基づいて,そのような行為にふける者は,悔い改めないなら排斥の対象になるという結論が出されていました。それで,会衆の長老たちには,夫婦間のそうした行為について審理委員としての資格で調査し,行動する権限があるという見解が取られてきました。
しかし,この問題をさらに注意深く比較考量した結果,聖書の明確な指示がないことを考え,こうした問題は夫婦が神のみ前で自ら責任を負わねばならない事柄であると確信するに至りました。また,夫婦間の親密な行為を規制したり,その事だけを根拠として排斥の措置を取ったりすることは会衆の長老たちの務めではないこと
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