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寛大な行いは知恵を示すものみの塔 1959 | 11月1日
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寄りでもあつたアブラハムは,いちばん良い部分を独断的に取つて,ロトに残りの部分を取らせることができたはずです。ところが彼はそうしませんでした。彼は寛大でした。愛と友情は,最善の牧畜の地よりもはるかに重要であると彼は認識していたのです。それで甥に向つてこう告げました,『私たちは身内の者です。私とあなたの間にも,私の牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましよう。全地はあなたの前にあるではありませんか。』
彼はロトをして選ばせたのです。そして,もちろんロトはいちばん良い牧場をとり,アブラハムは残りの地を取りました。それによつて,アブラハムは害を受けましたか。そのようなことはすこしもありません。彼は十分の数の羊の群れを持つており,甥の友情と善意をも保つたのです。彼は敵意のある地にいたのですから,そのことは牧場よりもはるかに価値あるものでした。皮肉なことに,ロトはソドムとゴモラの悪の故にすべてのものを失いました。その原因の一部は,土地が富んでいたことによるのでしよう。しかし,アブラハムは自分の財産を持ちつづけ,子孫に伝えました。―創世 13:8,9; 19:15-25; 25:5,6,新口。
エリヤとザレパテのやもめに関する出来事も,要点をついたものです。このやもめは,自分と自分の子のための食物がもう1回分しかなく,餓死に面していました。しかし,彼女は,その最後の食事の一部を最初に給してもらいたい,というエリヤの要求に寛大な気持から従いました。すると,エリヤの預言通り『かめの粉は尽きず,びんの油は絶えなかつた。』それは,イスラエルの不忠実の故に神が送つたききんの終るときまでつづいたのです。―列王紀略上 17:8-16,新口。
寛大は,必ずと言つて良いくらい伝染するという点で知恵を示すものとも言えます。それで,私たちの毎日の関係についてイエスは次のように言いました,『与えよ。そうすれば,自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ,ゆすり入れ,あふれ出るまでに量をよくして,あなた方のふところに入れてくれるであろう。あなた方の量るその量りで,自分にも量りかえされるであろうから。』他人がけちけちした行いをすると,私たちもけちになり,釣銭が足らないのではないか,またはごまかされたのではないかと気をつけます。それと同じく無私の寛大な例は,私たちを寛大ならしめます。イエスのその原則を試みてごらんなさい。そして,その実際性を経験してごらんなさい。―ルカ 6:38,新口。
非常に利己的な少数の者が,私たちの寛大さに答え応じないなら,どういうことになりますか。私たちは損をしますか。そのようなことはありません。なぜなら,与える幸福は大きい,という原則は真実だからです。
前述の事柄はみな,宗教的な事や霊的な事にも特別な面で適用します。ヱホバ神は寛大の模範を示されました。それで,ヱホバ神について知り,その目的を理解して,その属性を認識すればする程,私たちは寛大な行いをする者となりヱホバ神に見ならう者になります。ヱホバ神は,悪しき者にも良い者にも雨を降らせ,太陽を照らせてはいませんか。ヱホバ神は,『あらゆる良い贈物,あらゆる完全な賜物』の与え主ではありませんか。たしかにそうです!―マタイ 5:45。ヤコブ 1:17,新口。
それですから献身したクリスチャンは,時間や,資力や,力の使用においては寛大です。そして,『少ししかまかない者は,少ししか刈り取らず,豊かにまく者は,豊かに刈り取ることになる』ということを認識します。この原則は,野外奉仕に適用するだけでなく,会衆の集会の出席や支持にも適用するのです。―コリント後 9:6,新口。
賢明な人が書いた次の言葉は,全く真実です。『施し散らして,なお富を増す人があり,与えるべきものを惜しんで,かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み,人をうるおす者は,自分もうるおされる。』―シンゲン 11:24,25,新口。
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平和の撹乱はないものみの塔 1959 | 11月1日
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平和の撹乱はない
シメオン・スタイライツは,「クリスチャン世紀」(英文)の中で次のように書いています,「ある州では『人の平和を乱す』ことを禁ずる法律を持つている。『伝道士逮捕される!』というような題は,人目を引く大見出しになるのではないか。―ある教区民たちがルーテル・カルビン・ウエスレイ牧師の説教を聞いた後,警官で彼を捕まえるという話だ。そして,会衆の『平和の撹乱』というかどで町の刑務所に投げこむという話だ。そのようなことはパウロにいつでも生じていたことだ。マーチン・ルーテルにも生じた。ジョン・ウエスレイにも生じた。では,なぜ我々の手近かなところにないのであろうか。かきがひとつある。平和を乱すためには,乱すことが必要だ。」
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