私に対する献身の意味
『私は御旨を行うためにまいりました。』ヘブル 10:9,新ロ
1 献身の問題を研究することは,なぜ重大なことですか。
ヱホバ神に献身することは,神の要求です。神の新しい世に生活する人は,ひとりとしてこの要求を見のがしたり,避けることができません。しかし,進歩発展する新しい世の社会と交つている多くの人々の中で,いまでも献身をしていない人々が今日沢山います。『ものみの塔』読者の中の何百万人という人は,まだこの重大な段階を取つていません。あなたは,この問題を真剣に考えたことがありますか。一般に言つて,献身の段階を取つていない人々は,次の三つの部のどれかに入つています。
2 或る人々は,なぜ献身をしませんか。その人々は何を為すべきですか。
2 第一に真理に関しては幼児の人々がいます。それらの人々は,まだ強くないためにこの重大な段階を取ることができず,また十分の知識を持つていません。そのような人々は,熱心に研究して,ヱホバがこの事柄に関して何を要求されるかを学ばねばなりません。
3 何が或る人々の献身を妨げますか。
3 第二番目に,少数の人々は献身が神の要求であることを知つています。それらの人々はこの段階を取ろうと欲しますが,まだ真理の生活に新しいため,汚れた習慣を取捨てたり,乱れた婚姻生活を正しくするだけの十分の時間がありません。そのような人々は,すこしも遅れることなく,至急に自分の生活を正しくし,ヱホバの清い要求に一致すべきです。かくすることにより,ヱホバへの献身にともなう祝福された特権を楽しむことができるのです。
4 献身をしていない第三番目の級の人々がいる危険な状態を説明しなさい。
4 献身をしていない人々の第三番目の級には,十分の知識を持つていて献身に伴う責任を知つていながら,いろいろの理由を設けて献身を外らしたり,逃れたり,また延期したりしようとする人々がいます。これらの人々も真理を好んでおり,新しい世と,約束されている祝福についての音信をよろこんでいます。それらの人々はヱホバの証者が好きで,ヱホバの証者の集会にも出席します。それでいながら,もう少し具合の良くなる時まで待つて,それから献身しよう,という態度を取ります。その中の或る人々は,こんな風にも考えます,つまり献身をしないでいる方が安全であつて,そして,そのような責任に対して不忠実になる危険を避ける方が安全だというのです。他の人々は,仕事の理由とか,交際する人々の関係上,古い世がヱホバの証者に投げかける汚名を避けたい,と努めます。また他の人々は,古い世の快楽と安易な道を愛します。或る人々は,高慢になつて家から家の伝道をしません。そして,献身をしなければこの責任を避けることができる,と考えています。それでいながら,ハルマゲドンの亡びが来る以前に保護の方船に入れる,と考えているのです。このような言訳は,まつたくみな愚かなものです! その考え方はなんと危険なものであり,偽りのものでしよう! まちがつてはなりません,『勝利の御国』の神であるヱホバに献身の立場を取るか否かによつて,いま生命か,死を選ぶことになるのです。そして何人もこの選択を外らしたり,逃れたり,またはいつまでも延ばすことはできないのです。献身をすることも大切ですが,同じく献身を守ることも大切です。それで,献身をしている人も献身していない人も,みな,私にとつて献身は何を意味するか,ということを自問しなさい。
5 聖書によると,ヱホバは私たちすべてに何を要求していますか,
5 ヱホバは専心の献身を要求し求めています。神の指で書かれた最初の言葉の中で,この大真理は明日に述べられたのです,『私はあなた方の神ヱホバである。……あなた方は私の顔に背いて(または,私を無視して)他の神々を持つてはならない。あなた方は,偶像をつくつてはならない。……あなた方はそれらを拝んでもならないし,仕えてもならない。あなた方の神である私ヱホバは,専心の献身を求める神である。』(出エジプト 20:2-5,新世。申命 9:10)唯一絶対のこの神は,また次のように述べています,『ヱホバは御自分の御名に専心されておられる故に,あなた方は他の神を拝んではならない。ヱホバは専心の献身を求める神である。』(出エジプト 34:14,エフ,ヘントン訳)イスラエル国民の歴史の始まつたばかりの或る時,大祭司アロンの孫であり,かつヱホバへの『敵対を許さなかつた』ピネハスの素早い行動がなかつたなら,イスラエル人たちは亡ぼされたことでしよう。なぜなら,ヱホバは『専心の献身を強く求められた』からです。(民数紀略 25:11,新世)それで,ヱホバの怒を『発せしむる』のを欲せず,またあなたが,『地の面より亡しさられる』のを欲しないならば,申命記 6章14,15節の述べるごとく,『他の神々,すなわちあなた方のまわりにいる民の神々に従つてはならない。(あなた方の中にいるあなた方の神ヱホバは,専心の献身を求める神だからである)』
6 古い世の制度の人々は,何に献身していますか。その結果は何ですか。
6 私たちのまわりにいる古い世の人々の仕えている神々を見てごらんなさい。或る人々は,自分自身を偶像化しています。それらの人々は高慢で思い上つており,他のいかなるもの以上に個人的な名誉,評判そして威厳を重んじています。他の人々は自分の腹を神となし,自分自身のことのみを考え,いつでも肉の楽しみと欲を求めています。また別の人々は,他の生物や事物に献身と讃美を捧げます。多くの人にとつて,金や権力や勢力は『絶対』のものであつて,人々はこれらの目的を達するために大きな犠牲を払います。今日の古い世は,まつたくそのような状態です。人々は自分個人の利害,仕事,職業,生涯にすべてのものを捧げるか,または趣味とか,愛好している動物とか,または空想に熱中しているため,『ヱホバという御名を持つ』唯一の真の神への清い崇拝と奉仕に注意をむける時間はないのです。一詩 83:18。
7 ヨハネ第一書 2章15-17節は,どんな助言を私たちに与えていますか。
7 人がこの古い組織制度を棄てて離れるとき,その多くの偽りの神々に愛と奉仕を捧げることは止めねばなりません。それは全く理にかなうことです。そのような人はヱホバに専心の献身を捧げよ,とヱホバは要求せられていますが,それは絶対に正しいことです。使徒ヨハネは神のこの要求は正しいものであると,痛感し,クリスチャンたちに次の手紙を書送りました,『世と世にあるものとを愛してはいけない。もし,世を愛する者があれば,父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし,神の御旨を行う者は,永遠にながらえる。』そのような人,つまり,自分自身の意志を行わず,『神の御意を行う』人は,神の御意を行うために神に献身します。というのは,献身するなら神の御意を行うのが必然となるからです。―ヨハネ第一書 2:15-17,新口。
多くの人が献身を拒絶する理由
8 ヱホバに献身していながら妥協をすることは,なぜ危険な行ですか。
8 或る人々は,ヱホバの証者の伝道する御国の音信を聞いて,ヱホバの豊かな食卓から来る霊的な糧の見本に大いによろこびます。その味が良いため,それらの人々はもつと多く得ようとして私たちの集会に参ります。しかし,ヱホバの食卓のところだけで食べることをせず,悪魔の食卓からのパン屑をも食べて補おうとします。それらの人々は,生ける神ヱホバに全き献身を捧げようとはせず,妥協の道に従おうとします。彼らはヱホバの良い食卓ですこしだけ食べてから,ヱホバの食卓を離れて,聖書とは全く反対であるこの古い世の利害と快楽に仕えるために力と時間を費します。しかし,私たちは古い世の友でありながら,同時に神の友であり得るでしようか。絶対になれません。『あなた方の神なるヱホバは燃える火であり,専心の献身を求める神である。』と書かれています。(申命 4:24,新世)イエスは明白にこう述べました,『だれも,ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し,あるいは,一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは,神と富とに兼ね仕えることはできない。』(マタイ 6:24,新ロ)また,全能の神御自身も次のように言われています,『あなた方の神である私ヱホバは,敵対を許さぬ神である。』(申命 5:9,新世)そのような神のいましめを知るとき,献身した人は決して妥協することができません。
9 物質的な事柄に心づかいをするため,献身のなし得ない人々について,イエスはどんな助言の言葉を述べましたか。
9 また或る人々は,急速に動いていて競争のはげしい,そして戦争の脅威にさらされているこの世界の心配や不安のために圧倒されてしまい,ヱホバに専心の献身を捧げることができません。イエスの譬話は,次のことを予言していました。すなわち,土が種子播き人の種子を受入れて,根をはらせ芽を出させるのと同じように,或る人々は真理の言葉を直ぐに受け入れます。しかし,同時に雑草の種子の成長をも許してしまうため,『世の心づかいと富の惑わしが御言をふさぐので』そのような人は実を結びません。(マタイ 13:22,新口)重荷を持つそのような人々が,イエスの忠告に注意を払うことはなんと良いのでしよう! イエスはこう言われました,『何を食べようか。何を飲もうかと,自分の生命のことで思いわずらい,何を着ようかと自分のからだのことで思いわずろうな。生命は食物にまさり,からだは着物にまさるではないか。だから,何を食べようか何を飲もうか,あるいは何を着ようかと言つて思いわずろうな。これらのものはみな,異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなた方に必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものはすべて添えて与えられるであろう。』御国の事柄をあらゆるものにも先だつて第一のものとなし,生活の事を考えるよりも先にするとは,ヱホバ神への全き完全な献身ということを意味するものです。―マタイ 6:25,31-33,新口。
10 人はどの程度までにヱホバを愛し,ヱホバに仕えるべきですか。
10 ヱホバを崇拝すること,つまりヱホバに専心の献身を捧げるということは,奴隷が自分の主人によろこんで仕えるように,神に仕える,ということです。仕えることは,従うことを意味します。そして,ヱホバに従う者は,ヱホバへの愛の気持から彼に従います。(ヨハネ 14:23,24)実際に,愛は神のすべての律法といましめの全部であり,本質であります。キリスト・イエスも次のように証明の言葉を述べられました。『あなたのすべての心,すべての魂,すべての精神,そしてすべての力(又は活力)を捧げて,あなたは神であるヱホバを愛さねばならない。』(マルコ 12:30と申命 6:5,新世)もはや異論を唱える余地はすこしもありません。それ程までにヱホバを愛し,ヱホバに仕える,ということは,ヱホバへの全き献身ということを意味するものです。
11 献身ということにつき,キリスト・イエスは私たちにどんな例を残されましたか。
11 キリスト教の設立者は,神の律法からこの基礎的ないましめを伝道して,他の者にも従うようすすめただけでなく,彼御自身もその生涯中に実際に行い,ヱホバの御意をなすために,心をこめて全く献身しました。それについては,聖書に次のように書かれています。『私(イエス)は言つた。神よ,私につき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました。』(ヘブル 10:7,新口。詩 40:7,8)30歳のイエスは,ひとたび献身の道に心と思をかたむけてからは,決してためらうとか,躊躇することもなく,また神の御旨の代りに自分の意志を行おうとはしなかつたのです。イエスは,こう言われました,『私は自分からは何事もすることができない。』『私自身の考えでするのではなく,私をつかわされたかたの,み旨を求めている。』『私が天から下つてきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,私をつかわされた方のみこころを行うためである。』全くのところ,イエスにとつて,神の御意を行うことは生きるために食物を食べることと同じ程に大切なものでした。イエスはこう言われています,『私の食物というのは,私をつかわされたかたの御意を行い,その御業をなし遂げることである。』― ヨハネ 4:34; 5:30; 6:38,新口。
12 それでは,真のクリスチャンたちには何が要求されていますか。
12 イエスは,大工の仕事に忙しいから,ヱホバの奉仕者としての献身の責任を取ることはできない,などと言つていたでしようか。みなさんは,そのようなことを想像することができますか。イエスは,家から家の伝道の業は卑しいものであつて,精力や時間がかかり過ぎる,などという態度を取つたでしようか。みなさんは,そのようなことを思い浮かべることができますか。それとは逆に,イエスについては次の予言の言葉が書かれていました,『わが神よ,我は聖意にしたがうことを楽しむ。なんじの法は,わが心のうちにありと,われ大なる会にて義をつげしめせり。視よわれ口唇を閉じず。』(詩 40:8,9)クリスチャンになりたいと欲しているみなさんは,異教徒とか,神を信ぜぬ異邦人などと呼ばれたくないでしよう。しかし,真のクリスチャンになるためには,キリスト・イエスの御跡に従わねばなりません。なぜなら,キリストは真の型である模範を残されたからです。そして,イエスは最初に御父であるヱホバの御意をなすために献身をする,という模範を残されています。私たちは,その最初の大切な段階でもイエスに従わねばなりません。(ペテロ前 2:21)パウロやペテロのような使徒たちが,いろいろの言訳をつくつて,イエスの献身した御跡に従うのを避けたり,延ばしたりした,などということは到底信ずることができません。パウロは,彼がキリスト・イエスに倣つたごとく,私たちもパウロに倣え,とすすめています。―コリント前 11:1。ピリピ 3:17。テサロニケ後 3:7,9。
最大の模範に従う
13 自分を『捨てる』とは何を意味しますか。
13 キリストの真の弟子たちは,彼の為したと同じようにヱホバの御意を為すために献身しなければなりません。そのことは,イエスの次の言葉からも分ります,『だれでも私についてきたいと思うなら,自分を捨てなさい。』(ルカ 9:23,新口)自分を捨てる人は,自分自身の事柄や生涯の選択を捨てます。そして自分の将来に関するヱホバの御意と目的が何であるかを学ぼうとします。それから,それに従う振舞をいたします。その人は,自分の意志を行うのを止め,神の御意を学んで行おうと熱心に努めます。神の御意を行うために,個人的な選択や生活の仕方を捨てます。そして,そのために嘲笑や,非難や,あらゆる苦難や迫害,また全体主義国家の労働収容所に入れられて残酷な苦しみをうけることがあるでしよう。しかし,聖書によると,それは神に対して為される唯一つの道理に適う奉仕なのです。それはヱホバの求め給うものの全部です。使徒パウロは,ローマにいるクリスチャン兄弟たちに次のような手紙を書いています。『兄弟たちよ,そういうわけで,神のあわれみによつてあなたがたに勧める。あなたがたのからだを,神によろこばれる,生きた,聖なる供えものとしてささげなさい。それが,あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。』― ロマ 12:1,2,新口。
14 或る人々が献身の誓を果すのに失敗しているから,という理由で,献身をするのをためらうべきですか。
14 献身によつて,大きな責任が課せられることは確かです。そして,その責任を忠実に果すことは絶対の命令なのです。この理由のために,まだ大いなる方ヱホバに献身していない読者の方々は,前進するのをためらい,またイザヤの語つたような言葉『我ここにあり,我を遣し給え』(イザヤ 6:8)を,人間にではなく,神にむかつて言うのをためらうかもしれません。その理由は,要求を果すことができない,と恐れているからでしようか。献身をしても,献身の誓を守らなかつた人々をあなたは,知つているか,またはそのような人々のことを聞いたことがあるでしよう。それらの人々は偽善者であつて,あなたは偽善者になりたくない,と言います。もし,あなたが偽善を憎む(憎むべきです)なら,クリスチャンと主張しながら,生ける神ヱホバによろこんで仕える奴隷として献身するのを拒絶するため,あなた自身が偽善者の行をしているではありませんか。キリストも神ヱホバに献身して,御自分の真の弟子たちに献身についての模範を残されているのです。失敗をした弱い意志の人々の例だけを考えて,献身を延期する言訳にしていますか。もしそうなら,試験をうけて忠実を破つた人としてイスカリオテのユダを指摘することができます。また,悪魔サタンのことも,慎重に考えなさい。彼はヱホバへの献身から故意に離れてしまい,自分の責任を捨てたのです。サタンやユダ,そして他の不忠実な人々は,生命の道を歩む時の警めの例であり,私たちはそのような例を避けて拒絶し,そして従つてはならないのです。
15 私たちはなぜ,臆病者の精神を取除かねばなりませんか。
15 あなたも,生まれつき弱い性質で,いつも失敗するのを恐れているかもしれません。あなたは,生まれつき臆病者かもしれません。しかし,もし永遠につづくヱホバの新しい世に生きたい,と希望するなら,あなたはこの恐れと臆病の精神を取除くことは是非必要です。これについて疑問を挟む余地はありません。なぜなら,ヱホバ御自身も真の道を示されたからです。それについて,ヨハネは次のように書いています,『私はまた新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消えさり……勝利を得る者は,これらのものを受け継ぐであろう。私は彼の神となり,彼は私の子となる。しかし,おくびような者,信じない者には火と硫黄の燃えている池が,彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙示 21:7,8,新口)もしあなたが信仰を働かして,ヱホバに全く献身するなら,ヱホバは勇気の霊をあなたに与えるでしよう,パウロは次のような確信の言葉を書記しました。『神が私たちに下さつたのは,臆する霊ではなく,力と愛と慎みとの霊なのである。だから,あなたは私たちの主のあかしをすることや,私が主の囚人であることを,決して恥ずかしく思つてはならない。むしろ,神の力にささえられて,福音のために,私と苦しみを共にしてほしい。』(テモテ後 1:7,8,新口)それで,意志の弱い者や,おくびょう者の残した悪い例を見ずに,聖書中に書残されている数多くの忠実な勝者たちに注意を向けることは,正しいことではありませんか。全くそうすることは,本当に良いのです。
16 恐れを感ぜぬ献身したヱホバの僕たちは,過去と現在にどのようなすばらしい例を残していますか。
16 キリスト・イエスは勝者であつて,臆病者でありません。その最初から,また地上にいる時でも,彼は悪魔や悪鬼共に対して獅子のごとくに断乎として戦つたのです。全く彼は,『ユダの族の獅子』のようでした。イエスの忠実な使徒たちを初めとして,初期のクリスチャンたちも,決して臆病者ではありませんでした。また,アブラハム,イサク,ヤコブ,そしてダビデのような人々,サラ,ラハブ,デボラ,そしてヤエルのような婦人たち ― そして勇気を持つていて契約を守つた義人アベルの時からの多くのヱホバの証者たちは,ヱホバに全く献身していたのです。彼らは敵の手中に陥つて死に面しようとも,自分の立場をしつかり守りました。しかし,彼らの生命は亡びましたか。いいえ,そのようなことはありません。彼らは死人をも復活し得るヱホバの最高の力にかたい希望を抱いていたからです。同じように,今日60万人以上もいるヱホバの忠実にして献身した奴隷たちは,神の力と愛の霊を頂いています。それで,数多い敵を相手にしても彼らは恐れを感ぜず大胆で,しかも熱心と勇気をもつて真理と正義のために戦うことができるのです。―ヘブル 11:4-39; 12:1,2。
個人的に選ぶ
17 どの源から生命は来ますか。生命は誰に与えられますか。どのように生命は得られますか。
17 最初の人アダムが神のいましめを破つたため,私たちすべての人間は罪人として生まれ,生まれた時から死の処罰を受けており生命の権利を有していません。それで,永遠の生命は生命の与え主ヱホバからの過分の贈物です。ヱホバは,望む人々にこの贈物を与えますが,しかしそれはただキリスト・イエスを通して与えられるのです。(使行 3:23; 4:12。ロマ 5:19; 6:23。コリント前 15:22)故に,永遠の生命を得る唯一つの道は,神より与えられる規定に従つてそれを受入れることです。つまり,キリストを通して生命の与え主ヱホバに確信を抱いて来り,それから,永遠の将来にわたつてヱホバに奉仕するため,自ら進んで献身することなのです。神にたいするこの献身は,よろこんで心から進んで為されねばなりません。それは各個人の選ぶべき事柄で,他人が代りに選ぶことはできないのです。また強制して選ばせるものでもありません。家族内に波風を起させないためとか,そうしなければならぬ,と押付けられているように感ずるから,という理由でそのような献身をなすべきでありません。生命に通ずるその道を選ぶのに,何人も強制されるべきでありません。選ぶことは,各個人の責任です。モーセも次のように語りました,『我は生命と死および恵みと呪詛を汝らの前に置けり。汝生命をえらぶべし。然せば汝と汝の子孫生存らうることを得ん。』それでは,現在どのようにして生命を選びますか。次の節は,こう説明しています,『すなわち,汝の神ヱホバを愛してその言葉を聴き,かつこれに附従うべし。かくする時は,なんじ生命を得,かつその日を永うすることを得ん。』別の言葉で言えば,永遠にヱホバに従うためあなたの神ヱホバに全く献身することにより,あなたは生命を選ぶのです。―申命 30:19,20。
18 十分の知識を持つ人は,どんな選択をしなければなりませんか。
18 ヱホバに捧げる献身した奉仕は各個人の選ぶべき事柄である,とヨシユアも強調しました。『なんじら若しヱホバに事うることを悪しとせば,汝らの先祖が河の彼辺にて事えし神々にもあれ,又は汝らがいま居る地のアモリ人の神々にもあれ,汝らの事うべき者を今日選べ。ただし,我と我家とは共にヱホバに事えん。』(ヨシユア 24:15)それで今日まだ献身していない皆さんは,生命か死か,そのどちらかを自由に選ぶことができるのです。いま私たちの生存しているこの裁きの日に,ヱホバ神に献身することを故意に拒絶するならば,あなたの生命はハルマゲドン以前に死ななくても,ハルマゲドンの時に死ぬでしよう。しかも,生命の権利はなく,復活の希望もないのです。これとは別に,生命に導くヱホバの道を選ぶならば,あなたは自ら進んで大きなよろこびの中にあなたの心,思い,力,そして所有するすべてのものをヱホバ神と勝利の御国に全く献身するでしよう。
19 ヱホバに献身することは,それに伴う犠牲を払うだけの価値がありますか。
19 是非とも,費用を計りなさい。この世にいて,あなたに何が要求されるかを研究しなさい。(ルカ 14:26-33)しかし,あなたの与えるものを測るとともに,ヱホバより約束されているものをも測りなさい。あなたの献身,讃美,そして心からなす奉仕の力を除いて,最初にヱホバから頂かなかつたものがありますか。それで,あなたの持つすべてのものを,よろこんで神に捧げなさい。すでに神より頂いたものを,神に捧げなさい! かくして,神の献身した僕たちには言葉で言えない特権や祝福が絶えず注がれるのです。神は彼らに霊と力を与えられ,御自身の証者として神の御名によつて呼ばれ,かつ御名の中に語る権威を与えておられます。この亡びに向う死行く世にあつて,献身した神の僕たちは,生存している人々の中でいちばん幸福な人々です。彼らは,神の御言葉と御名を立証するハルマゲドンを生残るという希望を持つています。この希望を持つ彼らは,来るべき大暴風雨について恐れを感じません。そして完全な,新しい天とパラダイスの地で成立つ新しい世で,永久に生活し得る,と彼らはつよく期待しています。まつたく,多くの事柄は献身をなすことに依存しています。あらゆることは,その献身を忠実に守るか否かに依存しています。―ルカ 9:59-62。
20 善意者はいまヱホバに献身しなければなりませんが,どのような理由により,そのことはいちばん緊急なものとなるのですか。
20 過去数ヵ年のあいだ,毎年5万人以上の多くの人々は,自ら進んで生ける神ヱホバに献身しました。『献身は私にとつて何を意味するであろうか。』と自問してごらんなさい。ハルマゲドンが急速に近づいています。救の与えられる恵みの時はいまであつて,後ではありません。生きたいと欲するすべての人々がいる限り,それらる人々が神を求められよう,神は忍耐して待つておられるのです。安全を図るために神権的な山に逃げる時は,今であつて後ではありません。それで,今はヱホバ神に生命を捧げるのを延ばす時ではありません。献身の意味するものと,献身がどんな祝福をもたらすかを十分良く悟るとき,いま為すべきことを明日に延ばしてはなりません。もしあなたが真実の信仰と希望を持ち,神にたいしては善意を持つ人で,また献身について十分の理解と知識および認識を持ち,そして道徳的にも聖書的にも清いなら,秘かな祈りの中に,今日次のことをヱホバ神に厳粛に誓うべきです。すなわち,今後永遠にわたつて,ヱホバ神だけに崇拝と奉仕を捧げ,そしてたとえどんなことが起ろうとも神の書き給うた御言葉,聖書に述べられている神の御意を行う決意を持つ,ということです。あなたがそうなされるならば,その後にバプテスマをうけるでしよう。そのとき,ヱホバはあなたを豊かに祝福します!
[372ページの囲み記事]
この水はバプテスマを象徴するものであつて,今やあなた方をも救うのである。それはイエス・キリストの復活によるのであつて,からだの汚れを除くことではなく,明らかな良心を神に願い求めることである。キリストは天に上つて神の右に坐し,天使たちと,もろもろの権威権力を従えておられる。ペテロ前 3:21,22,新ロ。