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クリスチャンが事業を経営する場合ものみの塔 1972 | 3月15日
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使徒パウロにせよ,イエスが言われた,「だから王国と〔神の〕正義とを第一に求めつづけなさい。そうすれば,これら他のもの[食物や衣服などの必需品]はすべて,あなたがたに加えられるであろう」ということばを信頼しているわたしたちのクリスチャン兄弟たちにせよ,わたしたちにはなんとりっぱな模範があるのでしょう。彼らの行ないはりっぱな結果を生んでいます。わたしたちが見習いたいのは彼らがもっているような信仰です。―マタイ 6:33,新。ヘブル 13:7。
エホバがわたしたちを見てくださるということに強い信仰を保ち,エホバは「求めぬ前に,なんぢらの必要なる物を知りたまふ」ということを心にとめているなら,必要以上に物を貯える気持ちになったり,自分や家族が十分の食を得られないのではないかという恐れをいだくことはありません。わたしたちは,霊感を受けた使徒の次のことばによって,新たな自信をもつことができます。「金を愛することなく,有てるものを以て足れりとせよ。主みづから『われ更に汝を去らず,汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり。然れば我ら心を強くして斯く言はん』〔エホバ〕わが助主なり,我おそれじ。人われに何をか為さん』」― マタイ 6:8。ヘブル 13:5,6,〔新〕。
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読者からの質問ものみの塔 1972 | 3月15日
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読者からの質問
● テモテ後書 1章9節(口語)によれば,天の命に召された人々が「永遠の昔にキリスト・イエスにあって」過分の親切を与えられたとありますが,そのようなことがどうしてありうるのでしょう。―アメリカの一読者より
もとより,人が誕生する何世紀も前に過分の親切を受けるのは不可能です。しかしながらエホバ神は天の王国の相続者になる人々の級(王国を構成する特定な個人ではない)をあらかじめ定められました。このことは神の目的でしたから,達成されたも同然であり,したがって,この級の人々は,「永遠の昔に」過分の親切を受けたと言うことができるのです。ロマ書 4章17節はエホバについてこう述べています。「[彼は]無きものを有るものの如く呼びたまふ」。それでこれはこの事柄に対する一つの見方と言えるでしょう。
「永遠の昔に」という表現は,長さは定められてはいませんが,相当長い期間を表わしていることは明らかです。とはいえ,他の聖句を調べてみるとそれがどれほどの時間を意味しているかについて,もっと明確に理解できます。使徒パウロはエペソ人にあてた手紙の中でこう書いています。「御前にて潔く瑕なからしめん為に,世の創[カタボレ]の前より我等をキリストの中に選び,御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり……我らは凡ての事を御心の思慮のままに行ひたまふ者の御旨によりて預じめ定められ,キリストに在りて神の産業と為られたり」― エペソ 1:4-11。
この句に出てくる創ということばのギリシア語[カタボレ]は,文字どおりには「投げる,あるいは横たえる」という意味で,人間における受胎のさいに受精卵を着床させるということをも意味します。事実,ヘブル書 11章11節の中でその語が「やどす」と訳出されているのももっともなことです。こう書かれています。「信仰に由りてサラも約束したまふ者の忠実なるを思ひし故に,年邁ぎたれど胤をやどす力を受けたり」。これは明らかに,アブラハムがむすこをもうけるべく,いわばたねを「ほうり出し」,サラは受胎できるようにそのたねを受け入れたという意味であることがわかります。
「世の創」ということばについていえば,イエス・キリストはそのことをアベルと結びつけてこう言われました。「世の創より流されたる凡ての預言者の血,即ちアベルの血より,祭壇と聖所との間にて殺されたるザカリヤの血に至るまでを,今の代に糺すべきなり」。(ルカ 11:50,51)このことばの中でアベルは,「世の創」の時代に生きていたと述べられています。アベルはアダムとエバのむすこですから,「世の創」という表現は明らかに,最初の人間夫婦が子どもたちをもうけて親となって人類の世をいわば生み出した時代のことをさしています。したがって,天的な支配者として神のみ子とともになる人々の級を生み出す目的をエホバ神が立てられたのは,アダムとエバが罪を犯した後であり,しかも子どもたちが生まれる前であったにちがいありません。これはパウロがテモテに手紙を書いた時点からすれば4,000年ほど昔のことであり,したがってそれが,「永遠の昔に」と述べられているのはもっともなことといえるでしょう。
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エホバの証人の組織は目下,長老や,奉仕のしもべ,として奉仕する資格をもつと考えられる男子に考慮を払っています。このことと関連して,次のような質問が寄せられました。
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