神のさばきは真に富む人々を明らかにする
1 今日の御国の音信はなぜ強力ですか。
終わりの時に関する預言の中でイエスは言わまれした。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう」。これは,「悔い改めよ,天国は近づいた」という初臨の時の音信と似ていますが,それよりずっと強力です。それは神の国が実際に建てられたことを伝えるものだからです。1914年の秋エホバはご自分の王キリスト・イエスを地上の王座ではなく,天のシオン山に立てられました。―マタイ 24:14; 4:17。詩 2:6。ヘブル 12:22。
2 ルカによる福音書 16章19-31節のたとえ話を現代にあてはめるには,どんな手順をとるのがよいですか。
2 初臨の時の御国の音信は検閲とさばきの時の始まりをしるすものでした。それはさばきの型における第一の要素でした。その結果,全持ちとラザロに関するイエスのたとえ話に描かれたとおりの変化が二つの級に起き始めました。このことは今日でも同じです。検閲とさばきに伴う原則は今でも変わりません。ただ変わっているのは,それが大規模に起きていることです。たとえ話の前後関係および他の関連した聖句を調べることにより,たとえ話が最初の成就を見たイエスの初臨時代に,二人の主要人物がだれを表わすかを知ることができました。同じ手順をとるなら,現代における事情を鮮明に見ることができるでしょう。そしてさばきの型およびそこに含まれる目的とわたしたち各自との関係も見ることができるでしょう。
3 現代の「金持」級をどのように見分けることができますか。
3 現代の「金持」級を見つけるために遠くを見るには及びません。キリスト教国の牧師および宗教指導者はイエス時代のユダヤの宗教指導者ときわめてよく似ています。昔と同じく,今日これらの人々は自らをきわめて神聖,また教育においても社会的地位においても優越した階級とみなし,そのことを服装や多くの称号で表わしています。彼らは顕著な,影響力のある地位に富み,政治支配者と友好関係にあり,国王もしくは独裁者の背後で実権をふるっている場合も少なくありません。そして,社会や個人の問題また国家の問題における神の唯一の代弁者を自任している点で,宗教的にも富んでいます。彼らの会衆において礼拝式を司会し,説教をするよう任命されているのは通常彼らだけです。ある教会において,彼らは人の告白を聞き,赦免を与える権限を主張しています。また聖人を選び,人の義と神聖を宣する権限を持つと主張する者さえいます。現代の「金持」級はまさに紫の衣と麻布で自分を飾り,毎日ぜいたくをしています。―ルカ 16:19。
4 現代の「ラザロ」級はいつごろからはっきりしてきましたか。どのように?
4 イエスのたとえ話の「貧乏人」級を見つけるにも苦労はいりません。初臨時代に先駆者である浸礼者ヨハネが伝道を始めると同時に,この低く,謙遜な人々の級が現われたことを思い出してください。今日でも同じです。1914年の御国設立に先だち,エホバの代理者の前に道を備える予備的な仕事が行なわれました。(マラキ 3:1)これは初臨当時より大規模に行なわれ,約40年の長年月にわたりました。自分の霊的な必要に気づく人々は直ちに見いだされました。しかしそれらの人はヨハネの弟子のごとく,もはや従来の因襲的な宗教指導者に霊の食物を求めませんでした。その時まで彼らは,でき物でおおわれたラザロのごとく,食卓から落ちるもので飢えをしのぐため,「金持の玄関の前」におかれていました。(ルカ 16:20,21)しかし,キリスト教国の牧師は,彼らに対応する昔の人々のごとく,一般の人々に十分な関心を示していません。彼らは厳密に聖書に基づく教えより,自分たちの伝統や信条を重く見てきました。彼らの食卓はすばらしいごちそうの観を呈しているかもしれませんが,その食物は不純な混ぜ物にすぎません。
時間的要素の正しい見方
5 金持ちとラザロの死によって表わされたことが急激に成就すると考えてよいですか。
5 ついで,たとえ話に描かれたとおり,ことの全容を変えるできごとが起きました。つまり,二人の者は死にました。現実の意味においては御国の福音の宣明によってしるしづけられる,時間的に重要な要素がはいるのはここです。確かに,死はクライマックスをなすできごとです。しかし誤った印象を得てはなりません。結果として生じるすべての変化が直ちに起き,すべての者に同時に作用したわけではありません。初臨の時にもそのようなことは起きませんでした。イエスの宣教を予期し,それに先だつ6ヵ月の間,一つの音信を伝えるわざが行なわれました。それはある者を慰め,他の者を苦しめました。同じように,1914年に先だって伝えられた神の国に関する真理の音信は,飢えた者の魂を満たし,ある者に慰めと希望をもたらしましたが,同時にそれは牧師を苦しめ,その怒りをかき立てました。牧師はそれをすぐ示しました。(詳しくは,「神の目的とエホバの証人」参照)この初期の活動と音信は1914年以降になされるより大規模で,より明確な活動を予期してなされました。このことは朝日がのぼるのに似ています。わたしたちは太陽が実際にのぼり,その直射光線が物の輪郭を明らかにするのを待つには及びません。それ以前から,あけぼのの光が周囲の景色をしだいに明らかにしてゆきます。
6 この点につき,さらにどんなことも考えるべきですか。
6 別の点もあります。イエスがたとえ話をされた時,宗教支配者はまだ自分のぜいたくな暮らしとうぬぼれた主張を守っていると自ら考えていました。他方には,のちに慰めと神の恵みを得た者がまだ多くこじきのような状態にありました。このことは検閲の時が始まったという事実を変えるものではありませんでした。また検閲の時の原則を変え,あるいはそれが実施されるのを止め,あるいは邪魔することさえできませんでした。イエスは事情に応じて適宜に話をされました。今日でも同じです。異邦人の時が終わった1914年にキリスト・イエスが天のシオン山に王として立てられた以上,その後の処置を妨げあるいは遅らすことはなにものにも許されません。
7 パウロは大いなるアブラハムをどのように明らかにしていますか。結びにどんなすぐれた訴えをしましたか。
7 「シオンの山……天にあるエルサレム」にある神権政府の構成を霊感のもとに描写したパウロは,「無数の天使……長子たちの〔(クリスチャン)会衆〕」について述べ,そののち最も重要なかた,つまり大いなるアブラハムである「万民の審判者なる神」をあげています。(ヘブル 12:22,23,〔新世訳〕)このことばのとおり,神は「ラザロ」級と「金持」級,および他のすべての者をさばかれます。神の「さばきは大きな淵のよう」であり,正義であると共に,すべての階級の者に対して不動です。(詩 36:6。ルカ 16:26)しかし,神のさばきが最終的に執行される時まで,個々の人が自分の心を改め,一つの級から他の級にのがれることは可能です。このことはこの検閲の時でも変わりません。しかし,時間に限りのあることも忘れてはなりません。パウロがことばを続けて述べたのはこの点です。「あなたがたは,語っておられるかたを拒むことがないように,注意しなさい」。パウロはさらに,現存する事物の制度全体つまり象徴的な天と地が震われ,完全に取り除かれることを述べました。そして次のすぐれた訴えのことばを結びとしています。「このように,わたしたちは震われない国を受けているのだから,感謝をしようではないか。そして感謝しつつ,恐れかしこみ,神に喜ばれるように,仕えていこう」― ヘブル 12:25-28。
8 パウロは最後にどんなことばを加えましたか。どんな相違点に注意すべきですか。
8 パウロは最後に強いことばを加えました。「わたしたちの神は,実に,焼きつくす火である」。相違点に注意してください。イエスはたとえ話の中で,人が生きている間に火のような苦しみを経験することについて述べました。つまり人を苦しませても殺さない状態です。しかしパウロはここで,「火の池……第二の死」で全生命を焼きつくして滅ぼすこと,つまりさばきが最終的に執行される時のことについて述べました。―ヘブル 12:29。黙示 20:14。
9 黙示録 11章7-12節の預言は時間的な要素についてさらにどんな点を明らかにしていますか。
9 実際のできごとを見ると,時間的要素を正しく見なければならないということがさらにわかります。1914年は御国誕生の時でしたが,「ラザロ」級の状態が完全に変化したのは1919年です。(黙示 12:5)どんなことがありましたか。第一次世界大戦の間,キリスト教国牧師は神の許しのもとに,「ラザロ」級であるエホバの献身したしもべを圧迫し,無活動な状態に陥れました。一つの級として,彼らは殺され,象徴的な意味で彼らの死体は大いなるバビロンつまり「大いなる都の大通り」にさらされたかのようでした。彼らの敵は「彼らのことで喜び」ました。しかしその時,神の定めの下に急な逆転が起きました。「いのちの息が,神から出」,彼らを再び活動的にしました。そして「天から大きな声がして,『ここに上ってきなさい』と言うのを,彼らは聞いた……彼らの敵はそれを見た」。1919年,まさにこのとおりのことがエホバの証人に起きました。この年,エホバの証人はエホバの恵みに立ちかえり,敵の「金持」級を含むすべての人の前で,エホバの御国のための奉仕を喜びました。―黙示 11:7-12。
10 二つの級の状態の変化したことが1919年以来しだいに明白になってきたことを述べなさい。
10 二つの級の状態が予告どおりに変化したことは,この時以来しだいに明らかになってきました。かつては泣き,飢えていたエホバの真のしもべは,いま御国の真理で養われ,御国の奉仕によって強くされ,「心の楽しみによって歌う」ことができました。しかし,神のしもべを自称し,「人々の前で自分を正しい」とし,『人々からほめられる』ことを求めていた者にとっては災いであり,対象的な結果になりました。これらの者はいま,「ラザロ」級が非常に繁栄し,真の意味で豊かにされ,大いなるアブラハムであるエホバと統治する王「キリストにあって,天上で霊のもろもろの祝福をもって……祝福」されているのを見,「心の苦しみによって叫」ばねばなりません。現代の「金持」級は神の是認のしるしをもつという点では死んで葬られたも同然です。彼らは「ラザロ」級が宣明する御国の音信を退けています。そして彼らは,国際連盟や国際連合など,人間製の代用品を擁護しています。イエスのたとえ話に照らしつつ,「金持」級の現代の嘆願について次に注意してください。―イザヤ 65:14。ルカ 6:26; 16:15。エペソ 1:3。
現代の「金持」級の嘆願
11 ルカによる福音書 16章24節にある金持ちの嘆願は今日どのように成就していますか。
11 概略的に言うなら,現代の宗教指導者と律法学者やパリサイ人の論議は互いに似ています。いずれの場合でも行ないがことば以上に語っています。「ラザロ」級の力強い音信と活動を,弱めるためあらゆる試みがなされ,可能な所では活動を全く禁ずることさえ試みられています。『この火炎の中にあるわたしの舌を一滴の水で冷やすためどうかラザロをつかわしてください』。私たちの苦しみを和らげるため,エホバの証人に少しでもほめことばを語らせてください。そして彼らを今いる神の恵みの地位から離れさせてください! なんとかして彼らをアブラハムのふところから離れさせようというのです! ―ルカ 16:24。
12 アブラハムの答えに示されるとおり,「金持」級の嘆願の結果はどうでしたか。
12 金持ちの嘆願に対するアブラハムの答えを覚えておられるでしょう。彼はただ事実を述べ,それを変え得ないことを示しました。今日の事情もまさにそのとおりです。エホバの証人の音信を静まらせ,あるいは彼らの態度を変えさせようとする努力の結果は,初期クリスチャン会衆におけると同じく,全く無益に終わっています。エホバはご自分のしもベエレミヤに与えたと同じ教訓を,今日の「ラザロ」級にも与えておられます。「『だれにでも,すべてわたしがつかわす人へ行き,あなたに命じることをみな語らなければならない……彼らはあなたと戦うが,あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて,あなたを救うからである』と〔エホバ〕は言われる」― エレミヤ 1:7,19,〔文語〕。
13 大きな淵について語ったイエスは,たとえ話のあてはまる範囲が広いことをどのように示されましたか。
13 たとえ話のアブラハムが次に「大きな淵」について語ったことも思い出されるでしょう。しかし,アブラハムが問題を金持ちとラザロだけに限らなかったことにお気づきですか。彼は大きな淵のためこれら二人の者が互に他方に渡れないという言い方をしませんでした。彼は淵の両側にいる多くの人々について語っています。「わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって,こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし,そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」― ルカ 16:26。
14 現代の成就の中に金持ちとラザロが表わした以外のどんな級を見ることができますか。
14 これによってイエスは自分のたとえ話の適用範囲を広くされました。この点は現代の成就において特に真実です。金持ちには5人の兄弟がいました。それら5人は同じ苦しみの場所に行くことが暗示されました。ラザロの側に立つ者としてイエスがあげたのは,貧しいこじきのラザロを金持ちの玄関前に運んだ人々と,彼を気づかってそのできものをなめた犬だけです。ここに手がかりがあります。これらのものは窮乏のラザロを助けるため何らかのことをしました。金持ちは何もしませんでした。別のたとえ話の中でイエスは,イエスの霊的兄弟(「ラザロ」級)が困窮しているとき,たとえそのいちばん小さな者にでも親切にする人々について語られました。キリストの兄弟たちに喜んで仕えるこれらの人は,「金持」級の目にはつまらない人間あるいは犬のごとくうつるかもしれませんが,イエスはこれを羊(つまり共同相続者の「小さな群れ」とは別に集められる「他の羊」)とみなされました。(ヨハネ 10:16。ルカ 12:32)他方イエスは援助の手を少しもさしのべない者たちを山羊になぞらえ,「悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の〔焼きつくす〕火」で最終的なさばきにあうとされました。羊のような人々は「あなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」との招待を受けます。ヨハネが幻の中であらかじめ見たごとく,これらの者は今日すでに「聖所」級すなわち「ラザロ」級の者と密接に交わって「昼も夜もその聖所で神に仕え」ており,それゆえ地上で神の恵みの地位を得ています。これら仲間の者も真の意味で富んだ者となります。「小羊は彼ら(を)……いのちの水の泉に導いて下さる」からです。―マタイ 25:31-46。黙示 7:15-17。
その後の嘆願も退けられる
15 金持ちの父親の家にラザロが行くようにとの嘆願について言えば,今日どんなことが起きていますか。
15 不名誉な行為のゆえ恥辱に耐えねばならないのはつらいことです。しかし,自分のよく知る人たとえば身内の者も関係し,共に公衆の前にさらされねばならないなら,つらさはさらに大きくなるでしょう。イエス時代のユダヤ教牧師と同じく,今日のキリスト教国牧師はこのような境遇にあります。彼らは,大いなるアブラハムに専心の献身をささげる立場から「ラザロ」級を離れさせようとしています。「ラザロ」級を使いとして走らせることはできないだろうか。たとえ話で言えば,彼らをして金持ちの5人の兄弟の家を尋ねさせ,「警告」をするまでそこに滞在させることはできないだろうか。(ルカ 16:27,28)言いかえれば,キリスト教国支持者と友好関係を結ばせ,それに証言させようというのです。その証言は彼らに苦しみを免れさせるためのものです。もしこのことが起これば,「ラザロ」級は愛想よく迎えられ,そこに引きとめられ,やがて金持ちの父の家の者とされてしまうでしょう。その父はキリスト教国の父,つまり「この事物の制度の神」なる悪魔サタンです!
16 アブラハムの答えが今日,より大きな意味で成就していることを述べなさい。
16 そのようなことが起きますか。アブラハムが「彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう」と答えたのを覚えておられるでしょう。(ルカ 16:29)今日ではこれらのヘブル語聖書のほかに,クリスチャン・ギリシャ語聖書があります。「ラザロ」級とその仲間つまりエホバの証人すべては,今日,聖書全体を使い,大いなるバビロンに対する神のさばきの理由,その流血行為,世との友好,偽りの教義,恥しらずのおごり,またきたらんとする滅びを告げています。―黙示17:5,6; 18:2,3,21。
17 (イ)「金持」級は「警告」に対しどんな感情をいだいていますか。(ロ)彼らはどんなしるしを求めていますか。なぜ?
17 「警告」はこうしたかたちでさしのべられているにもかかわらず,キリスト教国指導者とその支持者はこれを喜びません。「いえいえ,父アブラハムよ」と応じた金持ちは,実際にはモーセと預言者に向かって「いえいえ」と言っていたのです。このことは今日まさに真実ではありませんか! 宗教指導者はエホバの証人そのものを嫌悪し,あるいは恐れているのではありません。彼らが恐れているのはエホバの証人が聖書から伝える音信です。それは剣のごとく,「神のためには要塞をも破壊するほどの力」があります。(コリント第二 10:4。エペソ 6:17)これ以外のものなら何でもかまいません! ではそれに代わるものは何ですか。しるしです! 理性も信仰もいらないほどの圧倒的なしるしです。「もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら,彼らは悔い改めるでしょう」と金持ちは言いました。(ルカ 16:30)「金持」級は自分の支持者に悔い改めの必要なことを認めていますが,それを近道でやろうとしているのです。彼らは「神の激しい怒りの七つの鉢を,地に傾け」ること,あるいは「と書いてある」と言って終始モーセや預言者および聖書の他の部分を指摘されることを嫌い,それを不必要にする方法を求めています。―黙示 16:1。マタイ 4:4,7,10。
18 アブラハムの最後のことばが今日の事態に適切なことを述べなさい。
18 さばきの型を変え,あるいはそれを無視することはできません。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら,死人の中からよみがえってくる者があっても,彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」。(ルカ 16:31)これはアブラハムの最後のことばです。ユダヤ教牧師およびその支持者にとって物事はまさにこのとおりでした。このことは今日でも同じです。昔も今も,宗教指導者とその支持者は聖書とその音信を聞く機会がなかったとは言えません。彼らは聞き,信ずることを強制されていないのです。彼らは自分の心をかたくなにし,目を閉じることができます。彼らは反対し迫害することができます。しかし大いなるアブラハムの保護下にある証人たちを沈黙させることはできません。使徒時代に,「エルサレムの〔会衆〕に対して大迫害が起り(ましたが)……散らされて行った人たちは,御言を宣べ伝えながら,めぐり歩」きました。(使行 8:1,4,〔新世訳〕)今日の証人たちは,たとえ地下活動に追いやられることがあっても,伝道を続けます。
19 宗教家すべての責任が増していることを述べなさい。
19 宗教家の責任は事実上大いに増しています。なぜなら,「死人の中からだれかが」よみがえったからです。ペテロは述べました。「神はイエスを三日目によみがえらせ……イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを,人々に宣べ伝え,またあかしするようにと,神はわたしたちにお命じになった」。(使行 10:40,42)それで,徹底的な証言は当時すでになされました。しかし証言の活動は今日さらに大きくなっています。よみがえったかたは神の国で王または審判者となっておられるからです。それだけでなく,「ラザロ」級自身が,すでに述べたとおり,1919年に象徴的な意味でのよみがえりを経験しました。これはヨナが大魚の腹の中から救い出されたことに似ています。しかし,金持ちの家の者と彼の兄弟たちにとって,このことは何の意味ももたないのです。
真に富むことを学ぶ
20 富む人々について述べたヤコブのことばは,イエスのたとえ話とどんな点でよく似ていますか。
20 聖書記者ヤコブはここで取りあげた問題を適切に要約しています。彼は霊感のもとに書きました。「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは,自分の身に振りかかろうとしているわざわい〔苦しみ〕を思って,泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は朽ち果て,〔麻布と紫の〕着物はむしばまれ(る)」。「あなたがたは〔死後の永劫の苦しみではなく〕終わりの時に火のようなものを貯えている」。(新世訳)ついでヤコブはさばきの型に直接ふれて言いました。「さばき主が,すでに戸口に立っておられる。兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては,〔エホバ〕の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい……あなたがたは,ヨブの忍耐のことを聞いている。また,〔エホバ〕が彼になさったことの結末を見て,〔エホバ〕がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが,わかるはずである」― ヤコブ 5:1-3,9-11,〔新世訳〕。
21 ヨブとラザロの経験をどのように比較できますか。
21 ここで後半にあげたことばは型の明るい面を述べています。なぜならヨブはしばらくの間ラザロのような経験をしたからです。彼は持ち物すべてを奪われ,はれ物のうみを出さねばなりませんでした。犬がラザロのでき物をなめたのに似ています。(ヨブ 2:8)ヨブもまた見せかけの恩人にすぎなかった3人の宗教的な友人にほんろうされました。彼がそれら3人から得た救いと援助は,ラザロが金持ちの食卓のくずから得たものとかわりません。やがてエホバの検閲とさばきの時が到来し,すべての者はおかれるべき所におかれました。それによって,だれが真に富んでいるかが明らかになりました。ヨブは健康を取りもどし,以前の2倍の資産で祝福されました。神の恵みを得ていることはだれの目にも明らかでした。さらにヨブは新たに10人の立派な子供を得ました。「他の羊」の「大ぜいの群衆」が「ラザロ」級のもとに集められ,『ひとりの羊飼〔のもとにある〕一つの群れ』になったのと似ています。―ヨブ 42:10-17。黙示 7:9。ヨハネ 10:16。
22 真に富むために何をすべきですか。また何を避けるべきですか。
22 わたしたち個人個人は努力するなら真に富んだ者となることができます。そのために生活態度を改めねばならない場合もあるでしょう。わたしたちは「あふことをうる間にエホバを尋ね」ることができます。そして,『悪しき者とよこしまなる人』の誤りを避けることができます。イエスのたとえ話にある金持ちは何も学びませんでした。彼は高慢であり,どこまでも自己中心的でした。そしてラザロを自分の意のままになるこじきとみなして,その見方を改めませんでした。しかしアブラハムはただ一つのもの,「モーセと預言者」つまり聖書を指摘して彼の嘆願を退けました。ここに神の型はきわめて明瞭であり,わたしたちは「エホバにかへ(る)」ための道を見ることができます。エホバは「あはれみをほどこし……豊にゆるしをあたへ」られるのです。―イザヤ 55:6,7,文語。
23 ラオデキヤ人にあてたイエスのたよりはこの点でどのように役だちますか。
23 イエスはまた「ラオデキヤにある〔会衆〕」にあてたたよりの中でも,対照的な手法で真の富の認識のしかたを示しておられます。それは主として「ラザロ」級にあてられたものですが,そこに含まれる原則は神の民すべてにあてはまります。ここの会衆は真の富と偽りの富との区別を見失ってなまぬるくなり,「自分は富んでいる,豊かになった,なんの不自由もない」と自慢していました。彼らはうぬぼれ,ひとりよがりになっていました。しかし真の霊的な富で評価するなら,彼らはイエスの言われたごとく,『あわれで,貧しく,目が見えず,はだか』であり,いまにも避けられ,イエスの口から吐き出さんばかりの状態にありました。イエスの与えた解決法に注意してください。「そこで,あなたに勧める。〔真に〕富む者となるために,わたしから火で精錬された金を買い,また,あなたの裸の恥をさらさないために身につけるように,白い衣を買いなさい。また,見えるようになるため,目にぬる目薬を買いなさい」― 黙示3:14-18。
24 『わたしから買いなさい』というイエスのことばはどんなことを求めるものですか。
24 そうです! イエスは『わたしから買い』,わたしの代価を払いなさいと言われました。これはもっともなことです。イエスは,自ら模範を示されたとおり,身をささげてエホバに献身するよう,わたしたちに呼びかけているのです。自分の身をエホバの訓練とこらしめにゆだねるなら,わたしたちの「信仰はためされて,火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ」るでしょう。自分の『紫の衣と麻布』を誇示することではなく,小羊の犠牲の価値を信じ,『小羊の血で洗って白くした』衣をつけることによって,「正義を求め」ねばなりません。また,すなおに教えを受け,たえず目薬をぬり,神のことばにたくわえられた真理をいつもはっきり見るべく真の努力をすることによって,「謙遜を求め」ねばなりません。―ペテロ第一 1:7。黙示 7:14。ゼパニヤ 2:3。
25 そののちイエスはどんな励みを与えられましたか。
25 だれでもこのような道を進む者にイエスはきわめて魅力的な約束をされました。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう」。(黙示 3:20)喜んでするなら,わたしたちはこの個人的な訴えに応じ,真に富む者となることができます。そして『ひとりの羊飼のもとにある一つの群れ』に属する者となり,イエスの恵みと是認を受ける親密な立場に立つことができます。
26 どんな行動が今,緊急に求められますか。どんな特質に基づいて?
26 自分はこれまで大いなるバビロンに捕われてきたと思うなら,直ちにイエスの訴えに応じ,エホバに献身してエホバの民に加わらねばなりません。バビロニア人は出ることを命じられていません。エホバはただ,「わたしの民よ。彼女から離れ去(れ)」と言われます。(黙示 18:4)これは信仰,神の真理のことばに一致した行ないによって裏づけられた生きた信仰の問題です。無知を口実とすることはできません。淵のような境界線は明確に引かれています。イエスは,「さばきというのは,光がこの世にきた」ことであると言われました。イエスは生涯の生活と教えとによって,ご自身が「人を照すまことの光」であることを実証されました。人々は一般に光にこようとせず,やみに属する悪いおこないを続けてきました。彼らは信仰を働かせようとしません。それでイエスは言われました。「信じない者は,すでにさばかれている」。これらの者は大いなるバビロンの中,罪に定められた状態にとどまることを選びます。これは彼ら自らの決定です。―ヨハネ 1:9; 3:18-20。
27 現在と将来に他とは対照的な喜びにあずかるため,どんな道を進み,どんな立場を得るべきですか。
27 しかしこれと対照的に,わたしたちは光に来て,光に従うことを学ぶべきではありませんか。それは,わたしたちの「おこないの,神にあたってなされたということが,明らかにされるため」です。(ヨハネ 3:21)それによってわたしたちは,かの大いなる都が滅びる時,あるいはハルマゲドンの時に,生命と滅びとのつらい対照を味わうのではなく,いま大いなるアブラハムであられるエホバの保護と愛の恵みを受けることができます。そして,この恵まれた立場を足台として,他とはきわめて対照的な,無限の興味と意義のある幸福な生活を始めることができます。しかもその前途には,さらに多くの対照的な喜びが約束された,神の新しい事物の制度における永遠の命の見込みがあるのです。その創造者は,「見よ,わたしはすべてのものを新たにする」と約束しておられるのです。―黙示 21:5。