読者よりの質問
● 1963年12月1日号「ものみの塔」732頁によると,ヘブル書 11章26節の「キリスト」はモーセに適用されています。モーセは古代イスラエルの祭司や王のように油そそがれていないのに,どうしてそう言えるのですか。―アメリカの一読者より
ヘブル書 11章26節は次のように述べています。「〔モーセは〕キリスト〔油そそがれた者〕のゆえに受けるそしりを,エジプトの宝にまさる富と考えた。それは,彼が報いを望み見ていたからである」。たしかにモーセは,イスラエルの祭司や王が任命される時に使われた文字通りの油をそそがれてはいません。(出エジプト 30:22-30。レビ 8:12。サムエル前 10:1; 16:13)しかし油そそぐことは,職務に任命することであり,従って神に選ばれた者,あるいは任命された者は,たとえ文字通りの油をそそがれなくても,油そそがれた者でした。
そのうえイエスも,昔や今のイエスの弟子たちも文字通りの油をそそがれていませんが,聖書はこれらの人々が油そそがれたことを述べています。「神はナザレのイエスに聖霊と力と〔で油〕を注がれました」「あなたがたと共にわたしたちを,キリストのうちに堅くささえ,油をそそいで下さったのは,神である」。これらの人々は神の聖霊で油そそがれたのです。―使行 10:38。コリント後 1:21。
これに関連して注目されるのは,族長アブラハム,イサク,ヤコブについてエホバが書きしるさせた次のことばです。「主は人の彼らをしえたげるのをゆるさず。彼らのために王たちを懲らしめて言われた,『わが油そそがれた者たちにさわってはならない,わが預言者たちに害を加えてはならない』と」。アブラハムもイサクもヤコブも,文字通りの油をそそがれてはいません。しかしここでエホバの油そそがれた者と呼ばれています。この3人はエホバから選ばれ,任命された者であり,エホバのみ霊がその上にありました。―詩 105:14,15。
またエリヤは,エリシヤ,エヒウ,ハザエルに油をそそぐことを,エホバから命ぜられています。「あなたの道を帰って行って,ダマスコの荒野におもむき,ダマスコに着いて,ハザエルに油を注ぎ,スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシヤに油を注いで,あなたに代って預言者としなさい」。(列王上 19:15,16)このあとにつづく聖書の記録を読むと,エリシヤと交わる預言者の子らの一人がエヒウに文字通りの油をそそいで,イスラエルの王にしていますが,エリヤあるいは,その事について言えば他のだれも,エリシヤまたハザエルに油をそそいだという記録はありません。彼らに任命あるいは務を告げることが,油をそそぐのと同じ役目をはたしたのです。―列王下 2:9-14; 8:13; 9:1-10。
モーセについても同じことが言えます。燃える柴のところで使命を与えられた時から,モーセはエホバの油そそがれた者すなわちキリストであったと言えるでしょう。モーセはこの油そそがれたこと,すなわち任命をエジプトのすべての宝にまさるものと考えたのです。モーセがエホバの油そそがれた者となるために,文字通りの油をそそがれる必要はありませんでした。―出エジプト 3:10–4:17。
● 「おほくの者ゆきわたらん」と述べたダニエル書 12章4節は何を意味しますか。これはエホバの証者が地をゆきめぐって神に関する真理を伝道し教えることですか。あるいは聖書をあちこちと調べることですか。―英国の一読者より
神の天使がダニエルに告げたこの言葉は,次のように述べています。「ダニエルよ終末の時まで此言を秘し此書を封じおけ衆多の者ゆきわたらん而して知識増すべしと」。ヘブライ語,英語の辞典を二,三しらべるとわかるように,問題のヘブライ語shūt自体に「しらべる,吟味する」との意味はありません。この動詞の基本的な意味は「動きまわる」です。ケーラーおよびバウムガルトナーの旧約聖書辞典によれば,ヘブライ語のこの動詞は「行きわたる」との意味であり,新世界訳はヨブ記 1章7節,2章2節,エレミヤ記 5章1節,49章13節,アモス書 8章12節,ゼカリヤ書 4章10節および歴代史略 16章9節において,「行きわたる」に相当する英語(rove about)を使っています。1859年にロンドンで出版されたゲセニウスの旧約聖書のヘブライ語およびカルデヤ語辞典は,この言葉を定義して「早く走る,走って行ったり来たりする,走りまわる(多くの人はオールで水をかくようなかっこうで腕を振りまわす)こと」と,述べています。
しかし行きわたることを悪い意味にとる人もあります。アメリカ訳を見ると,「多くの者は不忠実になるであろう。そして災が増すであろう」となっています。
しかしこの聖句は良いわざのことを述べています。今日の事実と照らし合わせて考えると,この聖句は,信仰をもつエホバの民が聖書を深くしらべて真理をさぐり,エホバから与えられる報いとして真実の知識が増すことを示しているようです。そしてエホバの民はこの知識を他の人々にわかちます。
● 油そそがれたキリストのからだの成員の残れる者は,どのように,「雲に包まれて引き上げられ,空中で主に会い」,そののち,「いつも主と共にいる」のですか。―テサロニケ前 4:17。
テサロニケ前書 4章16,17節は次の通りです。「主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに,合図の声で,天から下ってこれられる。その時,キリストにあって死んだ人々が,まず最初によみがえり,それから生き残っているわたしたちが,彼らと共に雲に包まれて引き上げられ,空中で主に会い,こうして,いつも主と共にいるであろう」。
キリスト再臨の時,油そそがれた者のうち,すでに死んでいた人々がまずよみがえされるはずでした。キリストが,「天から下ってこられる」というのは,文字どおり,天から,また肉体をもって,下って来るという意味ではなく,ご自分の注意と力を地に向けられたという意味です。(創世記 11章5,7節と比較)キリストは,自分の王座から,地上の追随者に向かって,「天使のかしらの声……の鳴り響くうちに,合図の声」を出されました。キリスト・イエスは天使のかしらミカエルであり,自分の周囲に多くの天使を託されています。(マタイ 25:31。黙示 12:7)ダニエル書 12章1,2節に予告された通り,キリストは立ち上がるはずであり,その時,地のちりの中に眠っていた者の多くが目をさますはずでした。黙示録 11章7,8,12節には同様の光景が描かれており,その中では,死んで地上に横たわっていた二人の神の証者が,天からの大きな声で「ここに上ってきなさい」という合図を受けます。そして二人は,雲に乗って天に上ります。
この預言の通り,天使のかしらキリストは大いなるバビロンに対する恐れと束縛におちこんでいた1918年当時のご自分の民に向かい,霊的な死と眠りからさめ,生きかえって活発に活動するようにとの合図の大声を出されました。彼らがこれに応じたのは1919年以後です。これには神の「ラッパ」の音がともないました。それゆえ,この状態は,大いなる主が位につかれたとの,ラッパのひびきにも似た宣明の仕事が行なわれるあいだ続きます。
彼らは,大いなるバビロンとその情夫とも言うべき政治勢力の束縛から解放されることによって,「引き上げられ」,見えざる主の指導の下に,自由で神秘的な組織を造り上げました。同様の例は,麦であらわされる人々が収穫されることを述べる,麦と毒麦のたとえにも見られます。また,ルカ伝 17章34,35節は,このクラスの人々が「取り去」られることを述べています。彼らは,ノアの箱舟に入れられた人々,また,み使の指導の下に安全な場所にかくまわれたロトとその家族に似ています。彼らはこの時から分けられ,裁きの日に,エホバの主権を擁護すべき神の証者として仕えるために取り出されています。
昇天するキリストが,「雲に迎えられて,その姿が見えなくなった」ように,雲に包まれる物は地上の人間の目に見えません。(使行 1:9)地上の残れる者のからだが見えないわけではありませんが,キリストの見えざる再臨下に,彼らが導き入れられた立場は,この世の人々に理解できず,また見ることができません。こうして引き上げられることは,「彼らと共に」言いかえれば,忠実なキリストの追随者のうちすでに死んでいた人の復活と同時に行なわれます。
「空中で主に合い」とは,地上の残れる者が生存中に直接天に行くことを意味していません。これまで数千年の間,悪魔サタンは,「空中の権をもつ君,すなわち,不従順の子らの中に今も働いている霊」でした。(エペソ 2:2)それで,『空中で主に会う』とは,サタンを天界からおとして以来,霊者なる主イエス・キリストが空中の権をもつ者となったことを彼らが理解し,また,彼らが神の霊の宮においてキリストと共におり,神が今日みこころとされる地上の仕事を遂行しつつ,空中の権をもつイエスと連絡をとることを意味しているようです。油そそがれた残れる者のおかれた今日の状態は前述の通りであり,死んで地上の生涯を終えるまで,この状態が続くでしょう。そしてそれ以後,彼らは,彼らに先立った人々と同じく,復活を受けて,私たちの領域を出て,天の主のおられるところに行き,かくして,「いつも主と共に」います。