読者よりの質問
● 新世訳の箴言 27章6節に「愛する者が傷つけるのは忠実のためである。しかし憎む者のくちづけは,これを強いて求めねばならない」とあるのはなぜですか。いろいろな言語の異なったほん訳によると,このようなくちづけは豊か,偽り,欺き,等であると述べられています。―アメリカの一読者より
英語その他の言語のほん訳は,箴言 27章6節の憎む者のくちづけに関して,たしかに新世訳と異なっています。しかしヘブル語聖書新世訳第3巻(1957年版)は,箴言 27章6節に次の注を付しています。「異本によれば『多過ぎる』『欺きである』とも読める」。
それでほん訳によっては,ここに使われているヘブライ語を変えているのです。それらのほん訳者は元来そこに使われているヘブライ語を採用せず,それと形の似たヘブライ語の分詞を代用しており,それがもともと使われた言葉に相違ないと考えています。たとえばケーレルとバオムガルトネル共著「旧約の辞典」は,代りの言葉として再帰形のra‛a‛をあげています。このヘブライ語は悪い無価値な,従って,欺きの,という意味です。
それで問題は聖書の本文中にこの代用語を使うか,それとも元の言葉を残すかということです。マソレティック写本の中では,atharというヘブライ語の動詞の再帰分詞がそこに使われています。前述の辞典によると,この言葉は「嘆願された」という意味です。新世訳では原文に従って「強いて求め」と訳しました。
原文の意味を伝えている他のほん訳としては,ソンシノ本聖書があります。それには「友の傷つけるは忠実よりし,敵のくちづけはせがまれたためである」とあります。言うまでもなく,「せがむ」とはくり返し求めるの意です。このほん訳も箴言 27章6節に注を付し,ほん訳者の直面した問題を示しています。「せがむ。この言葉を用いた〔ほん訳者の〕意図は明らかではない。欽定訳は『欺き』,改訂訳は『おびただしい』を使っている…現代の注釈者は,『忠実』に対照させ得る普通の言葉として『欺き』をここに用い,原文に修正を加えている。しかしイータンおよびアールリッヒによれば,〔関連した〕アラビア語から類推してこのヘブライ語は〔せがむ〕の意味を持つ。もっとも二人は異なったアラビア語の語幹にこの語を結びつけている」。
これは聖書のほん訳者が,筆者の意図はおかまいなしに,ほん訳者にとって意味の通るように字句を修正した例です。しかしこの聖句の意味は,次のように考えられます。すなわち愛する者は,益を与える目的で誠実な心から傷つけます。しかし憎む者から親切な行いをしてもらうには,強いて求めなければなりません。普通ならば,憎む者がその憎しみの対象にくちづけすることはないからです。むしろ憎む者は残酷な仕打ちをしようとします。それで憎む者から親切な行ないをしてもらうには,せがむことが必要です。無関心な人の場合でさえ,せがむことが必要かも知れません。やもめと裁判人のたとえ話の中で,イエスは,神を恐れず人を顧りみない裁判人のことを語りました。この裁判人は,やもめがしばしば来て訴えたのでそのわずらわしさから逃れるため,遂にやもめの訴えを聞いてそのために裁きました。(ルカ 18:1-5)裁判人は心からすすんでその事をしたのではありません。それと同じく憎む者が,強いて求められた結果,親切をしても,それはわずらわしさを逃れるためで,心からの親切ではないと言えるでしょう。憎む者から傷つけてもらうのであれば,なにも強いて求める必要はありません。しかしくちづけのような良いことをしてもらうには,せがむことが必要です。しかし愛する者が傷つけるのは,愛の心からであり,強いて求められたからではありません。
● 創世記 8章22節から,新しい世にも今日と同じ厳しい季節があると考えられますか。―アメリカの一読者より
創世記 8章22節に記録されている通り,エホバはその心の中で次のことを言われました,「地のあらん限りは播種時収穫時寒熱夏冬および日と夜やむことあらじ」。何年か前,これに関連して次のような疑問を提出した人がありました。
「創世記 8章22節によれば,地のある限り冬がなくなることはありません。さて冬になると,いろいろな問題が起きます。往来は雪と氷でおゝわれ,自動車はスリップして事故を起こし,氷に足を滑らせてころぶ人,足をぬらす人,風邪をひく人が出ます。たしかに冬は快適な季節ではありません。これでも完全な状態の下に暮すと言えるでしょうか。このような困難があるのでは楽園の生活と言えないと思います」
このように考えるのも無理はないと思います。しかし今日でさえも冬には悪いことばかりあるというわけではありません。これは考え方の問題です。雪が舞い落ちるのは美しい眺めです。雪は音もなく降りつもって,岡も樹木も野も町もやがて一面の銀世界になります。それを眺めるのは楽しみとさえ言えるでしょう。このような光景の見られる土地に住む人の多くは,自然界に見られる季節のよそおいに目を楽しませています。もちろん冬季,自動車を運転するにはそれだけの用意が必要であり,あるいは道路が滑るときには自動車を全然使わないですませることも必要かも知れません。服装の点でも用意があれば,足をぬらしたり,不快な思いをしなくてもすみます。人間に不完全さがつきまとうのは一年中のことで,冬になれば雪や氷の上でころんだり,風邪をひく人もでるわけです。しかし現在の状態においてさえ,大地が雪にすっぽりと包まれてしまう北国で,冬は美しく,また楽しい季節です。もちろん冬になっても氷雪がなく,従って雪国に見られる状態を全く経験しない土地も沢山あります。
創世記 8章22節のことばは,神の国の下で実現すると約束された完全な状態全般と関連して理解しなければなりません。創世記 8章22節にあるエホバのことばは,洪水前に存在した全地一様な気候がなくなるという意味です。なぜですか。それは全地を一様な気候にしていた水の天蓋が落ちてしまったからです。その結果,創世記 8章22節に述べられている季節が生じました。ノアの時代の洪水によって地上の生活環境は急激に変化し,現在あるような厳しい暑さ,寒さが生じました。しかしそれと同じように神はハルマゲドンにより,またメシヤによる神の国の支配によって急激な変化をもたらし,冬の厳しさ,あるいは他の季節の厳しさをやわらげることができます。
このため,水の天蓋が再びつくられるのですか。創造主は水の天蓋を再び空中にかけて,地球上どこに行っても同じ気温という温室の状態を作り出すのでしょうか。聖書にはそのように書かれていません。洪水前にあった水の天蓋は,神が地に関する創造のわざを終えて第七日をお始めになる前,すなわち創造の期間に造られた神のみわざの一部でした。神の安息はなお一千年あるいはそれ以上残されています。エホバ神はご自身のわざを常にご存知であり,この事柄においても完全に事を運ばれるでしょう。それを知りさえすれば,私たちにとって十分です。神は王イエス・キリストによって最も快適な状態をつくり出して下さるでしょう。不快な気候をなくすことは,楽園を復興させ,死と痛み,悲しみと病気,叫びをなくす神のわざと全く一致して行なわれます。―黙示 21:4。申命 32:4。