神の国の到来はあなたにとって何を意味しますか
「天にいます,我らの父よ,願くは御名の崇められん事を。御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれん事を」。―マタイ 6:9,10。
1 「御国の来らんことを」という言葉は,だれにとって意味のない言葉ですか。それでもこの問題にいま注意を喚起しなければならないのはなぜですか。
「御国の来らんことを」という言葉は,世界人口の3分の2以上を占める人々にとって少しも意味のない言葉です。その人々の宗教のゆえに,この言葉はその人々にとって意味がありません。すべての人が同じ宗教を持っているわけではなく,無神論,無宗教の人さえ何百万人もいます。しかし人々が神の国の到来を気にかけてもかけなくても,神の国は来ます。近い将来に神の国が来て現実のものとなるとき,人々は神の国の支配に直面しなければなりません。そのわけでいま全世界の人々は,この大切な事柄を知る必要があるのです。
2 (イ)ほかにも,この事を知らせてもらう必要があるのはだれですか。なぜ?(ロ)神の国の到来に関して,いまは何を決定すべき時ですか。
2 この必要に迫られているのは,無知な人々だけではありません。「御国の来らんことを」という言葉を知っている人でも,その大多数は同じ必要に迫られています。なぜそのような事があるのですか。クリスチャンととなえる多くの人は「御国の来らんことを」と信心深そうに祈りますが,その語ることを聞き,その行いを見ると,この祈りを少しも理解していません。つまりこの祈りに一致した言動が見られません。その人々にとり,また人類の他の人々にとって,神の国の到来が何を意味するかを尋ねてごらんなさい。おそらくその答はまちまちでしょう。その答は権威あるいは根拠のないものです。神の国の来るとき,全人類が影響を受けます。そのとき人は永遠の益を受けるか,そうでなければ永遠の滅びを受けます。では神の国の到来は私たち各人にとって,何を意味するものとなりますか。いうまでもなく,永遠の益を意味するものであってほしいと思います。どうすれば神の国の到来が私たちにとって永遠の益となりますか。神の国がくるとき永遠の益を得ようと決心するのはいまです。この幸福な将来を自分のものにするためどうすればよいかを,いま知らなければなりません。
3 「御国の来らんことを」と祈るように教えたかたは,どの人種また国籍の人でしたか。そのかたはどこで生まれましたか。
3 「神の国の到来」という言葉は,天の神にささげられた祈り,すなわち「御国の来らんことを」という祈りに基づいています。この祈りを教えたのはアジアの人でした。多くの人はそのことに気づいていません。人類の三つのわかれであるヤペテ,セム,ハムの人種のうち,このアジアの人はセム人種で,その家系はノアの2番目の息子セムにまでさかのぼります。今日の全人類はこのノアの3人の息子から出ました。(創世 10:21。ルカ 3:23-36)セム人種の多くの民族の中にヘブル人,イスラエル人すなわちユダヤ人がいました。神の国の到来を祈ることを教えたこのアジアの人はヘブル人であり,イスラエル人すなわちユダヤ人でした。この人はほとんど2000年前,ローマ領のユダヤにあったベツレヘムの町で生まれました。ここは彼の有名な先祖でエルサレムの王となった,エッサイの子ダビデの生まれたところです。
4 そのかたの名はどのようにつけられましたか。また「ダビデの子」という称号はその意味から見て何を強調していますか。
4 ベツレヘムで生まれる前から神のお告げによって決められていた通り,彼は生まれるとすぐユダヤ人によればエシュア,ギリシャ人によればイエスと呼ばれました。後にその名に加えてメシヤあるいはキリストの称号が与えられ,彼はイエス・メシヤあるいはイエス・キリストと呼ばれるようになりました。またダビデの子イエスとも呼ばれたのは,かつてイスラエルを治めた先祖ダビデの国の王権を持つことを強調しています。―マタイ 1:1,18-25。マルコ 10:47,48。ルカ 1:28-33; 2:4-21。ヨハネ 7:42。
5,6 (イ)「御国の来らんことを」という祈りは何の一部でしたか。(ロ)これについて言えば,私たちがその到来を祈り求めているものは,どのようにくり返し強調されましたか。この祈りをすることはなぜ当然ですか。
5 西暦31年の春,31歳のイエス・キリストは一般に主の祈りといわれる有名な祈りを教えました。「御国の来らんことを」という言葉はその祈りの中にあります。この祈りが有名な山上の垂訓の一部であることを知る人は少ないかも知れません。山上の垂訓はその冒頭にいわゆる至福すなわち9つの幸福を述べており,「自分の霊的必要物を意識している者は幸いである。天国はその人のものである」という言葉にはじまっています。「こころの貧しい人たちは,さいわいである,天国は彼らのものである」とも,これは表現されています。この同じ山上の垂訓の中でイエス・キリストは,いわゆる黄金律すなわち「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」と教えました。
6 この垂訓の中でイエスは,人間の必要とするものについて次のように言われました,「あなたがたの天の父は,これらのものが,ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。(マタイ 5:1-4。ルカ 6:20。マタイ 7:12; 6:32,33)このようにイエスは,最も重要なものとして,生活の必要品ではなく神の国を求めることを教えました。イエスはこの国やあの国,またアメリカ合衆国大統領の地位その他この世の地位を求めよとは教えていません。イエスが教えたのは,まず神の国と神の義を求めることです。従って天にある神の国が最も貴重なものであり,重要なものであることは全く明らかです。それでイエス・キリストが真の追随者に教えた通り,私たちは神の国の到来を祈り求めなければなりません。
矛盾を加える
7,8 その到来に関してどんな質問が起きますか。正しい答を知るには,何をすることが必要ですか。
7 しかし天にある神の国はどのように来るのですか。19世紀前に教えられて以来,神の国を求める人々が祈りつづけてきたこの祈りに答えて,神の国が全く到来するのは何時ですか。神の国の到来はあなたにとって災となりますか,あるいは祝福となりますか。災となるのを避けるために,各人は何をしなければなりませんか。
8 正確に知るために,イエスの教えまた聖書全体に照らしてこの問題をしらべなければなりません。イエスの教えは聖書の一部に過ぎないのです。最初イエス・キリストの教えた祈りに余計な言葉がつけ加えられたため,何億という人々はこの問題の理解をあやまってきました。聖書の最も古い写本によれば,この祈りの言葉は次のようになっています。
9,10 最も古い聖書の写本によれば,この祈りの文句はどうなっていますか。
9 「天にいます我らの父よ,願くは,御名の崇められん事を。御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれんことを。我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。我らに負債ある者を我らの免したる如く,我らの負債をも免し給へ。我らを嘗試に遇せず,悪より救ひ出したまへ」― マタイ 6:9-13。
10 この同じ祈りはルカ伝 11章2-4節に次のように出ています,「父よ,願くは御名の崇められん事を。御国の来らん事を。我らの日用の糧を日毎に与へ給へ。我らに負債ある凡ての者を我ら免せば,我らの罪をも免し給へ。我らを嘗試にあはせ給ふな」。
11 この祈りを唱えるとき,どんな矛盾が加えられるようになりましたか。その矛盾した句は何を述べていますか。
11 山上の垂訓中にあるこの祈りに次の句を書き加えた聖書の写本家は矛盾を加えました。「国と威力と栄光とは,とこしへに汝のものなればなり,アァメン」。(欽定訳,マルチン・ルーテルのドイツ訳)その結果キリスト教国の教会に属する何億の人々は,結びすなわち頌詠として不当につけ加えられたこの句と共に祈りを唱えてきました。「御国の来らん事を」とはじめに唱えながら,「国は汝のものなればなり」という句で結ぶのはおかしいのに,人々はそのことに頓着しなかったようです。国がすでに神のものならば,どうして「御国の来らん事を」と同じ祈りの中で祈るのですか。
12 箴言 30章5,6節にいましめられている通り,つけ加えることはどのように愚かなことですか。
12 これは神のことばを改良しよう,あるいは補おうと考えて,霊感による神のことばに何かをつけ加えることの愚かさを物語っています。箴言 30章5,6節が次のようにいましめているのも,いわれのない事ではありません。「神の言葉はみな真実である……その言葉に付け加えてはならない,彼があなたを責め,あなたを偽り者とされないためだ」。イエスの時代に神の国がまだ来ていなかったことは明らかです。
13 加えられた句は明らかに何からとられていますか。
13 イエスの正しい祈りにつけ加えられた間違った言葉は,ダビデ王が神にむかって述べた言葉を明らかに借用したものです。歴代志略上 29章11節にあるその言葉をアメリカ標準訳によってみてみましょう。「エホバよ権勢と能力と栄光と光輝と威光とは汝に属す 凡て天にある者地にある者はみな汝に属す エホバよ国もまた汝に属す 汝は万有の首と崇められたまふ」a
14 「エホバよ国もまた汝に属す」という言葉が真実だったのは何時ですか。これを語った人はなぜそう言いましたか。
14 紀元前1037年,エルサレムで治めたダビデ王の晩年の日に,この言葉は真実でした。ダビデは自分がイスラエル12支族の国を治める王であっても,イスラエル国民の真実の王,見えない天の王はエホバであり,自分は神エホバを代表する人間に過ぎないことを知っていました。ダビデが40年間坐った王座は実際にはエホバの王座でした。そしていま老齢のダビデ王は若年ながら賢い子のソロモンに王位を譲ろうとしていました。そこでエルサレムにあったイスラエルの会衆に告別の言葉を告げたダビデ王は,イスラエルを治める国が実際には自分のものではなく,また王統を持つダビデの家のものでもないことを告白しているのです。実際にはそれはダビデまた当時の全イスラエルが崇拝した神エホバのものでした。
15 (イ)当時のイスラエルの政府はなぜ神の国の縮図でしたか。(ロ)どの聖句はこの事実を裏づけていますか。
15 紀元前1117年,イスラエル民族を治める人間の国を建てたのはエホバ神でした。また紀元前1070年,全イスラエル12支族の王としてダビデの頭に油をそそがせたのも,エホバ神でした。従ってダビデの時代の昔のイスラエル国民の国は,地上における神の国の縮図すなわち小規模な神の国でした。これと一致して歴代志略上 29章23節は,ダビデがその愛する子ソロモンに王位を譲った後の出来事を次のように述べています。「かくてソロモンはエホバの位に坐しその父ダビデに代りて王となりその繁栄を極むイスラエルみな之に従ふ」。後日エルサレムにソロモン王を訪れたシバの女王はソロモンの栄えを見て,「汝の神エホバは讃べきかな彼なんぢを悦びてその位に上らせ汝の神エホバの為に汝を王となし給へり」とほめました。(歴代下 9:8)エホバの見える位がエルサレムにあったことと一致して,エレミヤ記 3章17節の預言は次のように述べています,「その時エルサレムはエホバの座位とと称へられ万国の民ここに集るべし,即ちエホバの名によりてエルサレムに集り……」。
16 エホバは,神の国の永遠の相続者がダビデから出ることを,どのように約束されましたか。
16 ダビデ王の退位と死の何年も前にエホバ神はダビデと契約すなわち厳しゅくな約束をされ,イスラエルを治める小規模な神の国の王権がダビデの家に永遠に留まることをお定めになりました。エホバ神は預言者ナタンを遣わしてダビデ王に言われました,「エホバ汝に告ぐエホバ汝のために家をたてん汝の日の満て汝の父祖等と共に寝らん時に我汝の身より出る汝の種子を汝の後にたてて其国を堅うせん……汝の家と汝の国は汝のまへに永く保つべし汝の位は永く堅うせらるべし」。(サムエル後 7:11-16)このようにエホバは,神の国の位を永遠に相続する者がダビデ王から出ることを約束されたのです。この相続者はダビデの子とも呼ばれるでしょう。
一時的に中断された
17 イスラエルを治める神の国はつづきましたか。イスラエルの歴史のどんな出来事がそれに答えていますか。
17 ダビデ王はその当時,「エホバよ国もまた汝に属す」と神に向かって言うことができました。しかし地上における神の国の縮図,イスラエル国民を治めた模型的な神の国のなくなる時がきました。それは何時のことでしたか。紀元前607年のことです。その年,全能の神はバビロンの軍隊が王の都エルサレムを滅ぼすことを許しました。エルサレムはダビデの家の歴代の王がエホバの位に坐した町です。神はその位の覆されることを許し,エルサレムの包囲と破壊に生き残った人々が遠いバビロンの地に連れ去られるのにまかせました。エルサレムとユダの地は人と獣の住まない荒れた土地になりました。この出来事があってのち,神の国は地上から姿を消してしまいました。―エゼキエル 21:25-27。
18 (イ)捕われのユダヤ人が故国に戻ってのちも,エルサレムの総督が「エホバよ国もまた汝に属す」と言えなかったのはなぜですか。(ロ)従ってどんな質問がありましたか。
18 70年後,捕われのイスラエル人は解放されて故国に戻ってきましたが,支配者の坐るエホバの位はエルサレムにありませんでした。ダビデ王の子孫がエホバの位に坐り,神を代表して治める模型的な神の国はエルサレムに復興されなかったのです。「異邦人の時」すなわち「諸国民の定められた時」が始まっていました。(ルカ 21:24,新世)それでエルサレムにいたユダヤ人の支配者は異教の征服者に隷属しており,ダビデ王がエホバ神にかつて言ったように「国もまた汝に属す」とは言えませんでした。神がダビデと結ばれた永遠の御国契約に従い,イスラエルを治める神の国の永遠の相続者が現われるはずでした。すなわちこの永遠の相続者が位につき,神を代表して治める神の国が復興するのです。忠実なユダヤ人が神の国の到来を待ち望んだのも不思議ではありません。従って問題は,神の国の支配が中断されたこの期間がどのくらい続くかということでした。神のお約束によれば神の国は何時来ますか。
19 イエスはエレサレムを「大王の都」と呼びましたが,なぜそれはイスラエルの事態が変化したという証拠にはなりませんか。
19 昔のイスラエルのこの状態は何世紀ものあいだつづきました。西暦紀元の始まる少し前に,ダビデの子イエスはユダヤのベツレヘムで生まれました。山上の垂訓をお与えになったとき,イエスはたしかに次のように言われました。「いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから」。(マタイ 5:34,35新口)しかしこれは,神の国がエルサレムで治めていたという意味ではありません。天が神の御座であると,イエスは言われました。エルサレムで人間の支配者が坐る位は神の御座ではありません。全地も神の足台に過ぎないのです。(マタイ 23:22)イエスがこの事を言われたとき,エルサレムとユダヤの土地はユダヤを治めたローマの領土であり,当時治めた総督はダビデ王の子孫すなわちユダヤ人ではなくてローマ人ポンテオ・ピラトでした。―ルカ 3:1。
20 イエスがエルサレムに入城したとき,熱情的なユダヤ人は何を期待していましたか。この事は彼らのどんな叫びから明らかですか。
20 地上の生涯の最後の週にイエス・キリストはろばの背に乗ってエルサレムに入城しました。イエスがそのとき神の国を建てるのを期待した熱情的なユダヤ人は,凱旋行進のようなイエスの入城につきしたがい,喜んで叫びました,「ダビデの子に救いあれ。エホバの御名によって来る者に祝福あれ,いと高きところにて彼に救いあれ」「救いあれ。エホバの御名によって来る者,イスラエルの王に祝福あれ」「今きたる,われらの父ダビデの国に,祝福あれ」― マタイ 21:9。ヨハネ 12:13,新世。マルコ 11:10,新口。
21 イスラエルの事態はどのようにその後も変らず,従って「国も汝に属す」と言える者はエルサレムに一人もいませんでしたか。
21 エルサレムにはいったイエスは宮に行きましたが,ユダヤ人の大祭司から油をそそがれず,王となりませんでした。イエスはエルサレムにあったエホバの位に坐ることなく,地上における神の代表者として治めることをしませんでした。5日たって過越しの日,イエスが死罪にあたるかどうかをしらべようとした総督ポンテオ・ピラトの前で,イエスは次のように言われました,「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従っている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実,わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネ 18:36,新口)それでイエスの時代においてさえ,歴代志略上 29章11節にあるダビデの言葉どおり「国もまた汝に属す」と神に言える人は,エルサレムに一人もいませんでした。
22 従って主の祈りの中でイエスが弟子たちに教えたのは,何を祈り求めることでしたか。彼らはキリスト教国に加わって何を唱えることをしませんか。
22 この理由があったからこそ,主の祈りと言われる祈りを弟子たちに教えたとき,イエスはこの句を祈りの最後につけなかったのです。イエスはこの句が真実ではないことをご存知でした。そこでイエスが弟子たちに教えたのは,まだ来ていない神の国の到来を祈ることでした。神の国は紀元前607年に模型的な意味で覆されてしまっていました。今日でも正しいことを教えられているイエスの追随者はキリスト教国の宗教家に加わらず,「国と威力と栄光とは,とこしへに汝のものなればなり,アァメン」という間違いの句を唱えません。それで「御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれん事を」という祈りに矛盾を加えることはありません。このような人は,神の国がこれから到来すべきことを知っています。
どのように?
23 キリスト教国のある宗教家によれば,神の国はどのように来ますか。
23 では神の国の到来は,世界中の人々にとって何を意味するのですか。神の国はどのように来ますか。キリスト教国の宗教家に尋ねてごらんなさい。「神の国が来るのは5万年先のことです。世界中の人がキリスト教に改宗するとき,神の国は来ます」と答えるでしょう。しかしこれは正しい答ですか。
24 世界年鑑の人口統計は,世界をキリスト教に改宗させることについて何を示していますか。
24 1963年度世界年鑑(ニューヨーク版)719頁によれば,いわゆるキリスト教の人は世界に9億433万2500人います。しかし1962年5月発行の国連統計年鑑によると,世界人口は1961年に30億を突破して31億400万人に達しており,毎年5400万人ずつ増加しています。何年かにわたって統計をみると,クリスチャンでない人々の数はいわゆるクリスチャンの数よりも早く増加しています。世界をキリスト教に改宗させることは一向にすすんでおらず,世界人口の中でキリスト教国の人口の占める割合は小さくなってきました。それはいま3分の1以下に過ぎません。
25 統計によれば,世界の宗教は信者の数から見てどの順に並びますか。
25 あらゆる宗教団体の中で最も大きいのはローマ・カトリックであり,世界年鑑によると洗礼を受けた幼児をも含めて5億5035万人の信者を擁しています。次に大きいのが回教で,キリスト教でないこの宗教に4億3374万人の信者がいます。次は3憶3580万2500人の信者を持つインドのヒンヅー教です。儒教の3憶24万500人がその次に位し,信者の数から言えばプロテスタントは儒教の次に位しています。以下,仏教,東方正教会,アフリカ,オーストラリア原住民などの原始宗教,神道,道教,ユダヤ教,ゾロアスター教の順に並びます。最後に世界年鑑は,特定の宗教を持たない人々として5億5277万1700人をあげています。これはローマ・カトリックの信徒を上回る数です。b
26 (イ)ローマカソリシズムは国際共産主義を前にしてどんな状態にありますか。(ロ)最近一人の牧師は南アメリカにおけるこの事実をどのように指摘しましたか。
26 王として治めるキリストの代表者をもって任ずる法王がバチカン市に陣どり,数の上では強大なローマ・カソリシズムも,国際共産主義の前に敗退しつつあります。1963年12月14日,48ヵ国からプロテスタントおよび正教会の指導者200人を集めてメキシコ・シチーに開かれた会議の席上,ラテンアメリカ長老派団体の執行委員長は次のことを述べました。c
「南アメリカをカトリックの国と見る単純な考えは,もはや通用しない。……福音の伝道によって良心を呼びさまされた多くのクリスチャンは,教会をすてて,共産主義の指導者に転向した」― 1963年12月15日付ニューヨーク・タイムズ
27 今日のアメリカ合衆国は宗教的に見てどんな国ですか。
27 アメリカ合衆国について言えば,それはもはやプロテスタントの国ではなく,ましてローマカトリックの国でもありません。ローマカトリック教会の高位聖職者は,アメリカにおける教会の前途について暗い見通しを述べています。d
28 キリスト教国の希望が打ち砕かれたにもかかわらず,神の国は何時来ますか。なぜそうですか。
28 世界がキリスト教に改宗するのを待っていたのでは,キリスト教国の宗教的な人々はこの時代のうちに,あるいは何時までたっても神の国の到来を見ることができないでしょう。聖書を間違って解釈したこの人々の希望は打ち砕かれてしまいました。しかしそれだからと言って神の国がこの時代のうちに来ないというわけではありません。聖書の預言の光に照らし,また時を計算してみるとき,すべての証拠は神の国がこの時代のうちに来ることを示しています。神の国の到来は世界のキリスト教への改宗に依存していないからです。神の国はもともとそのように来るものではありません。(テモテ前 4:1-3。テモテ後 3:1-7。ペテロ後 3:3,4,7)世界の改宗という平穏な方法でなければ,神の国はどのように来て全地を支配するようになるのですか。
29,30 (イ)ダニエル書 7章に描かれた幻の中で,どんな一連の世界強国が預言者に示されていますか。(ロ)幻の中で神の国の到来はどのように描かれていますか。
29 もし聖書をお持ちならば,聖書からその答を知ることができます。聖書は神の霊感によって書かれた本だからです。ダニエルの預言の7章をごらん下さい。それは神の国の到来と,それが人の子と呼ばれる者の手に委ねられることを描いています。人の子とは,ダビデ王の家に約束された永遠の御国相続者,ダビデの子,イエス・キリストのことです。まず預言者ダニエルは,バビロニア世界強国から始まって英米世界強国を含む今日の政治組織にまで至る世界強国の象徴を見ました。e 幻の中でダニエルの見たものは,これらの世界強国の平穏な改宗ではなく,その激しい滅びでした。そのことを見てのち,預言者ダニエルは次のように述べています。
30 「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると,見よ,人の子のような者が,天の雲に乗ってきて,日の老いたる者のもとに来ると,その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い,諸民,諸族,諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって,なくなることがなく,その国は滅びることがない」― ダニエル 7:13,14,新口。
31 幻の中で,ダビデの子イエスに与えられるのはどの国ですか。
31 ダビデの子イエスはここで人の子と呼ばれているゆえに,日の老いたる者すなわち神が人の子に与える国は,イエスが追随者に祈り求めることを教えた御国です。
32 (イ)裁き主なる神から存在を許された最後の政治組織の終末は,どのように描かれていますか。(ロ)他の象徴的な獣の支配権はどのように奪われ,またその生命はどのように一時のあいだ延ばされましたか。
32 ではこの国が支配権を得ることは,この世の政治組織にとって何を意味しますか。幻の中で神の天使がダニエルに説明したところによれば,第4の獣とその角は,裁き主なる神からその存在を許された政治組織の最後のものを象徴しています。この事を説明したのち,天使はこの政治組織の滅びを次の言葉で描いています,「しかし審判が行われ,彼の主権は奪われて,永遠に滅び絶やされ(る)」。(ダニエル 7:26,新口)これは獣のような政治組織の最後のものを描いた11,12節の意味を明確にしています。「わたしが見ている間にその獣は殺され,そのからだはそこなわれて,燃える火に投げ入れられた。その他の獣はその主権を奪われたが,その命は,時と季節の来るまで延ばされた」。これら獣のような他の政治組織の主権は過去において次々に奪われました。その延ばされた生命も,第4すなわち最後の獣が殺されて火に投げ入れられ,激しく滅ぼされるまでの一時の生命に過ぎません。そのときこれらの政治組織も滅ぼされます。
33 ダニエル書 7章27,28節によれば,天下の国々の支配権はだれに与えられ,それはどの位のあいだつづきますか。
33 これこそ人の子とその忠実な弟子たちに与えられる神の国の到来が,この世の政治組織にもたらすものです。そこでダニエルは7章27,28節の次の言葉で説明を終えています,「『国と主権と全天下の国々の権威とは,いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって,諸国の者はみな彼らに仕え,かつ従う』。その事はここで終った」。
34 (イ)「いと高き者の聖徒たる民」と呼ばれているのはだれですか。その人々は何人いますか。(ロ)地上の政治組織を力によって取り除くことは,霊的な残れる者の助けを得て行なわれますか,それとも助けなしに行なわれますか。
34 この預言の中で「いと高き者の聖徒たる民」と呼ばれているのは,主イエス・キリストおよびキリストと共に天の御国を相続する忠実な弟子たちです。ダニエル書から多くの句を引用している聖書の巻末の本,黙示録は,栄光を受けたイエス・キリストと共に天の御国を相続するこれらの追随者が14万4000人であることを示しています。(黙示 7:4-8; 14:1-3)天にある神の国の霊的な相続者のうち,統計によれば1万3000人に満たないわずかの人々が今日,地上に残っているに過ぎません。しかしこれらの人々はこの世の政治組織に対してどんな暴力行為をも企てません。裁き主であるエホバがダビデの子,天のみ子イエス・キリストを用いて世界の政治組織をことごとく滅ぼします。
35 キリスト教国が世界の改宗に失敗していることは,神の国に関してどんな事実を強調していますか。
35 世界をキリスト教に改宗させ,自分たちの手で神の国を建てる甘い夢を抱いていたいわゆるクリスチャンは,天の神の力によって地上の政治組織が激しい滅びを受けることを聞くと,恐ろしさの余り身ぶるいするかも知れません。しかしこのような人々は,世界の改宗をはかる自分たちのプログラムの失敗にも身ぶるいすべきではありませんか。その失敗が雄弁に物語っているように,キリストによる神の国が全地を治めるためには,天からの力によって神の国のために道を開かなければなりません。聖書の他の預言もこの事実を裏づけています。
36 ダニエル書 2章の幻は,だれの行進のあとをたどっていますか。
36 ダニエルの預言の第2章に戻ってみましょう。そこでダニエルは,古代バビロニアの世界強国に始まり,ローマ帝国,更にその流れを汲む今日の英米世界強国すなわち大英帝国とアメリカ合衆国との政治同盟に至る世界強国の行進を描いています。f
37 興亡を経た政治的な世界強国の今なお残るものは,どのように滅びますか。幻はこれをどのように描いていますか。
37 世界強国のこの移り変りは,偶像のような像によって表わされています。ダニエルの預言に示された神の定めによれば,幾多の興亡を経てのち今日,存在している世界強国は神の力によって滅ぼされます。幻の中で示されたように,それは神の山から切られて出た石が偶像にあたって像をこなごなに砕くのに似ています。砕かれた像のかけらは強い風に吹きはらわれて跡かたもなくなるでしょう。―ダニエル 2:1-43。
38 象徴的な石が象徴的な像にむかって飛んでくることは,何を意味しますか。
38 この石がメシヤなるイエスによる神の国を象徴することを示して,預言者ダニエルは次のように説明しています,「それらの王たち〔現在の世界の政治支配者〕の世に,天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく,その主権は他の民にわたされず,かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです」。(ダニエル 2:44,新口)ここで石の象徴する,メシヤによる神の国の到来は,聖書の巻末の本に預言された最後の戦い,普通にハルマゲドンの戦いと呼ばれる「全能の神の大なる日の戦闘」をすることを意味します。―黙示 16:14-16。
39 キリスト教国の解説者は,石が像を打つことをどのように解釈してきましたか。何時大きな打撃が与えられたと考えられましたか。
39 19世紀英国のアダム・クラーク博士など,キリスト教国の聖書解説者はダニエル書 2章44節の解釈として,山から切られて出た石はキリスト教の福音であり,この石に打たれた諸国家は改宗して支配者も国民もクリスチャンになる,こうしてやがては全世界がキリスト教になると説いてきました。西暦312年,コンスタンチン大帝が改宗し,融合宗教であるローマカトリック教会の設立を見たことは,異教ローマに加えられた大きな打撃であると解釈されました。g
40 しかし今日,キリスト教国の宗教はどんな力を持っていますか。キリスト教国はどのように国際共産主義に押されていますか。
40 しかし20世紀も60年以上を経た今日,キリスト教国の宗教の持つ力はますます弱くなっています。政治支配者がローマカトリック,ギリシャ正教あるいはプロテスタントの信徒となり,同じ宗教を国民にも強制するといったことは,もはやなくなりました。1963年6月22日付テキサス州ダラスのモーニング・ニュース紙(およびタイムズ・ヘラルド)によれば,長老派教会の一牧師は次のように語りました。h キリスト教国の宗教が裁かれているのみならず,「我々は世界の笑いものになっている。アメリカ合衆国は世界の他の宗教にとって絶好の伝道の場である」。このことに対する責任の一半がキリスト教国の教会員の宗教的無知にあることを指摘してのち,「我々は自分たちの責任の多くを異教の世界に委ねてしまった」と,この牧師は述べています。しかしいわゆるクリスチャンの無知が世界の笑いものになっているだけではありません。キリスト教国は国際共産主義の打撃を受けてよろめいています。キリスト教国は共産主義のために滅ぼされることを望みません。
警告となるたとえ
41 世界の平穏な改宗は聖書に述べられていますか。イエス・キリストはミナのたとえ話の中で,神の国の敵について何を示していますか。
41 世界をキリスト教国の宗教に平穏に改宗させようと望むのは聖書と合わないだけでなく,今日では現実とも合いません。ルカの福音書 19章に記録された主イエス・キリストのミナ(あるいはポンド)のたとえ話も,メシヤによる神の国の敵がメシヤ自身の手によって激しく滅ぼされることを警告しいてます。
42 イエスはなぜこのたとえ話をしましたか。このたとえ話は,神の国の到来までの時間をどのように示していましたか。
42 ルカ伝 19章11節はイエスがこのたとえを話した理由を告げています。「人々がこれらの言葉を聞いているときに,イエスはなお一つの譬をお話しになった。それはエルサレムに近づいてこられたし,また人々が神の国はたちまち現れると思っていたためである」。人々の考えとは反対に,イエスは神の国がまだ遠い将来のものであることを示されました。イエスは「王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つ」身分の高い人にご自分をたとえたからです。イエス時代の旅行の方法を考えれば,遠い所に旅して王位を受け,再び戻ってくるには長い日時を要します。従ってイエスは長いあいだ去っているはずでした。
43 身分の高い人を憎んだ住民は何をしましたか。たとえの成就において,この憎しみはどのように表わされましたか。
43 しかしこの身分の高い人が王位を受けることに反対の者たちがいました。ルカ伝 19章14節にある通り,「本国の住民は彼を憎んでいたので,あとから使者をおくって,『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせ」ました。これらの住民がどのように憎しみをあらわしたか,また身分の高い人がどのように遠い土地に着いて王位を受けたか,それはたとえ話の中でくわしく述べられていません。しかしたいていのユダヤ人が,「この人イエス・キリストが王になるのをわれわれは望んでいない」と言ったとき,このたとえは成就されました。イエスが王になるのを阻止しようとしたユダヤ人はイエスを死罪にさだめ,苦しみの杭にかけて殺すため,エルサレムにいたローマの官憲にイエスを渡しました。
44 どのようにイエスは象徴的な「遠い所」に行きましたか。イエスご自身の民は,イエスに対する憎しみをなおどのように示しましたか。
44 ではイエスはどのように「遠い所」すなわち神の御座であるとイエスの言われた天に行きましたか。イエスが苦しみの死を味わって後三日目に全能の神エホバは,身分の高いみ子を死からよみがえらせ,その40日後には天に招いてご自身の右に坐らせました。(使行 2:22-36; 3:13-21)イエス・キリストが「遠い所」すなわち神のいます天に昇ってからも,ユダヤ人はイエスの忠実な追随者を迫害して相変らずイエスを憎むことを示しました。こうしてユダヤ人は,身分の高いみ子が王となるのを望まないことを重ねて神の前に明らかにしたのです。
45 神の国を憎む者は,ほかにどこにいますか。彼らはどのように憎しみを示しますか。
45 ところがメシヤの治める神の国の敵はユダヤ人の中だけでなく,他のすべての国の人々の中にもいます。この人々もキリストの追随者を迫害し,その伝える御国の音信を拒絶します。彼らは113ヵ国の加盟する国連をも含めてこの世の人間による政治支配を望んでいるのです。ではメシヤによる神の国の到来は,これらの敵対者にとって何を意味しますか。
46 たとえ話の中で,イエスは御国の到来がその敵にもたらすものをどのように述べましたか。この事の縮図的な成就はどのように見られましたか。
46 イエスはミナのたとえ話の最後にその答を与えています。王位を受けて帰ってきた身分の高い人は言います,「わたしが王になることを好まなかったあの敵どもを,ここにひっぱってきて,わたしの前で打ち殺せ」。(ルカ 19:27,新口)たしかにこれは真実のキリスト教に平穏に改宗させることではありません。それは激しい滅びです。これは西暦70年に小規模に成就しました。改宗しなかったユダヤ人はローマのカイザルに反逆し,そのため首都エルサレムは包囲されて悲さんな目にあったあげく遂に滅ぼされました。反逆したユダヤ人の110万人が殺され,生き残った9万7000人がローマ帝国の各地に連れ去られて奴隷になったと言われます。―ルカ 19:41-44; 21:20-24。
47 西暦70年のその出来事にもかかわらず,クリスチャンは今なお何を祈り求めますか。その祈りの成就は,西暦70年の出来事とくらべて何を意味しますか。
47 しかしメシヤによる神の国は西暦70年のその年に来ませんでした。今日真のクリスチャンは神にむかって「御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれんことを」と,なお祈っています。聖書にしるされた時の予定を知り,また1914年以来の世界の出来事と情勢が聖書の預言の成就となっているのを知るとき,前述の預言に描かれた神の国の到来が間近いことは全く明白です。神の国が来るときその敵のこうむる滅びは,1900年前のエルサレムの滅びと改宗しなかったユダヤ人の殺りくよりも恐ろしく,大規模なものとなるでしょう。
48 キリスト教国の人々は,主の祈りの中で唱えるどんな事柄の意味を悟っていませんか。
48 従って「御国の来らんことを。御意の天のごとく,地にも行はれんことを」と教会で唱えていながら,キリスト教国の人々は何を祈っているのかをほとんど理解していません。それで神のみ手によって下される滅び,すなわちこの世の組織制度の滅びを祈っていることに気がつきません。国連の主要な支持者で原水爆その他の大量さつりく兵器を貯えているキリスト教国は,この世の組織制度の一部です。メシヤによる神の国がくるとき,キリスト教国の内外を問わず神の国に敵対する人々は滅ぼされます。
49 この世の組織の終りに関する預言の中で,イエスは人の子のくる時をだれの時代にくらべましたか。どの点においてですか。
49 この世の組織制度の終りに関する預言の中でイエスの言われた次の言葉には,深い意味があります。「人の子の現れるのも,ちょうどノアの時のようであろう。すなわち,洪水の出る前,ノアが箱舟にはいる日まで,人々は食い,飲み,めとり,とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて,いっさいのものをさらって行くまで,彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも,そのようであろう。だから,目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか,あなたがたには,わからないからである」― マタイ 24:37-39,42,新口。
50 ノアの時代の洪水はどんな種類の出来事でしたか。それは今日地上に住む人々にとって何を予告していますか。
50 ノアの時代の洪水は自然界の強大な力の働きであり,神はこの力を意のままに用いられました。洪水は全地をおおい,箱舟の中で生き残ったノアとその家族,いろいろな種類の動物を除いて,箱舟の外にいた無数の人と動物はことごとく滅びました。今日の世界人口は30億を越えています。従ってこの時代のうちに神の国の到来するとき,それがノアの時代の洪水のようであるとすれば,そのもたらす破壊と殺りくは大きいに違いありません。
51 神の国の到来は神の国を愛する人にとって何を意味しますか。人の子の日がノアの日に似ていることは,その人々にとって何を意味しますか。
51 しかし全地を治める正当な政府である神の国の到来は,破壊をもたらすだけに終るのですか。メシヤによる神の国に敵対する者にとっては,確かにそうです。他方,神の国を愛し,神の国と神の義を第一に求める人にとって,神の国の到来は祝福となり,幸福となり,救いとなります。ノアの時代の洪水のとき,ノアとその息子ヤペテ,セム,ハムおよび4人の妻,合わせて8人が保護されました。太陽暦でまる1年を箱舟の中で過してのち,8人は清められた地に出てエホバ神の崇拝をあらたに始めました。神の保護を受けてこれらの人々が生き残ったからこそ,今日私たちは地に生命を享けることができたのです。(創世 7:1–9:19)メシヤである人の子の時もノアの日と同様であろうと預言したイエスの言葉から明らかな通り,神の国の敵であるこの組織制度の激しい滅びの時にも生き残る人があります。
52 イエスは最後の艱難に関する預言の中で,生き残る人のあることをどのように示しましたか。
52 イエスはこの組織制度の終りに関する預言の中で,艱難が最高潮に達して人類のかつて経験したことのない大きな悩みになると言われました。「その時には,世の初めから現在に至るまで,かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。もしその期間が縮められないなら,救われる者はひとりもないであろう。しかし,選民のためには,その期間が縮められるであろう」。(マタイ 24:21,22,新口)ゆえにこの世の組織の終りを生き残る,ノアとその家族に相当する人々がいます。
忠実なしもべたち
53 (イ)生き残る「選民」はミナのたとえ話の中で,どのように示されていましたか。(ロ)主人のミナで商売をしなかった一人のしもべについて,どんな質問が起きますか。
53 生き残る人々の中にはイエスが「選民」と呼んだ人々,すなわちミナのたとえ話の中の忠実なしもべにあたる人々がいます。たとえ話の中で身分の高い人は,王位を受けるため遠い所に旅立つ前,しもべたちにミナを与えました。しかし10人のしもべのうちの一人は,「わたしが帰って来るまで,これで商売をしなさい」と命じた身分の高い人の言葉を守りませんでした。9人のしもべはそれぞれ与えられたミナを元にしてもうけを得ましたが,怠惰で不忠実な一人はもうけを得ませんでした。彼は自分の1ミナをふくさに包んでしまっておいたのです。それで主人のために少しのもうけも得ませんでした。主人が王となって帰ってきたとき,失いもせずふやしもせずに,与えられたものをそのまま返したこの僕はどうなりましたか。主人の帰りは祝福を意味しますか,のろいを意味しますか。怠け者の僕は自分のしたことの報いを受けました。
54 たとえ話の中で,その来たことは,もうけることをしなかったこの僕にとって何を意味しましたか。
54 いま王となった身分の高い主人は,怠け者の僕を悪い僕と呼び,そのミナをとりあげるように命じました。彼は主人の王国のために働かなかったからです。王に味方しなかったこのしもべは,王を憎んで王に敵対した本国の住民の同類と見なされ,王の命令によって殺された敵の住民と同じ罰を受けました。(ルカ 19:13,20-27)これと似たイエスの別のたとえ話の中で,役に立たない僕は主人の家の「外の暗い所」に追い出され,そこで他の者と共に泣いたり,歯がみしたりしています。(マタイ 25:24-30)王の来たことは,このしもべにとって少しも喜びになりませんでした。
55 ミナを用いて商売をした僕たちにとって,王の来たことは何を意味しましたか。
55 たとえの中に出てくる他の9人のしもべは,それぞれミナを用いて商売をし,王の国のためにもうけを得ました。そこで王である主人はこの9人を良いしもべと呼び,国中にある町の支配を委ねました。これらの僕は王の敵と共に滅ぼされるような事をしなかったのです。それで王の来たことは,祝福と生命を意味しました。(ルカ 19:15-19,24-26)メシヤによる神の国の到来は,私たちにとって同じことを意味しますか。
56 主人がミナをあずけた僕は,だれを表わしていますか。
56 このたとえ話にある身分の高い人はイエス・キリストを表わしており,それぞれミナを与えられて商売をするように命ぜられた僕はイエスの追随者を表わしています。それでイエス・キリストは地を去って天に行かれたとき,追随者の手に貴重なものを預けました。たとえ話のしもべはイエス・キリストの12使徒だけ,あるいは当時の弟子たちだけではありません。今日におけるイエスの忠実な追随者もその中に含まれています。献身してバプテスマを受けたこれらの信者は,天国においてメシヤなる王の共同相続者となるため神に召されました。―ロマ 8:14-17
57 (イ)これら御国相続者のうち,地上になお残っているのは何人ですか。その人々は象徴的なミナを用いていま何をしていますか。(ロ)だれが彼らに加わりましたか。この人々にとって神の国の到来は何を意味しますか。
57 これら共同相続者の残れる者はいまなお地上におり,マタイ伝 24章14節に「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」とイエスの言われたわざを行なって,メシヤによる神の国の貴重なものを活発に増し加えています。いまでは御国のこの福音を聞き,神の国を憎む者たちから離れた何十万の人々が残れる者に加わりました。これらの人々も福音の伝道を始め,義の政府を愛する人を神の国の側に集めて,神の国を愛することを証明しています。御国相続者の残れる者と同じく,この人々も王の是認を受けます。メシヤなるイエスの共同相続者として天国に招かれなくても,これらの人々は「新しい地」すなわち神の国の敵が滅びたのちの清められた地に導き入れられるでしょう。彼らにとって神の国の到来はそのことを意味します。―黙示 14:1-5; 7:4-17。
58 神の国の到来に関して言えば,なぜ今は危険な時代ですか。しかし同時にどんな機会がありますか。
58 神の国の到来はあなたにとって何を意味しますか,という避けることのできない問題に直面して,私たちはいま決定を下さなければなりません。それが意味するものは二つにひとつ,すなわち神の建てる正義の政府を無視しその敵となって滅びるか,それとも御国と共に生命,平和,幸福,増し加わる特権を得るかどうかです。19世紀前,御国の相続者イエス・キリストが「遠い所」に去ってから,メシヤを王とする神の国が到来するまでの長い時は,いますでにあらかた過ぎ去りました。御国は突然に来て,この天の政府の友と敵に対し神の裁きを行なうと,イエスは預言されました。従って私たちは危険な時に住んでいます。しかし神の国の到来が祝福になることを心から願うならば,いくばくか残された今の時は,神の国の敵と共に滅びるのを避けるため,神の国の敵の中から出て離れ去るべき絶好の時です。
59 なぜ今は大きな特権の時ですか。どうすれば御国のおとずれを良いおとずれにすることができますか。
59 今はまた大きな特権の時です。御国のこの福音は全地にわたり少なくとも194の国々において162ヵ国語で,人種,皮膚の色,現在の宗教の如何を問わず世界のあらゆる人々に宣べ伝えられており,イエスの預言は今までにない大規模な成就を見ています。(マタイ 24:14)この音信を真実のものとして受け入れ,神の国の側に立ち,他の人々もまた福音に与るようにこの音信を伝道して,神の国の音信を私たちにとって本当に良いたよりにしようではありませんか。「われらの神の刑罰の日」を生き残るように,他の人々を助けましょう。(イザヤ 61:1,2)ダビデ王の永遠の相続者の手に委ねられた神の国は永遠の国であり,私たちは王なるダビデの子の支配を永遠に享受できるのです。そのことは私たちがいまどんな決定を下すかにかかっています。
60 イザヤ書 9章6,7節は,私たちがダビデの子のまつりごとを永遠に享受できることをどのように示していますか。
60 イザヤ書 9章6,7節の預言はエホバ神の民に告げています,「ひとりの嬰児われらのために生れたり,我らはひとりの子をあたへられたり,政事はその肩にあり,その名は奇妙,また議士,また大能の神,とこしへのちゝ,平和の君ととなへられん その政事と平和とはましくはゝりて窮りなし且ダビデの位にすわりてその国ををさめ,今よりのちとこしへに公平と正義とをもてこれを立てこれを保ち給はん,万軍のエホバの熱心これを成し給ふべし」。
61 ダビデの子の治めと平和はどの位つづきますか。
61 19世紀前ユダヤのベツレヘムに生まれたこのみ子の政事が地に行なわれるとき,その地に住むことを考えてごらんなさい。栄光を受けていま天に住むみ子は,エホバ神から授けられた称号すなわち奇妙,議士,大能の神,とこしへのちゝ,平和の君の名にふさわしく治めます。その治めは永遠であり,その民の平和にはかぎりがありません。事実その支配は固く立てられ,公平と正義をもって永遠に保たれます。その治める地はなんとすばらしいところになることでしょう!
62 ルカ伝 2章13,14節に天使の歌ったすばらしい事の意味を味わい,経験するために,私たちは何をしますか。
62 エホバ神が平和の君を天の位につけてお建てになった国は,あなたにとって永遠の平和を意味します。なすべき事は,エホバ神の恵みを得る道をいまとることです。そうすれば,神のみ子が人間となって誕生したとき,天使の軍勢が「いと高きところでは,神に栄光があるように,地の上では,み心にかなう人々に平和があるように」と歌った言葉のすばらしい意味を自ら味わい,経験することができます。(ルカ 2:13,14,新口。イザヤ 61:1,2)読者の皆さん,キリストによる神の国の到来があなたにとって平和を意味するものとなりますように。
[脚注]
a 主の祈りにつけ加えられた結びの句について,エドガー・J・グッドスピード博士のグッドスピード・パラレル新約聖書(1943年)76頁4節は次のように述べています。
「6:13。主の祈りの最後にある頌詠,最もすぐれた古いギリシャ語写本(Aleph,B,D,2),古いラテン語写本およびラテン・ヴァルゲート訳にはない。しかし公の礼拝の際にこの句を祈りにつけ加えて唱えるようになったのはかなり古く,4世紀末のクリソストムの時代にこれはよく知られていた。この句は明らかに歴代志略上 29章11節に基づいており,礼拝用に加えられた」
1898年1月15日号「シオンのものみの塔」31頁2節は次のように述べています。「『国と威力と栄光とは,とこしへに汝のものなればなり,アアメン』。この句は欽定訳および一部のギリシャ語写本に出ているが,最古のギリシャ語写本であるシナイ写本とバチカン写本には出ていない。従ってこの句は主の言葉につけ加えられた人間の言葉であろう。この地に関するかぎり,福音時代の全期を通じてこの言葉は真実ではなかった。地の支配は主のものでなく,地の権力は主のものではなく,地の栄光は主のものではなかった……」
b 1963年度ナショナル・カトリック年鑑ニューヨーク版375頁は,世界のローマカトリック信徒の数として5億5822万654をあげています。
c 世界教会協議会の一分科会である世界伝道団および福音伝道委員会の第1回会議の席上,南アメリカ,コロンビア,ボゴタのゴンザロ・カスティロ・カルデナス博士が発言したもの。
d 1963年12月8日号「目ざめよ!」28頁中段をごらん下さい。
e 「御心が地に成るように」と題する本の168頁から188頁をごらん下さい。
f 「御心が地に成るように」第5章「世界強国の行進」104頁から127頁までをごらん下さい。
g クラークの解説,1836年版第4巻3210頁を,ごらん下さい。
h ダラスで開かれた4日間の南部長老派会議の席上における西バージニア州チャールストン第一長老派教会牧師ウイリアム・ペンフィールド2世の発言。