死者に関する聖書の真理は希望を与える
あなたは死をいたむ人に真実の慰めを与えることができますか
愛する者が生死の境をさまよいながらも病床に横たわっている間は,あるいはからだが病気に打ち勝つのではないか,この大けがにもかかわらず生き残ってくれるのではないだろうか,という希望がまだあります。しかし,息を引き取ってしまい,からだが冷くなってしまったら,どうなりますか。もはや希望は永遠になくなってしまいますか。遺族を訪問するとき,悲しんでいる人たちに,なにか力強い希望を差し伸べることができますか。それとも,遺族の嘆き悲しんでいる様子を見て途方にくれますか。
希望があれば,悲しみにうちひしがれることはありません。愛する者をなくしても,暗い思いに閉ざされることはありません。しかし,その希望は真正なもの,確かな根拠のあるものでなければなりません。それは確かな権威に基づく希望でなければならず,真理でなければなりません。慰めを与えるそのような希望があることを信じられますか。
人を慰める立場に立たされたとき,あなたは,以前葬式で聞いたことのある,牧師の話したおくやみのことばを繰り返されるかもしれません。確かに,多くの人は悲しい経験をすると,教会に慰めを求めようとします。しかし,人間の死について教えられた事柄のために,かえって深い絶望感に襲われる人も少なくありません。
むなしい慰め
子どもの死をいたむ両親の場合を想像してください。訪ねてきた牧師が,お子さんは神に召されたのだから悲しむには及びません,と言ったら,あなたはどう感じますか。このような説明はたびたび耳にするものです。多くの牧師は,ある宗教作家の次の見解を採用しています。「神がお子さんをあなたのもとから天に召されたのは,あなたの心が天のことを考えるようになるためかもしれません」。これが慰めになるでしょうか。むしろ,そのために,いっそうやりきれない思いをさせられた人々さえいます。愛のある神がなぜそのような悲しい経験をさせねばならないのか納得できないのです。
また,おおぜいの人は近づいてくる死に対して恐怖感をいだいています。そのような人をどう慰めたらよいでしょうか。死といっても,ほんとうは死ではなくて,悪行者を苦しめる恐ろしい処罰の期間である,と教えられている人も大ぜいいます。会衆の人々に向かって,地獄の焼きつくす炎をまざまざと描き出し,「永ごうの罪に落とされた者」が経験する,尽きることのない悲惨な状態を,長々とまくしたてる牧師さえいます。このような恐怖の宗教に捕われている遺族を,どうしたら慰められますか。
まあまあ正しい生きた方をしてきた,と考える人もいることでしょう。そういう人は,「善良な人はすべて天に行く」という考えに慰めを見いだすかもしれません。そう期待するように教えられてきたのです。しかし,それにしても不安がないわけではありません。そうした期待を持ち,死を心待ちにしていると公言できる人がいったい何人いますか。たいていの人は,不確かな将来よりも,現在の生活のほうが望ましいと考えています。
しかし,そうした期待を寄せている人が,死んでも実際には天に行かないならどうですか。遺族は惑わされていることになります。あなたもそのように惑わされたいとは願わないはずです。それに,たとえごまかしから少しの慰めを得られたとしても,それはけっして長続きしません。確信を持てる真の永続する慰めは,真理と調和するものでなければなりません。神の真実のことばに反するような偽りに執着するなら,神に対するわたしたちの崇拝はなんの益にもなりません。キリストは次のように語られました。「[父を]崇拝する者は,霊と真理とをもって崇拝しなければならない」― ヨハネ 4:23,24,新。
死をいたむ遺族を訪問しても,嘆き悲しんでいる人に,「なくなられたご親族はいずれ天に行かれます。信仰を持ってください」,としか言えないなら,ほんとうにきまりの悪い思いをしなければなりません。遺族がカトリック信者の場合,死者が天に行くことを許される前に,まずれん獄で長期間の苦しみを経なければならないことを考えて,心を乱される人もいるのではないでしょうか。
窮地に立たされるのはなぜか
どうしてそのような窮地に立たされるのか,理由を考えたことがありますか。つまり,悲しんでいる友人や親族を慰めたいと思いながら,別にこれといった希望のことばもかけられないというつらい経験です。人間にはある種の見えない魂があり,人間が死ぬとそれはからだから離れて,天か,れん獄か,あるいは「熱い地獄」のいずれかで,意識を持つものとしてとどまる,とあなたは教えられたかもしれません。あるいは死者の復活があると教えられたかもしれません。イエス・キリストは死者の復活について保証を与えておられます。―ヨハネ 11:25。
しかし,ここでこの問題を深く考えてみてください。もし死者が実は死んでおらず,他の領域で依然として生きているなら,どうして復活の必要がありますか。もし,死者の魂が「熱い地獄」に永遠にとどめられているなら,どうして復活が可能ですか。しかし,聖書は「正しい者にも,正しくない者にも」復活があることを述べています。(使行 24:15,新)そして,死者の魂が天に行ったのであれば,それを復活させる必要はなおさらないではありませんか。天にいる者は,そのまま天にいたいと願うに違いありません。
もちろん,人間が「不滅の魂」を確かに持っているのであれば,死に際して魂はどこかに行かねばなりません。しかし,この考えを長年信じてきた僧職者たちでさえ,今では疑問を発するようになりました。たとえばオーストラリアの長老派のある牧師は次のように語ったと報じられています。「神学の研究から,魂の不滅という教理について次の諸点がかなり明確に指摘された。それはわたしにとっては決定的ともいえる。すなわち,この教理は新約聖書に由来するものではなく,ギリシア哲学,特にプラトンに基づく概念のようである」。異教の哲学からいったいどんな真実の慰めを得ることができますか。
希望を与える聖書
宗教の真理に関する権威ある源は,しるされた神のことばである聖書です。(ヨハネ 17:17)神に受け入れられる崇拝は,聖書の真理と調和していなければなりません。死と死者の希望に関する混乱した教理とかかわりを持つ崇拝を行なっても,神を喜ばすことはできません。したがって,神の恵みと祝福を得たいと願う人が,こうした重要な事柄について神のみことば聖書がなんと述べているかを調べるのは,きわめて肝要なことと言わねばなりません。
聖書は,「罪を犯せる霊魂は」すべて「死ぬべし」と宣言しています。(エゼキエル 18:4,20)そして,聖書の中で「魂」という語は,「実在」,「人」,「生き物」などと同じ意味で何度も使われています。神のみことばは,わたしたちが死人または生きている人について話すのとまったく同じように,「死んだ魂」または「生きた魂」について触れています。(レビ 23:30; 21:1,11。民数 5:2および創世 2:7をごらんください。それらの節で,欽定訳聖書は同一のヘブル語を「魂」,「死にたるもの」,「からだ」など,いろいろな意味に訳出しています)同様に,英語ではだれかのことを「かわいそうな魂」と言う場合がありますが,それはその人自身をさしており,その人の中にある何物かを意味しているのではありません。
ではなぜ,魂つまり人は死ぬのですか。聖書はロマ書 5章12節でそれに答えています。「それ一人の人〔アダム〕によりて罪は世に入り,また罪によりて死は世に入り,すべての人,罪を犯しし故に死はすべての人に及べりし。このように人間は老いも若きも,知恵ある者もそうでない者も,いやおうなく死を受け継がされているために死にます。そして人が死ぬと,実際に死ぬのであり,存在しなくなり,まったく意識がなくなります。聖書の中では,死者は夢を見ることもない深い眠りについていると述べられています。死者はなにも知りません。復活する日までなんの意識もないのです。
次の重要な聖句はこの説明の証拠となります。「生者はその死んことを知る されど死る者は何事も知ず また応報をうくることも重てあらず その記憶らるる事も遂に忘れらるるに至る」。(伝道 9:5)「それダビデは,その代にて神の御旨を行い,終に眠りて先祖たちと共に置かれ,かつ朽腐に帰したり」。(使行 13:36)「どうぞ,わたしを〔シェオール〕(『墓』を意味するヘブル語)にかくし,あなたの怒りのやむまで,潜ませ,わたしのために時を定めて,わたしを覚えてください。人がもし死ねば,また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間,わが解放の来るまで待つでしょう。あなたがお呼びになるとき,わたしは答えるでしょう」― ヨブ 14:13-15,口語,〔新〕。
このヨブのことばは,キリスト・イエスの語られた次の預言と完全に一致しています。「記念の墓にいる者すべてが,〔わたしの〕声を聞いて出てくる時が来る」。(ヨハネ 5:28,29,新)ちょうどラザロがよみがえらされたように,あわれみ深い神がキリストを通して再び地上によみがえらされる死者のすべては,死の眠りについては何も思い出すことがないでしょう。たとえその期間が四日間であろうと,4,000年であろうと,変わりありません。(ヨハネ 11:11-17,43,44)しかし,復活する人々は,まったく違った状況の下によみがえってきます。
死者は楽園に生き返る
そのときにはキリストの一千年の統治が開始されています。平和と正義の敵対者はみな,キリストによって滅ぼされているからです。その天の政府の下に,地上では驚くべきことが数多く成し遂げられるでしょう。たとえば,地は実り豊かな美しい平和な楽園に変わります。「全能の神の大なる日の戦闘」の結果生じた残がいは,すべて取り除かれるでしょう。土地は神の祝福を受け,作物を豊かに生み出すでしょう。その産物を食べることにより,人類は完全な健康を得るように助けられるのです。―黙示 16:14; 20:4; 21:1-4。コリント前 15:25。
ご自分のかたわらで刑に処せられた悪人に対するイエスの答えの意味が,これでおわかりになると思います。その悪人はこう願ったのです。「イエスよ,御国に入り給ふとき,我を憶えたまえ」。ここで注意しなければならないことは,イエスは,その悪人が天の御国にいるであろうとか,その一部になるであろうとは言われなかった点です。その特権は,人類の中から選ばれた限られた人々にのみ与えられるものです。その悪人は,天の御国にではなく,楽園にいるであろう,とイエスは約束されました。「熱い地獄」や,れん獄についてはひと言も言われませんでした。イエスのこの約束は,不義の人でさえ墓から復活して,楽園の状態の下で永遠の命に値するかどうかを証明する機会を与えられる,という教えと完全に一致します。―ルカ 23:39-43; 12:32。使行 24:15。
これはすばらしい見込みではありませんか。死んだ愛する人々が,そうしたすばらしい状態の見られる地上によみがえってくるのを想像してごらんなさい。死の眠りについた膨大な数の人々に,まったく新しい将来が開かれるのです。正しい人々に加えて不義の人々の大群衆が墓から復活することは,黙示録 20章13節の次のことばからも裏づけられています。「海はその中にある死人を出し,死も〔ヘーデス〕(『墓』を意味するギリシア語)もその中にある死人を出したれば,各自その行為にしたがひて審かれたり」。〔新〕
大量審理や裁判ではなく,「各自」としるされている点に注意してください。それには時間がかかります。また,彼らが過去の経歴に基づいて審理をされないことも確かでしょう。さもなければ,キリストの約束された悪人には,ほとんど機会がないことになります。むしろ,「すでに死んだ者は,罪から解放されている」のです。(ロマ 6:7,口語)復活の後,彼らがキリストによる天の御国の愛ある統治にどう応じるかが,各人のさばきの基礎です。心から喜んでその導きに服する者は,人間としての完全さと終わることのない命という贈り物を目ざして,驚くべき前進を遂げるでしょう。
他の人を慰める
聖書の真理に基づくこうした音信が遺族にとってどんなに慰めとなるか,おわかりになりますか。しかし,神のみことばを信じ,かつ受け入れる人だけが,そうした事柄の真実性を確信できるのです。こうしたすばらしい希望をおおい隠したり,否定したりする教理を教え続ける教会組織との交わりを断たない人は,この音信を確信をもって他の人に伝えることはとうていできないでしょう。神のみことばを真理の基礎として受け入れる人と,神のみことばを人間の築いた伝統や神学上の理論と混ぜ合わせる人との間には,なんら共通点のないことがはっきりわかるでしょう。―テモテ後 3:2-5。
現代状勢を見ると,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを,エホバ神が滅ぼされる日が間近に迫っていることがわかります。楽園の地で命を得たいと望む人は,それが表向き「異教」と呼ばれようが,「キリスト教」と呼ばれようが,大いなるバビロンの多くの宗教制度から出るため直ちに行動しなければなりません。それらの制度はすべて,真実の神を誤り伝え,卑しめており,死者をいたむ地上の人々に真の慰めを与えることができませんでした。―黙示 18:4-8。
あなたもバビロン的な宗教との交わりからのがれ出ることができます。そうするにはどうすべきですか。クリスチャンの大いなる群衆,エホバの証人と交わることです。サタンの偽りを永続させ,人々に聖書の真理を知らせなかった,滅びに定められているそうした制度から,これらの人々はすでに離れているのです。あなたも,『エホバの崇拝者自らが,神に慰めていただくその慰めをもって,いかなる患難のうちにある人々をも慰め』られるよう,備えることができるのです。(コリント後 1:4,新)エホバの証人は,無料の家庭聖書研究を喜んであなたと行ないたいと望んでいます。さらに,御国会館で行なわれる聖書研究の集会にもあなたを招待することでしょう。死者に対する心の踊るような音信を,聖書から一部始終学んでください。そうすれば,すばらしい励みが得られるでしょう。