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神が求めるものをけんそんに返すものみの塔 1966 | 7月1日
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する,霊的力を得ることができます。
50年近くもの激しい労働にどのようにして耐えることができましたか,とある人は尋ねます。それは動機と献身の問題です。私にかんするかぎり,それは自分を喜ばせるか,またはエホバを喜ばせるか,という問題でした。私が考えたことは,エホバのほうがさきに私に真理を与えて下さった,だからエホバは私にあるものを求める権利をおもちになる,ということでした。もし私が真理を受け入れるなら,エホバがお求めになるものを進んでお返しするのは当然です。それで献身したのちの私の生きる目標は,まずエホバを喜ばすことでした。そして私はそれを実行するように努めてきました。
また,絶えずエホバの約束を思い起こし,時至れば人間の諸問題をすべて解決するというエホバのことばに全き信仰をおいたことも,大きな助けになりました。この強い確信があったために,どんな仕事にも耐えることができました。私はエホバが,最後には,私をも含めてご自身のしもべたちの最上の福祉となるように,すべてのことを成し遂げられるのを知っていました。そうです,神と神のご要求を第一にする精神があれば,だれでも,神がお求めになるものを,謙遜な態度でお返しすることができます。―ミカ 6:8
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読者からの質問ものみの塔 1966 | 7月1日
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読者からの質問
● エルサレムにいた敬虔な人シメオンはイエスを指して神の「救」,また「光」と言い,イエスは「イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために……定められ」ているとも述べました。さらにマリヤにこう語りました。「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」。(ルカ 2:29-35)シメオンのこれらのことばは何を意味していますか。
聖霊によってシメオンは,「〔エホバ〕のつかわす〔キリスト〕に会うまでは死ぬことはない」との啓示を受けていました。(ルカ 2:26,〔新世〕)その約束が実現したのはシメオンが年老いてからでした。神の律法に従ってヨセフとマリヤがイエスを宮に連れてきたと同じ日に,シメオンは聖書に動かされて宮に来ました。(ルカ 2:22-24。レビ 12:1-8)シメオンがその幼な子を両腕に抱き,神をたたえて次のように言ったのはこの時です。「〔エホバ〕よ,今こそ,あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます,わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので,異邦人を照す啓示の光,み民イスラエルの栄光であります」。―ルカ 2:29-32,〔新世〕。
ここでシメオンは,エホバがイエスにより人類の救いを備えられることを預言したのです。イエスはたしかに神の「救」でした。イエスは諸国民から霊的な暗闇のおおいを取り去る「光」,「〔神〕のみ民イスラエルの栄光」になるのです。たとえばキリストの宣教の結果,ガリラヤ地方のナフタリやゼブルンの人々は「大いなる光」を見ました。それはイザヤ書 9章1,2節の成就です。(マタイ 4:13-16)また興味深いことにイエス・キリスト自身もこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう」― ヨハネ 8:12。イザヤ 42:6; 49:6。
しかしシメオンはまたこう言っています。「ごらんなさい,この幼な子は,イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために,また反対を受けるしるしとして,定められています……それは多くの人の心にある思いが,現われるようになるためです」。(ルカ 2:34,35)このことばの意味は,ある人はキリストを受け入れて,すでに倒れた状態から起こされ,他の人はキリストを拒絶し,キリストにつまずいて倒れるということです。イエスはまさしく多くのユダヤ人にとってつまずきの石となりました。(ローマ 9:30-33。イザヤ 8:14; 28:16)シメオンのことばは,ユダヤ人各自が二つのことを経験する,つまり,まず不信仰のために倒れ,つぎにイエス・キリストを受け入れ,信仰により起き上がるということを意味したのではありません。シメオンは物事の結末を語っているのです。イエス・キリストに対する反応は人によって異なっていましたが,多くの人がキリストに関して抱いた考えはたしかに明らかにされました。その考えに従って,神は人の良し悪しをさばかれました。
マリヤに関してシメオンはこう述べました。「そして,あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」。これは文字どおりのつるぎではありません。マリヤがつるぎで刺し貫かれたと聖書は述べていません。シメオンのこのことばは,後日イエスの母が悲しみに襲われることを意味していました。多くのユダヤ人がイエス・キリストを拒絶したため,マリヤはたしかに苦しみました。しかしその子イエスが刑柱の上で死んだのを見た時,マリヤは胸を刺すような悲しみを経験しました。
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