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復活の行なわれるその「終わりの日」に今生きるものみの塔 1979 | 10月1日
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ことは,エゼキエル 37章1-14節にも予告されていました。ここでエホバは預言者エゼキエルに,イスラエル人の枯れた骨の満ちた谷の幻を与えておられます。それらの骨はそれから再び組み合わされて生きたイスラエル人になり,異教国バビロンにおける捕囚の状態から脱する態勢を整えます。その幻がどのように成就するかについて,エホバは次のように言われました。「わたしはあなたがたの埋葬地を開き,あなたがたをその埋葬地から引き出す,ああ[バビロンに捕囚になっている]わたしの民よ,そしてイスラエルの土地に携え入れる。そして,わたしがあなたがたの埋葬地を開き,その埋葬地からあなたがたを引き出す時,あなたがたは必ずわたしがエホバであることを知るであろう,ああわたしの民よ」― エゼキエル 37:12,13,新。
13 枯れた骨の谷のこの幻は現代においてどのように成就しましたか。このことは「週の半ば」の出来事の後にイエスの弟子たちに生じたこととどのように類似していますか。
13 この幻の現代における成就では,霊的イスラエルの残りの者が1919年春に蘇生して,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから解放され,そしてまた第一次世界大戦中に同帝国の言いなりになった同帝国の政治・司法・軍事上の情夫に対する卑しむべき服従から解放されました。同様に,イエスの直弟子たちの蘇生と圧制的なユダヤ教の事物の体制からの解放も,現代に生ずる出来事の時と関係を有していて,イエスが死なれ,埋葬され,そして死後三日目,すなわち西暦33年ニサン16日に死人の中から復活された後初めて生じました。これは,イエスが全人類の贖いとして犠牲にされた「週の半ば」の少し後のことでした。
14 これら蘇生し,再び活発になった現代の証人たちは,テサロニケ第一 4章15-17節に述べられているどの級に属しますか。イエスが「終わりの日」と呼ばれた日は彼らにとってなぜ「幸い」な日ですか。
14 現代においては,蘇生し,再び活発になって,1919年の春に証言活動を再開した霊的イスラエルの残りの者たちが,使徒パウロの言う「主の臨在の時まで生き残るわたしたち」です。(テサロニケ第一 4:15)彼らは,全世界にわたる最終的な王国の証言を終えたのち,「主と結ばれて」,また主の臨在中に死ぬことを予期しています。彼らはあの「終わりの日」の間に死にます。その終わりの日の間に,イエスは,ご自分で言われたように,イエスの肉を食べイエスの血を飲む特権を持つ弟子たちを死人の中からよみがえらせるのです。このことは彼らにとっては,自分たちが「取り去られ」,「空中で」主なるイエスに会うことを意味します。天の命への彼らのこの瞬間的な復活は,あたかも「雲」で隠されたかのように,地上に残された人間には見えません。「主の臨在」の時に「今からのち主と結ばれて死ぬ」,そして主の再来を期待しつつ死の眠りにつく必要のない彼らは,本当に「幸い」です。―啓示 14:13。ヨハネ 6:53,54。コリント第一 15:52,53。
15 生き残っている残りの者が「終わりの日」の終わりに去って行くとき,最近現われたどんな同労者たちがその場にいますか。それはどんな別れになると考えられますか。
15 多くのクリスチャンの仲間,つまり彼らの「大群衆」が後に残されています。この「終わりの時」の間に,そして目に見えない「主の臨在」の期間に,彼らは霊的イスラエル人の残りの者の同労者となって,あらゆる国民に対する最終的な王国の証言を行なってきました。この「大群衆」は,この世的な今の事物の体制が滅びる「大患難」の後も生きつづけることを期待しています。(啓示 7:9,14)したがって彼らは,霊的イスラエル人の残りの者の最後の人たちが「雲のうちに取り去られて空中で主に会」う,喜ばしい時が到来するときに,その場にいるでしょう。(テサロニケ第一 4:17)生き残っていた残りの者が「終わりの日」の終わりに地上での歩みを終えるとき,その最後の復活の日に生きている大群衆が彼らに別れを告げるのは,どんなに心温まることでしょう。(ヨハネ 6:53,54)この別れはやさしいものではないでしょう。しかし,去っていく人々と,パラダイスの地上に残る人々との間で,心からの愛情の交換があることでしょう。「大群衆」はもはや彼らを見ることはないでしょう。
16 だれとの個人的な交わりは失っても,「大群衆」はパラダイスの地に入ってくるどんな新入者たちを歓迎する喜びをもちますか。
16 栄光を受けた残りの者との,形に表われる交わりは失われますが,「大群衆」はパラダイスの地上の新しい住民の無数の群衆によって慰められるでしょう。その人々はどんな人たちで,どこから来るのでしょうか。その人々もやはり人類の中の請け戻された人々で,「最後の敵」であるアダムに起因する死の地から復活してきます。(コリント第一 15:26)復活したヨブ,そうです,アブラハム,イサク,ヤコブ,バプテストのヨハネ,それにベツレヘムの幼子たち,彼らの敵ヘロデ大王により死地に追いやられた幼子たちにさえ会えるのですから,そのときの「大群衆」の喜びはどんなに大きいことでしょう! また知っている友達や,りっぱな羊飼いの「ほかの羊」で「大患難」の後まで生き残らずその羊飼いの千年統治に直接入ることのなかった人々などに会う喜びも,大きいことでしょう!(啓示 20:4,6。ヨハネ 10:16)「大患難」の後まで生き残る油そそがれた残りの者の成員は,新秩序で生きつづけて,地に属する死者が彼らの「終わりの日」に復活しはじめるのを目撃するのでしょうか。(ヨハネ 11:24)そのことについては聖書は明確に示していません。
17 (イ)地に属する死者の収穫に関して言うならば,そのときに復活する人々はキリストと比較して何になりますか。(ロ)「大群衆」は墓から復活する必要はありませんが,どんな点で,復活した人々と同じようですか。キリストの千年統治の終わりはどんな祝福された状態になりますか。
17 それら復活した人間は,後の実として収穫されます。復活されたイエスはその『初穂なるキリスト』となられたのです。(コリント第一 15:20,22,23)生き残る「大群衆」は墓から復活する必要はないとはいえ,復活した人々と同じく,イエス・キリストのなだめの犠牲からさらに益を受けることを必要とします。受け継いだ死の影響はすべて拭い去られねばなりません。大患難生存者の「大群衆」を含め,請け戻された従順な人間すべてのために,「最後の敵として,死が無に帰せしめ」られるキリストの千年統治の終わりは,本当に祝福されたものとなるでしょう。その時エホバ神は,きわめて当然のことながら,「だれに対してもすべてのものとなるでしょう」。―コリント第一 15:26,28。啓示 1:18; 20:11-14。
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読者からの質問ものみの塔 1979 | 10月1日
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読者からの質問
● サムエル後書 8章13節の記述は,ダビデが塩の谷でエドム人を撃ち破ったと述べていますが,歴代志略上 18章12節はそれをアビシャイの手柄としています。さらに詩篇 60篇の表題によれば,敵を敗北させたのはヨアブだとされています。なぜこのような違いがあるのですか。
これら三つの記述は,明らかに,エドム人の敗北を違った観点から描いています。サムエル後書で勝利がダビデに帰されているのは,ダビデが王であり,イスラエル人の軍隊の司令長官であり,戦闘命令を下す権限を持つ人物であったからです。ヨアブは将官の頭であったため,詩篇 60篇の表題の中で,征服をもたらした者とされています。アビシャイはヨアブの下で部隊の長を務めており,その戦闘で重要な役割を担っていたものと思われます。これが,歴代志略の記述の中でアビシャイに勝利が帰されている理由です。ですからそこには何の矛盾もありません。今日でさえ,ある特定の行為を,それを命じた人物に結びつけたり,それを首尾よく成し遂げる面で重要な役割を担った人物に結び付けたりすることは,ごく普通に行なわれています。
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