エホバの組織に満足を覚える
「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」― ヨハネ 6:68。
1 被造物がエホバに全く信頼できるのはなぜですか。
エホバは宇宙の万物を完全に支配しまた支配してこられました。星,太陽,月や遊星はエホバの全能の力によってそれぞれの軌道に保たれ地球が人間の住みかとして維持されているのも,エホバのおかげです。エホバの行なわれる事はすべて完全であり,それゆえに被造物は主権者であられるエホバの支配と,あわれみあるその治めに全く信頼できます。
2 (イ)エホバはご自身の属性をどのように行使されますか。(ロ)不平を言う者がいるのはなぜです。彼らは実際にはたれに対して不平を言っていますか。
2 全能であり,またすべてをご存じであられるエホバは,被造物と交渉を持たれるにあたって無限の愛,知恵,正義,力という属性を,完全に平衡のとれた方法で行使されます。愛とあわれみの加味されることなしにその正義が極端にまで主張されることはありません。その無限の力が誤用されることは決してなく,その力の働きには常に愛と知恵が伴っています。神には自己矛盾がなく,その属性を行使することにおいて自己と矛盾をきたすことはありません。そうであるのに,時として神のとりきめや,物事の運び方に対して不平を言う者がいるのはなぜですか。多くの場合,それはエホバが目的を遂げられる方法について理解を欠いているためであり,被造物に対してエホバが持たれる交渉に対して近視眼的な見方をしているためです。エホバがある事柄を行なわれても,そのわけをよく理解できないことが多いのは事実ですが,しかし不平を言うのはエホバに対し,またご自身の時と方法に従って物事を成就させるエホバの力に対して,不信を表わすことになります。それは大きな間違いです。およそ3500年前,南パレスチナの荒野を旅していた神の民イスラエルは,食物が足りないことで指導者のモーセとアロンに不平を言い出しました。その時のモーセのことばは,彼らのいだいた不平の気持ちが由々しいものであることを示しています。「汝等の怨言は我等にむかひてするに非ずエホバにむかひてするなり」― 出エジプト 16:8,文語。
自分の割当てに喜びを見いだす
3 ある人々が伝道に関して不平を言う原因はどこにありますか。
3 今日でも真理に長い兄弟の中に,モーセの時代のイスラエル人と同様,不平の精神を持ちはじめた人がいるかもしれません。何年もの間,彼らはハルマゲドンの戦いが迫っていることを友人や隣人に告げてきました。神の国の音信を携えて同じ家々を何度もおとずれたに違いありません。しかし今ではハルマゲドンが早く来なければならないと感じ,すべての悪が神によって滅ぼされていないことに焦躁を感じ,不平を言い出します。
4,5 (イ)ヨナがニネベの人々に伝道した時のことについて,聖書の記録する事柄を述べなさい。(ロ)ヨナはどんな大きな間違いをしましたか。彼はあわれみの教訓をエホバからどのように教えられましたか。
4 このような人は,ニネベの人々に伝道する任務を与えられた紀元前9世紀の預言者ヨナのことを思い起こすとよいでしょう。ヨナの音信は「四十日を経たらニネベは滅びる」という,人を驚かすものでした。(ヨナ 3:4)ニネベの人々はそれを聞くや直ちに自分たちの悪を悔い改め,エホバを求めました。王でさえもみずから喪服をまとい,断食によって神のあわれみを求めることを人々に命じたのです。「あるいは神はみ心をかえ,その激しい怒りをやめて,われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」と,王は語りました。(ヨナ 3:9)このように人々がいっせいに悔い改めと謙遜を表明したので,エホバは40日後に臨むはずであった滅びをさしひかえられました。ヨナはそのことをどう思いましたか。
5 霊感の記録は次のことを伝えています。「ところがヨナはこれを非常に不快として,激しく怒り……」。(ヨナ 4:1)利己的に考えたヨナは,事態を見あやまっていました。何万人という人々の生命が危ういというのに,ヨナは自分の預言がすぐに成就しなければ面目を失うと考えて自分の感情にこだわっていたのです。忍耐できなかったヨナは,ニネベが40日後に滅びることを望み,あわれみを忘れてしまいました。暑い日の下でヨナが苦しい思いにふけっていると,エホバは大きな植物を生えさせ,それが日陰を作るようにされました。しかし翌朝になると,エホバは虫のためにその植物が枯れるようにされたので,ヨナはまたもや不平を言いました。その機をとらえてエホバはこの出来事の意味を明白にされました。「あなたは労せず,育てず,一夜に生じて,一夜に滅びたこのとうごま[ひさご,文語]をさえ,惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの,右左をわきまえない人々と,あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを,惜しまないでいられようか」― ヨナ 4:10,11。
6 ペテロは神のあわれみをどのように見ましたか。どうすれば宣教において気短かな,不平がましい態度を避けられますか。
6 エホバはあわれみのある,恵みに富む神です。ハルマゲドンにおいて悪人が滅ぼされるまでの猶予の時は,エホバの愛と忍耐の表われにほかなりません。「〔エホバ〕は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ,ひとりも滅びることがなく,すべての者が悔改めに至ることを望み,あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。(ペテロ第二 3:9)これは崇高な考えではありませんか。この事に関するエホバのお考えを理解し,エホバの無比の属性を見ならうならば,はやることなくエホバに依り頼み,エホバの時を待つことができます。わたしたちは,悔い改めを得させるためにエホバが猶予された時を生かし,愛の動機で宣べ伝えつづけます。そうすれば宣教に大きな喜びを見いだし,不幸な不平家にならずにすむでしょう。
7 宣教者は不平の気持ちをどのように培うことがありますか。
7 宣教者として外国の任命地に派遣された兄弟が,不平のとりこになるかもしれません。どうしてそうなるのですか。自分のやって来た国においても万事が故国におけると同様でなければならぬといった考えを持つためです。その人はニューヨーク市のものみの塔ギレアデ聖書学校で生活した時の快適な生活環境や生活水準を望んでいるかもしれず,その期待がはずれると不満を感じ,自分は不幸であると考えます。この不満の気持ちは,その国の人々の風習,言語,習慣など他の事柄にもすぐ波及し,これらの事や,その他自分の気に入らないいろいろな小さい事を口に出して批判するようになります。御国の福音の伝道と無関係な事まで不平の種となり,自分の国にいれば不平を言わない事柄についても文句が出ます。それは今や不平の精神にとりつかれているからです。その態度を改めない限り,任命地で幸福になることはできません。
8 自分の生活程度に満足できなくなった,昔のどんな人々の例がありますか。彼らの不平はもっともなものでしたか。
8 これで思い出すのは,イエスが地を歩かれた時よりさらに1500年前,エジプトを離れ,流浪の民となってイスラエル人とともに荒野を旅した入りまじった群衆のことです。エホバに導かれて1年あまりも旅したのち,彼らは不平をならべはじめました。彼らはそれまで飢えたこともなく,靴がすりへったことも衣服がすり切れたこともないのです。彼らが日々の糧に事欠いたためしはありません。それなのに彼らは満足しませんでした。それで遊牧民のような生活をエジプトでの以前の生活とくらべるようになり,イスラエル人までが一緒になって不平を言い出しました。「われわれは思い起すが,エジプトでは,ただで,魚を食べた。きゅうりも,すいかも,にらも,たまねぎも,そして,にんにくも。しかし,いま,われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には,このマナのほか何もない」。(民数 11:5,6)エホバは天からの奇跡的なパンを備えられたのに,彼らはなんと感謝の念に欠けていたのでしょう!
9 現代の宣教者,特別開拓者にとって,使徒パウロはどのようにすぐれた手本ですか。パウロにならうならば,何を避けることができますか。
9 感謝することをしなかったこれらの寄り集まり人やイスラエル人にならうのではなく,わたしたちは,多くの国々でさまざまの環境の中で生活した使徒パウロにならわねばなりません。ピリピのクリスチャンに対し,パウロは宣教者としてのさまざまの経験を次のように書いています。「わたしは,どんな境遇にあっても,足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており,富におる道も知っている。わたしは,飽くことにも飢えることにも,富むことにも乏しいことにも,ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる」。(ピリピ 4:11-13)パウロはどこに行っても環境に適応することを学び,エホバから与えられたどんな任命地にあっても幸福と満足を見いだすことを学びました。今日の宣教者,特別開拓者はパウロの良い手本から学び,自分の任命地について不平を言うことから生ずるいらだちや心痛を避けることができます。
神権的な権威を尊敬する
10 ある人はなぜ神権的な権威をなかなか認めることができませんか。それはどんな結果になることがありますか。
10 エホバの地上の組織内においては不完全な人間がエホバを代表するために用いられています。それで神権的な権威を認めて尊敬することがなかなか出来ない人もいます。そのような人はエホバが任命されたという事実を見失っており,人間の弱さ,不完全さだけを見ているのです。それである兄弟の占めている地位を尊重せず,生まれつきの弱点のためにする小さなあやまちを見てすぐに不平を言います。これは大きなまちがいであって,エホバの民の会衆内で不快と不満足を覚える原因となります。
11 (イ)250人以上のイスラエル人は荒野において,モーセとアロンにどんな不平を述べましたか。それはどんな問題を提起しましたか。(ロ)任命された代表者に敬意を示さなかったことに対して,エホバの怒りはどのように表わされましたか。
11 何百年も前のこと,250人以上から成るグループが,エホバの代表者モーセとアロンを認めないという間違いをしました。彼らは,イスラエル民族を導くことにかけては自分たちにも同じくらい資格があると考えたのです。「彼らは集まって,モーセとアロンとに逆らって言った,『あなたがたは,分を越えています。全会衆は,ことごとく聖なるものであって,〔エホバ〕がそのうちにおられるのに,どうしてあなたがたは,〔エホバ〕の会衆の上に立つのですか」。こうして彼らはモーセとアロンが会衆の上に君臨していると言って不当な非難をしました。なかでもダタンとアビラムはのちにモーセにむかい,あなたはわたしたちに「君臨」しようとしていると言いました。それは真実でしたか。モーセとアロンは利己的な野心をいだいて指導者の地位にみずからつきましたか。あるいはそれはエホバからの任命ですか。翌日,全会衆はエホバ神の答えを知らされました。地が割れ,火が下って反逆者は家族もろとも滅び,エホバはモーセの次のことばを確証されました。「あなたがたは〔エホバ〕がこれらのすべての事をさせるために,わたしをつかわされたこと,またわたしが,これを自分の心にしたがって行うものでないことを,次のことによって知るであろう」。エホバから任命された代表者にたてついて,このように致命的なあやまちを犯してはなりません。―民数 16:3,13,28,〔文語〕。
12 任命されているしもべを人間的な見地から見ることにはどんな危険がありますか。サムエル記上 16章7節において,エホバはこのことをどのようにサムエルに告げられましたか。
12 昔の不遜な反逆者の場合と同じく,任命されたしもべを肉の,すなわち人間的な見地から見るかぎり,エホバの組織に真の満足を見いだすことはできません。しもべの欠点ばかりが目につき,物事の運び方にしても,自分のほうが上手にできると感じて,しもべのやり方を口に出して批判するようになるでしょう。それで預言者サムエルに告げられたエホバのことばを心に留めるのは良いことです。イスラエルの次の王を油そそぐ務めに任ぜられたサムエルは,エッサイの子のひとりエリアブに目を留め,その風采を見て,これこそエホバに選ばれた者であると考えました。しかしエホバはこう言われたのです。「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見,〔エホバ〕は心を見る」。(サムエル上 16:7,〔文語〕)このことを知って,すべての献身したクリスチャンはその人が外見上,あるいはこの世的な観点から最上の資格をそなえているように見えなくても,エホバの任命を尊重します。
13 任命されているしもべの味わう喜びを増し加えるものはなんですか。このような喜びをうちこわすものはなんですか。
13 会衆内の伝道者や開拓者がこのような敬意を示し,心から従い,また協力するならば,任命されたしもべの務めは喜びと報いのあるものとなります。そのわけでパウロはヘブル人のクリスチャンに次のように書き送りました。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなたがたのたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。(ヘブル 13:17)指導する立場の兄弟たちに対して不平を言うならば,会衆は喜びを失います。それは会衆の「益にならない」ことであり,エホバのとりきめに対して不満の気持ちをいだいていることの表われです。
14 監督がその務めを怠るようなことがあっても,何をしてはなりませんか。聖書の例を用いて答えなさい。
14 しかし会衆の監督が集会の準備を怠ったり,野外奉仕に率先しなくなったりした場合はどうですか。巡回のしもべは二,三か月後でなければ会衆を訪問しないかもしれません。この場合,公然と不平を言い,あるいは監督の解任を求める請願書に伝道者の署名を集めて協会に送るような極端なことをするのは正しいですか。それは全く筋違いのことです。ダビデのことを思い起こしてください。ダビデは自分が次に王となることを知っていましたが,それでもイスラエルの悪しき王サウロの位を横領しようとはしませんでした。サウロは悪人で神の恵みを失っていましたが,ダビデはサウロの命を狙うことを正しいとは考えなかったのです。彼は「エホバの膏そそぎし者」としてのサウロの立場を尊重し,エホバがサウロを除くことをよしとされるまで,そのとりきめに従いました。―サムエル後 24:6,文語。
15 (イ)任命されたしもべに対する不平を述べる人は,実際にはエホバへの信仰が足りないということを証明しなさい。(ロ)監督が務めを怠っている時,円熟した兄弟はどうしますか。
15 ダビデはどんな場合にもエホバに深い信仰を持っていました。それでエホバが事態を手中に収めていられることを知り,エホバがその定めの時に行動されるのを待ち,それで満足していました。ダビデと異なって民主的に事を運び,解任を請求したり,公然と不平を並べたりするのは,ご自身の組織を監督するエホバの力に対して信仰と信頼が嘆かわしいほど欠けている証拠です。神がすみやかに処置をされないので,自分が代わりにしなければならないと言っているようなものです。なんと近視眼的で未熟な見方ではありませんか。エホバの方法は,わたしたちが良いと考える方法と必ずしも同じではありません。しかし適切な時に正しく事が行なわれるのは確かです。ゆえにエホバを待ち,奉仕に励み,兄弟たちを親切に助け,神権的な物事のとりきめをみずから尊重し,他の人々にもそれをすすめるのがよいことです。それ以外の先走った行動は,神権的な権威に対する尊敬を打ちこわし,霊的な面で会衆に大きな害を与えます。
16 わたしたちは何を確信できますか。それで何をすることに励むべきですか。
16 エホバはご自身の民の会衆内で何が行なわれているかをご存じであり,わたしたちはそのことを確信できます。「神のみまえには,あらわでない被造物はひとつもなく,すべてのものは,神の目には裸であり,あらわにされているのである。この神に対して,わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。(ヘブル 4:13)神は眠ることなく,神の目をのがれ得るものは一つもありません。何か矯正を必要とする事があるからと言って,不平を述べてそれを神に知らせる必要はないのです。「エホバの目は何処にもありて悪人と善人とをかんがみる」と,聖書に述べられています。(箴言 15:3,文語)このような慰めを得て,わたしたちは自分の務めをはたすことに満足し,全能の主権者ご自身がその見える組織を治めていられることに幸いを感じます。
17 (イ)任命されたしもべは,どのように不平の気持ちをいだくことがありますか。(ロ)このような人は何を見失っていますか。それで何をすることが必要ですか。
17 任命されているしもべでも時に不平の精神に影響され,自分の荷が重すぎるように感じます。神の群れを世話することが重荷に感じられたり,兄弟たちが協力しない,あるいは兄弟たちの理解がおそいといった不平が出たりします。彼は自分がエホバの組織と働いており,エホバの「羊」を監督していることを一時的にもせよ忘れたのです。そして「羊」を世話する全責任を負わされたように感じますが,しかしそれはまちがっています。エホバはご自身の「羊」を世話する責任を引き受けておられ,御子イエス・キリストは「羊」のために命を捨てられました。監督はエホバの「羊」を世話する責任をひとりで引き受けようなどとしてはなりません。エホバに依り頼み,全き信仰を持つことが必要です。33年間,一国民の監督をつとめたダビデは,次のようにすすめています。「なんぢの荷をエホバにゆだねよさらば汝をさゝへたまはんたゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ」― 詩 55:22,文語。
18,19 (イ)モーセはある時どのように不平がましい態度を示しましたか。しかしモーセは不平家であったと言えますか。(ロ)今日の監督はなぜ楽観できますか。
18 監督に任命されたモーセは,反抗的なイスラエル人を荒野で導いていた時,一度,不平の気持ちにとりつかれたことがありました。そして神に祈ったことばの中でこう訴えています。「あなたはなぜ,しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで,このすべての民の重荷を負わされるのですか。わたしがこのすべての民を,はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに,あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように,彼らをふところに抱いて,あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか……わたしひとりでは,このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます……わたしにこのような仕打ちをされるよりは,むしろ,ひと思いに殺してください」― 民数 11:11,12,14,15。
19 いったいにモーセはエホバのしもべとして幸福と満足を覚え,不平を言うような人ではありませんでした。しかしこの場合イスラエル人のつぶやきに我慢しきれなくて不平を口に出したのです。しかし今日の監督の中でこれほど大きな会衆を委ねられている人はいず,モーセが直面したほどの難しい問題をかかえている人も非常に少ないでしょう。そのうえ今日の監督はエホバと即位した王の支持を得ており,組織の親切な導きという,うしろだてもあります。それで荷が重すぎると感じたり,不平を言ったりするいわれは少しもありません。自分の持つ,まれな特権を認識し,それに喜びを感じているならば,「信仰の導き手であり,またその完成者であるイエス」にならうことができます。そうすれば,そしてまた兄弟たちからあまりに多くを期待せず,愛をもって接するならば,監督は不平をもらすことなく,幸福で楽観的な考え方をし,会衆全体に喜びのふんい気をかもすことでしょう。―ヘブル 12:2。
啓示された真理に満足する
20 協会のする,聖書の説明について,ある人々はどんな不平を言いますか。これはその人々自身また他の人にとって,どのように危険なことですか。
20 「ものみの塔」誌にのせられた聖書の説明や真理について不平がましいことを語る兄弟が,時にいます。ある事柄が述べられている理由,また特定の問題が解明された理由をよく理解できずに,他の人にむかって疑念を表明するのです。もちろんそれは兄弟たち,とくに新しい兄弟たちを混乱させ,また不平を言う人自身の益になりません。それはエホバの伝達の経路に不満足なことを表明していることにほかなりません。そして多くの場合,関連した事実のすべてを知らずに早まってそうしているのです。
21 (イ)イエスの弟子の一部は,イエスに従うことをなぜやめましたか。(ロ)それとは対照的に12使徒はどんな態度をとりましたか。それはどんな結果を生みましたか。
21 イエスの初期の弟子たちの中にもこれと同じ精神を持つ人がいました。強力な新しい真理をイエスから教えられた時のこと,彼らは「これは,ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と語り,霊感の記録はその結果を次のように述べています。「それ以来,多くの弟子たちは去っていって,もはやイエスと行動を共にしなかった」。そこでイエスは12使徒にむかって,「あなたがたも去ろうとするのか」と問われ,ペテロは直ちにこう答えました。「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」。(ヨハネ 6:60,66-68)つまずいたのは,すぐに不満をいだいた人々です。彼らは説明された真理が神の言と一致しているかどうか,時間をかけて調べるだけの努力をしませんでした。しかるに使徒たちはイエスとともにいることに満足し,イエスから少しずつ教えられました。彼らはイエスの言われたことのすべてをすぐに理解したのではありません。理解できない事柄もたくさんあったのです。しかし彼らには真の信仰がありました。それでエホバはパンを求める者に対して石を与えることはされないのを知っており,聞いて学ぶことに満足し,わからないことは質問したのです。(マタイ 7:9-11)それゆえに彼らは豊かに報われ,西暦33年五旬節に聖霊をそそがれるとともに当時におけるエホバのみこころをじゅうぶんに理解できました。
22 真理のある点を理解できない時,どうすべきかを説明しなさい。それが分別のある唯一の道である理由を述べなさい。
22 これら忠実な人々の例から多くを学ぶことができます。一見して理解しにくい事柄も確かにあります。しかし不平を言ったり,議論をしたりして,つまりは自分のわずかな知識をエホバの全能の知恵に対抗させ,また霊に導かれた,経験のあるエホバの組織に対抗させるよりも,問題をさらに調べるほうが賢明ではありませんか。自分でよく研究してみてから,円熟した兄弟に,それも不平がましく聞くのではなく,彼らの考えを知るために尋ねてごらんなさい。それでもなお釈然としなければ,使徒たちがしたようにいっそうの解明を待ち,その問題を一時保留しておくほうが良いでしょう。真理を理解するための知恵をエホバに祈り求めることができます。信仰をもってエホバの組織につき従っているならば,エホバはその組織をとおしてやがて十分な理解を与えてくださるでしょう。
23 テモテへの第一の手紙 6章3節から5節に述べられているような背教者にならないため,どうしますか。
23 テモテへの第一の手紙 6章3節から5節にパウロが述べているような者になりたくはありません。「もし違ったことを教えて,わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉,ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば,彼は高慢であって,何も知らず,ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから,ねたみ,争い,そしり,さいぎの心が生じ,また知性が腐って,真理にそむ(く)……者どもの間に,はてしのないいがみ合いが起るのである」。不平の気持ちをつのらせ,エホバの組織に対して心を苦くしたために,多くの人は背教しました。そのような人になることを避けるため,たとえ小さな事に対してであっても不平を言うのを避けなければなりません。むしろエホバから啓示された真理に満足することが必要です。
24 エホバの組織に対して不平を言う人は,何に欠けていることを示していますか。それに対してどんな処置をすることができますか。
24 ここにとりあげた例からわかるように,組織に対して不満をいだくのは,たいていの場合,物事を運ぶエホバの方法を理解していないため,またエホバとそのとりきめに全き信仰を持っていないためです。ゆえに不平を言いたくなる傾向を克服するには,自分でする勉強,祈り,神の民との親しい交わりによって洞察力と円熟した理解を深め,エホバと組織に対する信頼を深めることが必要です。
25 どうすれば,今も「来たるべき事物の制度」の下においても,多くの喜びを確かに得ることができますか。
25 ゆえに神の民の唯一の創始者また組織者であられるエホバを認め,エホバから任命された王としていま天で即位されたイエス・キリストを認めて,組織内における割り当ての務めを満足してはたしましょう。不平を言わずに自分の務めをはたすならば,会衆内の兄弟たちとともにいま多くの喜びを得,「来たるべき事物の制度」の下では,エホバがその栄光のお目的を何世紀にもわたって明らかにされるにつれ,人間の心がはかり知り得ないほどの祝福を享受することでしょう。先を見ない,不幸な不平家になってこの喜ばしい前途の祝福を失ってはなりません。真実にエホバの民である忠実な人々とともに真の満足と心の平和を享受してください。―エペソ 2:7,新世訳。