自由を与える崇拝
「自由を得させるために,キリストはわたしたちを解放して下さったのである」― ガラテヤ 5:1。
1 市内見物をしたソ連大使はワシントン駅の玄関上に何を見ましたか。
ソ連大使は市内における自由を与えられており,自由に旅行することができました。これは初めてのワシントン駐在でもあり,大使は興味のある所を尋ねつつ,のんびりと市内見物をしていました。デラウエア通りを国会議事堂までずっと見とおせる,ユニオン・ターミナル駅に近づいた大使は,駅の建物を見上げました。柱廊式になった正面口の中央アーチ頭上に大使が見たのは,『真理はあなたがたに自由を得させるであろう』と彫り込まれたことばです。―ヨハネ 8:32。
2,3 (イ)そのことばを見たソ連大使は何を考えたかもしれませんか。(ロ)大使が見たことばはどの本からの引用でしたか。その本を1946年にソ連に輸出したのはどんな団体ですか。
2 ソ連大使がこのことばをアメリカの政治文書もしくは教育上の文書からの引用と考えたかどうかについて,ここでは述べません。また,大使がこのことばに同意したかどうかについてもここでは述べません。
3 大使は,1917年のボルシェビキ革命当時に偽善的な宗教制度からの自由を求めた,自国の人々について考えたかもしれません。しかし,そうした革命主義者は,ロシア国教会僧侶に対するその種の暴力的な行為によっては,自由を得させる真理を得ませんでした。それはむしろ当然でしょう。なぜなら,ソ連大使が見たことばは,第二次世界大戦後間もない1946年に,ソ連政府が数十年来初めて数千冊の輸入を認めた本から取られているからです。この輸入については,アメリカ聖書協会がニューヨーク市の聖書館から発行した同協会の年次報告で明らかにされました。それによると,送られたのはロシア語の新約聖書5000冊および福音書10万冊,それに古典ギリシャ語の新約聖書500冊でした。これらギリシャ語の聖書は神学生のためのものです。この贈り物に対する謝礼の手紙は,ロシア正教会のアレクセイ・モスクワ大主教から寄せられました。a
4,5 (イ)引用されたことばはだれのものですか。(ロ)大使,また教育者や科学者はなぜこのことばに同意するかもしれませんか。
4 それでワシントン駅の柱廊玄関に掲げられたことばは,キリストの使徒ヨハネが書いた福音書の8章32節から取られたものです。それはキリスト教の設立者に定められたイエス・キリストのことばです。ソ連大使は引用されたことばそのものには同意したでしょう。なぜなら,そのことばはイエス・キリストとの結びつきとは無関係に引用されていたからです。
5 教育者は,概念的な意味での真理の知識が無知と迷信と欺瞞の束縛から人を自由にするということに同意するでしょう。大学の学生は,教会の伝統や牧師の統制に妨げられずに知識を探求するため,知性と学問の自由を求めて教育の場で戦っています。世の科学者は自然とその法則,力,秩序と配列,特徴,また宇宙の年齢と空間の無限の広がりなどについて,より多くのことを学ぼうとしています。これら世の真理探求者が唱えるとおり,こうした知識の分野で得られる真理が人にある程度の自由を得させることは確かです。
6 その種の世俗的な真理の知識にはどんな危険が伴いますか。その所有者には実際に何が起きていますか。
6 わたしたちは真理を恐れません。他の人々と等しく,わたしたちはこれらさまざまの分野で得られる真理の価値を高く認め,それによって来る心の自由を尊重しています。またそうした真理がわたしたちにも分け与えられることを喜んでいます。しかし,こうした世俗的な真理を知ることには一つの危険が伴います。こうした世俗的な真理の知識が誤った方向に用いられ,その所有者が別のとらわれに陥ることがあるのです。20世紀の今日,科学者はかつてないほどおおぜいおり,諸国家の政府は科学者の増加を国の利益と見て,これを助成する政策をとっています。科学者が自然界の真理を多く学んでいることは事実です。しかし,それによって彼らが得た自由は相対的なものにすぎず,誤った学説のとりこ,もしくはある事柄についての無知のとりこから解放されたというにすぎません。そしてそれと同時に,科学者とその信奉者は新しいもののとりこ,つまり科学そのもののとりことなり,インド,ヒンズー教の聖牛のごとく,科学を偶像視するようになります。
7 自分の影響力を知る科学者は何をしようとしていますか。科学著述家が警告するとおり,これはどんな危険を含んでいますか。
7 自らの影響力を知る科学者は,人々を科学者グループに隷属させ,国家の政府をさえ世俗の科学に依存させようとしています。科学者はこの新しい偶像崇拝の祭司たらんとしており,1965年に出版された「新しい祭司職」という本の中で,「人間と宇宙」の著者でもある著名な科学者ラルフ・E・ラップは,この点を警告しています。この「新しい祭司」つまり「科学者というエリート」は,民主主義の脅威となっています。なぜなら,専門的な知識をもつ科学者は,「政治権力の分野において真に恐るべき力となる」からです。それでここに疑問が起こります。つまり,民主主義は今日の科学技術者の手中に収められてしまうのですか。
8 祭司たらんとしているのはほかのどんな知識グループですか。その人々はどのようにクリスチャン良心の軽視をすすめていますか。
8 自由を愛する人々の不安な疑問はこれだけではありません。今では,医者も公衆衛生の祭司たらんとして,市民すべてに自分の医学上の見解を押しつけ,患者の意志と願いに逆らっても自分の治療法を強要しようとしています。そしてこのために,患者の憲法上の権利や特権を無視することもあります。今日この傾向は特に顕著です。医者は判事に訴え,血の神聖さに関する神の律法に逆らう輸血によって,自分の幼い子供を汚すことをエホバの証人に強制するような決定をさせています。しかも,この医学上の祭司は判事を説得して,成人のエホバの証人の良心的な信仰をさえ踏みにじらせ,専横な判決の力に訴えて,ローマ・カトリック教徒やクリスチャン・サイエンスの信者と同等の自由をもつこれら成人のクリスチャンに,神の神聖な律法をはなはだしく犯す行為を強制させています。b 医学上の祭司は今や国家の立法機関である議会にも働きかけ,医師や病院が必要と認めるなら,血の神聖さに関する神の律法を守る患者にも輸血を受けさせる法律の成立をはかっています。
9 (イ)人々は長年,どんな政治に自由を求めてきましたか。(ロ)近年,北アメリカにおいてこの種のどんな政府が立てられましたか。どんな宣言に基づいて?
9 人が民主政治に自由を求めたのは今から2000年も昔です。政治上の民主主義はイエス・キリストの時代以前に,異教の古代ギリシャで誕生しました。しかし,それは国の自由市民のための民主政治であったにすぎず,人口の多くは奴隷の身分にありました。さらに最近では,西暦1775年,北アメリカの13の英国植民地が,独立した民主国家の建設を目ざして独立戦争を始めました。翌年7月4日,ペンシルバニア州フィラデルフィアで独立宣言書が署名されました。その第2節に次のことばがありました。「我々は次の真理を自明のことと考える。すなわち,すべての人は平等に造られ,おのおの創造者によって譲ることのできない一定の権利を与えられている。これらの権利の中には生命,自由,および幸福の追求が含まれる。これらの権利を確保するため,人間の間に政府が組織される。したがって政府の正当な権力の根拠は国民の同意に存する……」。
10 (イ)宣言書の起草者自身は私的な面でその第2節にどのように逆らっていましたか。(ロ)アメリカにおいて奴隷制度の廃止が宣言されたのはいつですか。
10 この宣言書の起草はバージニア植民地のトマス・ジェーファーソンにゆだねられ,宣言の語法はほとんどすべてジェーファーソンのものです。この人の家庭生活を考えて一つの疑問が起こります。平等に造られたすべての人が享受もしくは追求すべき,譲ることのできない自由の権利に関する宣言書を起草したジェーファーソンとはどんな人でしたか。当時,ジェーファーソン自身は奴隷の所有者だったのです! 事実,アメリカ大統領が合衆国のある地区における奴隷制度の廃止を発表したのは,この時より87年後の1863年1月1日でした。―「アメリカナ百科辞典」第8巻561,562ページ,第10巻271ページ。
11 フランス革命が民主主義的な自由を与えたかどうかについて最近どのような論説がなされていますか。
11 アメリカの独立に続いたのは18世紀末のフランス革命です。フランスにおいて共和制が一世紀半以上続いた今,1965年11月7日付,ニューヨークの「タイムズ・マガジン」に,フランス人ジャン・フランソワ・ルブルの一記事がのりました。その29ページには,ルブルの記事の見出しとして次のことばがありました。「徒労に帰したフランス革命。いつまでも皮相にすぎない民主主義。今日のフランスを一フランス人が語る」。ついでルブルの記事はこれを裏づける証拠を論じています。c
12,13 (イ)ボルシェビキ指導者はロシアにおける共産主義革命成功のために何が必要であると考えましたか。(ロ)その障害を除く努力が多くなされた今日,どんな疑問が起きますか。
12 1917年,第一次世界大戦の恐怖のさなかにロシア革命が起こり,ウラジミル・イリッチ・レーニンの率いる共産主義ボルシェビキが政権をとりました。この人は神,特にロシア正教会が教えた神を信じませんでした。キリスト教国の宗教が人民のアヘンであることを信じたレーニンは,「神話を人の心から取り除くまで,我々の革命は成功しないであろう」と語りました。明らかに,ソ連の共産主義革命は,ソ連およびその衛星諸国の大多数の国民の,神に対する信仰心を打ち砕いたように思われます。共産主義国青年層の態度は,ニューズ・ウイーク誌編集局長が会った20歳の青年の応答によく表われています。そのことは同誌の1956年4月16日号54ページに紹介されました。「学問的に自分を適応させることは難しいですか」との問いに答えた青年は,「そして聖書は?」と尋ねられました。これに対し,彼は笑って,「エホバの証人でもなければ聖書は読まない」と答えました。
13 しかし,こうして人の心から神を取り除いたソ連の革命主義者は,成功を誇ることができますか。
14 民主ならびに共和主義的な政府を調べた結果として,それが与えた自由について何と結論すべきですか。自由に関するイエスのことばについてわたしたちは何を尋ねますか。
14 「人民共和国」および古代ギリシャ以来人間が建てた民主主義政府を調べた結果として,正直な人は一つのことを認めねばなりません。つまり,共和政治,民主政治,また民衆政治は,最も重要な面で自由をもたらすことに失敗しています。このことは,最高の教育水準と社会資産を有し,科学,法学,哲学,医学,神学などの成果を最高度に活用できる,最も文明の進んだ国についても真実です。現代文明の進歩が人にある程度の自由を得させていることは確かです。しかしそれはイエス・キリストが語られた自由にはほど遠いものです。今日,地上に不満,動揺,混乱などが増加しているのはこれが理由です。それでは,イエス・キリストの語られた,わたしたちに自由を得させる真理とは何ですか。
自由を得させる真理
15,16 (イ)駅建物のデザイナーはイエスのことばについて何を無視していますか。これは一般のどんな傾向をよく表わしていますか。(ロ)ヨハネによる福音書 8章28-32節に示されるとおり,人々がそれをきらうのはなぜですか。
15 ワシントン駅の入口に彫り込まれたイエスのことばは前後の文脈を省いて引用されていました。駅の建物をデザインした人はイエスのことばの前後関係を無視しています。一般の人々はこのことばの文脈を受け入れることを好みません。なぜ? なぜなら,イエスは自分の弟子となる人についてだけこのことを語ったのであり,イエスの弟子となる者は一定のただし書き,もしくは条件に従わねばならないからです。ヨハネによる福音書 8章28節から32節を読んで,この点に注意してください。
16 「そこでイエスは言われた,『あなたがたが人の子を〔死の刑柱上に〕上げてしまった後はじめて,わたしがそういう者〔約束のメシヤすなわちキリスト〕であること,また,わたしは自分からは何もせず,ただ父が教えて下さったままを話していたことが,わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは,わたしと一緒におられる。わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない』。これらのことを語られたところ,多くの人々がイエスを信じた。イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた,『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであろう』」。
17 イエスのことばはどんな人々に語られたのではありませんか。イエスの語られた自由を得ることは何に依存していましたか。
17 注意してください! 真理がもたらす自由には一つの大きな条件があるのです。「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら」とイエスは言われました。これを聞いた人々は,それに従ったなら,イエスの真の弟子になったでしょう。そして,「ほんとうにわたしの弟子なのである」と言われたイエスのことばどおりになったでしょう。その場合に,人は真理を知り,真理は人に自由を得させました。このことばは当時の異教の自然科学者,哲学者,教育者などに語られたのではありません。エルサレムにいて,「イエスを信じた」人々に語られたのです。その人々は信仰をもち,天の御父なる神がイエスを地につかわし,全人類を祝福する神の国のために,メシヤとしてのわざをさせておられることを信じました。イエスを信じ,イエスに信仰をもち始めたこの人々は,イエスのことば,イエスの教えのうちにとどまり,残る真理のすべてを学ぶかどうかを決めねばなりませんでした。もしそうしたなら,イエスの約束は実現し,彼らは真理を知り,真理による自由を得たでしょう。
18 ここで語られた真理とは何ですか。今日の科学者や教育者からそれを得られないのはなぜですか。
18 これをする真理は世の人が学ぶ一般的な真理ではありません。それは教えのための特定の経路を通して特定の源から来る真理です。その源とはイエス・キリストを教師として地につかわされたかたであり,そのかたは天の父なるエホバ神です。エホバ神について,イエスは言われました。『わたしはただ父が教えて下さったままを話している』。(ヨハネ 8:28)それゆえ,教えのための神の経路はみ子イエス・キリストです。真理を知り,その真理による自由を得るため,イエスのことばつまり教えのうちにとどまっていることが必要なのはこのためです。それで,この20世紀の自然科学者,世俗的な教育者,哲学者などから,あるいはそれらを通して自由を得させるこの真理を受けることは期待できません。わたしたちはその真理を彼らから得ておらず,今も得ることができません。それゆえ,人類の全世界は彼らを通して真の自由を得ていません。これらの人々は決して真の自由を与えることができません。真の自由とは何ですか。
19,20 (イ)真理を知って自由を得ることに関するイエスのことばを聞いた人々は,なぜ自分の誇りと宗教感情を傷つけられたと感じましたか。(ロ)イエスによればどんな人々は解放を必要とする奴隷ですか。
19 この自由が何であるかは,その後のイエス・キリストと聞き手との会話の中で明らかにされました。イエスの話を聞いていた人々は自由の人,族長アブラハムの生まれながらの子孫でした。アブラハムは神の友とされた人であり,神の導きのもとにメソポタミヤを離れ,約束の土地パレスチナに移り住みました。(創世 12:1-3; 15:1-7。歴代下 20:7。ヤコブ 2:23)アブラハムの子孫がエジプトに寄留し,エジプト人が彼らを抑圧した時,エホバ神は彼らをエジプトの束縛から解放し,約束の土地に導き入れました。彼らは神の預言者を通して,創世記からマラキ書にいたるヘブル語聖書39巻を得ました。これら霊感の書物は,その時代における,神に対する唯一まことの崇拝の仕方を明示するものでした。それで,自分のことばのうちにとどまっているなら真理を知り,その真理によって自由を得るであろうとイエスが言われた時,人々は自分の誇りと宗教感情を傷つけられたと感じました。それでこう書かれています。
20 「彼らはイエスに言った,『わたしたちはアブラハムの子孫であって,人の奴隷になったことなどは,一度もない。どうして,あなたがたに自由を得させるであろうと,言われるのか』。イエスは彼らに答えられた,『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして,奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし,子はいつまでもいる。だから,もし子があなたがたに自由を得させるならば,あなたがたは,ほんとうに自由な者となるのである。わたしは,あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに,あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が,あなたがたのうちに根をおろしていないからである。わたしはわたしの父のもとで見たことを語っている」― ヨハネ 8:33-38。
21 自由とはどんなものからの自由でしたか。イエスの話を聞いていたユダヤ人は自分が奴隷であることをどのように示しましたか。
21 ここで問題は明らかにされています。イエスの語った自由とは罪からの自由です。これは死からの自由をも意味しています。「罪の支払う報酬は死である」からです。(ローマ 6:23)イエスの話を聞いていた人々は生まれながらにアブラハムの子孫であることを誇りにしていたかもしれません。しかし,イエスのことばが自分のうちに根をおろすようにせず,死の刑柱にかけてイエスを殺そうとしていた以上,彼らの中に自由なアブラハムの子孫は一人もいません。彼らは天の御父エホバ神の子らではありませんでした。彼らは確かにはなはだしいまでに罪の奴隷であり,それゆえに自由を得ることが必要でした。
22 (イ)イエスの話を聞いていた人々はアブラハムの子供について何を思い出すべきでしたか。(ロ)それで今,ユダヤ人にはどんな危険がありましたか。
22 アブラハムとのつながりを誇りにしていたこれらのユダヤ人は,アブラハムに二人の子がいたことを思い出すべきでした。初めの子は奴隷女ハガルによるものであり,第二の子は自由の女である妻サラによるものでした。のちに,奴隷女の子イシマエルはアブラハムの家から出されました。しかし自由の女の子イサクはアブラハムの家にとどまって,アブラハムの相続者となり,同時にアブラハムに対するエホバ神の約束を受けつぐ者ともなりました。同じように,アブラハムの子孫であったユダヤ人は,神の子ではなく,奴隷としての立場しか得ていませんでした。イエスは神の子であり,自由でした。それで,奴隷のようなユダヤ人には,いつまでも神の家にとどまっておらず,イシマエルのごとく家を出され,見すてられる危険がありました。イエスは自由で忠実な神の子として,正当に保護され,いつまでも神の家にいるでしょう。それでイエスはユダヤ人を自由にすることができました。
23 どんな道を進むことによってのみ,それらユダヤ人は自由を得ることができましたか。
23 イエスを通して与えられる真理のことばを受け入れ,それをして自分のうちに根をおろさせることによってのみ,彼らは自由を得,神の自由の子となっていつまでも神の家に住み,永遠の命を享けることができました。彼らは神の子の真理と,神の子が自らを犠牲にするあがないとによって,自由になることが必要でした。
人類はすべて奴隷
24 死に定められているわたしたちは罪人であることを説明しなさい。どんな道によってのみわたしたちは自由を得,命を得ることができますか。
24 今日,自分は罪の奴隷でなく,罪の支払う報酬つまり死を身に受けていないと言える人がいますか。レーニンはその報酬をあますところなく身に受けました。彼は今死んでいます。このことは彼が罪の奴隷であったことの証拠です。神と死人の復活が単なる神話であったなら,彼はいかにもあわれです。罪を犯した最初の人間(アダム)から生まれた人類すべては生まれながらに罪人です。人類すべてが死の定めのもとにあるのはこのためです。わたしたちすべてには罪およびその報いである死からの解放が必要です。神のみ子およびその真理こそ,わたしたちが自由を得,至高の神の自由の子として永遠の命を得る唯一の道です。―ローマ 5:12-18。
25 ローマ人への手紙 7章19-25節でパウロは自分の肉体的また霊的な状態をどう描いていますか。
25 クリスチャン使徒パウロはローマにあった初期のクリスチャン会衆に手紙を書き,自らの肉体的また霊的な状態についてこう述べました。「わたしの欲している善はしないで,欲していない悪は,これを行っている。もし,欲していないことをしているとすれば,それをしているのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿っている罪である。そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る。わたしは,なんというみじめな人間なのだろう。だれが,この死のからだから,わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって,神は感謝すべきかな。このようにして,わたし自身は,心では神の律法に仕えているが,肉では罪の律法に仕えているのである」― ローマ 7:19-25。
26 たとえそれ以上でなくとも,描かれた状態はほかのだれにも十分あてはまるはずですか。
26 さて,復活したイエス・キリストを見,神の聖霊の賜物をあれほど豊かに受けたキリストの使徒パウロがこうであったなら,たとえこれ以上ではなくとも,同じことはわたしたちすべてに,そしてわたしたち各自に言えるでしょう。
27 (イ)ユダヤ人はどんな崇拝の奴隷となりましたか。(ロ)それで彼らの都エルサレムはどんな女に似ていましたか。
27 こうして生まれながらに罪とその報いである死とのとらわれであることに加えて,人類の世界は組織的な偽りの崇拝のとりこともなっています。ユダヤ人はかつて古代エジプトから解放され,霊感のヘブル語聖書39巻のかたちで神聖な神の定めを与えられました。しかし,彼らは偽善的ないつわりの崇拝組織,つまり聖書がユダヤ教と呼ぶものの奴隷になりました。(ローマ 3:1,2。ガラテヤ 1:11-16)かつてユダヤ教のパリサイ人であったパウロと同じく,ユダヤ人すべては束縛的なユダヤ教組織から解放されることが必要でした。パウロの場合のごとく,これをなし得るのはイエス・キリストによる真理だけです。さらに,預言者モーセによって与えられた神の律法も,神の完全な律法に従い得ぬ罪人としてユダヤ人を死に定めていました。この理由で彼らは神ののろいを受けるべき立場にありました。それで律法は重いくびきとなり,彼らはそれを独力では負うことができませんでした。律法は彼らが罪の奴隷であり,死に価する者であることを明らかにしました。これにユダヤ教が加わったことは彼らの奴隷状態をいっそう悪いものにしました。結果として彼らの都エルサレムは自由の子らの母ではなく,奴隷女のごとく,子たちと共にとらわれの身にありました。彼らに自由を与えるのはどんな崇拝でしたか。
28 (イ)それでは,彼らに自由を与えるのはどんな崇拝でしたか。(ロ)その崇拝を受け入れた者たちはどんな女の子に似ていましたか。パウロはその人々が今何をすべきであると述べましたか。
28 それはみ子イエス・キリストを通して,生ける唯一まことの神エホバを崇拝することでした。ユダヤ人のある者はイエス・キリストによってもたらされた真理を受け入れ,そのうちにとどまり,それを自分のうちに成長させました。自由を得させる真理を学んだのはその者たちです。これらの者は自由を与える清い,まことの崇拝を得たのです! 彼らはもはや奴隷女の子ではなく,自由の女,神の自由な,霊の組織の子でした。彼らはアブラハムの妻である自由の女サラの子イサクに似ていました。今必要なのは,再び奴隷とならず,自由のために戦うことでした。それで使徒パウロはユダヤ教にも通じていた仲間のクリスチャンに次のように書きました。「だから,兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく,自由の女の子なのである。自由を得させるために,キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから,堅く立って,二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」― ガラテヤ 4:31; 5:1。
29 (イ)どんな恵まれた特権にもかかわらず,ユダヤ人は宗教上のとらわれにはいっていましたか。(ロ)異邦人がユダヤ人以上に解放を必要としていたのはなぜですか。神の子が彼らに自由を得させ始めたのはいつですか。
29 このことばは割礼のある生来のユダヤ人で,ユダヤ教から導き出され,真のキリスト教の,自由を与える崇拝に入れられた人々に特に適切でした。ユダヤ人はエホバ神の律法をもち,神と国民的な契約を結んでいたにもかかわらず,宗教上のとらわれに陥っていたのです。それならば,神の律法をもたない非ユダヤ人,無割礼の異邦人すべてが宗教上のとらわれに陥ったことはいよいよ真実ではありませんか。そして,ユダヤ人に解放が必要であったなら,異邦人にはさらに解放が必要ではありませんでしたか。なぜ? なぜなら異邦人はより大規模な宗教組織,すなわち偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの束縛下にあったからです。偽りの神々,真実には悪霊のとりこであったこれら異邦人は,その種の偶像崇拝から,主イエス・キリストの御父なる生ける神エホバへの奉仕に転ずるべきでした。神のみ子がそのような異邦人に自由を得させ始めたのは,死から復活して3年半たった時からです。その時イエスはご自分の使徒ペテロを地中海の海港カイザリヤにつかわし,イタリヤ人の百卒長コルネリオの一家を改宗させました。―使行 10:1–11:18。
30 (イ)それで自由を得た異邦人は今何をすべきでしたか。(ロ)キリスト教国の人々もこの奴隷状態にあると言えるのはなぜですか。
30 こうしてキリストは異邦人に,国際的な宗教上の淫婦,大いなるバビロンからの自由を得させました。それゆえ,これらの人々も自由を与える崇拝のうちにしっかりとどまり,再び宗教上の奴隷のくびきにつながれぬようにすべきです。キリスト教国の教会に行く人々もこの奴隷のくびきのもとにあります。キリスト教国は4世紀,ローマのコンスタンチン大帝の時代に確立されました。その領域には今日のポルトガルとスペインもすでに含まれていました。コンスタンチン大帝は最高僧院長として異教の職務にまだついていたにもかかわらず,小アジアのニケアに宗教会議を召集しました。そして,司教たちの論争が数週間あったのち,コンスタンチンはキリスト教国の最重要の教義となっているものを支持する決定をしました。それは,父なる神,子なる神,聖霊なる神があるが,三つの神があるのではなく,三つの位格の中にただ一つの神があるという三位一体の教えです。これはキリスト教国が異教を模倣した教えです。
キリスト教国は自由のない世界の一部
31 マクリントックとストロングの「百科辞典」が示すとおり,キリスト教国はどのように束縛につながれましたか。
31 キリスト教国はローマ最高僧院長の支配に服し,国家の支持を受けることによって,何らかの利益を得たと考えたかもしれません。しかしそれによってキリスト教国は今日に至るまで教会と国家の間の不断の問題を生む束縛につながれたにすぎません。マクリントックとストロングの「百科辞典」第2巻はこう述べています。
様々な観点から見て,この変化に伴う利点は多かったが,やがて,俗権と結ばれたことによる弊害が現われた。福音の純粋さは失われ,大げさな儀式が導入された。世俗的な名誉や報酬がキリスト教の教師に与えられた。そしてキリストの国はおおむねこの世の国に変えられた。―488ページ。
32 (イ)イエスがピラトに語られたことから見て,キリスト教国はなぜキリストの国のものではありませんか。(ロ)教会に行く人々をキリスト教国から解放できるのはどなたですか。
32 しかしイエス・キリストは,ローマ最高僧院長チベリウス皇帝の代表者総督ポンテオ・ピラトの前で簡明に言われました。「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば,わたしに従っている者たちは,わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実,わたしの国はこの世のものではない」。(ヨハネ 18:36)それゆえ,国家と結び,国家に依存することを選んで,クリスチャンの自由と独立を捨てたキリスト教国は,決してキリストの国ではありません。したがって,分裂的な宗派が乱立するキリスト教国の教会に行く人々は,キリスト教国の束縛から解放されねばなりません。キリスト教国は大いなるバビロンの主要な,そして強力な部分です。彼らに自由を得させるのは現代科学や世俗的な教育ではなく,キリストの真理だけです。
[脚注]
a 1947年3月21日付ニューヨーク・タイムズ紙,「聖書協会はソ連に福音書を送る」参照。
b 「アメリカナ百科辞典」1929年版第17巻,「自由,宗教上の」という項目,および「法律の前におけるすべての宗教の絶対平等の権利」に関する349ページの注解参照。
c これをさらに確証したのは1966年5月29日付,ニューヨークの「タイムズ・マガジン」に掲載された,フランソワ・ミッテランの「フランスはもはや民主主義の国ではない」という記事です。政府の安定性ということについてミッテランはこう述べています。「われわれは,決定の権限を国民の手中に置く民主主義機構の一環としてそれを見ている。」しかし今日の実情はこうではない。投票者は7年に一度ずつ呼ばれ,自分の指導者が指導を続けることを望むか望まないかについて投票するだけである」― 56ページ。